2019年6月2日日曜日

森岡正博『電脳福祉論』学苑社、1994年。

・ヒトの生き方を考える上で、科学技術という背景は切り離して考えることはできないだろう。科学技術は、それが何であれ、我々の生活の中に入り込み、生き方に大きな影響を与えているモノ・コトである。
・それらが、別分野のものとして整理されてしまっているものも多く、私も今まであまり意識してこなかった。しかしながら、それらは日進月歩で進化・変化しているものである。
・森岡氏の提唱する「生命学」は、一貫してこの点を強調し、それらの結びつきの中で「よりよく生きる」ことを論じている。ただ、20年前の私はこの点について、興味はもちながらも「本論ではないもの」として隅にとどめる程度にしてしまっていたと思う。
・技術的な背景があり、社会的な未来予測をする間、今とこれからを生きる私が「どう生きるか」「よりよく生きる」とは何なのかを問う姿勢が、生命学の本質に近づくためのキーワードになるのだろう。
・本書は、25年ほど前の対談集であるが、当時各分野で最先端を走っていた研究者達に、上記のような関心をもった森岡氏が持論を展開し、論点が広がり、深まっていく軌跡が描かれている。
・一部、難しい部分や、ある論述が対談社に論駁されていく様子も記されている。ただ、基本的には無痛文明論が芽を出し、花開く手前のイメージが確かに現れていると思われた。
・学生の頃には流し読みにしたきりになっていた本著であるが、日々新たな技術が世に出される現在だからこそ響く内容であると感じた。

(以下引用)
ⅳ 議論の渦の中心にあるのは、先端テクノロジーと生命をどう考えるかという問い、言い換えれば、情報技術社会における人間の福祉の問題であった。
4 メディアは常に人間の身体を拡張するだけでなく、人間の心も拡張するし、魂も拡張する。
10 電脳社会の特徴として、シャーマニズムとテクノロジーとの奇妙な合体というのがあると思う。つまり、それは、人間の事故変容にかかわる。身体においても意識においても、いままでの情報の処理の仕方と全く異なったテクノロジーが、意識と身体の変容を生み出しているということです。
28 サイボーグ化は、そういう人間のこだわりや執着を克服し、かなえていく一つのプロセスかもしれない。そしてサイボーグ化がとことん進んで、極限の身体性というものがもたらされた場合、そこでは葛藤やコンプレックスはほとんど消滅し、後天的な「完全な意識」が生まれて来るかもしれない。
33 将来本当に意味のあるテクノロジーというのは、苦しみを回避するんじゃなくて、逆にそれらを引き受けるテクノロジーなんですよ。苦しみを引き受けることによって人は奈落の底に落ちるかもしれないけど、それによって人間は成長することができるわけです。こういう人間の逆説を支えるような、新たな文明の形が出てこないと、いまの社会はますます人間の生命を枯渇させてゆくでしょうね。
70 人工臓器化は、集中治療室のように身体を維持するための人工臓器群と、もう一つは閉じこめられてしまった精神活動を解き放つ人工臓器群の二種類に大きく分類することができる。心や精神を解放する人工臓器が、バーチャルリアリティとかマルチメディアとかパソコン通信じゃないかと。
104 進化していけるようなプログラムが自律的に発生して、それが増殖して多様性を増していった場合に、それは一つの自然の系だと言えるんじゃないでしょうか。(補足:自然の本質?)
131 人間が自由と自己決定を拡大させていくこと自体が、実は大きなシステムの効率的な流れの一部となって取り込まれてしまうんじゃないか。
132 そういうネットワーク型社会における人間の自由の保障は、巨大なシステムの微細な管理とコントロールに裏付けられることによって初めて可能になる。
134 将来は、機械にサポートされながら生きていく老人・障害者・病人がマジョリティを形成する社会が、いずれ到来することでしょう。
135 身体のどういう場所が欠損していて、どういういところを機械によって補っているかによって、価値観もむちゃくちゃ多様化してくる。
137 健常者がマジョリティの社会では、マジョリティの人々によるある一つの“標準型”というものが認定され、その標準型からはずれていく程度に応じて多様性が生まれてくるという世界感がある。
162 テクノロジーが人間の自由の範囲をどんどん拡張してゆく結果”不自由”の範囲が縮小しはじめていて、そのおかげでわれわれ先進国の人間は”自由”の価値を実感できなくなってるんじゃないでしょうか。言い換えれば、自由を味わうことから疎外されているんじゃないか。
164 人間の自由は何かと定義することは、自由に対して規定を加えることになる。
168 生命というものが、自由でない領域から操作可能な領域に変わりつつあります。(略)その延長線上で進むとすれば、今までの文化的伝統に類するものが次第次第に衰え、勢力を弱めていくであろうと、私は思う。どれだけ協力な伝統であろうと、かつての勢力はもはや持てなくなると思います。
172 データがあれば社会問題がひとりでに出てくるのではなく、そのデータは大変な問題をはらんでるんだと誰かが政治的に創作して、はじめて社会問題となる。
182 政策の根拠となる報告書をどんどん出すべきです。
185 脳死なんかもふくめて、生命倫理の問題とは、情報化社会のメカニズムによって「作り上がられる」ものなのですね。いままでの生命倫理研究では、この情報社会というファクターが全く無視されてきました。(略)情報社会というのは、科学知識を含めて情報が正確に流れる社会ではない。
200 私は、生命倫理も、電脳メディア論も、マジメにやっているのです。なぜかと言えば、この二つの問題は、ともに現代の先端科学技術が、人間社会と人間の生命に対して突きつけている、文明論的な根本問題だからである。二十一世紀においては、生命を問うことは電脳メディアを問うことになり、電脳メディアを問うことは生命を問うことになるのだ。