2018年5月19日土曜日

差し上げます

このブログを閲覧しているIyokiyeha知人へのお知らせです。
部屋の片付けをすると、どうしても「まだ使えるのに、居場所に馴染まない」ものが出てしまいます。
今回も、「当時は便利に使っていたのに、今はどうにも使いにくくなってしまった」「環境が変わって、使わなくなってしまった」ものが出てしまい、3ヵ月くらい使い方を検討したのですが、やはり馴染まなくなってしまったので、「欲しい!」「試してみたい!」という方がおられたら、無料で差し上げます。みなさんがご存知のIyokiyehaの連絡先までご連絡ください。なお、短期間に複数の方から重複するご希望があった場合は、「連絡が早かった順」とさせていただきますので、あらかじめご了承ください。

今回のモノはこちら。
CARL製 名刺箱(750枚) DECADE ありがとうございました。
・KING JIM製 卓上電子メモ mamemo(マメモ)

興味のある方はお知らせください。

2018年4月7日土曜日

歓送迎会には行かない

 職場の集まりというものに、参加しなくなった。
 歓送迎会、暑気払い、新年会、懇親会等の類である。
 私としては、別に何とも思わなかったことだが、以前友人から「職場の雰囲気ってもんがあるだろう」と言われたこともあるので、一度きちんと考えておく。

 まず、「なぜ」歓送迎会等に行かないのか?という問いについて深めてみる。
 行きたいと思わないから。なぜ?
 楽しくないから。なぜ?
 気をつかうから。なぜ?
 職場の延長になってしまうから。なぜ?
 職場の人間関係を持ち込まれるから。また、持ち込んでしまうから。なぜ?
 儀式的な場がそうさせてしまうから。なぜ?
 場がそういう雰囲気になるから。または、そういう雰囲気を感じてしまうから。
 これで、初めの回答に接続し、サイクロジックになる。

 結果として、仕事外時間の削減、つまり自分と家族の時間が削られてしまうことになる。「いやいや、業務外でしょ?」と言われても、上記の通り、そこに職場の雰囲気が持ち込まれるのであれば、その問いかけは全く無意味である。

 それでは、今度はメリット・デメリットの視点から考えてみる。
 ・歓迎会等に参加しないメリットとしては、
 ・時間とお金の節約になる。
 ・気分を害する場所へ行かなくて良くなる。
 では、参加しないデメリットは、
 ・職場内人間関係を進展させる機会が減少する。
 ・飲酒機会が減少する。
 ・他の人から「飲み会に来ない人」のレッテルを貼られてしまう。
 ・他の人から「感謝の気持ち・歓迎の気持ち」がない人であると思われてしまう。
 といったところだろうか。

 これらの理由を、自分事、と他人事に分けてみると、デメリットとしてあげたことの内、自分に直接関係あることは「(自分が)職場内人間関係を進展させる機会が減る」ことと、「(自分の)飲酒機会が減る」ことくらいになる。あとは「○○と思われる」だけであり、本当にそう思われるかどうかは疑問が残る。
 加えて、今の職場の人間関係規模とすれば、40~50人の規模である。そのうち7~8割の出席と仮定しても、参加者は30人前後。初めての人たちの集団では、とても名前なんか覚えられる規模ではない。私一人がいなくて、誰の迷惑になるだろう。
 さらに言えば、私がそこに参加することによって、誰か他の人の誰の何のためになるのかというと、大変曖昧といえる。歓迎されている感じや、感謝されている感じは、「そうなる対象であれば自然と与え・受け取れること」であり、それを飲酒の場として設定することは、有効であったとしても必要なことではない。

 と、ここまで考えたら、あとは自分の気分で「行きたい」か「行きたくない」かで判断して特に差し支えないと考えることに特に問題はないだろう。職場の人間関係は仕事で作ればいい。私は今の職場では、自分に最も近い二軸の集まりにしか参加しないことにしている。それで、自分の機嫌とお小遣いが保てるのであれば、人からどう思われようと関係ない。

2018年4月1日日曜日

刎田文記、江森智之『成功する精神障害者雇用 ――受入準備・採用面接・定着支援』第一法規、2017年。

 Iyokiyehaは、障害者雇用の仕事を離れて2年になります。そろそろ障害者福祉分野の知識量が障害者雇用分野のそれを超える時期になるのでしょうが、そうは言っても11年どっぷり浸かってきたところですから、本書はあえて踏み込んで紹介します。

 障害者の雇用の促進等に関する法律の見直しもあり、障害者雇用率の引き上げ時期となりました。各企業・団体等で人事に携わる人達を中心に、障害者雇用率、ひいてはその算定のための障害者雇用が注目されているように思います。
 Iyokiyehaは障害者福祉分野に転職してから実感を伴って理解したところもあるのですが、障害者手帳の交付数とその種類および交付者の年齢を考慮して、障害者雇用を具体的に検討した場合、精神障害者(厳密には精神障害者保健福祉手帳所持者)の雇い入れを検討しなければならないのは、ごく自然な流れのように思います。また、「精神障害者の雇用義務化」という表現がいつの間にかされるようになりましたが、精神障害者が障害者雇用率の算定に含まれるようになるという法制度の改正が、精神障害者の雇用を促進する流れを作っているように思います。
 ここ2年間の事業主の悩みからは遠ざかっているのですが、私が4年くらい前に関わっていた調査・研究から、障害者雇用を検討する人事担当者の悩みとしては、「障害がわからない」「障害のある人との接し方がわからない」「雇用してどのように仕事をしてもらったらいいかわからない」「雇い入れの方法がわからない」といったようなことがあげられていました。
 前置きが少し長くなりました。今回紹介する本書は、そんな疑問の助けとなってくれる情報が一杯の一冊です。同業者、関連業者、その他、障害者雇用分野に関わる人の中には著者の所属にいろいろ言う人もいるかもしれませんが、それはそれ、これはこれ。内容について、具体例やケーススタディがたくさんあるので、それを読むだけでも十分情報収集になるのですが、元専門職として本書の特徴をあげるならば、以下の2点です。
(1)広義の精神障害の特徴を、雇用しようとする企業の立場に立脚し「認知障害」という横断的な概念を取り入れた説明をしていること。
(2)「合理的配慮」に関する現時点での具体的な対応を多岐にわたり掲載していること。
 私にとっては、(1)の視点が本書のスパイクだと思います。制度上の「精神障害」は、統合失調症、気分障害、てんかんを包括した狭義の「精神障害」だけでなく、発達障害や高次脳機能障害、さらにはアルコールや薬物の依存症、BPDなどの人格障害等をも含む、とっても広い概念ですから、一言では説明がしにくいところがあるところを、あえて共通点としての「認知障害」を提示し、職業的課題として強調しているところです。我が国では手帳制度が3種類に分かれていて、このことが医学的な心身二元論(頭の中で起こっていることか、それ以外か)と重ならないために、「精神障害って何よ?」という問いに「人によって違います」みたいな回答をせざるをえない現状打破のきっかけになる可能性を秘めています。
 障害のある人が入職していくことについて関わっている人には一読の価値があると思います。

2018年3月25日日曜日

ある人の区切りを祝う

 久々に二日酔いとなり、カミさんに呆れられたIyokiyehaです。
 朝起きれない、昼動けない、夕方も頭が痛い。こんな二日酔いになると「しばらく酒は辞めよう」と思うのですが、しばらく経つと時々やってしまうもの。

 二日酔いの原因は、週末の(たぶん)送別会。
 今の職場ではなく、前の職場のもの。私が大変お世話になった方が定年を迎えられるので、「一度飲みに行きませんか」と誘ったところ、「詳細は追って連絡します」と返信がきたことがきっかけでした。
 …だから、俺が一席設けるって言ってるじゃん!
 こういう行間の読み合いも相変わらずです。結局セッティングまで持っていかれてしまう。メールって便利だけど不便だよね。どうせ、それをネタにまた説教するんでしょ?まぁ、その説教も笑って受けてやるよ、みたいにおおらかな気持ちで。
 実績はあるけど、おそらく最後は不本意なところで定年を迎えられるのだろう、再雇用も希望通らなかったみたいだし、と思うところはあるけれども、あくまで自分にとっては仕事を教えてもらい、最後までご指導いただいた方ですので、他の誰が何と言おうときちんと区切りのお祝いをしようと決めたわけです。そんなに迷いはありません、だって私にとって、でいいんだもん。
 組織の評価はどうでもいいですが、私の評価では「昭和のおじさん」です。なぜなら、勘違いもされる人だし、時々勘違いしている人だし、飲む・打つ(買うかどうかは知らん)の人である。とはいえ、どことなく人間臭さがあって(あり過ぎて?)憎めない人です。その分、雰囲気の「圧」はとっても強いんですがね。
 よくバランタインを飲む人だけれども、こういうときはシングルモルトの方がいいよね、と思い、あるバーでバランタインがないとかぼやきながら注文していたシーバスリーガルを用意して当日を待つ。
 当日まで、連絡がない。こういうところも、憎めない人なんですが。

 結局、行きつけの小料理屋で親しい数人での宴会でした。予想通り「俺の送別会の調整を俺に押し付けた」くらいのことを言われます。よい、よい、今日の私の懐はマリアナ海溝くらい深いです。同じ店で私の今の職場の中枢部署の方々が宴会をしているというハプニングがあったのですが、楽しい時間を過ごすことができました。二次会はカラオケと思いきや、10年ぶりくらいにカラオケ付きスナック。懐かしいです、あの雰囲気。
 カラオケボックスなら、「ブラッディメアリーですよぉ~ウォッカですよ~」とか言いながらトマトジュース飲んで、日付変わるくらいで帰れたんですが、スナックだとそうもいかない。ママは淡々と水割りを作り「飲め」と迫り、「歌わなければ、朝までカラオケ連れていくぞ」と言い、散々でした。おまけに、2時過ぎにお開きにしたはずなのに、タクシーが来ないハプニングに見舞われ、結局店を出たのは4時過ぎ。朝までカラオケでも変わらないじゃん、と思いつつ。完全な朝帰りを数年ぶりにやりました。やましいことは何もないが、身体へのダメージはでかかった。
 とはいえ、60歳のおじさんがAKBを熱唱する姿を拝み、60歳のおじさんと肩組んでYAH YAH YAHを歌い、60歳のおじさんに向けて初めての転勤で歌ってもらった「希望の轍」をお返しに歌い、合間に前職での思いを聞かされ、聞かせと、それなりに区切りのお祝いはできたかなと思っています。ちょっとじーんとさせられたのは、「今のところでも偉くなれよ。元からいるやつに負けるんじゃないぞ」と激励のお言葉をいただいたことでした。お互いにベロベロに酔っていたので、多分発した本人は記憶がないのでしょうが。私のキャリアにとっては、一つの区切りとして振り返る時がくるかもしれません。

 翌日、吐き気のする身体に鞭打って、洗濯物を干したことはまた別の機会に…語ることもなかろう。

2018年3月21日水曜日

『君の名は…』

評判に違わず、観た後に晴れやかな気持ちになる映画。

公開されていた頃も評判がよかった映画でした。公開が終わった後も、雑誌記事などで取り上げられていて、何となく気になっていたのですが、結局テレビ放映されたものを録画してようやく観たのですが、なんとなくそのまま映画の世界へ引き込まれる感覚のある作品でした。
時間と記憶、ドラマや映画では王道ともいえるテーマですが、二人の人物のこれらがめまぐるしく交錯しつつも、その跡がそれぞれに残されていて、それが観る人にわかる表現になっているため、伏線も難解過ぎず、それでいて先が気になり続ける、いい展開です。
記憶が薄れていく、というルールに従いながらも…という後半のくだりは、ちょっと若返った気分で「感動しました!」なんて言いたくなる前向きで、身体の内側がぞくぞくするような気分が味わえます。

2018年2月25日日曜日

ラジオ好きな理由

 大人になってからラジオを聴くようになったIyokiyehaですが、なぜ好きなのだろうと考える。
 一つには、映像ほど強制力がないこと。強制力というとちょっと違うのかもしれないけれども、テレビはぼーっとしていても、その内容が頭に入り込んでくるような気がするのに対し、ラジオはぼーっとしていれば内容があまり入ってこないで、そのまま眠りを誘ってくれるように思います。
 二つには、(意外と)いいコンテンツがあること。昨日の英会話じゃないですが、テレビじゃまずウケないだろうと思われる歴史に関する専門家のインタビュー番組とか、商業的にはあまり人気がなくても、限られた人たちにとっては話題となっているようなトピックを短時間で取り上げるような内容がある。
 三つには、どこでも聴くことができること。自宅ではテレビ優勢ですが、自室でもラジオはかけられるし、携帯ラジオがあれば出先でも情報が得られます。インターネットの時代にあって、無料で良質なコンテンツがやまほどある。
 個人的には、地上波のテレビ番組の内良質コンテンツと思うものの割合よりも、ラジオ番組の方がいい割合なんじゃないかと思っています。若い頃から使っていたわけじゃないので、深夜放送には疎く完全にもぐりなリスナーですが、頭が良くないような気がするので、多分今後も聴き続けると思います。

2018年2月24日土曜日

ラジオと英語

 先日、YOUNG RIDERSという海外ドラマDVDボックスを購入しました。Iyokiyehaが高校生の頃(20年以上前か…)にNHKBSで放送されていた西部劇です。ドラマがネット配信されるこのご時世ではありますが、ネット配信されないことと、いつまで待っても日本語字幕が表示されるDVDが見つからないので、思い切って輸入盤を購入したのですが、やはり全て英語なので、会話はほとんど聞き取れずにいます。
 ただ、面白いのは、さすが映像の力!といったところで、血気盛んな若者ガンファイターを戦争を潜り抜けたベテランガンファイターがサウナで諭す場面や、インディアンを追放しようとする町の人たちに演説する女性の語る内容はわからなくても、なんとなく「そういうことだよな」と話の筋はわかってしまうところを実感しています。カミさんに「また観てるの?」と言われつつ、夜更かしを楽しむこの頃です。
 こんな背景があり、最近読書の合間に英会話のアプリを起動することが多くなっていたのですが、普段聴いているラジオをNHK第二に合わせたところ、たくさんの英会話番組をやっていることを知ったところです。毎日、いろんな時間帯にやっているのねですね。
 相変わらず、ラジオ好きなIyokiyehaですが、ますますラジオ漬けになりそうです。インターネットで様々なコンテンツが公開されているこの頃、ガラケー片手にラジオを聴くおじさんは、一体どこへ行けるのかな~と面白がっています。

2018年2月10日土曜日

余談:インフルエンザの流行

2月6日火曜日。長女のクラスが学級閉鎖になりました。
その晩に長女が熱を出しました。急な発熱と、クラスの状況からインフルエンザだろうと推定。
2月7日水曜日。長女インフルエンザB型の診断。昼頃長男発熱による早退。時を同じくして次女も発熱。夕方に通院し検査なしでインフルエンザ治療薬を処方してもらう。
2月8日木曜日。妻発熱。通院のため私は遅刻して出勤。

今日は2月10日土曜日です。
私はまだ発熱なし。今日は一日家事やって疲れましたが、子どもがなんぼかよくなってきているのが、せめてもの救いです。
私も倒れないように気を付けます。

世の理に合わせていく

こと-わり【理】
物事の理非を分かち定める意から
1.道理、条理。
2.格式・礼儀にかなっていること。
3.理由。わけ。
4.当然のこと。もっともなこと。
(以下略)

そして、結局今年の一文字は「合」としました。
「談合の”ごう”ですね」
と場を緩めつつ、意味するところは、自分は何に合わせていくのか本気で考えて仕事せよ、という戒めを込めた一文字としました。
勤務先に合わせたら組織としては使い勝手がいいけれども本業を全うできるのか、法制度に合わせて仕事を進めるのは当然だけれども制度があるから考えなくてもいいのか、世界を見据えて仕事をするには漠然としているのではないか、そうではなくて、きっと私が今置かれている立場としては「世の理」みたいなものに合わせていくべきではないか。
ただ、このことは中途採用だからということではなく、みんなが本質的に考えていることだから、我々はプロパーとはちょっと違う観点から「世の理」に近づくための意見をどんどん場に出さなければならないし、組織内部のマイノリティが発言するためには今いる人たちと共に汗をかき、動きを作りつつ、場合によってはそれを「転轍(てんてつ)」してもっといい動きにしていくことが求められているのだろう。
と、幹部の前でこんなことを語ってみました。
途中で、プレゼンの神様が降りてきたので、儀式モードからいつものモードに切り替わってしまったようです。懇親会では随分ネタにされてしまいました。

こんな機会でもないと、考えないことなので、なかなかいい機会になりました。
もともと「ヘラヘラいい仕事をする」のがこだわりなので、誰に何言われようともあんまり気にしないのですが、「改革のエンジン」とか求められてしまうと、孤軍奮闘して仕組みをバンバン変えていくような革命家が求められてしまうイメージがありましたが、入庁して周りを見回すと、さすがに大学卒業して間もなく試験をパスしてくるような人たちなので、みんな優秀です。優秀な頭脳が周りにあるならば、改革だってそれを使わない手はないでしょ?みんなできるよね、時々口出すからみんなでやろうよ、っていうあたりまえのことを、ようやく自分の腑に落ちる言葉でまとめられたように思います。「転轍」も初めて自分にとって意味のある文脈で使うことができたし。

あと、派生したもので、合気道の「合」パターンも頭の中にはありました。
「合気にて、よろづの力を働かし、美しき世と易く和すべし」
という短歌を引用し、
持っている力を要点に集中させるのだけれども、それは「一番自然な型」であるから、対立軸ではなくむしろともに働くことになる、みたいな。

要は、職場が変わっても、考えることはあまり変わらないのだなとも思う。

2018年1月28日日曜日

今後の抱負を示す一文字

ほう-ふ【抱負】
 心中に抱き持っている計画や決意。
(広辞苑より)

 昨年度、職場でこんな課題が出されて、私は「根」という字を発表しました。意味するところは、(1)前職の雇用条件から岡山-山梨-埼玉(富士見-所沢)と拠点を変えてきて、所沢で3人目の子どもが生まれたことをきっかけに、仕事の都合で家族の生活拠点を変えてしまうことに違和感を持ってしまったために転職する決心をしたこと。(2)生活拠点が定まったため、土地に「根」ざした仕事に取り組みたいこと。(3)民間企業とはちょっとことなる公的機関出身者であるため、職場での「根」の張り方を考えていきたい。といった説明をしたのだろうと思われます。
 よしよし、切り抜けたと思ってから10か月。再度、同じ課題を出されて「さて、どうしたものか」と考えているところです。経験者枠で地方公務員になった私としては、人事に対して自分の希望を強く主張する必要もなく、「や~めた」と言わない限りは身分が保障されていることから、これまで以上に「ヘラヘラといい仕事をする」ことに磨きをかけていこうと思っているわけですが、専門性を伸ばして尖った存在になったところで、異動一発で役に立たなくなる可能性があり、自分のキャリア形成を考えた時に一言にまとまらないもどかしさを感じているとことです。
 ベタなところでは「伸」とでもしておいて、(1)立場を変えてもやることに大差なし。自分が伸びれば、情報の質が変わる。成長の可能性が広がる。(2)「根」を張ったから「伸」びるだけ。「伸」び方考え中。(3)自分が「伸」びないと、後ろが「伸」びない、みたいな感じでまとめていくのだろうけれども。さて、もうひとひねりないものか。

2018年1月27日土曜日

ジブンゴト

自分のことを振り返って最近実感していること。
何事も「自分の事」として関わるか否かにより、そのことから学ぶことの大きさが変わるということ。
「何を今さら」と言われるのだろうけれども、40歳を前にして意識に顕在化したとても大きな気づきです。
何が大きいのかというと、このことが自分(iyokiyeha)だけのことではなくて、世の中全ての人に当てはまっているのだろうという感覚を得たことです。
最近、AudioBookのレパートリーが少し自己啓発的なものが重なったことによって、自分の経験を対象に向き合ってみる時間があったからだと思うのだけれども、この「ジブンゴト」に気づいた意味は大きい。
わかりやすい例だと、「○○合格率97%!」みたいな広告があったときに、そこから読みとれる意味に広がりがでる。この広告から「じゃあ自分も合格できそうだ」と飛躍した理解一つで終わってしまうのか、それとも「結構な実績だ、テキストがいいという根拠だな」と広げてから、実績を裏付けるしかけに注目していくのかというように行動が変わってくることになる。
今までどんなに教材に触れていても上達しなかった英語学習も、あるドラマをしっかり観たい!と思って英語に触れるのとで、全く成果が変わってくる、みたいなことです。
他人をうらやむばかりでなく、周囲を眺めながら自分のスタイルをよく検討して、「これだ」と思うものにはこだわっていく。そんな姿勢を確立していくための根っこになりうる「ジブンゴト」。この立場でいろいろ見直してみたいと思う。

2018年1月6日土曜日

老いと向き合う 2018年抱負を兼ねて

あけましておめでとうございます。
細々と続けているBlogですが、iyokiyehaの思考の足跡にもなっているので、このページを閲覧してくださっている皆様につきましては、どうぞ今後ともよろしくお願いします。

さて、今年は新年明けて1日に浜松へ帰省し、昨日5日の夕方に所沢市へ帰ってきました。
ここのところの私の関心は、仕事どうこうは置いておいて、実家の、特に母親の老いに関することになってきました。
身体的にはあちらこちらの痛みを訴えるものの、特に大きな問題はなく、むしろ健康体。
であるにも関わらず、物事の忘れの度合いが大きく、日常生活にも若干の支障をきたしつつあるというところです。
私は離れて暮らしているので、帰省の度に「話が重なるなぁ」とか「さっき言ったのに」と思う程度でしたが、半同居している父親や姉にとっては、なかなかストレスになってしまう症状のようです。
昨年5月に地域包括支援センターへの相談へ言ったことを皮切りに、夏には姉同伴で再度相談、その後秋口にかけて、認知症の検査を受けたのですが、診断としては「加齢に伴うもの」とされてしまったようで、特に積極的治療はなくここまできているという経過です。

iyokiyeha本人としては、「認知症の診断が出ていない以上、加齢に伴う認知機能の低下」であるとして、母親が何かを忘れてしまうことを前提に関わり方を変えていく、ということが知識としてはあるわけですが、同居していない以上、それをそのまま同居している父親や姉たちに求めてしまうのは、どこか他人目線になってしまいそうで。
さて、いかがなものか。私はどのように母親と向き合うのか、家族と関わるのか、というのが目下一番の課題であり、考えどころであると思っているところです。

率直なところ、転職して仕事に燃えるかというと、そうではなく、プライドは保ちつつも人生の休養期間をもらったと思い、ヘラヘラ過ごしていたら、やはりこういう課題に直面するのだなと感じています。決して怠惰に過ごしていたわけではないのですが、仕事「だけ」に邁進しなかったから見えてきた視野のように思っています。

こうした背景もあって、帰省後に整理した今年の抱負は、
1.加齢に伴う身体機能の変化および認知症に関することを、きちんと学ぶこと。
2.障害福祉関連法規および制度を概括できるように学ぶこと。
3.上期に世界史、下期に日本史を通読すること。
としました。

いずれも、効果測定しにくい目標ですが、今は手あたり次第のところがあるので、きっかけを作ってどんどん文献に当たっていきます。それぞれ、自分の言葉で語れるようになることが当面の目標かな。
1.は背景となる実家の事情への対応を含めています。一人称、二人称として我が家の課題に向き合うことを切り口に、必要な情報は集められるだけの学びと人脈を作っていこうと思います。
2.は仕事との接点です。障害福祉の専門家として立っていくかどうかは今後の課題や周囲の評価で決めていくとして、自分が今所属している部署、関わっている仕事をそろそろ概括できないといけないかと思っていることからの目標です。関連法規は都度都度目を通していますが、それらを横断的につなぐことができていない現状から、一歩踏み出して俯瞰していくための学習を深めていくことで、ケースワークに留まらないこの分野での取り組み可能性を作っていきたいと思います。
3.は、1.2.をさらに広げていくための教養として、まずは通史に取り組み、世の中の動きを自分なりに読み解く視点を作っていきたいと思います。とりあえず歴史ですが、このことに関連して読書量を増やしていこうと思っています。

とはいえ、ここ数年は実家のこと中心に考えていくことになるんだろうなと思います。離れて暮らすことを選択した時点から、こうなることは予想していたので、どっしり構えて考えていこうと思っています。