2021年6月26日土曜日

中西貴之著、宮坂昌之監『今だから知りたいワクチンの科学 -効果とリスクを正しく判断するために』技術評論社、2021年。

  「ヴォイニッチの科学書」のサイエンスコミュニケーター中西貴之氏が、タイムリーな話題に科学の視点から一石投じた一般書。今世の中が求めるべき情報は、わかりやすくて信頼のある行政や公的研究機関の報告だけでなく、こうした長年の蓄積に裏打ちされた信頼できる民間人による一般向けの科学情報、なのだと思う。

 とかく、「科学の話題」というと専門家がきちんと(中にはイマイチなものもあるけれど)説明するものだけれども、その言葉は専門外の人にとって理解しやすいものであるかどうか、という点は疑問がある。かといって、テレビやラジオなどタイムリーなメディアで毎日基礎情報をやるわけにはいかないし、かといってWebの情報は選び取るのが難しい、というのが現状かと思います。

 著者は一貫して「ワクチンを積極的に摂取すべきもの」として、その理由を科学の視点から一般向けにわかりやすい説明をしている。その現時点のまとめが本著である。中学生~高校生レベルの生物学、化学の知識を基に、ワクチン接種を控えた私たちに必要な情報をきちんと説明してくれている。ワクチンは怖いものではないし、デマに踊らされることはない。しくみを知って、きちんと判断するための材料が満載です。これを読んで、接種する/しない、保留をきちんと選択すればいいと思います。

今西乃子著、浜田一男写真『命がこぼれおちる前に -収容された犬猫の命をつなぐ人びと』佼成出版社、2012年。

  前回紹介した『命のものさし』と同じ著者の作品。もっと児童書に近いかな。子どもと図書館へ行った時に探してみて借りたもの。

 Iyokiyeha家は、長女長男が動物アレルギーなので、犬を飼う、猫を飼う、という予定はないのだけれども、Iyokiyehaは昔『名犬ファング』(海外ドラマ)を観て、犬が飼いたかったことがありました。その後、気まぐれで父親が「柴犬を買ってくる」と出かけていったと思ったら、ウェルシュコーギー種を買ってきて12,3年程飼っていたことがありました。我が家だけでなく臨家にも懐いていたので、特に問題がはなく天命を全うし、何か問題を感じたことはありませんでした。

 本著はそのIyokiyehaの常識とは異なる土俵のお話。様々な理由(到底理解できないようなものも少なくない)でいわゆる保健所に持ち込まれる動物たち。ある水準を超えると殺処分される、というのが半ば(我々の世代では)常識となっているのだけれども、この作品はそれに一石を投じたボランティアと行政の協働のお話。

 「捨てるのは一瞬、救うのは大変」「かわいそう、という一言では何も動かない。すべては自分たち次第」「自分たちの気持ちを行動にうつして、はじめて周りが動く」といった、信念をもって活動した人達ならではの言葉がちりばめられているのも心を揺さぶられるが、何よりボランティアの地道な活動によって、千葉市が「殺処分機を動かさないようにする」という判断をした、という記録が私の心を打った。世の中がよい方向に向きを変えた瞬間だなぁ、と感じたところだ。


ココニャン一家の縁結び

https://ameblo.jp/coconyanikkanoenmusubi/


2021年6月20日日曜日

真面目にやればやるほど…

  仕事の量と質によって感じるストレスが異なるというのは、想像に難くない。

 例えば、仕事量が多ければ多いほど、終わらないことに対する疲れと終わりの見えない(目途が立たない)ことへの不安、それらの相乗効果による悪いことが起こるような予感が、螺旋を描くように絡み合って増大していく。

 一方、仕事の質が悪ければ無意味な感覚が、上記の相乗効果に拍車をかける。質の点でもう一つ気を付けないといけないのは、そこそこ質のいい、本質に迫る仕事ができている場合に、悪循環をいい意味で覆い隠して突破できることがあるということだ。これは、心理学用語で何トカって言ったような気はするが、「前向きに乗り越える」という表現が当てはまる状態であれば、人間は結構なところまでがんばることができる。

 それを期待しすぎるのもどうかと思うが、ここで注意しないといけないのは、「まともな仕事を前向きに丁寧に取り組めば取り組むほど仕事が増える」というシンプルな法則である。そして、これは「仕事の絶対量」によって、まともな仕事の結果が充実感になるか、徒労感になるかが、かなりの部分まで決まってしまう。要するに、仕事の全体量がある一定水準以上になっている場合は、どんなにいい仕事をしても、そこから得らえる(小さな)充実感が、仕事の残量が発する圧倒的な徒労感に覆い隠されてしまう、ということだ。

 この事実に気づけるか、あるいは見えるかどうかが、自分のしんどさに気づいたり、周囲のしんどさに気づけたりする要点になるのだと思う。「仕事を削る」発想がないと、現代人はつぶれるか、やさぐれてしまうような気がしてならない。まずは自分を守らねば。

2021年6月13日日曜日

今西乃子『命のものさし』合同出版、2019年。

 児童書なんだけど、新聞の書籍欄に掲載されていて、図書館で借りて読んでみた本。テーマとタイトルのインパクトでひかれた。

 舞台は愛媛県。公務員として勤務する渡邉清一氏を中心に語られるノンフィクション。清一氏は、獣医師でありながら、野良犬駆除、と畜場、動物園、動物愛護センターに勤務してきた。獣医師として本来は動物の命を救う立場であるべきなのに、野良犬を捕獲して殺処分したり、食肉として出荷される牛の検査、動物園では動物園の移転という仕事を任された後、繁殖を通じて日本における動物の現状を意識し、再度動物園に戻ってくる。そんなキャリアを通じて、いつも悩み、いつも見据えていたのは「命の重さ」。人間の都合で殺される命があれば、人間の都合に合わせて生きられる動物がいる。整合性がとれない現実の狭間で悩み、動物たちの「死」を目の当たりにし続けてきた筆者は、このことについて社会の前向きな変化を希望として感じとっている。

 平易な文章でありながら、扱うテーマは深く、さらに深い。表紙のイラストもかわいいので、気軽に手にとることができるが、こんなに迫力のある内容の本に出合ったのは久々である。「児童書」かどうかは置いておいて、一気に引き込まれる文章と、モチーフとなっている渡邊清一氏が見てきた現場を通して語られる、やるせなさと迷い、怒り、慈しみ、数々の感情が言葉の端々に感じられる。

 Iyokiyehaが修士論文の中で描きたかったのは、こういう人間の内面だったのだろうなと思う。本著は、本気で動物たちの命と向き合ってきた一人の公務員の生きざまが語ることを、見事に表現しているように思える一冊だった。

33 農業用の倉庫で子犬を生んだ母犬。捕獲のために対峙した時の母犬の表情。

54 と畜場に寄せられるご意見や、食肉ができる過程を知らない現代人の言動。

128 殺処分の現実。

158 動物園が「死」を語ること。


2021年6月5日土曜日

PTAについて考えてみた(総括)

  2018年度~2020年度の3年間、子どもが通う小学校のPTA本部に在籍していました。この度、ようやく退任となったことからこれまでの総括をしておきます。

 総じてどうだったかというと、前向きに「学校を身近に感じられるようになったこと」「保護者として学校に関わることに関する距離感がわかったこと」などがあげられるでしょうか。PTAの役員として学校に関わったことで、これまでは役割-役割での接点だったものが、個人-役割(学校)とでやりとりすることについて、変に気負う必要がないことがわかりました。学校予算については、これまで全く意識してこなかったのだけれども、地域や社会の要請にこたえるだけの①人的資源、②裏付けとなる予算、がないということがわかりました。

 ①は質的(優秀かどうか、世の動向を把握しているかどうかなど資質に関すること)なことは話題にしません。○○をやった方がいい、やるべきだ、と意思決定して、職員間での共通認識もある、と言った時に「じゃあ、誰がやるか」となるわけです。すでに予定も労力もいっぱいいっぱいのところで何か事を起こせばそれは兼務になり、現状に足す発想にしかなりません。片手間でやるべきでないことも、片手間でやらざるをえないことになりかねない。これは全てにおいて先生方の負担になり、その被害をこうむるのはまわり回って子どもたちでしょう。

 それに加えて、②予算です。余剰予算は全くない状態で何をさせようとしているのか。地域も国も再考の必要があると思います。

 いずれにせよ、PTA活動をする個人ではどうしようもない、と思うのですが、どうでしょう。教員の資質や事務分掌に関することは、学校の判断によるものだし、予算については学校でもどうしようもなくて教育委員会、果ては文部科学省にまで達するものです。もちろん、課題を整理して明るみに出すことは必要だけれども、それ以上の圧力を、権限のないところ(学校)にかけるのは、マナー違反といっても過言ではないでしょう。その行為が学校の活動を邪魔をすることになると思います。

 しかしながら、残念なことに周りを見回すと、この「マナー違反」が横行しているのが今の学校を取り巻く環境ともいえます。市内でも、「○○を廃止した」「役員のなり手がいないからPTAそのものを廃止した」などの情報があります。そして、それを自慢げに語る当事者を名乗る方もおられます。それを実績に、PTA不要論を展開する方々がおられるのも、それに便乗して地域にも必死に「要らない、要らない」と言って回っておられる方がおられます。

 もちろん、今のPTA活動が「本当にやるべきことだけで構成されているのか」と いう検証は必要です。Iyokiyehaが3年間地味に考えてきたことは、活動の見直しを通して、「必要最低限の活動にすること」「役員は有志で行うこと」「いろんな人に、PTAを通じて気軽に学校に関わってもらうしかけをつくること」でした。一部できたけど、まだまだこれからだ、という時の退任です。ちょっと残念。でも、私としては一旦ここまでかな、という思いもあります。

 現行の活動の中で、学校の教育活動に「きちんと資する」ものは何だろう。それを有志で行うことのできる範囲としくみってどんなイメージだろう、コロナ禍だから一旦ゼロベースで考えてみたらいいんじゃないの?本部での私の発言は、全てこんな背景からだったはずです。ただ、(面白いことに)そのことを発すれば発するほど、意外や意外「これまでは○○だった」「○○を楽しみにしている人もいる」「そんなに悪いものじゃない」「コロナの中でどうやったらできるか」という内側からの現状維持の妙な圧力があったり、思わぬ外野から、直接・間接に「あーだこーだ(聞くに堪えない意見が多すぎました)」言われるなどして、もはやストレスなんて上品なものではなく、呆れ果ててしまった、というのが正直な感想です。

 内側の刺客に対しては、「やりたくないならやらなくて結構。変化が怖いのはそれでも結構。ただ、あなたの心無い一言が、他の人達のやる気 をどれだけ削っているか考えた方がいいんじゃね?」「あなたが、議員や地元の名士?を使ってまで主張したいことは何ですか?」「家庭教育学級の本質は、親の学習権ですよ。やってもいない、参加してもいない家庭教育学級不要論は聞きたくない。『俺は 学ばないから学校なんか要らねぇぜ。よくわからないけど俺には必要ないからみんなも必要ないよな、やめようぜって言っているのと同じです。ちょっと付き合いたくないですね」。

 養老孟司さんが昔言っていた「バカの壁」って身近なところにたくさんあるんだな、ということも存分に学ばせていただきました。その中で私の主張は伝わりきらず、一部の先進的な取り組みの方向と、なんだかよくわからない便所の落書きで盛り上がっている方向のそれぞれ双方から刺され過ぎて、ちょっと痛くなってきました。地域活動の面倒なところってこういうところなのだろうな。それぞれへの懸念は、前者(先進的な取り組み)は本部役員から「無言の排他的雰囲気」がでないといいなと思っています。活動方向や意思決定にWebの仕組みを活用する、というのは、私が本部役員になった当初から主張してしくみを用意して昨年度ようやく花開いたものですが、そのコンテンツや利用方法がすごすぎて、「PTAすごい」が突き抜けてしまうと、別の意味で「負担」を感じる人が出てしまう懸念です。こちらの点はほどほどに取り組む、シンプルなしくみ、を意識することが必要かな。後者(便所の落書き、不要論など)は、過剰反応せず、便所の落書きには逐一対応せず、筋を通ってきたことについて、きちんと対応する、という超基本的な対応が必要かと思います。あまりにアホな内容は報告で曝す、くらいの戦略はあった方がいい。「説得すればみな納得する」という性善説は危険です。

 声の大きな考えない人達や、地元の名士?が何と言おうとも、私の結論は変わりません。PTAは学校を支えるために必要な、緩衝材のような存在。親が学ぶ機会を提供する家庭教育学級はカルチャー講座ではなく学習権の保障(だから、もっとしゃきっとせい!)、個人の文句は個人で言っていなさい、本当の主張と悪口増幅装置を通っている情報を分けなさい、ということです。

 私は、PTA活動は必要で存在も賛成の立場です。活動している人達は応援します。手伝います。学校も見守ります。誰かに負担をかけて派手な活動をするんじゃなくてさ、いろんな人がちょっとずつ学校を気にかけて、子ども(たち)を気にかけて、一緒に盛り上がって楽しめる。役員じゃない親御さんも、卒業生の親御さんも、親御さん自身が卒業生でも、他所からきてたまたま学区に住んでいる人だって、公民館を使うだけじゃなくて(これはこれで思うところがあるけれど)学校に関わっていいんじゃないかな。その窓口としてPTAがある、と思ってもらえるような活動になって欲しいなと思います。

 先日、別の活動で校長先生と会った時に「一旦引退ですが、再登板もありますよね」「いやぁ、Iyokiyehaさんは話を聞いてくれたからやりやすかったですよ」「お互いに結構言いたいこと言ってましたもんね」などと言ってもらえました。再登板するかしないかは全く未定としておいても、学校からそんな風に思ってもらえたならば、内側からどう思われていたとしても、まぁ成果はあったんじゃないかなと思うところです。コロナのせいで、家庭教育学級に全く手がつけられなかったことは純粋に残念でしたが、これは社会教育の枠で考え続けたいと思います。

 あとは、地域活動に参加して感じたこと。私のマネジメントの癖は「異質な声の大きな人を取りまとめるのには、そんなに向いていない」「仕事ほど粘れない」「作業に集中させてもらえた方がいい」「言葉が稚拙」といったことがあることに(改めて)気づきました。学校より広い概念「学区」と関わる時には、ハードなマネジメントは馴染むところと全く馴染まないところがあるので、あえてぼんやりさせておくことを確認する必要もある。地域における「認識の違い」は、仕事などの関係で起こるような「言葉の認識の違い」だけでなく「同じ組織の中でも、関わり方・立場の違いがある」ことに留意する必要がある。こんなことを感じました。