2019年12月31日火曜日

17年越しの到達点

こんなことばっかりやってるから、Iyokiyehaはいつまで経っても小さい人間止まりなんだけどね。
森岡正博氏の著書を時系列で読んでみよう個人プロジェクト(仮)を始めて、大体一年が経ちました。修士論文で取り上げた(今となっては「と思っていた」だな・反省)「生命学」について、引用だけど自分の中でようやく言葉にできたので、備忘録。
久々に頭の中でスパークが起こって、知的に気持ちいい勢いでまとめてみます。こういう知的快感があるから読書はやめられない。

「生命学の知の方法」とは、以下の通り。
・「他者」が「現前」する。
・この「痕跡」に気づき、(自分が)ゆらぎ、(自分の生き方を)問いなおし、(自分を)変容させ、生きなおす。
・この新しい生を通じて、人々に「ゆらぎ」(前文の過程)を伝える。


他者:私の意向と関係なく、私の世界の外部から一方的に到来する何ものか。自己の優位性を根源的な仕方で脅かす何ものか。
現前:すでにいないはずのひとが、そこに現れていること。ものに対しても同様。
痕跡:他者が現前する形式。

参考:森岡正博『生命学に何ができるか ――脳死・フェミニズム・優生思想』勁草書房、2001年、78~84ページ。

2019年12月22日日曜日

働くことコラム09:雇用支援と就労支援

このテーマ、学術的にどのように分類されているのかということは、まだ調べていないのであくまで現場感覚ということで。

私の職歴は「11年間、障害者雇用支援をやってきました」と言える。転職後、今でもこの表現を意識して使っている。大半は「あぁ、就労やっていたのね」という反応です。全く間違いと言い切るわけではないが、厳密にはやっぱり間違いです。
ここで言うところの「就労」というのは、そのまま「就労支援」のことを指すわけですが、この言葉を踏み込んで(障害者支援諸分野で)その意味をつけるならば、「福祉の立場で対象となる人が『働くこと』を支えること」になるでしょう。
一方で「雇用支援」とは何かといえば、「雇用関係が、広がり、維持され、適応状態がよくなることを支えること」となるでしょう。

「就労」は人を、「雇用」は関係を支えること、これが言葉の意味する本質かと思います。
「じゃあ、Iyokiyehaさんは、障害のある人を支えてこなかったの?」と言われれば、答は「否」です。もちろん、現場の支援職ですから、人を支えてきた(つもりです)し、雇用する企業を支えてきたつもりです。結果として自分は「雇用支援をしてきた」と思います。私の仕事を身近に見てきた人ならば、私の仕事が「就労支援」では収まりきらないことは感じられていたものと思います。「そこまでやらんでも」と言われたことの中には、私が「雇用支援」として大切だと思っていることが含まれていたと考えていました(もちろん、無駄はありましたが)。

ここから先はこのコラムとは別の話題で深めていきますが、制度として「純化」されたものや、定義のあることと、それを具現化するための現場で施行することとの間には、ほとんどの場合差が生じます。制度が現場の意見を反映していればしているほど、その差は小さくなると思いますが、それだけではなく時が経てば施行当時の背景とは環境が異なるわけですから、差は大きくなりやすい、ということができると思います。

自分が就職や転職を考えた時に、厚生労働省の雇用対策に関するデータが自分の就職活動にはほとんど役に立たないのと同じように、雇用支援施策は「その対象者のとなるべき人の背景と制度設計上の対象者像が異なる場合、効果は著しく削がれてしまう」ということが言えると思います。職業訓練の受講指示をがあったとしても、主体的に取り組む意思が弱い人には残念ながら効果が薄いのが、雇用支援施策全般に言えることだと思います。

働くことって、それくらい「わたし」が大切になります。希望だけじゃなくて、自分の置かれた環境や職歴を含めた自分の背景、が大切で、それは自分の生活の上にしか成り立たないものといえます。

デイヴ・アスブリー『HEAD STRONG シリコンバレー式頭がよくなる全技術』ダイヤモンド社、2018年。

「ハッカー」(バイオハッカー)hack ~をたたき切る、切り開いて進む、勝手に引き出す、改変する
・前著『食事法』の時に感じたうさんくささ(ので、読書を中断してしまった経緯がある)が、かなり薄れている内容であると感じた。
・生活をエビデンスベースで見直すということにおいては共通した内容だが、「健康や高い生産性を維持できる状態」を目的として、生活全般の理想的なあり方について、最新の知見と著者の経験から論じている。
・身の回りにあって、普段自分の身体に取り入れているほとんどすべてのものが、人の身体に(あまり良くない)影響を与えている。
・本書の特徴は、この点についていわゆる「身体にいい影響があるもの」を理想的に説明するだけでなく(そういう箇所がもあるが)、身体の仕組みから説き起こした上で「よりダメージの少ないもの」や「より(悪い)影響が少なくなる生活習慣」について、生活上のちょっとした工夫のようなものを併せて紹介点・説明しているところであるといえる。
・そして、食べることだけでなく、睡眠や生活習慣、特に身体を動かすことの効用については丁寧に論じている。
・希少、高額、入手困難なものがまだまだ多いのも事実で、理想・非現実的と言われる内容かもしれないが、その中でも普通の人が取り組めるいくつかの具体的な提案が示されているのは、冒頭の「うさんくささ」を軽減するのに一役買っているといえるだろう。

■以下引用
27.(疲労の定義)ミトコンドリアが過度な要求を受けているという最初の兆候が「疲労」である。
30.(3つのF)永遠につづく種をデザインするとしたら、ただ3つの基本的な能力がを組み込むことが必要になる。(中略)Fear(恐れる:持ち前の「闘争・逃走反応」を使って、環境に存在する恐ろしいものに対処する)、Feed(養う:食物からエネルギーを得る)、そしてもう一つのF※※※(生殖のこと!)。僕らの体は、世界から降りかかってくるどんな状況下でも生き延びられるよう進化してきた。僕らのシステムはその理屈にしたがって、細胞にエネルギーを分配する。(中略)ラブラドール脳(「爬虫類脳」という生存のための低次元のプロセスを司る脳とは別の機能を指す)は種を生き延びさせ繁殖させるための本能--前述した3つのF--を司る。この脳はよかれと思って動いている。あなたを生存させようとしているだけだ。だがここで問題なのは、生き延びるためのまさにその衝動が、脳エネルギーの大問題を引き起こしかねないことだ。(中略)僕らの体が「本物の脅威」と「脅威と考えられるもの」とを区別できないことだ。(中略)あらゆる刺激に同じように反応してしまう。
129.(炎症)・「慢性の炎症」を抱えているとき、体の中で最初に悩まされる部分は脳である。・「炎症を起こしたミトコンドリア」はエネルギー生成の効率が低かする。なぜなら電子が、同じ場所に辿り着くにも、より長い距離を動かざるをえないからだ。
138.(ポリフェノールと脂肪)しかし、ポリフェノールは、一部の例外を除いては、人体に簡単に吸収されないのだ。ポリフェノールの大多数は、人体が使えるようにするにはささやかな助けが必要だ。そして、その最善の方法は、僕の一番好みの主要栄養素、脂肪と一緒に摂取することだ。(コーヒー、チョコレート、ブルーベリー、ざくろ、ぶどう(実と皮))
163.(ケトン体)ミトコンドリアがケトン体をえさとして使って、アデノシン三リン酸(ATP)を生成しているときが、ケトーシスの状態にあるときだ。(略)ケトン体を代謝しているとき、グルコースを代謝しているときよりも心臓は28%多くエネルギーを得ている。(MCTオイルまたは炭水化物制限)
173.(良い食べ物)(ポリフェノール。炎症を低減する。吸収には脂肪が必要。神経伝達物質を作るために、牛肉、アーモンド、卵、ラム、天然物もののサケががよい。低糖の果物と、野菜、グラスフェッドバター、魚)
261.(呼吸)呼吸は、意識的にも無意識にも自然に行える唯一の行為であり、他に類のない生物学的機能である。(中略)体内の酸素量を増やす唯一の方法は、短い時間、酸素の摂取を制限すること(高地トレーニング、息を吐き切ること、吐ききって腕立て伏せをする、インターバルトレーニング、など)
290.(運動の効能)運動は体型を良くするのみならず、環境に適したミトコンドリアの生存を促しもする。(中略)定期的な運動はうつとこ闘いにおいて少なくとも抗うつ薬と同じくらい強力である

2019年9月16日月曜日

森岡正博『完全版 宗教なき時代を生きるために』法藏館、2019年(初版:同社、1996年)。

・著者の森岡氏が、「生命学三部作」の一巻と位置づける主著の一冊。初版から24年経ち、内容はそのままに、解説となる「まえがき」「あとがき」を書きおろしで追加した完全版。
・生命学とは何か、という定義ついては、後に紹介する書籍にゆずるとして、個別具体的な経験を語り、整理して表し他の人の生き方の参考となるような支えのあり方、といった性質上、そのことを意識して読めるかどうかにより、本著の捉え方が変わってくる。確かに本書は生命学のあり方を表した作品(論文)といえる。
・20年くらい前に初版を読んだ当時には、氏の自分語りが強烈な印象を受け、読了感のあまりよくない一冊だったと記憶している。自分の修士論文の中でも、うまく引用できず(当時の自分には扱いきれず)悶々とした覚えがある。
・自分もそれなりに経験を罪、生き方も考え、自分なりに変わってきた今では、これらの表現が実感を伴い、自分の中に入り込んでくる感覚がある。
・「私」が活きる世界と自分との関係をどのように読み解き、その中で自分がどう生きるのか、ということを考えるための知恵=生命学ともいえるだろう。しかしそれは、結晶としてかくあるべし、という知識の集積ではなく、あくまで自分の生き方として実践され、何らかの形で表現され、その知見が伝わっていくものであり、そしてその目標は、対象となる人も内容も(今のところは)制御できないもの・ことなのだろう。
・自分を拓き(開き)続けること、自分で考えて行動すること。「私が私であり続けるために、私は変わっていかなければならない」(226ページ)ということに凝縮される。

(以下引用)
3 オウム真理教が力を持つような時代に、科学にも満足できず、宗教の道にも進めない私はどう生きていけばいいのかをひたすら考えた。オウム真理教事件の核心は、科学時代における「生きる意味」の問題だ、というのが私の直観だった。これが本書を貫くテーマ(後略)
39(科学「ラディカルな消去法」批判)世界は、無視できない様々なファクターによって、動いているはずだ。
62(生命学とは・第三の道の可能性)それは、生と死や「いのち」や存在の問題に目隠しをする唯物論の社会、科学主義の社会に異議申し立てをしつつも、それらの問題に対する解答をけっして宗教の「信仰」には求めず、そしてどこまでも思考放棄せずに、自分の目と頭と身体とことばを使って自分自身でそれらの問題を考え、追求し、生きていくという道である。そうした生と死と存在の問題の追求を、右の四つのスタンスに立ちながら、他者とのコミュニケーションを通じて、自分ひとりの責任において行い、自分自身の生死に決着をつけていくような道である。
 私はこういうい知性のあり方と、そういう知性に裏づけられた生のあり方を「生命学」ということばで呼んでいる。
99 <自分を目覚めさせてくれたいのちの恩人を、知性をもって相対化しろ>
136 敵は自分の外部にあるのではない。敵はほかならぬ自分の内部に巣喰っているのである。生命を問いなおすとは、そういう生を生きている自分自身の姿を問いなおすことなのだ。
201-2(目隠し構造)自分がもっている「見たくない自分」を見なくても済むようになってきたときに、人はどのような心理状態になるだろうか。その答えは簡単だ。人は、まるで生まれ変わったような自分を体験することになる。
(中略)見たくない自己を見なくてもいいような状態になったとき、人間は、自分の身体が行っていることの意味がほんとうに見えなくなる。「あるべき自己」が「良きこと」をしたのに、なにがおかしいのかという思考回路になってしまう。
216 「ほんとうの自分」とは、目を閉じて自分を真っ白にしていくことによって獲得されるのではない。「ほんとうの自分」とは、目を見開いて、見たくないものをどこまでも見てゆくプロセスのなかで、そのつど立ち現れてくるものなのである。
225 大事なのは「ディスコミュニケーション」(註:お互いに全然わかりあえない状態)から逃げないこと(中略)つねにみずからを「無理解」と「謎」に向けて開き続けること。
226 私が私である続けるために、私は変わっていかねばならない。

2019年9月15日日曜日

養老孟子、森岡正博『対論 脳と生命』筑摩書房、2002年(初版:同『生命・科学・未来』ジャストシステム、1995年)。

・前回読了が2004/2/27とあった。修士論文を執筆しながら読んでいたものと記憶している。15年経って読み返してみたが、内容は古さを感じない。(1)現代社会を生きる私のよろこびとは何か、そして(2)その現代社会と私との関係はどうなっているのか、という点において、氏のテーマは変わっていないのだろう。それだけ普遍的なテーマであるといえる。ただし、現代においてはテクノロジーは確実に変化している。
・40歳を迎えた私にとって、森岡氏の一貫した思考方法において、現代社会におけるテクノロジーをつかんでいくことが組み込まれていることをはっきりと読みとけたことは、大きな進展といえる。「個人のあり方」に偏っていた学生時代の読み解き方とは大きく異なることを実感している。
・人は変わっていく。望むと望まないと関係なく変わっていく。その変化を納得して受け止められるかどうか、受け入れられるかどうか。意図して仕掛けて変わっていくこととは少し異なり、環境(広義:自分以外の全て)の影響を受けて、予期しようがしまいが、私におとずれてくる変化を、とらえて、受け入れて、それに納得できるということが「悔いなく生ききる」ことの意味ではないかと思っている。
・対談集を続けて読んでいるが、本当の意味での議論ってこんなに知的好奇心を刺激させられるのかと実感させられる。テーマが深まり、広がり、触発されて次のステージに移り変わる様子が読みとれる。

(以下引用)
10(「意味」の意味)意味というのは結局いろんなものの関係ですよね。(中略)意味はその人が死というものをどういうシステム・考え方の中に位置づけているかということだと思うんです。死自体が存在するとかしないとか、そういう話じゃなくて、そういうものをめぐる全体的なシステムがどうかという質問になっちゃう。
20(解剖道)死体と向き合っているあいだは、相手は他者なんです。ある段階からそれが他者でなくなって、自分の手が動いていく道筋みたいなものが生まれてきた。自分の手が動いていくといっても、自分で動かしているんですけどね。だけど、それは自然に動いていくので、いってみれば境界がなくなっちゃう。(改行)強いて他者だと考えているうちに、自分が何をしているのかというと、相手に聞いているわけです。自分の動作が相手に質問することになり、相手からの返事は耳でなく体で聞いているという、そういう状態になってくる。
28(人の死と科学の限界)何が人の死であるかを「科学的に決める」ことは原理的にできないということが、まったくわかっていないんですよ。人の死が何であるかを決めるのは、宗教であり、習俗・慣習であり、法であり、政治なんです。
86 システムのなかのひとつの歯車にされてしまった生命は、その「かけがえのなさ」を抑圧される。
89 追試不能な「かけがえのない」ものと、法則とか統計の次元で意味をもってくるものとを、社会のなかでどうやってうまく結合させていけばいいか、ということですね。
92(変化すること)私の成長に応じて、世界の見方も変わるし、真実そのものも変化していく。それだけではなくて、世界を見ようとする私自身が変化していく。(中略)つまり、私が対象を認識したり、何かを考えたりすることの、その全体が変化していく。世界を見たり考えたりするその基準点そのものが変化していく、という感じなんです。生命世界というのは、そういう動き方をする世界じゃないかと。
121(自己家畜化)(第一段階)現代文明は、痛みとか不快なことを自分でコントロールできる範囲内にどんどん繰り入れるという形で進んでいて、われわれの多くがそれを承認しているという事実があると思うんです。(中略)(第二段階)極端な痛みや苦しみは全部排除するけれども、耐えられる痛みや苦しみは自然に任せておくという形での巧妙なコントロールを始めると思うんです。
124 自分は基本的に変わらなくて、ただ環境のある範囲内の変動に応じて、ゆらゆらと揺れているだけ。そういう生のあり方を選択することになるのでしょう。
131 要するに個性とか個人とかいうから死んでしまうわけであって、右の人とか左の人が同じであれば誰も死ななくなる。それが一種の理想社会です。
154(ヒューマニズム)結局ヒューマニズムというのは、人間のあいだにまず差別を設け、強者による弱者の搾取や支配を正当化するイデオロギー装置であるといえる。普通ヒューマニズムは、搾取とか差別とかに対抗するイデオロギーだというけれども、よく考えるとヒューマニズム自身が差別の構造をもっている。
164(二つの「知」)まず単に「知る」こと(中略)学問というのは一つは、現実を広げていく作業(中略)何のためにそういうことをするのかという目的が入ってくる。それが入ってきた「知」というのは、何らかの目的のためのものですから、もはや純粋な「知」ではない。
196(変化すること)われわれがものを覚えていくには二通りあって、人から伝えられて覚えることも確かにあるんですが、もう一つ重要なのは、そういう死んだ人体という自然と自分が密着していくことによって、自分のほうが変わってくるという体験によっても覚える。しかも、これは絶対に口では伝えられない。なぜかというと、いまの自分はかつての自分ではないわけです。
198 ポイントはやはり、自分が変わるということですね。私がいいたいのは、とくに近代の自然科学という「知」が、自分があることを体験したり、ある世界を見たり、この世に生きて何かすることで変わっていくというあり方のなかで育まれる「知」というものを、系統的に排除し、抑圧してきたということです。それが近代から現代の自然科学的な知のあり方であり、それを支えているのが近代的社会の構造だと思うんです。
199 そのためには、生命というもののあり方から突っ込んでいくのがいちばん早いというか、真っすぐな道だと思うんです。なぜかというと、生命というのは結局変わるからです。我々自身が生命そのものであり、生命はほかの生命と関係しながら、成長して変わっていくでしょう。固定したら死んじゃうわけです。だから、まさにいま我々が話題にしている「知」のあり方とか、他人を変えることは自分が変わることであるという問題の本質がそこにある。
215(共犯関係)この社会のシステムは、個々人の意図や動機をうわべでは尊重するように見せかけながら、実はもっと大きなシステムの効率のために、裏側からこっそり利用するようなことをします。そしてその仕組み全体を、我々が無意識に肯定している。抽象的な言い方ですけど、そういう構造の欺瞞というか、システムと個人との共犯関係みたいなものを、きっちりと見ていくことが必要です。それが、いまの「知」の課題でしょうね。

2019年8月16日金曜日

戸塚隆将『世界で活躍する日本人エリートのシンプル英語勉強法』ダイヤモンド社、2018年。

・英語(他の言語も同じ)は、意思表示のための記号(シンボル)である。よって、考えていること、思っていることを「人に伝える」「人から伝えられる」ためのもの。

(引用からのまとめ)
11 「シンプルな英語」を身につけるための6ステップ
(1)「ブロークン」でもいいから、とにかく話す。
(2)正しい発音を「まず頭で」理解する。
(3)英文を「前から」解釈しながら読む。
(4)「音読とセットで」ひたすら聴く。
(5)結論と根拠を明確にして「ロジカルに」書く。
(6)かならず「フルセンテンス」で話す。
といった、いわゆるグロービッシュが求められる。要点は「伝え・伝わる」こと。
65 「シンプルな英語」とは?中身が大切である。
(1)結論が明確でわかりやすい。
(2)論理が明確でストレート。
(3)簡単でわかりやすい語彙。
(4)堂々と存在感がある。
(5)高いリスニング力を備えている。
70 語学レベルの5段階
native ネイティブ
fluent 準ネイティブ
business ビジネスレベル(目指すべき水準)
daily conversation 日常会話
basic 初心者
132 あらゆるコミュニケーションにおいて、「誰が/何か」「どうする/どんなだ」ということが、伝えるメッセージの根幹です。
136 (主語が)もし省略されているとすれば「何が省略されているのか」をしっかり把握する。
194 ライティング:冒頭に結論を述べ、それに続いて根拠を明確に述べます。  結論→根拠(1・2・3・・・)→結論のフレーズ
206 質問に答えられないのは、答えがないから

水谷修『増補改訂版 さらば哀しみのドラッグ』高文研、1998年(初版)、2014年(改訂)。

・夜回り先生によるドラッグ(薬物)の入門書。ドラッグの危険を、依存性と脳への影響という軸で評価し、一般書としてまとめている。薬物依存者への対応についても、類型化して整理している。
・専門機関による介入で対応できる可能性があるのか、それとも介入できる可能性は低いのか、あるいは精神科医療の範疇なのか、これらの段階について、著者によるある程度の基準が示されている。
・少なくともこれまでは、そして読了した今でも、薬物は自分が使用する可能性はないもの、である。どこか、自分とは関係ないものとしてとらえているところはある。しかしながら、身近なところにあって、それを乱用している人がいることも事実である。決して、自分とは関係ない世界の出来事ではなく、すぐそばにある危険であることを改めて感じさせられた。
・ドラッグなんてなくなればいいのに。知れば知るほど、怒りしかわいてこない。

(引用からのまとめ)
11 薬物依存から脱するための3つの方法(本頁ほか)
(1)自分の力で覚醒剤を絶つこと。
(2)専門家、専門病院、自助グループの力を借りて、覚醒剤を絶つこと。
(3)このまま使い続けて、警察のお世話になるか、死に至るか。
他に方法はない。しかし、水谷氏であっても(1)で覚醒剤から脱することができた人はいないと断言している。また、(2)で可能性のある「精神病院」への入院、(3)の「警察のお世話」は、「運のいい場合」である。
12
・ドラッグは、頭も心もからだも、がんじがらめに捕らえるもの。頭で乱用を止めようとしても、心がドラッグを欲します。また、心から乱用を止めようとしても、からだがドラッグを欲します。これが本当の怖さ。
・身体だけでなく、頭までこわしていくもの。そして、心もこわして、人との関係を次々と絶っていくものがドラッグである。
・脱法ハーブは人体実験でしかなく、その成果(結果)はだれかをこわすためのもの。

井上章一、森岡正博『男に世界を救えるか』筑摩書房、1995年。

・国際日本文化研究センターの現役論客井上氏と、同センター勤務時代の森岡氏(現在、早稲田大学)が、ジェンダーを切り口に社会と世界、そして自分の内面をえぐりだしていく対談集。
・大まじめに歴史認識や男女関係を整理し新しい視点を加えていくことはもちろん、その背景となる社会構造や、それを引き受けつつ本音と建て前を揺れ動く自らの思考を率直(赤裸々?)に語ることで、(論理的には)エコロジーや愛と権力、脳死移植などへと展開していく。話題は尽きることがない。
・大胆にテーマを展開させる中で、森岡氏のライフワークである「生命学」の萌芽が読みとれる。「矛盾を抱えながらも、よりよく生きるための知恵」を思索し、その整理が進んでいる。
・時々「中学生かよ!」と言いたくなるような自己開示があるなど、(当時)気鋭の学者が本気で対談すると、人の内面がここまで言語化されてしまうということに、思わず吹きだしてしまいそうになる箇所も随所に含まれている。そういう展開ができること、それ自体が同テーマの他の著書にはみられない特徴であるといえる。
・概念形成や言葉の定義にこだわること、それらを深めていくプロセスは、上記「おもしろい」対談といえど、哲学を基礎とした知的創造の営み、あるいは真剣勝負の記録といえるだろう。
・概要:本書は性的な差異から見える現代社会の姿(1、2章)、環境活動から見える言論や(いわゆる)神話の位置づけと役割(3章)、そもそも「環境」とは何か(4章)、そして環境活動や社会変革における「少女」概念の定義とロリ・エコ・フェミの整理(5章)で構成されている。

(以下、引用)
33 頭を占領したフェミニズムは、やがていつか身体も支配してゆきます。 同 「愛」と「やさしさ」につけこみながら、フェミニズムは男の中に侵入してくる
35 自分の本性をコントロールして、いいことがあるんですよ。マゾ気分を楽しめるのです。私はこんなに美人が好きだ。しかし、倫理としては、それを公の場所で実行してはいけない。ああ、この二律背反、このジレンマ。自分の中のこの分裂に耐えて、苦しんで、生きてゆかねばならない・・・。
44 我々が問うべきは、「本質的に値段などつけようのないもの」ではなく、「本質的に値段なんかをつけるべきではないもの」なのです。(中略)値段をつけるべきではないものに、値段をつけてしまうことへの、倫理的反発。これが、売春を本質的に悪と決めつける人たちの、倫理的根拠なのでしょう。
45 資本主義の波にまったをかける反動勢力としての倫理。これが現代の倫理学に期待されているひとつの役割なのです。
52 臓器移植はすでに政治問題化していますからね。(中略)貨幣を介した市場での交換によって人間活動が運営されている現代日本において、セックスや臓器移植という相互行為に対しては、貨幣交換によってではなく、贈与によって運営すべきであるという、倫理のプレッシャーが働く。 同 現代の倫理は我々に、次のようなことを要求しているのでしょう。セックスにおける贈与の見返りは、たとえば具体的な性交渉行為そのものの中(性交に参与しているという満足感)にだけ見出せ。あるいは自分のセックス・アピールの贈与の見返りは、他人の視線がもたらす快楽の中にだけ見出せ。要するにセックスのカテゴリーの外での見返りを期待するな。臓器提供における臓器の贈与の見返りは、臓器を提供するという行為のただ中(たとえば人類愛への奉仕)にだけ見出せ。臓器提供の外に見返りを期待するな。このようなストイックな囲い込みの思想が、タダならよいが金をとると悪いという倫理の基盤になっている可能性があります。
57 金がからむと「道具化」がすすむという話もあります。売春とは、男が自分の快楽の満足のために女性を道具として利用することだし、臓器売買も、自分の生命と健康のために人間の肉体を道具として扱うことである、というわけです。倫理学は伝統的に、人間や生命を「道具」として扱うことに反対してきました。しかし、我々の癒しがたい本性のうちに、人を道具として使うことへの衝動があることもまた事実であるように思います。
76 運動で負けるからこそ、言説面では敗者が光る、っていうメカニズムを、どこかでちゃんと計算にいれているんじゃないか・・・
82 二つの相容れない勢力が戦いをする。このとき、一方が勝ち、他方は負けます。勝った方は、敗者を徐々に征服し追い詰めていく。ただしこのとき、滅びゆく敗者は、死に際に、強烈な怨念のシャワーを発します。このシャワーの毒は、多くの人々に良くない影響を与えるかもしれない。そこで、勝者は現実世界での勝利と引き換えに、敗者に架空世界での勝利を渡す。そうすることで、敗者の怨念が「鎮魂」をとりおこない、戦いを集結させる。
106 「不自然だ」というのは、人間の気持ちの問題、つまりある種の自然プロセスを見たときに人のこころに湧いてくる「気持ち」の問題
118 自然にかえれという魂の衝動が、生命を抹殺せよという方向へと突き詰められてゆく。たぶん、「自然=生命」と考える人たちは、これとは逆に、「自然にかえれ」とは、<いのち>がつぎの<いのち>を連綿と生み続けてゆく、その生命の連鎖への参与のことだ(後略)
130 ナウシカを見てください。彼女は、自分の意志と判断力で行動する、自立した少女です。そして、危機に直面したときには勇敢に戦うことのできる「戦士」です。ナウシカは、性的には未成熟でありながらも、自分の足で自立して立ち、すなおで、勇敢で、かわいらしくって、ほのかなエロスを備えている。 同 そういう「少女」のエロスこそが、我々に宗教的とさえ言える思想のパラダイム・シフトを引き起こすことができうのですから。思想の次元での転回を導くような、少女系エコ=フェミニズムのことを、私は「ロリコン・エコロジカル=フェミニズム」と呼びたいのです。
172 「正義のいやらしさ」や「権力のドロドロ」をも自らのものとして引き受け、そのうえでそこに還元できない「愛」や「倫理」を見失うことのない地平で、それらすべてとの永遠の格闘を――つまり答えのない闘争を――続けるようなものになるはずなのです。(「生命学」)

水谷修『夜回り先生』小学館文庫(Kindle版)、2011年。/水谷修『夜回り先生と夜眠れない子どもたち』小学館文庫(Kindle版)2011年。

・学生の頃に読んだ2冊である。今回は薬物依存に関する勉強をする必要があり、その情報収集がきっかけで読むことになった。
・薬物依存の詳細は次書に譲るとして、本書は古いものでありながら、氏がライフワーク(?)として行っている「夜回り」と、そこで出会った子どもたちに関して書かれている。
・書籍化されているわけだから、もちろんこれがすべてではないだろうし、この内容で「夜回り」の是非が問えるわけもない。ただ、一つだけ言えるのは、水谷氏の「夜回り」によって、救われた人がいるということである。
・当然、救われなかった人もいるわけだが、要は是非で問えないということである。きっと「やりすぎだ」とか「何かあったら誰が責任をとるのか」等言われてきたのだろう。
・水谷氏は、少なくとも本書においては、この点一貫しているように読むことができた。すなわち、(多くの人の支えがありながらも)自分で負える責任の範囲ですべてを行っている、ということだ。
・水谷氏の立場は明確だ。「支える人」に徹し、「子どもたちを夜の街から出ていく」ようにする。それは、明日のために未来のために、と単純明快な立場である。ただ、その立場を貫くことが、現代においては最大級の困難さを伴い、常に悩み続けなければならないことなのだろう。

(以下、引用)
1:
No204 「水谷先生、彼を殺したのは君だよ。いいかい、シンナーや覚せい剤は簡単にやめさせることができない。それは“依存症”という病気だからだ。あなたはその病気を“愛”の力で治そうとした。しかし病気を“愛”や“罰”の力で治せますか?高熱で苦しむ生徒を、愛情こめて抱きしめたら熱が下がりますか?『お前の根性がたるんでるからだ』と叱って、熱が下がりますか?病気を治すのは私たち医者の仕事です。無理をしましたね」
2:
No43 目的は二つある。一つは薬物の売人や、風俗のスカウトが子どもたちに近づかないように注意すること。もう一つは、より多く子どもたちと出会い、彼らの将来について真剣に語り合うことだ。
No387 会う前に変わってほしかった。自分で決めて、責任を持ち、一歩を踏み出しなさい。私はすべての子どもにそう伝えてきた。さもないと、その子どもは最初に手を貸してくれた人間に依存するようになってしまう。それだけは避けたかった。一人の人間を一時的に手助けすることは簡単だが、一生助け続けることは不可能である。
No577 ドラッグは人を3回殺します。(心、頭、身体)
No672 子どもは失敗して当たり前である。でもその失敗を許せない大人があまりにも多すぎる。

松村卓『ゆるめる力 骨ストレッチ』文藝春秋、2015年。

・スポーツトレーナーとして活躍する著者が、「骨」にこだわって考案したストレッチを紹介する一冊。筋肉ではなく骨の動きと、それらのつながりに着目し、身体の広範囲を「ゆるめ」、心地よい動作を提案している。
・甲野善紀氏の著者等で、筋肉ではなく骨を意識することで得られる動作感覚について、学び、意識してきたことはあったが、具体的なストレッチ(ほぐし方、ゆるめ方)を丁寧に解説しているものは初めて。
・やってみると、確かにいつもと違う感覚はある。これまでと違うリラクゼーションの方法だと思われる。確かに「心地よい」という表現が合う。
・後半の「体をゆるめる=心をゆるめる」のくだりは、実感レベルでは同意できるのだけれども、気持ちや心のもちようにとどまっているため、体のしくみからリラクゼーション効果が導かれると、もっと有用と思えることができるだろう。

(以下引用)
40 バラバラではなく、すべてつながっているのです。(略)体のコリや痛みを取り除き、自然な動きを取り戻すには、まずは体ののパーツをつなげていく必要があります。そこでカギを握るのが「骨」なのです。滑らかな体の動きは、骨をうまく連動させることで実現するのです。
44 体の末端を閉じると、バラバラに動いていた体の各パーツが一つにつながり、体全体で動けるようになる。
78 骨組みで体の重さが支えられているからこそ、必要最小限の筋力でもラクに立つことができるのです。
116 姿勢のゆがみ=猫背は、体に様々な付加をかけてしまいます。主だったものは次の三点が挙げられます。 1.筋肉が硬くなり、肩や首が自由に動く範囲が狭くなる。 2.頸動脈が圧迫され、脳への血流が低下する。 3.横隔膜がふさがり、呼吸が浅くなる。
119 (「骨組み」のポイント)
1.ゆるんでいるけど、だらけてはいない
2.体を「骨組み」で支えている
3.無駄な筋力を使わずに動作ができる
122 固めるよりもゆるめること。固まりやすい生き方をしている私たちは、もっとゆるんだほうがいいのです。
167 つかみどころのない心をコントロールすることに腐心するより、まずは体に目を向け、心地よさを取り戻していってはどうでしょうか。骨ストレッチをこまめに行い、心地よく動ける体が手に入れば、心も自然とほぐれ、気持ちが前向きになっていきます。
180 居着かないように考え、発想することで、心がラクになり、これまで出せなかった力が出せるようになる。
187 常識に縛られ、居着いてしまう自分の存在をまず認めるところから初めてほしいのです。

2019年7月20日土曜日

T’sアフォガード

タリーズさんの(隠れ)メニューに、アフォガードがあります。アイスをやってるタリーズさんならではのメニューで、知っている人は知っている、アイスにエスプレッソかけたやつです。
なにかの本でこの食べ方(飲み方)を読んで、それからこのタリーズさんのアフォガードが一番しっくりきています。10分くらい時間があるときにはちょっとした休憩時間や移動の合間なんかにつついています。
以前はアイス2つにエスプレッソかけてくれたのだけれども、最近はカウンターで「アフォガードできます?」って聞くと「えっ」と言われることも多い。若い店員さんの時にはわからないこともあるみたい。「申し訳ございません」なんて言われたら、「じゃ、エスプレッソをダブルで」という流れなんだけど。「あっ、できますよ」なんて言ってくれるときも、ここ2年ほどアイス1つが続いており、お店の方でもメニューが代わっちゃったのかな~なんて思うところです。
すっかり隠れメニューみたいになっちゃったアフォガードですが、うまいものはうまい。みなさまもご賞味あれ。「あれ?アイス2つじゃないんですか?」って言ったら、2つになるかもよ(笑)。

https://iyokiyeha.blogspot.com/2013/08/tullys.html

2019年6月29日土曜日

後閑愛美『1000人の看取りに接した看護師が教える 後悔しない死の迎え方』ダイヤモンド社、2018年。

・知識を得る読書になった。「様々な死の迎え方がありますよ」というケーススタディだけでなく、豊富な経験から「死の分類」「老衰」「延命治療」「看取りの作法」について論じている。
・死の分類
 人間の死には4つの分類がある(28ページ)
 1.肉体的な死
 2.精神的な死
 3.文化的な死
 4.社会的な死
 -身近な人との関わりが大切だと思う。家族・友人・最期まで自分に関わってくれるあらゆる人との関わり。
 -忘れられること、忘れられないこと、社会的な死は、肉体的な死よりも続くもの。  -意思表示は、肉体よりも続くもの(精神的)
・親の死に目に会えないの本意は、「親よりも先に死ぬこと」であり、立ち会ってほしいこととは少し違う。

(以下引用)
・老衰こそが理想的な死(38ページ)
 すべての臓器の力がバランスを保ちながらゆっくり命の続かなくなるレベルまで低下していく(こと)。一部が衰えて、他に元気な部分があると苦しい。
・口からご飯を食べられなくなったら、胃ろうで延命するか、手足から直接血管に針を入れる抹消点滴か、皮下点滴で老衰による死を待つか、もしくは何もしないか、この3つの選択肢から選ぶ。(159ページ)
・点滴だと体力が回復しない。急性期には胃ろうの選択肢も考える。
・看取りの作法(240ページ)

2019年6月2日日曜日

長尾彰『宇宙兄弟「完璧なリーダー」は、もういらない』学研プラス、2018年。

・ご縁ある方が上梓されたので、確認読書しました。
・グループファシリテーションとチームビルディングの現場からの豊富な事例と、漫画『宇宙兄弟』の引用とで、「リーダーシップ」像を浮き彫りにしており、内容がイメージしやすく、大変読みやすい本である。
・リーダーとは「生き方や働き方のハンドルを自分で握っている人のこと」と定義しており、「それは、あなたがすでにもっているもの」「『発揮するか、しないか』の違いでしかない」「他者だけでなく、自分に対しても発揮されるもの」とする。
・著者のファシリーテーターとしての経験と、そこで見聞きし、出会った人たちから「シェイク」されたことを、率直に素直に表現している定義であると思われる。
・相手に興味をもち、よく観察すること、コミュニケーション量を増やすこと。「タックマンモデル」を意識する、チームビルディングなど、具体的な行動レベルでの助言も多く表されている。チームで仕事をするすべての人に勧められる一冊。
・2019年のGW浜松市に帰省した時、地元の本屋さんで平積みになっていました。

森岡正博『電脳福祉論』学苑社、1994年。

・ヒトの生き方を考える上で、科学技術という背景は切り離して考えることはできないだろう。科学技術は、それが何であれ、我々の生活の中に入り込み、生き方に大きな影響を与えているモノ・コトである。
・それらが、別分野のものとして整理されてしまっているものも多く、私も今まであまり意識してこなかった。しかしながら、それらは日進月歩で進化・変化しているものである。
・森岡氏の提唱する「生命学」は、一貫してこの点を強調し、それらの結びつきの中で「よりよく生きる」ことを論じている。ただ、20年前の私はこの点について、興味はもちながらも「本論ではないもの」として隅にとどめる程度にしてしまっていたと思う。
・技術的な背景があり、社会的な未来予測をする間、今とこれからを生きる私が「どう生きるか」「よりよく生きる」とは何なのかを問う姿勢が、生命学の本質に近づくためのキーワードになるのだろう。
・本書は、25年ほど前の対談集であるが、当時各分野で最先端を走っていた研究者達に、上記のような関心をもった森岡氏が持論を展開し、論点が広がり、深まっていく軌跡が描かれている。
・一部、難しい部分や、ある論述が対談社に論駁されていく様子も記されている。ただ、基本的には無痛文明論が芽を出し、花開く手前のイメージが確かに現れていると思われた。
・学生の頃には流し読みにしたきりになっていた本著であるが、日々新たな技術が世に出される現在だからこそ響く内容であると感じた。

(以下引用)
ⅳ 議論の渦の中心にあるのは、先端テクノロジーと生命をどう考えるかという問い、言い換えれば、情報技術社会における人間の福祉の問題であった。
4 メディアは常に人間の身体を拡張するだけでなく、人間の心も拡張するし、魂も拡張する。
10 電脳社会の特徴として、シャーマニズムとテクノロジーとの奇妙な合体というのがあると思う。つまり、それは、人間の事故変容にかかわる。身体においても意識においても、いままでの情報の処理の仕方と全く異なったテクノロジーが、意識と身体の変容を生み出しているということです。
28 サイボーグ化は、そういう人間のこだわりや執着を克服し、かなえていく一つのプロセスかもしれない。そしてサイボーグ化がとことん進んで、極限の身体性というものがもたらされた場合、そこでは葛藤やコンプレックスはほとんど消滅し、後天的な「完全な意識」が生まれて来るかもしれない。
33 将来本当に意味のあるテクノロジーというのは、苦しみを回避するんじゃなくて、逆にそれらを引き受けるテクノロジーなんですよ。苦しみを引き受けることによって人は奈落の底に落ちるかもしれないけど、それによって人間は成長することができるわけです。こういう人間の逆説を支えるような、新たな文明の形が出てこないと、いまの社会はますます人間の生命を枯渇させてゆくでしょうね。
70 人工臓器化は、集中治療室のように身体を維持するための人工臓器群と、もう一つは閉じこめられてしまった精神活動を解き放つ人工臓器群の二種類に大きく分類することができる。心や精神を解放する人工臓器が、バーチャルリアリティとかマルチメディアとかパソコン通信じゃないかと。
104 進化していけるようなプログラムが自律的に発生して、それが増殖して多様性を増していった場合に、それは一つの自然の系だと言えるんじゃないでしょうか。(補足:自然の本質?)
131 人間が自由と自己決定を拡大させていくこと自体が、実は大きなシステムの効率的な流れの一部となって取り込まれてしまうんじゃないか。
132 そういうネットワーク型社会における人間の自由の保障は、巨大なシステムの微細な管理とコントロールに裏付けられることによって初めて可能になる。
134 将来は、機械にサポートされながら生きていく老人・障害者・病人がマジョリティを形成する社会が、いずれ到来することでしょう。
135 身体のどういう場所が欠損していて、どういういところを機械によって補っているかによって、価値観もむちゃくちゃ多様化してくる。
137 健常者がマジョリティの社会では、マジョリティの人々によるある一つの“標準型”というものが認定され、その標準型からはずれていく程度に応じて多様性が生まれてくるという世界感がある。
162 テクノロジーが人間の自由の範囲をどんどん拡張してゆく結果”不自由”の範囲が縮小しはじめていて、そのおかげでわれわれ先進国の人間は”自由”の価値を実感できなくなってるんじゃないでしょうか。言い換えれば、自由を味わうことから疎外されているんじゃないか。
164 人間の自由は何かと定義することは、自由に対して規定を加えることになる。
168 生命というものが、自由でない領域から操作可能な領域に変わりつつあります。(略)その延長線上で進むとすれば、今までの文化的伝統に類するものが次第次第に衰え、勢力を弱めていくであろうと、私は思う。どれだけ協力な伝統であろうと、かつての勢力はもはや持てなくなると思います。
172 データがあれば社会問題がひとりでに出てくるのではなく、そのデータは大変な問題をはらんでるんだと誰かが政治的に創作して、はじめて社会問題となる。
182 政策の根拠となる報告書をどんどん出すべきです。
185 脳死なんかもふくめて、生命倫理の問題とは、情報化社会のメカニズムによって「作り上がられる」ものなのですね。いままでの生命倫理研究では、この情報社会というファクターが全く無視されてきました。(略)情報社会というのは、科学知識を含めて情報が正確に流れる社会ではない。
200 私は、生命倫理も、電脳メディア論も、マジメにやっているのです。なぜかと言えば、この二つの問題は、ともに現代の先端科学技術が、人間社会と人間の生命に対して突きつけている、文明論的な根本問題だからである。二十一世紀においては、生命を問うことは電脳メディアを問うことになり、電脳メディアを問うことは生命を問うことになるのだ。

出口汪『頭がよくなる!大人の論理力ドリル』フォレスト出版、2016年。

・「論理」とは「規則にしたがって、言葉を速く正確に使」うこと。(P4)
・私たちは、物事を「言葉」を使って考える。その言葉遣い(違い)が速く・正確ならば、「論理力がある(高い)」と評価され、一方で、その言葉使いが巧みであれば「感性がある」と評価される。
・論理が明確な文章であれば、多くの人に伝わる、わかりやすいものになる。一方で、感性豊かな文章は、それが分かる人にとってはより正確により情報量のある理解を得ることができる。
・論理と感性、いずれも言葉を用いるもの。相反するものではなく「ともに、言語処理能力を高めることで、鍛え、磨きあげることができる」もの(P204)。
・地味なドリル形式の本。文学作品に込められた論理を取り出して、論理力を意識した読み方ができるような問題で構成されている。おそらく、ターゲットは私のような一般人向けなのだろう。現代文(小説)程度の内容であると思う。
・文学作品を論理的に、言葉をおいながら丁寧に読むことをこれまでやってこなかったので、本著の内容は大変新鮮だった。

(以下、引用)
4 規則にしたがって、言葉を速く正確に使えれば、「論理力」となります。言葉の微妙な使い方が巧みになれば、豊かな「感受性」となります。
6 論理力が身につくと、次のような能力がどんどん開花していきます。 ①文章を論理的に読み、理解、整理することが楽になり、速読にも威力を発揮。 ②人の話のすじみちを、瞬時に理解できるようになり、のみこみが速くなる。 ③読み取ったことを論理的に考えることによって、思考能力が身につく。 ④自分の考えをすじみち立てて話したり、論理的な文章を書けるようになる。
10 文学作品とは、実に感覚的なものだと、思い込んではいませんか?もちろん、筆者の独自の世界観や鋭い感性がそこにはあるのですが、それを不特定多数の読者に伝えようとするとき、いきおい文章は論理的にならざるを得ないのです。
22 述語から、主語をつかまえることがコツです。
23 文章を論理的に読む基本は、「主語?述語」をおさえることだと考えてください。 同 言葉は必ず他の言葉とつながります。(中略)感動詞以外は必ず他の言葉とつながっているのです。
25 接続語に着目して読むのが、論理的な読解の第一歩なのです。
28 すじみちの立て方=論理は、大きく分けて三つあります。その一つが、「イコールの関係」です。(具体例、引用)
29 あるいは、反対意見Bを持ち出して、それをひっくり返します。そのようにして、自分の意見Aの正しさを説明できるのです。こういったものを、対立関係といいます。
31 論理的な文章では、筆者の主張Aと、その次の主張Bとの間には、「因果関係」が見られます。(中略)「だから」で結ばれた関係が、「因果関係」なのです。(「だから」の前に理由がくる 122)
64 小説の風景描写は視点となる人物の目を通して描かれるもの(略)風景描写には、その視点人物の心情が投影されているのです。
79 小説を読むときは、自分の生活感覚で読まないことが鉄則。
118 主語が省略されるのは、基本的に前の文と主語が変わらないときです。

○現代文読解法(出口汪『NEW 出口現代文講義の実況中継①』語学春秋社、2007年、62,63ページより。)
1.文章を「論理的につかむ」
(1)人間は皆先入観を持っているから、客観的に文章を読むということは不可能である。
(2)だから、自分の頭を信用してはいけない。
(3)入試問題の文章は、論理的である限り一つの結論・主張(A)の形を変えて何度も繰り返す構造になっている。同じ主張を反復しているのだから、それらの主張を重ねて解釈しなさい。
(4)この作業によって、先入観がおおい隠していた影の部分が光の部分と重ね合わされ、そこではじめて筆者の主張が正しく把握できることになる。
2.言葉を「文脈で固定する」
(1)言葉というものは所詮、個人言語であって、一人ひとりの感覚や知識の度合いによって様々な使われ方をするし、また状況や場合によっても揺れ動くものである。
(2)だから、筆者の個人言語を読者の個人言語で理解しようとしてはいけない。筆者の言語は筆者の言語の中でつかむということ。
(3)それは、とりもなおさず、文章の前後関係、つまり文脈から言葉の意味をつかむということである。

2019年5月21日火曜日

森岡正博編著『「ささえあい」の人間学』法藏館、1994年。

・出版時には新進気鋭と呼ばれていた5人の研究者による研究会の報告と、その成果物としての論文集。それぞれが異なる専門的立場から「いのち」に関わっている。研究会のテーマは「新たな社会において人々はどのように関わり合ってゆけばよいか」。1989年から5年間にわたる研究会の成果である。
・人間は決してひとりぼっちでは生きてゆけない。そのような人間たちを我々はどうすればもっと適切にささえてゆけるのか。そのような人間たちをささえる社会システムとは、いったいどのようなものか。(はじめに ⅱより)
・医療、看護、仏教(宗教)科学、社会学、倫理...専門の異なる研究者が、自分の立ち位置に根ざしながらも、その枠組みを超え、時にゆらぎながらも、成果としては確かに新たな議論の場を切り拓いていると感じるものである。
・何よりも、各論文(メモ)が、大変専門的な内容であるにもかかわらず、表現が一般向けになっており、丁寧に説明されているなどの工夫がなされているため、読み手の理解度に合わせて深まっていく内容になっているのだと思った
そして、それぞれの論文から、各人の思いが伝わってくるような、書籍として熱のこもったものとして編集されていることも興味深い。今読んでも全く古さを感じない。学術論文であるにも関わらず、読んで気持ちが高揚してくるのもまた面白い。
・個々の「ささえ」、相互の「ささえあい」が、社会問題と共通する「ささえ」とつながっていることをイメージできる論考に、視野が一気に広がる感覚を得た。
・25年前(現在は2019年)に世に出された本書で語られる未来イメージ(日本型福祉国家)が、パズルのようにパタパタと成立しているような気がしてならない。新たな南北問題に踏み込んでいるような現在の日本とその社会システムの中で生活しながら、冷静にそのしくみを語ることのできる人でありたい。
(再まとめ)
・21世紀、高齢福祉社会を突き進んでいく日本の社会がどうなっていくのか。そこで生きる人達を先導する哲学、人間観、社会観、生命観とは何か、について深く追及する共同研究の軌跡。
・一人では生きていけない社会における「ささえあいの人間学」を追求していく。身体だけでなく心をささえること、何をささえ、どのようにささえたらもっと適切といえるのか。末期医療における「ささえあい」をモデルにして様々な角度から専門の枠組みを超えて議論している。
・気鋭(当時)の学者5人が、5年間にわたり繰り返してきた会合と、その度に提出された論文を編集したのが本書である。研究会の成果というと、一般的には最終報告書が公開されるものだが、本書においては、この研究会に提出されたほぼ全ての論文を編集し公表することで(1)未来図として検討された議論の本筋から外れたいくつかのテーマも紹介している(2)検討の軌跡や、参加者が立場・考え方を変えていく様子がわかる、ような構成となっている。
・こういった形式の論文集(共同研究)に接する機会は滅多になく、大変新鮮な読み物であったということと併せて、哲学的な議論が加わることによって、どの分野からの切り口にもその不足点や要所や言葉の意味や定義のレベルで整理されていくことを感じた。一つのことが分かると、一つ視野が広がるような感覚である。本書の論文一つ一つからそうした深まりが得られたことで、また新たな疑問が提示されるとともに、私の疑問も深まっている。知りたいことは増えているのだが、それが気持ちのいいこととして感じられる。知的好奇心を刺激される感覚を味わうことができた。

(以下、引用)
ⅱ 完全には自律できにくい人間どうしがお互いに「ささえあって」ゆくという形の社会原理の可能性を探ろうとした。
(佐藤雅彦)ささえる人をささえること、既存の価値を現在にあわせて超えていく。
・ささえる人をささえることと、既存の価値を現在に合わせて超えていく。
221 (「仏教学」には)「異論を挟まないで、それはそれとしてきちんと受け止める」というあり方をした、信仰の学問としての一面があります。
222 たとえば、浄土宗の教学はこうあるべきだというものがありますよね。ところが現実の人に接して、いま悲しんでいる人に対してことばを伝えるときに、伝統的ながんじがらめの四角いことばを使ってはとても表現し切れない。やはり、その場ではその人に合った表現をします。けれども、やっぱり自分のこころの中では、どうもこれは本来的な浄土教の教え方からは外れているかもしれないという危惧は感じるわけです。
224 おそらく、現代に対応していこうとすれば、きっと従来の仏教学とか、伝統的な仏教の学問の体系からは、完全に逸脱してくるでしょう。しかし「学問的な体系」から逸脱したとしても、仏教そのものの教えが「真理」である以上、その「真理」から逸脱することはありえないでしょう。旧来の学問の体系からの逸脱を抜きにしては新しい学問の創造や、独創的な発想の展開は成立しないはずです。
229 率直に言って、ささえを受ける人がこころの安らぎを得ることができ、そのグループの中でしっかりとして、サポートができればそれでいいと思いますね。(略)
230 だから、僕はターミナル・ケアに宗教者が直接参加すべきだという画一的な理論には否定的です。
同  宗教はターミナル・ケアに関わる人たちの、知識・感性などさまざまなものを貯蔵する「タンク」として機能するのか、今後の日本で求められる方向性じゃないでしょうか。

(斎藤有紀子)スローガンではなく、対象を想定し、借りものの言葉(外来語)に意味を見出すべき
237 和語の中に私たちが安らぎを見出せるのは事実ですが、和語は「説明不要の安心感」を私たちに抱かせる。→だから「ささえあい」を論じると、心得的になる。
238 ささえが必要な場面では、そこにいる人々はたいてい現実と格闘しています。彼らはぎりぎりの状況に置かれてもなお、目前の現実と向き合っていかなければなりません。その過酷さを少しでもささえるには、具体的な問題解決システムの確立を目指す必要があるでしょう。輸入された概念は、この「問題解決システム確立」過程で、私たちがすべきこと(してはいけないこと)を、具体的原則にして指し示します。それは、ささえを必要としている社会的弱者にとって、和語(耳に心地よいが現実のどの場面を説明するのかよくわからない)よりも、よほど力になるものではないでしょうか。
240 終末期を迎えている患者/看護・介護を必要とする高齢者/判断能力が不十分とされる子どもたち/障害をもつ人々に対し、彼らの主体性を尊重した医療(ケア)を提供しようと考えたとき、果たして現在のような「保護し、保護される」関係でいいのか。保護することと主体性を尊重することは、ときにぶつかるのではないだろうか。
241 私はこれまで権利主張を前面に出す物言いに、かなり抵抗してきました。自己決定「権」といってしまったときに感じる居心地の悪さと、しかしそれに目をつぶっては、私たちが善意と思っていることが空回りしてしまうのでは、という危機感を行きつ戻りつしておりました。(略)しかし「実質的に」制度をささえ、他人が尊重されるためには、やはりまず権利から始めるのも得策だと最近感じ始めています。
242 「ささえあい」という可能性に満ちた和語を「権利」「個人」「自己」という概念なしで使うとき、一つ心配なのは、前回の論文でふれたように、周囲でささえる人の大変さを誰も肩代わりできないことです。(略)冷たいスローガンに終わってしまいます。
243 「個人」を想定し、「権利」を定め、それに対する「社会」の義務をはっきりさせることが、ひとつ実質的なシステムとして、ささえの基盤となってきます。借り物の「権利」「自己」「個人」「共感」「自律」概念を利用しながら、それをいかに私たちらしく、私たちの社会になじむ方法で運用してしまうかが、一つの試されどころでしょう。

(土屋貴志)ささえあいの本質
304-305 「ささえの原則」
 根本原則:「共感」が達成されるよう努めるべきである。
 二次原則:
 (1)相手にかかわっていこうとする
 (2)相手の可能性を信じる
 (3)事実に直面しそれを受け容れなければならないのは、その人自身なのであって、他の人が代わってやることは決してできない
306 自分以外の人が何を考え、何を感じているか、全部わかるわけではないが、全然わからないわけでもない。私たちは言語表現や身体的表現を通じて、他人の体験しているものを限定的に感じ取ることができる。だからこそ、この限られた能力をフルに活用して、なるべく本人の体験しているそのままを感じ取るべきだといえるのです。
 認識に関する命題 ⇔ 存在に関する命題
308 共感の本質とは、重荷を代わりに背負うことではなく、背負っている本人を一人ぼっちにしないこと
310 死に対する恐怖や不安そのものを完全に解消することは、(宗教を含め)いかなる「ささえ」をもってしても不可能かもしれません。しかし、それはしばしば非常に大きな助けになります。この「分かちあい」こそ「ささえあい」の最終的な到達点のように、私には思われるのです。

(赤林朗)ささえ業
319 「ささえ」においては、「ささえ」られる側も「ささえ」る側と同じように重要なのです。(コンサルテーション・リエゾン P321)
322 「ささえ」行の特徴、「調整的仲介的」な機能。もう一つは、常に実践に携わり「ささえ」を必要としている人との直接的・間接的な関与を通じて、「ささえ」を達成していくという特徴です。理解を見出すにしても、それは実践の中から得られるものです。
325 「ささえ」業を現実化させるためには、「実践の科学化」という考え方も参考になります。
(森岡正博)
329 「ささえあい」の実践には専門分化した個別的な「援助」と、それら相互をスーパーヴァイズする「調整・仲介」機能の二種類が必要であるという点が、よりはっきりするように思います。
330 「ささえあいのシステム」の全体像 「『ささえ』の四つのカテゴリー」
 (1)「ものや環境を与える<ささえ>」
 (2)「技術や機能を与える<ささえ>」
 (3)「情報や心の糧を与える<ささえ>」
 (4)「存在を与える<ささえ>」
同  各自はそれらが心得を自分のこころの中で唱えているだけではダメだと思うのです。というのは、まず社会の構造上の問題があって、それが原因でなにかの問題が生じている場合、いくらみんなが心得を唱えて行動しても、事態は全然解決されないからです。
332 (1)について(略)将来は社会の主流になるであろう非健常者が生活できてそして死んでいけるような「都市」を、計画的に作ってゆかねばならないのです。
335 これを成功させる秘訣のひとつは、都市の立体化にあると考えています。
336 (2)について、ボランティアの力が、将来の福祉施設を運営してゆくうえでのキーとなるのはまちがいありません。
337 そこで、ボランティアでもない、パートタイマーでもないという、新しいカテゴリーの援助職を作って運営してゆくべきだと思います。
338 「病院」に対応する「看護院」のような施設
340 (3)について、生老病死にかかわる相談事と情報提供を一括に担当する「人生アドヴァイザー」という職種を作りだし、彼らがそれらの問題に包括的に対処するのです。(略)都市共同体の中では、人生アドヴァイザーの役割を、家族・親戚・近隣のネットワークに求めるのではなく、都市社会の中の「職業人」の中に求めなければなりません。
341 (4)について、家族によるこころのささえを補うものとして、私は「友人」によるささえに注目したいと思います。(略)そのにょうな友人関係のネットワークを、より多く形成させるような「文化」や「生き方」を醸成してゆくこと、これがささえあいのシステムを作り上げることの一部となるのです。
342 ひとつだけ確実に言えることは、ささえあいのシステムが根づいた社会とは、非常に多くの人が「ささえあい」のために働いている社会となるという点です。福祉社会とは、自分のためだけに働く比率が減り、ささえあいのために働く比率が増えるような社会のことです。
343 国外で安い労働力を搾取するという「帝国主義的・植民地的南北問題」から、国内で外国人の安い労働力を搾取するという「福祉型南北問題」への移行です。
同  これが、経済の優等生日本が、二十一世紀に世界に向けて示す<日本型福祉国家>の基本モデルとなるわけです。
344 いままでのささえあいの議論では、ある一つの社会に生きる「個人」の間のささえあいを念頭において、研究を進めてきました。しかし、その個人が所属する「社会」あるいは「国家」のレベルでの、他の社会・国家とのささえあいもまた、実は我々のテーマであったことに気づきます。
同  これからの日本社会を襲うものは、この暗黙の「同質性」の崩壊なのではないでしょうか。

2019年5月4日土曜日

ホセ・ルイス・ゴンザレス・バラド編、渡辺和子訳『マザー・テレサ 愛と祈りのことば』PHP研究所、1997年。

・ご縁ある思い出の本だが、当時はパラパラと眺めていたものであった。きちんと読んだのは今回が初めてといえるだろう。
・マザー・テレサや「死を待つ人の家」のことを調べたこともあったが、当時「なぜそんなことをするのか」全くわからなかった。今もわからないことではあるのだけれども、マザー・テレサがそうした活動に取り組む「理由」の一端は感じとれたような気がする。
・人を助けることの意味、貧しい人たちとの関わり方、それが清く尊いことは感覚として了承できても、到底納得できることではなかった。今では、分からないなりにも、若い頃に感じていた「拒否」にはならない。「わからなくはない」ところまでは受け入れられるようになった。
・今回つかんだことは、マザー・テレサにとって出会う人ーー友人、先生、道ゆく人、だけでなく、助けを必要としている人、死にかけている人を含めたあらゆる人ーー全てがイエスその人であるとする感じ方、考え方、物事の捉え方というところ。マザー・テレサの様々な言葉に貫かれている意志は、この点の近くにあると思える。
・この学びは、「今、ここ」の感覚や、禅の思想にも通じることのように思える。絶対的な何かを感じ取る、あるいはそれすら手放し「今、ここ」のみを感じ取ることとの接点であるように思えるようになった。

86 ハンセン病者、死にかけている人、飢えている人、エイズに羅っている人々は、すべて皆、イエスその人なのです。
87 あなた方がこれから触れる貧しい人々の姿の中に見るキリストと、ミサ中のキリストは全く同じなのですよ。

内山興正『〔新装版〕坐禅の意味と実際 ー生命の実物を生きる』大法輪閣、2003年。

・マインドフルネスの瞑想から、坐禅の実際へ。マインドフルネスが「頭の体操」と割り切り、宗教性を排除したプログラムとなっているのに対し、坐禅は仏教に根ざした実践の一つの形といえる。
・「『自己が自己の実物を生きること』を、実際にやるのが坐禅です。」(14頁)表現にはいくつかあって、「自己の真実を生きること」「自己が自己を自己すること」(同頁)「ただかくの如く生きている」(30頁)など。
・正しい姿勢を、骨と筋肉でネラウのみ。よい(坐禅)、悪い(坐禅)の価値判断ではなく、「何か」を目指すこともない。ただ坐禅すること。「祇管打坐(しかんたざ)」という。
・何かになるための坐禅ではなく、自分を取り戻す、ただ自分である時間が坐禅である。なにも目指さないが、何からも解放されること。

(以下、引用)
6 おのおの自己自らの目をもって、自己から出発することこそが、真に仏教的な求道の態度そのものにほかならないのですから。
13 あなたはいつも、ただ他との関係(かねあい)においてだけで生きていて、本当の自分を生きていないから、自分の人生がさびしくなるのでしょう
14 『自己が自己の実物を生きること』を、実際にやるのが坐禅です。
48 坐禅とは、まさしく「ただかくの如くある実物」を、もっともよくネラウ姿勢なのであり、この「ただかくの如くある実物をネラウ姿勢」をねらって「ただかくの如くある」というのが、祇管打坐(ただ坐禅する)ということなのです。
51 坐禅の姿を骨組と筋肉でねらい、そうして「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません。
52 坐禅の姿勢をネラウと同時に思いを手放しにすることによって、心身ともに「坐禅する気になって坐禅する」ことになります。この「坐禅する気になって坐禅する」ことを、決して「思う」のではなしに「実行する」のが坐禅です。
 このことを道元禅師は薬山和尚の語をひいて「不思量底の思量」といわれます。骨組と筋肉で坐禅しながら、思いの手放し(不思量底)をネラウ(思量する)のだからです。また瑩山禅師は「覚触(かくそく)」という語をつかわれます。これははっきり覚めて(覚)実物を実物する(触)のだからです。
61 いま仏祖正伝の坐禅(真実生命の坐禅)はそうではありません。欲望も煩悩もじつは生命力のあらわれなのですから、これを憎み、断滅していいはずはなく、しかしそうだからといって、もし欲望、煩悩にひかれてそれを追うならば、それによって、かえって生命は呆けてしまいます。この際大切なことは、思いによって呆けさせることなく、かえって思いもすべて生命の地盤にあるものとして、在らしめながら、しかしそれにひきずりまわされないことです。いやそれにひきずりまわされまいと頑張るのでなしに、ただ覚めて生命の実物に帰ることです。
63 ふだんのわれわれの日常生活の行動では、ほとんどこのような思いを追った結果、まざまざとある似た姿を固定せしめ、この固定した煩悩妄想にかえって重みがかかり、この煩悩妄想によってふりまわされて行動していることばかりです。いやむしろ、ふだんのわれわれときたら、今の自分がこのような煩悩妄想にふりまわされているのだということさえもわからないで、ふりまわされている、といった方があたっています。
64 このような坐禅体験が充分に身についてくれば、ふだんの生活においても、たとえさまざまな思いが往き来しつつも、それにふりまわされることなく、自らの生命を覚触して、そのことにより真新しい生命の実物から出発しなおすことができるでしょう。
82 坐禅で大切なことは、それらいずれにもかかわらず、とにかくただ坐禅をねらい、坐禅を覚触して、ただ坐ることです。
96 自己の生命の実物とは、小さな個体的な私の思いをはるかに超えたところにありながら、現にこの小さな個体的私に働いている力なのです。
99 生命の実物としていえば、この小さな個体としての私の思い以上のところで、根本事実として、自己は「生きとし生けるもの、ありとあらゆるもの」(一切生命、一切存在)と不二、ぶっつづきの生命(尽一切自己)を生きているのです。これに反し、ふだんのわれわれは小さなこの個体的自分の思いによって、この尽一切自己の生命の実物を見失い、くもらせてしまっております。そこで今、思いを手放しにすることにより、この生命の実物に澄み浄くなり、この生命の実物をそのまま生きる(覚触する。非思量する)ーーそれが坐禅なのです。(このような坐禅を「証上修の坐禅」といいます。100頁)
102 (前略)「不疑」という、信についての第二の意味がでてきます。このことも、単に他人のいうことを聞いて疑わないというのではなく、「それを本当と思っても思わなくても、信じても疑っても」ーーそんな自分の思いにかかわらないところでーー事実として不二の生命の実物を生きているということを疑わない、ということだけが、仏教の信の意味です。

2019年3月24日日曜日

稲田将人『経営参謀 ―戦略プロフェッショナルの教科書』ダイヤモンド社、2014年。

・平成31年2月に読んだ『戦略参謀』の続編。本書もビジネス小説の体裁をとった、事業運営、企業経営の仕組みと、改善・改革の手法とその実態を描いている。またも読み物として大変おもしろいものであると併せて、市場や事業の分析や解説について、親書なら数冊分くらいの内容が詰め込まれているように思う。
・コンサルタントの安部野が、経営企画を一から解説していった前著と比べ、市場分析や消費者心理、経営リーダーシップといった、より大局的な話題を丁寧に解説している印象を受けた。
・Iyokiyehaの今の職場や職位で考えた時には、率直に二つも三つも土俵が異なる内容で、業務とは直接関わらないようなものであるといえる。ただし、事業全体、組織全体を俯瞰し、さらに社会情勢を踏まえて思考するためには、こいった内容に触れ、普段の業務とは異なる視点を自分の中に作っておくことが必要だろう。

(以下、引用)
37ページ:巷で言われていることを鵜呑みにせず、市場の実態を捉える。
38ページ:(前略)気づいた側がそれぞれの異なる時間帯の客層をプロファイリングしたうえで能動的にアイデアをだし、それを試すというイニシアティブをとり、その結果の検証をするべきです。
51ページ:「購買」までのプロセスは、実は極めて情緒的なプロセスなのだ。
52~53ページ:RVAPSサイクル(66ページ解説)
(前略)これが小売業やファッションビジネスのBtoCビジネス繁栄のサイクルだ。(中略)RVAPSサイクルと読んでいる」
 R:Recognition 認知:PR、雑誌の広告など
 V:Visit 来店:数ある店の中から自店を選んでもらう明確な動機
 A:Approach 接近:「あれは何だろう」「良さそうだ、面白そうだ」
 P:Purchase 購買:納得して購買
 S:Satisfaction 満足:使ってみて満足
84ページ:新規事業の企画においては、言葉で論理的に説明する努力を徹底的に行うべきだが、それでも言葉だけで伝えることには常に限界がある価値もあるということだ。
262ページ:しかし、「人は、性善なれど、性怠惰」なものです。(中略)せっかくの万人の幸せにつながる施策であっても、己にとって不利益があると思うと、それを阻みに行く行為が画策されるのは、人類の歴史をさかのぼっても、そして現在においてもあとを絶つことはありません。
310ページ:物事は「なるようにはなる。しかし、なるようにしかならない」ものだ
311ページ:もうひとつ、「どうでもいいことは、どうでもいい」ってこともある

自分であること

 元々自分の身体感覚には興味のあるIyokiyehaです。学生時代に運動は苦手だったのですが、サッカー、軟式テニス、ハンドボールと部活に所属し、大学生の時にはワンダーフォーゲル部で山登り。この経歴に一貫性はないのですが、その根っこでは、身体の感覚とかしくみとか、そういったことへの興味がありました。
 甲野善紀氏の井桁理論に触れたことをきっかけに、木剣を振るようになり、縁あって合気道(昭道館)に接し、雇用支援の中で精神障害者のプログラムを運営することになったことで、精神保健福祉士の勉強をしました。精神衛生に関する勉強において、脳の働きや循環器・呼吸器などにも触れ、運動だけでなく、リラクゼーションや呼吸法なんかを学んで、実践してきました。メンタルヘルスの知見を下敷きに、筋弛緩法やシステマブリージング、アンガーマネジメントに触れ、近年たどり着いた一つの到達点がマインドフルネスと合気道(錬身会)です。
 瞑想や型稽古に取り組みつつ、ここ最近は坐禅もやってみて仏教思想への展開が予想されます。昨年末から生命学の森岡論を一からなぞっていることも影響しているでしょうし、20年間で仕事の内外でこれだけのことに浮気し続けている自分が、今後も何か一つのことに傾倒することはないんだろうなと思いつつ過ごしています。こういうことを振り返ったのは初めてです。

 なんでこんな振り返りをしたかというと、マインドフルネスや禅の考え方・思想の中核に近い「ありのままでいること」「いま、ここ」「実物の自己」「自己ぎりの自己」といったモノ・コト(という表現しかできないな・・・)は、少なくともキリスト教にも通じるものなんじゃないかと、マザーテレサの言葉を読んで感じたからです。今後予想される仏教思想への展開は、そのまま歴史学習を通じたキリスト教やその後多分イスラム教、他の勉強につながっていくように思います。偶然にも高校倫理を学びなおしているところでもあるわけで。宗教が戦争の材料ではなく、本来人々にやすらぎや生活規範を与える基盤となるモノ・コトである、あるいはそうした側面があるならば、新興宗教等を含めたどのモノ・コトにも核に近いところにそうした考え方があるんじゃないか、と思い至っているわけです。
 人の能力解放みたいなことをライフワークに位置づけているIyokiyehaとしては、宗教的な考え方は避けて通れないと思っていますし、その中に何らかの共通点が見いだせるのではないかと考えてきたところの思いつきです。悩みがなくなるわけではなく、その苦しみから解放される、みたいな考え方って、多分に宗教的でありながら、それだけじゃないような気がするんですよね。それをプログラム化したものがマインドフルネスの瞑想だとすれば、これをつくる背景となるモノ・コトには、頭の休息以上の何かがあるはず。仏教では「悟り」という言葉があるけれども、そんな雲の上の存在みたいなものではなくて、もっと身近でありながら、もっと深いところで、それでいて現代社会を生き抜く知恵みたいなものを探っていきたいと思います。

 あれやこれやと浮気しているように見えて、実はすべてがつながっている、なんてよく言われるけれども、それって後で自分の都合のいい解釈をするだけだよね?と思うところだったりします。それでいいじゃないですか。

働くことコラム08:会社を選ぶ理由2 -夢を語るか、現実を語るか

 Q「志望動機がうまくかけないんです」

 就職活動をしている人と関わると、立場はどうあれこういった質問があります。履歴書や応募書類に記載する「志望動機」欄の内容ですね。

 Q「この会社に入って、どうしたいかわからないんです」

 先に「立場はどうあれ」と書きましたが、Iyokiyehaさんは支援者としてだけでなく、就職活動をする身であった時期があるので、当事者として同じ問いを発していました。○○という会社に入った自分はどうしたいのか?地方公務員になった自分は何をしたいのか?
 「企業分析が足りません」と言われてしまうかもしれませんが、実際に就職活動をする身になると、対象となる組織のことを調べれば調べるほど、自分の能力との乖離を感じ、何もできないような気になってくるし、まして地方公務員なんていう職は、配属課が違えばやる仕事なんか全く違うわけで、Iyokiyehaさんの場合は特に「自分の10数年の経験がそのまま活かせる部署はない」ため、どうしたものかと悩んだものです。
 もう少し突っ込むと、私の場合は相手が勘違いしてくれる経験でしたので、その勘違いを逆手にとりこちらの土俵に引き込んだ上で「経験に関わらず何でも挑戦したいです」みたいに広がりをつけて自分を見せていくという手法をとることが結果につながったわけですが、世の中そううまくいくことばかりではないわけで。

 とはいえ、上記を含めて、基本的な考え方は「労働市場や応募者属性の中で、自分はどう位置づけられるだろうか」ということを考えた上で、その「見え方」に沿った準備をする、ことは変わらないと思います。このことは先にコラムでとりあげた話題である「自分はどのようにみられているのか」ということと関係してきます。

 わかりやすい例をあげれば、新卒採用と中途採用とでは見られ方(≒採用基準)が異なるわけです。では、それぞれ何が求められているのか。
 一言でいえば、新卒採用者には「大きな可能性」が求められ、中途採用者には「経験に基づいた柔軟な発想を持ち込むこと」または「最先端の知識・技能を生かした、新しい事業の原動力」といったところでしょう。中途採用の場合は、どんな求人かということによってもその内容は大きく変わってきます。要は、どんな求人なのか、そこに応募してくる人はどんな人達なのか、その中で自分はどんな位置づけなのか・どうあるべきなのか、ということから、ある程度は答えが導かれると思います。

 「志望動機」を考えていく時に、この点を外してしまうと「御社の企業理念に共感しました」みたいな、ちょっとかっこいい言葉を並べて、自分のことを何も伝えられない内容になってしまいます。
 人によって、求人によっては、大きな夢を語ることが回答となるようなものがあるのかもしれません。自己啓発に関する読み物や、いわゆる成功者の手記やインタビューなどには、そうした「夢」を言葉にすることが語られていることがあります。ただ、私がこれまでに接してきた自他併せ数百件就職活動において、そうした大きな「夢」を語るよう求められたのは1件のみです。多くの場合は「現実を伝わる言葉にする」ことが求められるのでしょうし、たとえ「夢」を語ることが求められたとしても、その時は「自分の描く夢を、伝わる言葉にする」ことが求められるのだと思います。そう考えれば、これまでに重要としてきた「自己分析」を広く深く行い、自分の核と言えるものを伝わる言葉にする作業はどんな就職活動にも求められる基本動作だと考えることができます。この基本動作と、求人や採用の背景とが交差したところに、「求められる志望動機」があるわけです。

 よく言われる「自己分析」と、いつも足りないと言われる「企業分析」。「企業分析」は「求人分析」とも読めるでしょう。どんな会社が、どんな人を求めているのか、自己分析によってまとまる自分は、そのどこに当てはまるのか。その「接点」が、応募する理由でしょうし、いわゆる「志望動機」になるんじゃないでしょうか。

 ちなみに、Iyokiyehaの地方公務員への転職活動においては、転職動機の核は「子どもたちのふるさとにしたい」で、この街に住み続ける理由で理論武装しました。自分のキャリアに関しては、公務労働を「人権を守る仕事」「住民を(様々な角度から)守る仕事」とまとめ、この言葉に今までの仕事の意味とこれからの未知の仕事の意味とをこれらのキーワードに乗せて面接に臨みました。その問答がどう評価されたかはわかりませんが、少なくとも「まずい回答」にはならなかったと思います。

2019年3月17日日曜日

Groovy! グルーヴィ!

-groove 名
 1 溝、わだち、車の跡
 2 決まりきったやり方、慣例
 3 適所
 4(俗)楽しいこと〔経験〕、すてきな〔いかす〕もの、名演奏のジャズ

 Iyokiyehaは自室で何かやるときによく音楽をかけます。ラジオも多いですが、何か作業をやる時は音楽の方が多いです。「好きなジャンルは何ですか?」と聞かれますが、何でも聞きます。つまらない回答で申し訳ない。友人の軸によっては「あいつはジャズなんか聞いている」とか「クラシックのライブ行くんだよね」とか「IyokiyehaというとHOUNDDOGのイメージ」などなど、いろいろ言われますが、どれも事実でどれもすべてではない。よく言えば広い趣味になるし、悪く言えば雑食とか浅く広い、とか。
 個人的には結構どうでもよくて、一言でまとめたら「よいものは『良い』」と思っているだけです。そのくらいでいた方が気が楽だし、素直に音楽を感じられると思っているので「浅い」と言われても結構です。

 話は少し変わって。
 先日、PTA活動で学区にある中学校の卒業式に来賓として臨席させていただく機会がありました。自分が小さい頃「来賓席に座る人って、偉い人なんだろうな」「自分には縁のない人達なんだろうな」と思っていた来賓席に座る自分という新鮮さがあったという話題もあるのですが、今日は音楽の話。
 Iyokiyehaが住む所沢市の学校では「合唱」に力を入れているそうで、この学校では卒業式に「リフレイン(作詞:覚和歌子 作曲:信長貴富)」という歌を見事に合唱していました。これがまた聴かせる歌で、素直に感動してきました。

 こんなIyokiyehaが感動したんです。学生の頃「合唱」は大嫌いでした、「男子ちゃんと歌って」と言われる側(ふざけている、ではなくて私は音程が合わせられないんです。真面目な子が言う「ちゃんと」にゃならないんだよ~)でした。卒業証書授与式なので、250人弱が壇上に上がる式でした、正直にちょっと疲れていました。それだけでなく、式典の関係は基本的に苦手です、来賓席も仕事ですから仕方がないと思って行ったのも事実です。こんなIyokiyehaです。しかし、感動しました。
 歌詞がいいというのもあるのでしょうが、それはさておいても、ただそこにいた自分を突き抜ける何かがあった、そんな素敵な時間でした。ツーン、と何かが頭を貫いて、一瞬の透明感と澄み切った気持ちが自分の中にやってくる、そんな歌でした。とても心地よかった。

 私が勝手に師匠と言っている(弟子ではない)あるジャズバーのマスターは、本投稿冒頭で紹介した「groove」のことを、

  それは どこからともなくやってきて
  いつの間にか去っていく
  たしかにあるものだけれども
  見えないし聞こえない
  ただ その場にいるひとはみんな感じている

 みたいに表現していた。こんな感じ、って渦巻きを書いてくれたのが懐かしいです。

 なんで卒業式からジャズになったかというと、来賓席に座っていた自分が、このグルーヴ感を勝手に感じていたっていうだけの話なんだけどね。
 いや、普通の感覚じゃ、卒業式とジャズバーは結びつかないと思うのだけれども、Iyokiyehaの自由な思考は、「リフレイン」を聞いて何かに貫かれちゃったんだな~

久賀谷亮『世界のエリートがやっている 最高の休息法 ー「脳科学×瞑想」で集中力が高まる』ダイヤモンド社、2016年。

・アメリカで活躍する日本人医師がマインドフルネスに関して、小説形式で描いた本。
・論文というよりは、実践本といえる。小説ではあるが、学術的成果を参考文献として押さえている。英語が読める人ならば、原著にあたってもっと深めることができる構成になっている。
・物語は大変シンプルなサクセス&ハッピーエンドである。ただ、マインドフルネスが視野に入れている社会貢献的な内容に触れられており、ビジネスマンとしての成功の定義にも疑問を投げかける。小説としても面白い。
・マインドフルネスのプログラム(取り組み方)がとてもシンプルなので、取り組みやすく、効果も実感しやすい。
・Iyokiyehaが山梨に住んでいた頃に、「精神(思考・考え方)は身体(内蔵機能や循環器機能を含めた)に影響する」ことを、認知行動療法(CBT)の学習で学んだ。その時に逆(つまり、身体が精神に影響すること)もあり得ると漠然と考えていたことがある。そのことが、マインドフルネスにおいて実証されつつあることを知った本である。
・個人の能力が開放されることにより、社会的意義が生まれることにも触れている。
・個人的には大変可能性のあるプログラムであると思っている。自分で身につけたいし、広めていくことも今後考えていきたい。
・課題としては、宗教っぽさ・うさんくささが付加されてしまいがちな点だろう。語る言葉/説明を持つ必要がある。
・「いま、ここ」という言葉は、理解の度合いや背景の学びによって意味が変化するものだと思うのだけれども、「自分に執着しない」「価値判断・評価を自分の外に出す」「今の自分で頭を満たす」といってキーワードで、実践を伴う理解が必要になるのだと思う。

(以下引用)
1ページ:たいていの人は、「休息=身体を休めること」だと思い込んでいます。(中略)しかし、それだけでは回復しない疲労があります。それが脳の疲れです。
 そう、脳には脳の休め方があるのです。
2ページ:「科学的に脳を癒す方法」が模索されている
4ページ:脳は体重の2%ほどの大きさにもかかわらず、身体が消費する全エネルギーの20%を使う「大食漢」です。さらに、脳の消費エネルギーの大半は、デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)という脳回路に使われています。
5ページ:このDMNは、脳の消費エネルギーのなんと60%?80%を占めていると言われています。
6ページ:DMNの活動を抑える脳構造をつくっていかないと、あなたに真の休息は訪れないというわけです。
同:マインドフルネスとは「瞑想などを通じた脳の休息法の総称」です。
9ページ:本書が目指す休息は、ただの「充電」ではありません。なぜなら、脳は変わるからです(これを脳の可塑性と言います)。(中略)あなた自身の脳を変えて、高度な集中力を手に入れることが、「最高の休息法」の真の目的です。
60ページ:マインドフルネスの起源は原始仏教にあると言われている。19世紀ビクトリア朝時代のイギリス人がスリランカを訪れた際、この概念に出会って西洋に持ち帰ったのだという。西洋人が東洋の思想や瞑想法を自分たち用にアレンジしたものだと言えばいいだろうか。そのため、もともとあった宗教性は排除されており、どちらかといえば実用面に比重が置かれている。
61ページ:「評価や判断を加えずに、いまここの経験に対して能動的に注意を向けること」
67ページ:DMNとは、内側前頭前野、後帯状皮質、楔前部(けつぜんぶ)、そして下頭頂小葉などから成る脳回路であり、意識的な活動をしていないときに働く脳のベースライン活動だ。いわば脳のアイドリング状態といったところだろうか。(中略)DMNは「心がさまよっているときに働く回路」として知られている。
71ページ:マインドフルネスは脳の一時的な働き具合だけでなく、脳の構造そのものを変えてしまう
72ページ:脳が絶えず自らを変化させるということ、いわゆる脳の可塑性については以前から明らかになっている。
84ページ:呼吸を意識するのは、いまに注意を向けるためなんじゃ。(中略)脳のすべての疲れやストレスは、過去や未来から生まれる。
87ページ:(前略)毎日続けること。このとき大事なのは同じ時間・同じ場所でやることじゃ。脳は習慣を好むからな。(中略)脳の変化には継続的な働きかけも欠かせんというわけじゃ。
126ページ:マインドフルネスにはだいたい3つの経験段階があると言われておる。初期はいまここに注意を向けることに躍起になる段階。中期は心がさまよったことに気づき、いまここへと注意を向け直せる段階。(中略)そして最終段階が、努力せずともつねに心がいまここにある状態じゃ
127ページ:前頭葉あ人間の理性なのだとすれば、扁桃体は自らの恐怖の対象から守るべく活動する感情ないし本能である。扁桃体は数臆年前の魚類にも存在していたという、脳の中でも最も原始的な部位だ。通常は扁桃体がストレスに過剰反応したときには、前頭葉がそれを抑えるつける格好で鎮静化を図ろうとする。
196ページ:マインドフルネスは身体にも効く。脳の状態を変化させることで、間接的に身体の問題を解決していくというわけじゃからな。
197ページ:脳の状態は、自律神経やホルモンを介して身体に反映される。心と身体はつながっている
229ページ:マインドフルネスは休息法じゃと言ったが、これが癒すのは個人だけではない。拡張していけば、組織や社会をも癒すことができるんじゃ。

2019年3月2日土曜日

タロット占い

 今年の初めに、ある兄妹と会った時に見せてもらったタロットカードが気になって、少しの勉強とカードのデッキを買って、毎朝ワン・オラクルで運勢を占うことが習慣になってきた。
 占いにはいろんなものかあるけれども、自分でやってみるとなかなか考えさせられる。
 「カード占いで選ぶカードは全て確率だ」「なんの根拠もないよね」という意見があることは想像に難くない。確かに確率の側面があることは理解できる。根拠については、まぁ、わかりませんね。個人的な意見は「別にいいじゃん」ですが。「占いなんか信じてるの~?」という問いは、疑問のすべてを含んでいるような気もします。
 私にとってタロット占いが面白いのは、カードのイメージを解釈して意味づけること、です。「当たるか当たらないか」ではなくて、「こんな感じだろう」というイメージですね。…言葉としてはわかりにくくなっちゃいましたが、タロットに触れたことがある人なら「そうかも!」って言ってくれそうかと。
 私の使い方は、毎朝1枚のカードをひいて、一日の運勢をイメージします。その日、判断に迷うことがあれば、カードによって解釈できる「気を付けるべきこと」を意識して、選択の指針にすることがあります。あとは、翌朝、前日のふりかえりをする時の視点します。この二つのことを意識して使うことにしているのですね。未来を占う、なんて使い方はまだまだできません。高度な解釈が可能になれば、そういう使い方もできるのだろうけど。
 昨年末から日記をつけるようになったのだけれども、このこととタロットとがうまくかみ合っているようで、毎朝の面白い習慣になりつつあります。
 別に人に勧めるわけではないのだけれども、先日タロットの話をしたら「意外だ…」と数人から立て続けに言われたので、自分なりの意味を整理してみました。

働くことコラム07:会社を選ぶ理由1 -まずは自分の理由

 就職活動の相談において、これまたよくあるやりとりでした。

 Q(提出された求人票を見て)  「どうして、この会社を選んだの?」
 A1「仕事内容が希望している『事務』だからです。」
 A2「ホームページを見たら、経営理念がよかったからです。」
 A3「希望条件と合うからです。」

 まぁ、様々だったわけですが、Iyokiyehaさんは「もっと個人的な理由はないの?」と追い打ちをかけていました。大抵、黙ってしまうか「・・・通いやすいから」といった回答だったでしょうか。
 面接対策にも通じる「志望動機」ですが、労働市場にいる多くの人が「『近いから』じゃだめと言われた。会社を調べてみて経営理念がいいと思ったから、書いてみた」と持ってきます。支援者が「これじゃあだめだ」と言ってしまうと、就職者はなにを書いたらいいかわからなくなってしまいます。しかし「これでよし!」と言えるものが出てこない。就職活動を支える現場において、お互いの言葉がすれ違いやすいところだと思います。
 一支援者だったIyokiyehaとしては、「近いから」でもいいと思っています。ただしこれには条件があります。それは「自分の就職(転職)における企業選定の理由と合致していること」です。例えば、足に障害があるので長距離通勤が困難であるから、自宅に「近い」企業を選んだ、という理由ならば納得感を得られやすいでしょう。あるいは、震災の時に帰宅難民になったことがあって、家族を守る必要があるから、最悪の事態でも3時間歩けば帰れる場所で選んだ、というのも理由にはなりそうです。「電車の振動で酔いやすく、電車通勤が自分にとっては苦痛でしかないので、徒歩か自転車で通える場所にした」でもいいでしょう。この「近いから」が唯一無二の理由でなければ、上記はいずれも就職活動の場面でも通用するある程度の理由になりえます。
 「近いから」で盛り上がってしまいましたが、ここでの要点は、「自分にとっての就職(転職)理由は、個人的なことでもいい」ということです。理想的には「キャリアにとってどういう位置付けか」を加えて両輪となるのがよい、とされています。志望動機対策全般にも通じてきますが、上記を企業の選定理由にも反映させて「見せる」ことが重要です。ちょっとまとめてみると、
 1 自分にとっての就職(転職)理由を明確にする。
 2 会社の選定理由を1と連動させる。
 ということです。ここはバラバラに考えがちだけれども、連動させることが、相手の納得感につながりますし、何よりここを考え抜くことによって、面接対策になってきます。自分の核が定まって、それが一つか二つの文章に集約できれば、それが決めセリフにもなるし、どんな質問がきてもその核を外さなければ一貫性のある回答が可能となります。
 ちなみに、上記のまとめだと1→2の順で考えがちですが、2→1の順に考えが深まっていく、ということもあります。その意味ではこれらはサイクルとなって、就職活動が終わるまでいつまでもいつまでも考え、意識することになってきます。
 ということで、会社の選び方は「自分の就職(転職)理由と連動した理由で選ぶ」か「適当に選んで、自分の就職(転職)理由と連動させてみる」と、大きく2つあることになります。選んで、考えて、書いてみる。考えて、書いて、選んでみる。あるいは、書いてみたら、深まって、選べるようになる」など、様々なパターンがあると思います。求人は生物(なまもの)ですので、自分にとって「最も良い」ものを選びたいところですが、実際には、「その時々で、自分にとっての最善を選ぶ」ことになると思います。

2019年2月24日日曜日

雄谷良成『ソーシャルイノベーション ー社会福祉法人佛子園が「ごちゃまぜ」で挑む地方創生!』ダイヤモンド社、2018年。

・優良事例を扱うこういった書籍は、私にとって読み方が難しいと感じてしまいます。その事例の特徴や迫力が言葉として伝わってくる一方で、ほとんどの場合その実際のところは「理想」ではなく「現実」であるからだ。
・もちろん、その「理想」が素晴らしい・面白い・インパクトがある、から書籍化され、広く知らせ・知らされるわけだが、その内実となる事例を知っていると、その評価がとたんに揺らぐ。しかしながら、その揺らぎは自分にとっても必要不可欠な「栄養」であるから、難しさを感じても、読み続けている。
・参考にすべきだけれども、全ての事業にはその前提となる条件があり、背景が違うところに安易に事例をはめ込もうとしても大概上手くいかないものである。だから、こういう書籍は知識や視野を広げるために読むものだと考えている。
・この前提のもとで本著を読む。「ソーシャルインクルーシヴ」を地でいく事例だと感じられる。
・言葉に迫力はある。ただ、その素晴らしさだけではなく、「人が人と関わり、役割(を得る)がある」という、いわゆる「自立した」生活を考慮して、施設の設計(ハード面)からも支える構造となっている。この点が本当に面白い。
・制度上、介護保険サービスと障害福祉サービスは別物であり、それらを共存させる発想は、「制度上」想定外なのだろうが、この点に工夫を加え、施設として実現しているところに、この事例の面白さがある。
・この事例の特徴は、制度上「特殊」といえる。しかし、本著のキーワードである「ごちゃまぜ」は、社会にとってごくごく当たり前のことであり、本事例は見る角度を変えれば、いわばある地域に見えない線を引いてその場所を福祉の制度で運営する、だけであるとも見える。社会を上手に縮小(ミニチュア化)する手法については、大変勉強になるものの、そこでの営みは社会の「当たり前」のように感じるところだ。

(以下引用)
44ページ:「三草二木」は、法華経で説かれるたとえ話にちなんでいる。仏の慈悲は育ち方の異なる大小さまざまな草木に降り注ぐ雨のように差別なく平等に注がれていることを指す。
47ページ:(略)社会福祉の仕事で最も重要なのは、障害者や高齢者が自ら役割を見つけ、生きる力を取り戻すことで、サービス提供に自分たちが頑張り過ぎるのは、彼らから力を発揮する機会を奪い逆効果なのではないかと痛感したという。
58ページ:福祉を核とするまちづくりでは、高齢者、障害者、子ども、住民の誰もが地域の支えとなりうる。「三草二木西圓寺」では期せずして地域に人口増加ももたらした。たとえ小さなことでも、住民や高齢者、障害者の声を引き出し、主体性を発揮できる機会や場を設けることが重要だ。
66ページ:「地域に溶け込むというより、さらに踏み込んで、まちづくりそのものを自分たちで手がけるくらいのことをしないと、思うような施設をつくれない」
75ページ:クリストファ・アレグザンダーの『パタン・ランゲージ』:人々が「心地よい」と感じるまちなかの環境をヒューマンスケールで分析して、狭い路地や窓からの眺め、目にとまる植裁など253のパターンを挙げている。
80ページ:医療の世界では、外来医療、入院医療に次ぐ「第三の医療」として、在宅医療が位置づけられている。一方、雄谷は「三草二木西圓寺」で認知症高齢者や重度障害者の症状改善を目の当たりにして、人と人とのつながりのある暮らしが、住民の生きがいややりがいを生み出すだけでなく、介護予防や健康増進、場合によっては要介護状態の改善にも役立つ「第三の医療」になるのではないかと考え(略)
112ページ:ビールの製造を始めたのをきっかけに「酒税」を納めるようになったのである。
115ページ:「障害者福祉」と「ビールづくり」のマッチングに、どうやら「福祉を食い物にしているのではないか」と疑いの目を向けられていたようだ。
152ページ:(認知症)清掃活動などで地域に貢献することで、「介護される側」から地域にとって貴重な「人的資源」となり得ます。そして、そういう仕組みをデザインすることが自分たちの仕事だと思っています。
154ページ:どんな生きづらさを抱えていても、その当事者にこそ、よりよく生きる力が備わっているという信念、人や地域の暮らしを支えるのは福祉だけじゃないという検挙さをもって、領域を超えてそれが発揮される環境をつくっていくうちにソーシャルイノベーターとみなされるようになってきたのは、示唆深いことです。
162ページ:「きれいな人たち」心を磨き、人としての美しさや品格を育てていることを学生が見抜いて(略)

働くことコラム06:希望する賃金はいくら?

Q「希望する給料はどのくらいですか?」
A「月給で20万円くらいほしいですね」

 前職では、不思議なくらいこのやりとりが多かったです。同業者あるいは「働くことを支える支援者」なら「そうそう!」って言ってくれそうですし、関連する仕事に就いている人も「あるある!」って言ってくれそうな気がします。
 「20万円」に根拠はあるのか?と調べてみると、東京都における初任給平均が、大卒で210,500円、高卒で172,300円でした。ちなみに私Iyokiyehaが育った静岡県では、大卒で199,300円、高卒で160,900円と地域差があります(厚生労働省)。もう一つ。給与総額の平均は、355,223円だそうです(いずれも月給)。なるほど、大卒者が「20万円!」って言うのは、好意的にはわからないでもないわけです。ただ、個人的には「よくわからない」というのが本音です。
 ちなみに前職で勤務したある施設の就職者の平均賃金は、自己申告ベースでもう少し低額でした。そもそもデータの信ぴょう性が微妙なので参考値でしかないのですが、上述した統計(最近信ぴょう性が揺らいでしまっていますが…)における平均値を上回ることはなかったようです。
 ただ「希望する給与(月収)」と「平均給与」は意味が違いますよね。例えばIyokiyehaさんは、現在39歳で妻と3人の子どもと暮らしていて、妻は週2日ほど仕事をしています。持ち家になった今転職を考えた場合と4年前賃貸に住んでいた頃に転職を試みた時とでは、希望する給与は異なるでしょう。友人で独身者のAさんや、所帯を持っていても子どもが一人ならまた異なる希望給与になるでしょう。家族状況だけじゃなくて、趣味の有無や、広く生活スタイルで、希望する給与額は大きく変わってくるでしょう。
 何が言いたいのかというと、「希望する給与」とはそれくらい個別性の高いものであるということです。その平均値をとることには、景気の推移を確認するなどの意味はあるのですが、個別の希望給与の参考になるかというと疑問があるわけです。
 それにも関わらず、再就職者の多くの割合の方が「月給20万円」というわけですよね。ここに何があるのか。ざっくりとした生活設計であってほしいです。好意的には。けれども、それ以外である可能性もあります。
 いろいろ考えられるのだけれども、就職活動においての要点は、やはり「自分にとって必要な額を希望給与として根拠をもって提示できるかどうか」です。自分の生活を知らない人(応募先、具体的にはその面接官)に対して、30秒くらいで「あぁなるほどね」と思ってもらえることと、求人票等で提示されている給与額と大きな差がないことが、採用する側の「納得感」になると思います。
 あたりまえのことですが、採用する側の理屈としては、
 1 求人票、求人情報は公開しています。
 2 応募してくるのなら、それらは確認しているよね?
 3 この条件でいいってことで、応募してきているよね?
 というのが「前提」です。ですから、面接練習なんかで「希望する条件はありますか?」という質問例があるのだけれども、これは人づての紹介で応募する場合や、求人が公開されていない場合、あるいはハイレベルな採用活動で「その人」に合わせた雇用条件を作っていく場合の質問であると考えるのが自然でしょう。「求人の給与は少し安いんだけど…希望で伝えてみます」ということを何度も聞きましたが、その「数万円の賃上げ交渉に、根拠はありますか?」
 この話題において、私はある人の一言が忘れられません。その方は、人生経験豊富であるにも関わらず誰にでも敬意をはらって接することができる人で、自分の置かれた状況を受け入れながら次の一歩を踏み出そうとしている方でした。
Q「条件はあまりよくないと思うのですけれども、生活は大丈夫ですか?」
A「これもご縁ですよ。ある分でやるしかないですよね。そういうものですよ。」
 うーん、納得するもしないもこれが本質だと、心底納得させられた一言でした。

 表層的な話題にしておきました。というのも、この話題、突き詰めれば「労働対価の算出」なんていう、経済学の本質に迫る内容になっていくので、あくまで一人の元職業カウンセラーの就職活動に対する向き合い方ということで。

2019年2月17日日曜日

働くことコラム05:採用活動から見た面接 -ニーズの有無

 例えば、あなたが自宅でのんびり過ごしている時に来客があったとします。その人が、

 「はじめまして。ちょっとお宅に上がらせてもらいたいのですが、いいですか?」
 と言ったとしたら、あなたはこの人を自宅に上げますか?お引き取り願いますか?

 もう一問。
 例えば、半年掃除せずに荒れてしまった自宅をあなたが掃除したいと思っている時に来客があったとします。その人が、
 「はじめまして。私は清掃業者の営業です。今閑散期で仕事が欲しいので、格安でお宅の掃除をします。いかがですか?」
 と言ったとしたら、あなたはこの人を自宅に上げますか?お引き取り願いますか?

 単純なニ択にしているので、答えを出しにくいかもしれません。ただ、多くの方は前者より後者の方が抵抗感は少ないと思います。いずれも「自宅には上げない」と回答した人に追加で「もし、どちらかを上げなければならない場合、どちらを選びますか?」という質問にすれば、ほとんどの方は後者を選ぶのではないでしょうか?
 では、その理由はどこにあるのでしょう?
 そんなに難しくないと思います。まずは自宅にいる「自分」が、何かを欲しているか否か。前者は特にニーズがない状況、むしろ来客は迷惑だと思う人もいるでしょう。後者には「部屋を掃除しなきゃ」と思っています。ここには「部屋をきれいにする」等のニーズがあります。
 次に、来客側がどんな人物であるか。前者は初対面だというだけの情報、どこの誰だかわからない。後者はとりあえず清掃を生業にしている(らしい)ことはわかる。世間一般的な「信用」というところで天秤にかければ、後者の方が情報がある(と思われる)分、信用度は高いといえます。
 このように要素を分解して比較することで、(1)自分が欲しているものを提供してくれる、(2)世間一般的な信用が若干高い、ことを理由に、家に上げてもらえる可能性は後者の方が高くなると思います。

 さて、前置きが長くなりましたが、企業の採用活動というのは、この立場を逆に考えることになります。もちろん、ヒューマンリソースの立場からもっと詳細でもっと高度な分析方法がある、ということは理解していますが、実際に労働市場に出た場合、その人の置かれた立場は飛び込み営業のそれと似たところがあります。
 就職活動の現場でいろんな人の話を聞いてきました。
 「私には、専門技能がないから雇ってもらえない」
 「こないだまで働いていて即戦力だから、すぐに採用されるよ」
 「同じ業界長いから大丈夫」
 いろんな意見があります。否定的に「自分は採用されない」と思いこんでいる人の多くは、戦う場所を間違えていることに起因することが多いですし、楽観的に「すぐに採用される」人の多くは、特定企業への就職活動における戦略を考えていないことが多かったです。だから、就職活動がくじ引きみたいになってしまう。就職率や応募者数に翻弄されてしまう。じゃあ、1人の採用枠に自分1人が応募したら必ず採用されるか?といったら、確かに採用されやすいけれども確実とはいえないでしょう。そんなこといったら、早いもの勝ちになってしまう。就職活動の戦略そのものが変わってしまいます。
 大切なのは、当該企業の置かれている状況や背景から、「採用活動はどんな立場で行っているのか」「どんな人を欲しているのか」を感じ取って、就職活動の方針をそれに合わせていくことが必要になってきます。
 例えば、公務員試験は(1)年度採用数が決まっている。「○人程度採用する」ことがあらかじめ決まっている。(2)任用方法は決まっている。(3)自治体にもよるが、基本的に要領がよく協調性のある人を欲している、わけですよね。いわゆる一般企業においては、定期採用か中途採用かで大きく変わります。新卒定期採用ならば、(1)年齢や卒業年の枠が当てはまるか。(2)可能性をどう評価してもらうか。(3)会社が欲している人材像に自分をどう当てはめていくか、といった点が重要ですよね。中途採用の場合は、(1)そもそも雇用「しなければいけない」状況なのか、「してもよい」状況なのか。(2)配置部署やプロジェクトが決まっているのならば、そこに必要な技能を持っているか、(3)新しい環境への適応をどう評価するか、といったところが要点になると思います。この場合の(1)は冒頭の質問のように、ニーズがあるのかないのか、と似たようなイメージですね。

 自宅に上がってもらうか、や、話を聞いてもらえるか、ということはこういったことと関係しているものと考えられます。企業に問い合わせて「求人出しているから」と言われて、訪問できたとしても、とても雇用する意志があるとは思えない企業もたくさんあります。
 一般的に言われていることや、根拠のない助言、過小評価によって戦略なき戦いを挑まないようにすることが、就職活動におけるPDCAになると思います。自己分析と併せて対象分析も怠らないこと。ただし、いずれも100%はありえないので、やるべきことをやってきちんとふりかえることによって精度を高めていくことが求められると思います。

森岡正博『生命観を問いなおす ――エコロジーから脳死まで』筑摩書房(ちくま新書)、1994年。

・大学院生の時に、ある授業(倫理学特講、だったかな…?)で本著と出会い、その後の人生が方向づけられたと言っても過言ではないほどの衝撃があった一冊。私にとっては分岐点とも言える思い出の一冊。
・「生命」の考え方、捉え方について、明確かつ本質的(と思える)問いを発している。著者の提唱する「生命学」が拓く内容。
・「他の生命を犠牲にしたり、利用したり、搾取することもまた、「生命」の重要な本質であるということ」(199ページ)「社会システム、科学技術との『共犯関係』」(198ページ)といった、生命学を構成するキーワードが出現する。
・本著だけでも大変読み応えがあるものであるが、それまでの著書を含む今後の論文へとつながっていく一冊といえる。
・本著後半の梅原批判について、学生の頃は率直に「ここまでやらんでも…」と否定的に感じていたこともあった。今回同箇所を読んだ時には、この後の生命学の展開には必要不可欠な作業であり、さらに梅原論の弱点を突きつつもその補完をすることで、生命の本性を浮き彫りにしていることがはっきり読み取れた。論理の力を感じるとともに、見事な着眼点とその表現力を見せつけられた感じがあった。
・エコロジーや脳死および人体利用について、事例は若干古くなっているが、論理展開に全く問題はなく、むしろ関連した情報を追っていない人にとっては「わかりやすい」内容になっているように思う。

(以下、引用)
8ページ:現代の危機をひきおこした最大の原因は、私たち自身の内部にこっそりとひそむ、生命の欲望なのです。ですから、現代の生命と自然の問題に立ち向かうということは、実は、私たち自身の内部にひそむ本性と戦うことなのです。
124ページ:生命を抑圧してゆく権力装置は、外側の社会システムにあるのではない。それは生命としていまここで生きている私自身の内部にひそんでいるのだ。生命として生きてゆくということは、他の生命と助け合い、調和して生きてゆくことであると同時に、他の生命を抑圧し、それに暴力をふるい、それを支配しながら生きてゆくことなのだ。生命を抑圧する原理は、生命の内部にこそ巣食っている。(略)死すべしロマン主義。
176ページ:いくら「菩薩行」にもとづいていたとしても、それが<人間の身体の「部品視」「物質視」を前提として運営される社会システム>を補強する結果に終わるならば、それに反対するべきという立場が可能だと思います。
203ページ:生命の探求は、まずこの三つの本性(「連なりの本性」「自己利益の本性」「ささえの本性」202ページより)のありかをしっかりと見届け、現代の人間がこれら三つのうちどの本性からも逃れることができないということを、しっかりと自覚することから始めなければなりません。
 そのうえで、現代の科学技術文明と、現代の社会システムが、これらの本性の満足に対しどのような形で食い込んできているのかを確認することが必要です。
204ページ:そのなか(近代がもたらした科学技術文明と、産業文明と、近代市民社会システムの枠内で生活していくこと)で、現代の生命や自然の問題群にどう取り組んでゆけばよいかについて、具体的な提言を行ってゆくこと。
同ページ:そのあとには、「共生」とはそもそも一体何をすることなのか、「自然と技術」の関係はどのようになっているのか、科学技術は人間の「苦しみ」と「快楽」に何をもたらそうとしているのか、生命を「所有」するとはどういうことなのかといった。生命学の根本問題が数限りなく控えています。

山口謠司『語彙力がないまま社会人になってしまった人へ』ワニブックス、2017年。

・書誌学、音韻学、文献学の先生による言葉の勉強。
・聞いたことがあるけれども、これまで使ったことがない、使えない、51の言葉を語源やその変化を含めて解説している。
・確かに、年長者や、知的な諸先輩方が使っているのを聞いたことがある言葉が並ぶ。「何となく」聞いて、「何となく」意味を推測していたものが多い。もちろん知っている言葉(仰るとおり、乖離など)もあれば、何となく推測していた言葉(慶賀、汎用など)、全く知らなかった言葉(惹起、偏頗など)など様々である。
・そういう書籍なので、一回読んだところで51語すべては身につかないですが、何度も確認して使いこなしたいものです。

(引用)
6ページ:言葉を大事にすることは、人を大切にすることにつながります。そして言葉は人の美しさ、人の凛々しさを外に示すための大事な「化粧」でもあります。

2019年2月11日月曜日

働くことコラム04:就職活動って何だ?

Q「そろそろ、就職活動を始めようと思うのですが・・・」
A「じゃあ、まず応募書類作ろうか」
Q「えっ・・・」
 さて、求職活動編です。
 上記やりとりは、前の職場で雇用支援に携わっていた時に、求職者とのやりとりでよく起こったものでした。大体この後、「宿題」を課していくのですが、ここには多くの求職者の認識と、支援者との認識の間にずれを感じます。
 支援者の中にもいろんな人がいて、いい求人が出てきた段階で突貫で応募書類を作らせる人、訓練の成果を待って応募書類を作らせる人など様々でした。そうした人たちからすれば、私の方法は随分急で無駄な作業であるように写ったようです。
 自分の4年前の転職活動がまさに「自己分析の積み重ね」だったので、こんなやり方をずっとやってきたのですが、具体的に言えば「職務経歴書はフォームを埋めてから、何度も修正するもの」ということです。履歴書はしょうがない、志望動機と通勤時間の欄以外はほとんど変わらないのですが、職務経歴書は就職活動の戦略を反映させられる唯一の書類です。土台となる内容と応募する会社によって内容や表現を組み替えることが求められますし、それを可能にするのは一度や二度では足りない「自己分析」です。
 そこで自分を分析するツールが必要になります。よっぽど機知に富んだ人でないと頭の中で自己分析をすることは難しいので、自分のことを書き出して、時間をおいて眺めながら少しずつ深めていく過程をたどることになります。本屋さんに行けば、この助けとなる書籍はたくさん見つかります。それらも有効だと思いますが、私が自分の転職活動の時に使ったのは、ハローワークインターネットサービスの「履歴書・職務経歴書の書き方」です。
 https://www.hellowork.go.jp/member/career_doc01.html
(WEB:ハローワークインターネットサービス)
 無料で、必要事項が網羅されているので、書類作成に一週間程度時間的余裕がある人にはおすすめのツールです。ある業界や業種に特化したものではないので、あくまでも「自分を棚卸しする」ツールとして推薦します。

Q「自己分析ってどうやるんですか?」
A「自分に対するいろんな・あらゆる質問に答えてみること。そして時間をかけて、その回答を磨き上げていくことです」
Q「どれくらいやればいいんですか?」
A「自己分析に終わりはありません。就職活動の応募毎に区切りがやってくるだけです。」

 こういう質問集が役に立つと思います。
○鈴木俊士『公務員試験・自己PR・志望理由がらくらくかけちゃう質問150』
 多分、この手の就職本は本屋さんに行ったらいろいろあると思います。上記の本は、私が転職活動した時に使ったものです。新卒者向けの内容なので、少しアレンジが必要でしたが、これに掲載されている質問をバカ正直に、何度も何度も書き直してみました。この書類が上記「履歴書・職務経歴書の書き方」を使うための材料になりました。自分の就職活動と併せて、前職で自分がアレンジした質問集をツールにして20人くらいに勧めました。バカ正直にやった人は、書類の質が二段階くらい上がったように思います。ほんの数人でしたが…

 就職活動って、こういうものを使って何度も何度も自己分析していくことと、同じように応募先のことを調べていく。自己分析と企業(団体)分析とが両輪になって、応募書類はその真ん中で出来上がってきます。就職を考える15歳以上の人について、応募書類に書くことは「ある」わけです。なぜならば、自分と会社の間で書類は出来上がるんですから。何もない会社が世の中に存在しないように、それまで寝たきりで意識のない人以外は何もない人はいないわけです。ただし、自分の何をどのように表現するか・できるかというのは、就職活動の技能となるわけです。
 よって、
Q「就職活動って何をやるんですか?」
A「自己分析と企業分析を通じて、応募書類を作っていくことです」
 という回答になるわけですね。いやぁ、わかりやすい!って思っているんですが、どうでしょうか?

稲田将人『戦略参謀 ー経営プロフェッショナルの教科書ー』ダイヤモンド社、2013年。

・小説で「経営企画」のイメージができる。主に戦略に特化した内容で、小説をそのまま実践に当てはめられるものではないが、要点が「解説」としてまとめられており、この中には実践的な考え方が示されている。
・大切なことはPDCAの精度を高め、高速で回すこと。社員のやる気を引き出し、社会への貢献まで見据えること、人の業に振り回されないようにすること。自分を高めることが、まわりまわって社会へ貢献することになるという単純なメッセージが響く。
・学ぶことは多いが、単純に読み物としてもおもしろい。AudioBookもおすすめです(audiobook.jpで販売中)

(以下引用)
48ページ:それまで一人がやってきた仕事を二人以上の分業で行うために、仕事の責任範囲を明確にしなければいけないという必然性から作られるのが組織なのだ。
53ページ:(略)『考える』というのは、まず現状を的確に把握する。そして、その中での重要な意味合いを明確にする。(略)それを仮説として、次の商品を開発する。そして、その結果を見て、そのキーワードをさらに磨きあげる。あるいはさらに新しいキーワードを見出して商品化する。(略)仮説と検討(略)これを繰り返すのだ。これは本質的に学習という行為になり、企画の精度を高めることにつながる。
62ページ:「戦略は実践されて、はじめて価値がある」(略)実際に成否を分けたのは、①その戦略的な方向性に沿った実践力と、②素早く的確な方向修正能力の二つ(略)
66ページ:全ての施策の成功には、成功の前提があるので、市場が変われば当たる要因も当然ながら変わってきます。成功に向けた因果を踏まれていない打ち手は上手くいきません。
68ページ:規模はある程度大きくなってからの二度目以降の成長軌道入れ、個人の力だけでなく、組織の力を発揮させることが大前提になります。(略)
 どんなに分業を進めたとしても、最後の最後まで社長に残る役目があります。それは、リーダーシップの発揮という重要な役目です。
94ページ:この手の資料の書き方は、実は、ある程度の規模を超えた企業が正しくPDCAを回すために必要な技術のことなんだ。PDCAは状況に応じた修正行動をとるための基本動作でもあり、企業にとっての学習行動だ。PDCAを回せない会社は学習できない。つまり企業の能力が高まっていかないといっても過言ではない。
112ページ?:正しい問題解決のための思考ステップ
①現状把握:挑戦を行わなければいけない必然性がある。まず今どうなっているのかを明確にする。
②真因の追求:問題点の本質的なものを明確にする。
③解の方向性:真因が腹に落ちれば、決まってくるもの。
④具体策の比較検討:実行に当たり、具体策を比較検討し、どれが一番最適な方法か評価する。
⑤実行計画の明示:どういうスケジュールで進めるか。
135ページ他:「人、性善なれど、性怠惰なり」
240ページ:慈悲と怒り、この二つの要素が人を導いていく制度の中には必要ということだ。そして、そこにいる人間の欲望がエネルギーとしてベースにあるというわけだ。
254ページ:企業は、働く者がそこで力を高め、自身の力を発揮して事業に貢献し、そして企業が市場に貢献する。結果としてその存在自体が意義のある会社として発展していく。(略)市場も企業も、そしてそこで働く者も皆が幸せになれるからだ。
255ページ:世の中に足跡を残してきたのは、保身に走った人たちではなく、道を開こうとあがいた人たちだ。
366ページ:企業の活動を「市場や世の中で、その事業活動が生み出す価値によって貢献し、永続的な発展を目指す」と定義してみます。すると、企業における「悪」はその健全な活動を阻むもの、といえます。

2019年2月2日土曜日

働くことコラム03:求人の見方

 前回、「事務職はパソコンに向かう仕事じゃないぜ」って話を書いたので、就職活動の話へ進む前に、ちょっと寄り道。

 「事務職」って聞いて、どんな仕事を思い浮かべますか?
 関連して、
 「軽作業」って聞いて、どんな仕事を思い浮かべますか?

 職場によってこんなに内容が異なる言葉も珍しい。ただ、企業としてはこう書かざるを得ないから、こういう表現になっているのだろうし、こういう表現でしか募集できないから、職業紹介業務が人の仕事としてあり続けるのだと思います。
 確かに「事務職」って聞いたら、オフィスの中でパソコンに向かっているイメージでしょう。それは間違っていない。ただ、そこで行われている処理は、「その会社の維持に必要なことを分業している」に過ぎないわけです。何が言いたいのかというと、その会社なり組織を「維持するための仕事」がわからなければ、そこで行われているパソコン作業は「データの入出力」でしかないわけです。そしてその作業を表す求人票上の文言は、正しくは「事務補助」や「データ入力」です。業界用語で「キーパンチ」なんて呼ばれることもあります。手書きのメモをデータ化する、リストのデータを定められたフォームに入力する、これらは「事務補助」か「データ入力」業務として表記されるべきでしょう。
 さらに踏み込むと、その会社で扱っているものやサービスによっても意味が変わってくるものがあります。もちろん事務職、事務補助、データ入力などもその企業や組織の在り方によって、内容は異なります。この点では「軽作業」の方が特徴が出やすい。
 以前、こんな相談がありました。
 「『軽作業』って書いてあったのに、扱う荷物には重いものもあるので、また腰をやっちゃったんです。『話が違う』って言ったんですが、とりあってくれなくて…それで、もう無理、と思って辞めました。」
 Q「その会社って、何を扱っていたの?」
 「運送会社だったんで、いろいろありました。」
 Q「…」
 私は雇用問題には敏感だと思っていますが、これは相談者の誤読と、紹介相談や面接で何を聞いたのか、どんな助言をしたのか・しなかったのか、ということがとても気になりました。
 「軽作業」で求人を出している会社の扱っているものが、小物やアクセサリーなら、きっと細かい作業になりそうですよね。でも、運送会社で、扱うものがメール便(古いか!)と限定されていなければ、重量物を扱うなんてことは、容易に想像がつくでしょう。そもそも、就職活動の時に確認すべきだし、診断がつくような腰痛もちならば、そのことは応募書類に記載するかどうかは別として面接の話題にはしてもいいんじゃないかな。

 私の職歴には、そんなにまずい職場はありませんでした。聞く話によればしょうもない会社もいい会社もいくらでもあるようですが、ちょっと立ち止まって考えた時に、そもそも自分の期待を押し付けていたりしていないだろうかと、謙虚に振り返ることも大切じゃないのかな。私みたいに「(人事と評価は人がするものだから)事務職採用ですから、何でもやりますよ。」っていうのでなければ、ですが。

森岡正博『意識通信』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2002年。(初出:筑摩書房、1993年)

・現代の科学技術によって変わっていく、人と人とのコミュニケーションについて、それまでの形態の分析から「匿名性」「断片人格」「自己演出」を抽出し、制限メディアにおいてこれらがどのように表出するか説明する。
・情報を伝達するための「情報通信」に対する概念として、コミュニケーション(おしゃべり・交流)そのものに意味があることを指摘する。後者を「意識通信」として位置づけ、その特徴と生み出されるものについて論じている。
・人と人とのコミュニケーションについて、どのように関わっていくのか(倫理的な課題)と、変容するコミュニケーションがもたらすもの(文明的な課題)とを考察する。
・インターネットが普及するより前に、今のインターネットの姿と、いわゆる「意識通信」によってもたらされているものについて、1993年の時点で予測している(Netscape発売やYahoo!登場が1994年とされている)。この鋭い指摘と未来予想とが、本著の特徴だろう。一世代前から当時の通信方法を丁寧に調べあげ、その特徴をコミュニケーション論の視点からモデル化(意識交流モデル)する。これを土台に「ドリーム・ナヴィゲイダー」を創造したことについて、著者が当時20〜30年先の世界(今)を読み説いていたものといえる。

(以下引用)
24ページ:「匿名性」「断片人格」「自己演出」という三つの性質は、もちろん現実世界の人間関係の中にも存在する。しかし、それらが本格的に開花するのは、むしろ電話のような「制限メディア」の中での人間関係だと私は思う。
49ページ:匿名性が生き残る理由は二つある。ひとつは、人間が電話やパソコン通信などの制限メディアを使うことのこころよさ、楽しさ、面白さ、くつろぎ、魔力を知ってしまったからである。もうひとつは、それらの制限メディアの利用を通じて、もうひとつの虚構の世界に、もうひとりの私となって参加し、コミュニケーションをする快感に目覚めてしまったからである。人間がこれらの快感を手放すわけがない。
56ページ:究極の電子架空世界(は)(中略)この現実世界で実現することが困難だったり不可能だったりする様々な欲望が、人工的にかなえられるユートピアなのである。
同:しかしそのようなユートピアは、決して人間を幸福にはしないだろう。というのも、多くの人間のこころの奥底には、「自分の力ではコントロールできないものに出会うことによって自分を変容させたい」「自分の力を超えた存在者に出会うことによって救済されたい」という、もう一つの本性があるからだ。人間のコントロール欲望をどこまでも追求する架空世界の住人たちは、自分たちの内面に潜むこの本性を徹底して抑圧することになり、<快楽は得られても幸福は得られない>という不毛の病理に陥ることになる。(生命学の視点・無痛文明)
116ページ:(意識通信は)コミュニケーションのための「場」が成立し、その場は参加者たちのこころを包み込んだまま徐々に変容してゆく。このような「場の形成」と「場の変容」こそ、意識通信の本質で(ある)。(レヴィン「生活空間(フィールド・セオリー)
132ページ:意識が他者の人格へと流入し、混ざり合うことによって、他者の人格の形態は変化し、同時にそのリアクションによって私の人格の形態もまた変化する。意識通信の本質である人格の形態の変化は、交流人格の触手の触れ合いと、お互いの意識の交流によってもたらされる。
174ページ:社会の無意識が、活性化して我々のコミュニケーションに介入しているような状態の「意識交流場」のことを、我々は「社会の夢」と呼んでいいではないか。
(あとがき)
241ページ:人間が生み出したテクノロジーが、人間と社会それ自身をどのように変容させてゆくのかという問題意識である。あるいはそのようなテクノロジー環境のもとで、人と人とがどのようにコミュニケーションし、関わってゆけばよいかという問題意識である。そしてそれらは、人間の存在をさらに深いところで支えている「生命」や「自然」や「文明の深層」へのまなざしを要求する。
245ページ:「意識通信」で重要となるのは、心の癒しであり、意識の変容であり、社会全体の夢の活性化であり、ドリーム・ナヴィゲイターの誕生である。
248ページ:電子メディアが社会全体に浸透するようになったら、これば、われわれの集合的な無意識と密接な相互交流をすることになるはずだ。

2019年1月26日土曜日

リンクを更新しました。

最近のWeb閲覧は、「検索」と「オススメ」ですから、リンク集なんて誰も使っていないとは思いますが。
いまさらですが、リンク集を整理・更新しました。
あんまりWeb閲覧しないから、リンク先は減りましたね。
念のためのお知らせでした。

働くことコラム02:資格とは

 職業訓練を通じて就職を目指すことをイメージしている人に、
 Q「職業訓練でどんなことを学びたいですか?」
 と質問すると、その多くから、
 A「資格をとって就職したいです。」
 との回答が聞かれた。
 Q「どんな資格?」
 A「就職に役立つパソコン系の・・・」
 といったやりとりである。
 求人の数で多いのが事務系だから、事務系での就職をイメージして、これまで勉強したことがないからパソコンスキルを身につけ、資格欄に書ける資格取得のための勉強をする。勉強意欲そのものを批判するつもりはないが、現状認識が間違っていると思ってきたし、ある期を境にこのことは直接語ってきた。
 私が考えていることは、大体以下の通りである。
(1)資格には2種類ある。自分の実力を証明するものと、専門職に就くための切符になるもの。
(2)資格取得だけでは就職活動を勝ち抜けない。
(3)事務職=パソコンで仕事するわけではない。
 もう少し補足すると、まず、資格そのものの位置づけが「就職できるもの」ではない(1)(2)。百歩譲って「就職に有利になる」ものにはなりうるし、世の中にはある特定の職種について、その基礎資格がなければそもそも就職できないというものがある。例えば、学校教員であれば教員免許が必要だし、福祉専門職なら社会福祉士や精神保健福祉士が必須という職場がある。そういう類の資格であったとしても、資格は「自分の実力を証明するもの」であり、勉強の成果を証明するものである。資格の種類や就職先の業務内容によって、就職が有利になる可能性はあるが、資格取得をもって就職できるとは期待しない方がいい。
 もう一つ加えておくと、特にパソコンに関する資格(様々であるが、MOSやパソコン検定などをイメージ)について、資格を有していることが事務職の就職活動に与える影響は大きくないことである(3)。わかりやすく言えば、事務職に就きたいならパソコン以外のことをちゃんとやらなきゃいけませんよ、ということである。前回の「生活リズム」はいうまでもなく基盤になる。事務職で求められることは、ルーチン作業は正確に素早く処理できること、他の人の仕事の指示の意図をくみ取って正確に作業できること、次々と持ち込まれる作業指示を自分なりに整理して漏れなく・間違いなく行うことができる、といったどちらかというと理解力や遂行機能を発揮する業務といえる。その仕事を助けるという意味ではパソコンは大きな武器であるが、必須スキルかと問われると一部の職場をのぞいては「そうでもないよね」と言うのが多くの職業人の認識であろう。現場第一線で活躍している人の中に、パソコンの資格を持っている人もいるけれど、それよりも必要なスキルを必要な時に身に着けている人がほとんどだろう。
 若い人の親御さんが「パソコンの資格があれば事務系で就職できる」と思いこんで、子どもに吹き込んでその気にさせてしまっていることが目立った。はっきり言って百害あって一理もないし、それにとらわれて他の人の助言が聞こえなくなってしまっている人もいた。間違った情報をあたかも正しい情報であると信じ込んで、検討違いの努力に時間を費やすことになってしまったことの責任はどこにあるのか。一義的には本人であるが、それを行動にまで落とし込んで修正しない大人にも責任はあるんじゃないか?
 職業訓練に関わっていた頃、私は事務系訓練の指導員の先生方に
 「Wordの資格要らんから、Excelだけやって、後はビジネススキルとか簿記の訓練やってよ」
 と提案したことがある。回答は様々で、よく協議して一部のプログラムを修正してくれた先生はいたが、大体は、
 「Wordから入った方が進めやすいんだよ」
 「何か見える成果(資格)がないと」
といった理由で、数ヶ月かけてWordやるんだよね。就職直結しない資格だって、みんな肌感覚ではわかっているはずなのに・・・
 前回と同じ事例ですが、個人的に就職の応援をした40代後半女性は、経理関係の職業訓練を受けて、簿記2級は不合格でした。それでも、就職は決めて働きはじめています。資格の有無じゃないっていうことの一つの証明になるような気がしますけれども、どうでしょうか。

2019年1月20日日曜日

牧田善二『医者が教える食事術 最強の教科書』ダイヤモンド社、2017年。

・エビデンスに基づく食事法をコラム方式で紹介する。
・糖尿病専門医として長年研究と臨床を重ねてきた著者が、最新の知見に基づき、普段の食生活で意識しておきたいことをまとめている。
・どの項目も参考となるが、新鮮なものを、適量食べること。糖類(炭水化物を含む)の摂取には気を遣い、血糖値の急激な上昇をいかに抑えるか、ということが日中のパフォーマンスに大きく影響するとともに、肥満の解消、腎臓機能の維持・向上に影響する。中長期的には身体の健康状態に大きな差がでてくる、というもの。
・野菜と豆類を多くとること、よく噛むこと、脂質・アルコールは積極的に食べていいこと等、これまでにも言われてきたことに加え、肥満の原因は糖質にあり脂質ではないなど、最新の知見が存分に盛り込まれている。
・食生活から、生活全体の見直しの一助になる一冊。

2019/1/20読了

森岡正博『増補決定版 脳死の人 -生命学の視点から』法藏館、2000年(初版:東京書籍、1989年)

・著者が「もっとも『よい』本」と評する主著の1つ。初版は出版から30年ほど経つが、法制度は変わっていても、その考え方や主張は全く色あせていない。
・脳死者からの臓器移植(提供)を巡る諸問題を「人と人とのかかわりあいの問題」であると定義し、医学的な議論を超えた論点を提出している。その上で、かかわる人たちすべてが納得する必要を説き、そのための提案が展開される。
・具体案としては、医師と患者の信頼関係の構築や情報公開などがあげられている。この点においてはやや広がりがみられるが、全体の論の展開は大変明確である。
・人にとっての脳死が、一人称、二人称、三人称の立場に違いにより理解や納得の内容が異なることを指摘していることが興味深い。同様に死の定義も異なってくる。このことには、ある「脳死」にかかわるすべての人の意思が尊重されるべきである。ごくあたりまえのことだが、このあたりまえのことが黙殺されてしまいがちな社会に向けた危惧が、後に浮き彫りになる「生命学」の芽といえる。

(以下引用)
ⅰ:脳死の本質とは、その社会における「人と人との関わり方」の問題だからであり、さらには、臓器移植を可能にした現代の科学文明のあり方をどう考えるかという問題だからである。
9ページ:「脳の働きが止まった人」を中心とした、このような人と人との人間関係の「場」のことを、私は「脳死」と呼びたいのです。
19ページ:脳死の人をめぐる人と人との関わり合いの、最低限の礼儀作法を、私たちの社会がまだ共有していないために、さまざまな倫理問題が生じているのです。(略)脳死の倫理問題とは、脳死の人と私たちの「共生」をいかにして確立するかという問題です。
100ページ:脳死身体の利用が許されるのは、(1)他に「代用可能性」がなく、(2)かつ身体にとくに「侵襲」がない、という二つの条件が満たされたときだけです。
112ページ:「利用」とは、まさに「ひと」が「ひとでなし」の身体を利用することを意味しています。
125ページ:(1)脳死が人の死であるかどうか。(2)脳死が親しい他者の死であるかどうか。(3)脳死が見知らぬ他者の死であるかどうか。そしてこれら三つの問いが、そもそもまったく性質の異なった問いだということを、私たちはもっと自覚する必要があります。(略)一人称の問い、二人称の問い、三人称の問いと名づけてもよいでしょう。
157ページ:「かけがえのなさ」を大事にすることが、じつは看護の本質なのではないかと私は考えています。※「かけがえのなさ」=他のものに決して置き換えることのできないもののこと
159ページ:脳死の人からの心臓移植の場面で「かけがえのないもの」はレシピエントのいのちだけではありません。脳死の人と取り巻く親しい人々や家族の人間関係そのものも、「かけがえのないもの」のひとつではないでしょうか。
163ページ:大事なのは、人は傍観者にも当事者にもなりうるという点です。
165ページ:傍観者の科学だけではなく、当事者の科学というものがありうるのではないだろうか。

(2019/1/18読了)

働くことコラム01:やっぱり生活リズム

 一応、前職では「働くこと」の支援をしてきたので、いわゆる「就職本」にはあまり書いていない、働くことに関することを少しずつまとめておこうと思います。ラベルは「働くコラム」。雇用支援をやってきた経験と、30代半ばを過ぎて転職したある中年男性の雑感だと思ってください。

 いろんな人の就職活動をしてきて、
 「働くために必要なことは何ですか?」
  と何度も質問されました。その都度、
 「何だと思いますか?」
 と質問し返していました。
 この質問に自分なりに考えて何か発言するか、そうでないかで随分「ふるい」になると思います。
 ポイントは、その人に職歴があるならば「自分で考えることができる」かどうか、あるいは「経験を振り返る気がある」かどうか、職歴がなければ「自分で考える気がある」かどうか、というあたりです。
 もちろん、その人なりの回答が得られれば、それを起点に相談は継続していましたが、私なりの一応の解答は「(少なくとも)自分の生活が整っていること」となります。具体的には、朝起きて、食事をとることができて、日中何らかの生活をして、夜床に就くことができること、です。起きて、活動して、回復する、のサイクルがその人なりにできていることを評価していました。
 できているかどうかは別として。単純なことだと私は思っていますが、「働く」ことって、自分の生活リズムに「働く時間」が入り込んでくることです。スケジュール帳で一日の時間帯を記入できるものを使っている人はイメージしやすいと思いますが、自分の生活を帯状に記録しているところに「仕事」っていう項目が日中ど真ん中にでーんと入ってくるのが就職するっていうことです。だから、それを入れ込んでも生活が成立するかどうか、今やっていることを「仕事」に置き換えられるかどうか、ここが「働くために必要なこと」の根っこだと思います。
 この点についてよくある落とし穴は、就寝・起床リズムが狂っているのに「仕事が決まれば起きれます」と言い張っている人が、結局夜の習慣(ゲームやWeb関係)から抜け出せないとか、平日仕事後に「どうしても欠かせない趣味(いろいろありましたが、半分以上はゲームやWebだったな)」を入れ込んで眠れなくなる、生活予想の段階で日中に「仕事」を入れたら一日が24時間では足りなくなる(そもそも生活リズムが成立しない)といったことがありました。
 最近、個人的に就職の応援をした40代後半女性は、無職になってからも、朝は7時までに家で生活する程度の身支度は整え、家事をして、日中は勉強するという生活をしていたようです。先日会った時に「せめて朝だけは起きるようにしておかないといけないと思って・・・」と言っていましたが、その通りだと思いました。

2019年1月14日月曜日

2018年総括と2019年の抱負

 2018年は、いろんな立場で「広がり」を感じる一年でした。
 家庭と仕事だけじゃなくて、ここに一昨年度から始めた合気道が加わっていて、ようやく慣れた頃に子ども通う学校のPTA活動に参加する機会を得るに至りました。まさに、計画外!面白いことは続くものです。

 一年前に立てた目標は、
1.加齢に伴う身体機能の変化および認知症に関することを、きちんと学ぶこと。
2.障害福祉関連法規および制度を概括できるように学ぶこと。
3.上期に世界史、下期に日本史を通読すること。

 まだまだ真面目だったな、自分。
 簡単に振り返っていくと、1.認知症に関する勉強は継続中です。ただ、今は母親の状態に合わせて、認知症というよりも「加齢に伴う老化全体」に視点が移りつつあります。母親は境界性だったとしても認知症の診断には至っていないし、状態を狭くとらえる必要はないので。あくまで別居家族であることを意識しつつ、母親の行動はなるべく笑って受け止め、一方で普段一緒に生活している家族の愚痴でも何でも受け止めていこうと思うに至っています。今年も学びを継続。
 2.この点は残念ながら60点。仕事はあまり身が入らない一年でした。膨大だからこそコツコツやらないといけないのにね。雑務が多すぎることに不満を持ちすぎてしまい、自分の根っこの方で意欲低下が起こっているのが原因のように思います。継続、というよりも何か違う学び方を考えたいものです。
 3.教養については後述。ちなみに歴史の通読はできなかった。
目標を無視したわけではないのだけど、家族のこと以外は目的のない目標だったからあまり意識していなかったのも事実。この点は素直に反省しようと思います。

 ただし、目標が意識できなかった、達成しなかったことで、一年が不満だったかというとそうでもなくて、冒頭の表現にも表れているように、基本的には充実した一年でした。
 「広がり」のそれぞれについて、踏み込み方の評価は周囲の人に任せるとしても、自分なりに挑戦することによって、今までにないいろんな人との接点ができ、その中で知ることのできた新しい考え方やものの見方については、新鮮な驚きと謙虚に学ぶ姿勢を得ることができました。
 また、合気道を中心に身体づくりに注力したことによって、身体機能の変化を感じつつあります。動作の組み合わせで合気道の技が成り立っていることがわかってきて、姿勢の取り方一つで技の効きが全く異なることを感じられるようになってきました。パッケージ(とあえて表現する)としての合気道の奥深さに触れることができつつあり、自分で自分の身体を試す環境ができたことには感謝しか思いつかない。
 これに加えて、生活習慣(特に食習慣、睡眠週間)を見直すことによって、朝方リズムと読書習慣が得られそうなところまできました。この目的としては、とりあえず「一般書50冊、小説50冊」の4年以内達成であるが、その土台が少しずつできつつあります。また、このブログの更新が疎かになってきた頃から始めた日記の習慣化など、形になりきっていない取り組みが進められていることの充実感は得られた一年だったかと思います。

 そんなところで始まった2019年です。今年の目標はこんな感じにしておこうと思います。
1.「広がる」ことには積極的に関わる。
2.読書の継続。
3.実家との関わりを絶やさない。学んで関わる。
4.身体を鍛え続ける。
 「学び続ける」ことを目標にします。そのための習慣化がポイントです。具体的には、今取り組みつつある朝方リズムの継続・深化、読書テーマをだんだん設定していくことかと思います。今の読み方は「専門書(とりあえず森岡正博「生命学」を最初から読み直す)」「一般書(ビジネス書含む」「小説」の三種類に分けて読み進めていきます。1年で各15冊くらいいけるといいな。そして「鍛え続ける」ことについては、合気道で一般4級の目途をつけること、普段の目標としては木剣を年間15,000回くらい振ってみよう(40回/日×365日=14,600回)と思います。

 以上、2018年のふりかえりと2019年の抱負でした。

2019年1月12日土曜日

書籍メモをアップしました。

あけましておめでとうございます。
半年以上更新がご無沙汰になっていました。大変失礼しました。
近日中に去年の総括と今年の抱負をアップします。

その中でも少し書きますが、生活習慣の改造に伴い、ベタに日記をつけるようになりました。今の形式になって2か月弱くらいになるので、今の形で概ね習慣化されそうですが、手書きが思うことを書き綴っています。なので、これまでよりももう少し深い内容でBlogを更新できると思いますが、投稿は少し時間がかかるかもしれません。いや、蓋を開けたら案外早いかもしれませんが、どうなるか。。。
いずれにせよ、このBlogは閉鎖しませんので、時々遊びに来てくれる方おられるようであれば、細々と末永くお付き合いいただければうれしいです。

ちなみにIyokiyehaの正月は、明けて帰省。帰宅してインフルエンザ。今に至る。
ということで、実は1月はまだ出勤していません(笑泣)。
開き直って長いお休みいただきました。来週から復活しますので、今後ともよろしくお願いします~

喜多川泰『「手紙屋」-僕の就職活動を変えた十通の手紙』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2007年。

・就職活動に悩む西山諒太(にしやま・りょうた)が、偶然目にする「手紙屋」。彼との10通の手紙のやりとりを描く。10回の文通により、諒太は成長する社会人としての心構えを学んでいく。
・読み物としても大変面白い。AudioBookがきっかけで手にした本である。もっと早く出会いたかった。
18ページ:あなたの能力は、今日あなたの行動によって、開花されるのを待っています。
37ページ:欲しいものを手に入れる方法の基本は「物々交換」。
60ページ:出会った人すべてをあなたの味方にする魔法の方法を教えようと思います。それは…相手にこうなってほしいという『称号』を与えてしまうのです。
63ページ:「相手を変えることはできない」「すべての人にあらゆる性格が備わっている」このことがわかれば、あと必要なのは、あなたが相手の持っている性格の中で欲しいものを引き出してあげる存在になることなのです。そして、相手の性格を引き出してあげる方法が、称号を与えるということなのです。
83ページ:「天は自ら助くる者を助く」
92ページ:「倒れなかった者が強いんじゃなくて、倒れても立ち上がる者が本当に強いんだよ」
104ページ:自分が手に入れたいものに対して、反対の皿に載せている違っていたり、足りていなかったりするにもかかわらず、それが手に入ってしまうことが、人生の中には何度かある。それこそが「本当のピンチ」なんです。
118ページ:法人の存在意義「多くの人から必要とされること」働くことはそのための手段
132ページ:ある仕事が自分に向いているかどうかは、やってみなければわかりません。
169ページ:「しっかりとしたゴールを持ち、常にそのゴールを忘れない」(中略)それ以上に大切なことがあるのです。
211ページ:習慣化:行動の結果何が起こるのかはわかりません。しかし、その結果が好ましいかどうかよりも、行動するということのほうがはるかに意味があると私は思うのです。そうやって行動し続けるものは、動き続けようとする。その動きを止めようと思っても、よほど力をつかわないとその動きを止めることはできないわけですから。「転がる石に苔はつかない」動き続けているものに埃がかぶることはないのです。
227ページ:才能とはあらかじめあるものではなく、自らの努力で開花させるものです。そして、才能を開花させるものは、開花させようとする「情熱」なのです。(中略)「失敗した人は才能を理由に挙げる。成功した人は情熱を理由に挙げる」

 私は、学生時代の就職活動に関して、かなり凝り固まっていた。それでも我を通して働き続けて学んだことはある。その中のいくつかは、本書で見事な表現でもって語られている。特に上記引用部分は目からウロコが落ちる思いがした。
(H31.1.10)

佐藤義典『白いネコは何をくれた?』フォレスト出版、2008年。

・戦略BASiCSを広める、ストラテジ&タクティクス社の佐藤氏による小説。日向実直(ひなた・さねなお)とその仲間の成長を描く。
・成長のきっかけは、軍神上杉謙信と思われ(?)る猫のボロ。ボロが語る戦略論BASiCSが話の中核となる。
・自分の転職時に聞いていたAudioBook。きっかけは全く偶然だったが、自己分析にBASiCSを使ってみた経緯があり、個人的に大変思い入れのある一冊。
15ページ:(戦略とは)目的を達成するにあたっての、大きな考え方・道筋です。(中略)「戦略」は、業界などに関わらず共通します。
19ページ:戦略BASiCSは、戦略の5理論を統合し、5要素間の関連性・一貫性を考えながら会社の商品の、自分の戦略を考えていくツールです。
188ページ:「私は私」自信に満ちた声が部屋中に響き渡った。
(H31.1.9読了)

百田尚樹『永遠の0(ゼロ)』講談社文庫、2009年。(初版:太田出版、2006年。)

・第二次世界大戦の終戦直前に、神風特攻隊として戦死した宮部久蔵(みやべ・きゅうぞう)について調べる孫が主人公の小説。
・宮部久蔵を知る人からのインタビューを重ねる度に、浮き上がってくる宮部久蔵の人物像。その描き方は、推理小説と思わせるような面白さがある。
・同じ人物であっても、評価する立場や、評価する人の考え方、時期によって、その表現は全く異なるものになることを、登場人物の語りから教えられる。
・戦争に関する小説で、数年前に映画化されている。ドラマ化もされている。そのため、この小説の評価も様々なのだろうが、戦争論を除き、純粋に小説として読めば、大変面白い読み物であると思う。
・祖父が健太郎に語る場面が、私にとっては感動場面であった。
115ページ:国のために命を捨てるのは日本人だけではありません。我々は天皇陛下のためという大義名分がありました。しかし、アメリカは大統領のために命は捨てられないでしょう。では彼らは何のために戦ったのか-それは真に国のためだったということではないでしょうか。そして実は我々日本人もまた、天皇陛下のために命を懸けて戦ったのではありません。それはやはり愛国の精神なのです。
219ページ:一度の失敗が、すべてを終わらせてしまうのです。
314ページ:「墜とされてもまた戦場に復帰出来るということは、失敗を教訓に出来るということだ」
535ページ:私たちは熱狂的に死を受け入れたのではない。喜んで特攻攻撃に赴いたのではなかった。あの時ほど、真剣に家族と国のことを思ったことはなかった。あの時ほど、自分がなき後の、愛する者の行く末を考えたことはなかった。
(H31.1.8読了)

城山三郎『官僚たちの夏』新潮社、1980年。

・経済小説の開拓者と呼ばれた著者による、1960年代の通産省(現:経済産業省)の官僚たちを描く小説。
・10年くらい前にドラマ化されていた。
・ドラマもだが、小説はハッピーエンドではない、後味の悪さが印象的だった。ただし、一方で当時(現在にも通じるところがあるかもしれない)の実態を描き切っているのかもしれない。
・主人公の風越(かざこし)を中心とした、いわゆるモーレツ官僚を中心に描いているものの、後半は当時「新人類」と呼ばれていた玉木(たまき)や片山(かたやま)の生き方を肯定するかのような表現が目立つ。現在語られる「働き方改革」の内容にも通じるところが随所に感じられる。
・小説が発表されて40年近く経つが、職場というところは「変わらない」ものと「変わる」ものが混在するものであると、改めて感じさせられた。
181ページ「(前略)これからはひょっとしてああいうのが、役所向きでは」
332ページ「〈天下国家〉は生ま身の人間には重すぎる」
(H30.12.28読了)

森時彦『ザ・ファシリテーター -人を伸ばし、組織を変える』ダイヤモンド社、2004年。

・ファシリテーションとは、
(1)人と人とのインタラクション(相互作用)を活発にし、創造的なアウトプットを引き出すもの。課題の共有、考えの交流、自発的で活力に溢れた行動が生まれる。1+1=2以上になるポジティブな化学反応が現れる。(ⅲページ)
(2)ファシリテーションを学ぶことによって、自らも変わる。傾聴、事実ベースで分析的に捉える視点、多面的な観察力、バランスのとれた思考力、情緒的な安定、説得力、エネルギッシュな行動力、自らの変化。(ⅳページ)

森時彦『ストーリーでわかる ファシリテーター入門ー輝く現場をつくろう!』ダイヤモンド社、2018年2月。

(略)

中勘助『銀の匙』岩波書店(ワイド版)、2001年(底本『中勘助全集』第一巻、岩波書店、1989年。)。

・伯母さんの限りない愛情に包まれて過ごした日々、少年時代の思い出を、自伝風に綴った作品。
・文章のもつリズム(構成?)が特別な印象を受ける。
・風景、状況、人物描写が多く、形容詞が多い文書であるにも関わらず、それらがすっと理解できる。易しい表現ではないのだが、不思議である。
224ページ:(中勘助)氏はただ自分自身の世界をのみ守りながら、それをいかにして詩の形に表現しうるかに苦心した。
同:(前略)文章に非常な彫琢があるにもかかわらず、不思議なほど真実を傷つけていないこと(後略)

夏目漱石『こころ』岩波文庫、1927年。

・親友を裏切り、死に追いやった過去をもつ「先生」。
・その罪を背負って生きてきたが、自らもまた死を選ぶこととなる。
・これまで生きてきた意味や、自殺に至る理由は明確に語られない。
・人間の内面を「私」への手紙で伝えようとする。

森岡正博『生命学への招待 -バイオエシックスを越えて』勁草書房、1988年。

・30年前に上梓された書籍であることに驚く。
・生命をめぐる多元的な考えについて、生物・科学的視点と、哲学・道徳的視点とを区別し、主に後者で論じるものとして位置づけ、それぞれの積極的意義を見出すことを基本姿勢にする。
・「生かす」「生かされる」ことが両面であること。
・他者を生かし、そのことにより自分が生かされる。このエネルギーの流れみたいなものが「生きる」ことの本質。
・自分を「生かし」、他者によって自分が「生かされる」、よりよく「生きる」ことは「生ききる」ための学問として、生命学が位置づくことを示唆している。
・ただし、動的であり、知識(知恵)と行動とが関連し、常に型を変えていく。
・生命倫理学にかけているものを標的とし、上記を導く試みが本書の位置づけといえる。
・バイオエシックスのレビューから、化学とも自然とも異なる「生き方」を問う生命学。
・「発見」し続けること。本質は常に身を隠そうとする。
262ページ:私たちは生命圏と他者によって生かされ、その私たちが、今度は生命圏と他者を生かす。これこそ生命学の基礎に置くダイナミズム。

 生命学の定義も重要だが、生命学に至る思考の軌跡をなでるのが、哲学の学びと似ているので、大変刺激的である。言葉(日本語)で考えること、言葉そのものの意味をつかむこと、発する側としては言葉に意味を込めること、を読み取っていくことが、楽しくもあり、それ自体が学びとなっている実感がある。

勝海舟/江藤淳、松浦玲編『氷川清話』講談社、2000年。

・幕末に活躍した幕臣・勝海舟による、談話や記事をまとめたもの。
・今でいう国家公務員といえる。ただ、政治家として紹介されている。
・広範な知識や人脈が読み取れる。ただ、根底においては、日本人(日本のためを思う)としての矜持と、さらにそれを支える胆力が何よりも大切であるという意思が読み取れる。
・誠心誠意の「誠」が、すべてを貫く、ものの見方・考え方・行動となっている。

畑村洋太郎『失敗学のすすめ』講談社、2005年。

・失敗の定義(25ページより)人間が関わって行うひとつの行為が、はじめに定めた目的を達成できないこと。
・失敗学の趣旨(28ページより)失敗の特性を理解し、不必要な失敗を繰り返さないとともに、失敗からその人を成長させる新たな知識を学ぼうという。
・290ページ:私は失敗のマイナス面のみに目を向け、プラス面を見ないのはおかしい、マイナス面のみの見方こそが失敗を繰り返させ、また失敗を増長させて大事故を起こすのだ、と主張してきた。人の営みを冷たく見る見方からは何も生まれず、暖かく見る見方だけが新しいものを生み、人間の変化を豊かにする。失敗は起こるものと考え、失敗に正しく向き合って次に生かすことを重要で、同じ失敗を繰り返さないためには、失敗した当人に優しく接して勇気付けたい、翻って、失敗を無視し、隠し、責任回避するような風土を少しでも改めたい、と考えて本書をまとめた。

ジョン・P・コッター『ナディアが群れを離れる理由 -変われない組織が変わるためのリーダーシップ』ダイヤモンド社、2017年。

・古い考え方から抜け出せない群れから飛び出し、理想的に見えた群れから学ぶ組織運営の考え方。
・デュアル・システムの提案。マネジメントの仕組みに、新しいネットワーク型のグループを、積極的かつ独創的な方法で追加していく。132ページ。

「デュアル・システム」
マネジメントの仕組みに、新しいネットワーク型のグループを積極的かつ独創的な方法で追加していく。(二つの世界のいいとこどり)132ページ。
・「これまでと違う結果が必要なときに、これまでと同じやり方で、ただもと一生懸命働くだけ?」(99ページ)
・規模や外敵の影響がこれまでと異なる「背景の変化」に対応するためには、仕組みの工夫が必要。規模が小さい時にはリーダーシップ型が向くが、規模が大きくなればマネジメントが必要になる。