2020年12月19日土曜日

対人援助の本質に近づく

  雇用支援から福祉へと転身して5年目。様々な場面に直面させてもらっている。

福祉では、「要件を満たしたら補助」というものが多いのだけれども、一方で「生活の支えが少なくて不安定な人に対する援助」がある。今の私には、立場も手伝って後者のような雰囲気を感じとると、本質に近い仕事だ、と不思議な高揚感がやってくる。

 じゃあ、対人援助って何だ?と自問した時に、今まであまり言語化してこなかったことに気づく。最近考えているのは、生活に制度を貼りつける、という前に「対象者が支えの中で安定感を高めること」にあると言語化できた。

 「主訴を把握し、本人のニーズに沿った支援をする」ということが広まるにつれ、言語化・顕在化しているニーズに引っ張られがちだが、中には潜在ニーズについての言及もされている。最近の様々な経験から、この「潜在ニーズ」が見出せないクライアントも少なからず存在しており、言語化・顕在化の限界を感じているところである。

 要は、「人は何かを欲している」というのは必ずしも正しいわけではなく、「本当に何もない」ということもある。また、「欲していることに気づけない」ことも知的障害者を中心に、知的障害の有無を問わず、珍しくないことに気づいた。この「(今は)何もない」「ニーズに気づけない」ことが、意外と多いということを、支援者の立場の中にしっかり位置づけたことによって、上記言語化に至った。

 具体的な視点と段階は以下の通りである。

1 クライアントの中にあるエネルギーを見つける

2 エネルギーをクライアントの意識にあげる(増幅または言語化・顕在化)

3 エネルギーの範囲を確認して方向づけ

4 エネルギーの放出先を望ましい方向に促進する

 この「エネルギー」というのが特徴であり、曲者になる。私のイメージでは、その人の原動力・動き出すための意思・行動を起こすための何か、といったイメージである。

 何を働きかけても、口では「いいね」と言いつつ、結局動かない。動かないのではなく、動こうとしない。何か意思がありそうだけど、よくわからない。そもそも意思がそこにあるのかないのかわからない。生存のための行動はとるけれども、目的行動をとっているように見えない。こういう時に「エネルギーがない」と表現する。一方で、確認したことに同意をするのだけれども、とにかく違ったことをしてしまう。人に迷惑をかけてもお構いなし。言ったことはやらないのに、何かをしてしまう。問題行動が多かったとしても、こういう時には「エネルギーはある」と表現する。そういう使い方をする「エネルギー」である。

 対人援助というのは、この「エネルギー」を見据えて、このエネルギーに火を付けてあげる、クライアントに気づいてもらって、その原動力がいい方向に使われるように働きかけを続けていく、ということではないのだろうか、と考えるようになった。その見極めって、今まで自然に何となくやっていたのだろうな、と思う。

 あくまで主役はクライアントにあって、その行動が間違っていたとしても、支援者としてそれを罰するのはやはり間違っているのだろうな、と思うところでもある。とにかく「関わり続ける」「エネルギーを見据えて、関わっていく」ことが求められているのではないかと思うこの頃です。

2020年12月6日日曜日

知的能力が低いとは…

  前職でも現職でも「知的障害ってどういう人?」と問われることがある。前職では主に会社の人事担当者から、現職では悩んで窓口にやってきた当人からの質問にあるもの。障害のある人に対する支援に15年ほど関わっていて、折に触れて考えてきて、未だに「これだ!」という説明に出会えていない。

 確かに、都道府県毎の定めはあります。身近なところでは「18歳以前に発現している」「知能指数が70以下」「生活上の困難」という三要素があげられており、これを満たす人に療育手帳が交付されている。これを定義として紹介するのだが、よく考えている人はほぼ十中八九「知能指数が70以下ってどのくらいの人なんですか?」と継がれる。これに答えられない。よくある正規分布を取り出して説明していたこともあったけど、わかったようでわからない。「成長が止まってしまう」なんてことを言う人もいるけど、止まってないし、相対的だし、個人差あるし、としっくりこない。

 最近、研修講師をする機会があって、改めてこの点を説明する(しなければならない)機会があったので、考えて絵を描いて考えたところ、その人の認知機能(能力)に立脚して、

「見たり聞いたりして集める情報量の範囲が狭いことと、その判断や行動の方向の安定性が弱い」人達のこと。

 とひねりだした。要点は2つ。

 一つは、取り入れることのできる情報量が少なく、時に偏ってしまうこと。ヒトが五感を通じて情報収集することを、雨が降っている時に雨水をトレーで集めようとするイメージで考えると、そのトレーの大きさが小さいことと、トレーを置く位置がその時々で変わりやすいことである。知的能力が逆に高い人だと、トレーの面積が大きいだけでなく、そのトレーを配置する時に「効率よく雨水が集まる場所」における人になります。トレーが小さくて、その時々で置く場所が変わりやすいから、認識できる情報量とその種類の偏りが生じやすいということになる。

 もう一つは、認識したことを通じて判断したり行動する時の安定性である。こういう状態ならこうするのが常識、という結びつきの強さを「安定性」という言葉で表したものである。上記トレーのイメージを使うなら、集めた雨水の処理方法ということになる。「雨水はここに捨ててください」という指示があったり、貼り紙があったり、そもそもその町では雨水処理はこう!って決まっているなど、いわゆる「常識」の範囲で処理できるかどうかということである。「安定性」としたのは、問題行動も適応行動も説明できると思ったからである。すなわち、問題行動となる場合は、収集した情報から作った少ない選択肢の中から選んだ行動が常識の範囲を外してしまうことで表現できる。雨水処理をその辺にぶわっと捨ててしまう、楽しいからその辺に撒いてしまう、楽しすぎて人にかけてしまう、といったイメージである。一方で重度障害者であっても適応行動が定着している人については、収集した情報から作った少ない選択肢の中から選んだ行動が常識の範囲に収まっている、ということである。水が入っていたらここに捨てる、しか思いつかないようなイメージである。

 最重度の知的障害者でもかわいがられるような行動ができる人は、環境から得る情報はとても小さくても、自分がとりうる適応行動に必要なものだけ収集して、たとえ選択肢がちょっぴりでも、収集した情報と強い結びつきで適応行動となる(選ばざるをえない、それしかない、かもしれない≒安定)、という説明が成り立つ。一方で軽度知的障害者が問題行動を起こすということは、最重度の人と比べると収集できる情報も多く、そこから作る選択肢もいくつかあるのだけれども、そこからの選択に余計な情報が入り込みやすく、決まった行動に結びつきにくい(≒不安定)。

 内容も言葉もまだまだ磨く必要のある説明なのだけれども、「軽度知的障害者が問題を起こしやすい」とか、警察のやっかいになると「ボーダーだからね」と安易な発言に結びついて思考停止してしまわないように、あくまで能力と特性という観点から考えてみた現時点での到達点です。なんかね、正規分布との結びつきもピンとこないし、問題行動(←この定義もビミョー)と結びつけるのも安易だし、理解力っていっても適応行動と必ずしも結びつかないし(できることはできるもんね)、一歩俯瞰して考えているところです。

 いい説明あったら誰か教えてください。