2020年3月29日日曜日

森岡正博『生命学に何ができるか 脳死・フェミニズム・優性思想』勁草書房、2001年。

・修士論文で主要文献として読み抜いた一冊。生き方を問う学問(知のあり方)を提唱する著者の論に傾倒し、大学院生の頃はずっと読んでいた一冊。精読は3回目になり、17年ぶりだったようだ。
・白黒はっきりさせることが望ましくないと考えられることに対して、政治的な判断や決め打ちを避けて判断保留を選ぶことや、他の選択肢を探る姿勢、結果がどんな背景から生じるのかを見据える態度など、私が今大切にしている「あり方」みたいなことの根がこの書籍にあるといっても過言ではないと思う。そういう意味では、私の分岐点になる一冊といえる。(ふりかえってみて、であるが)
・脳死、女性活動、障害者地域生活活動、優性思想などの論点について、その歴史記述と活動の争点を丁寧に追う展開に、並々ならぬ迫力を感じつつ、その丁寧な仕事から著者が提唱する「生命学」の輪郭が確かに見えてくる論文である。
・学生時代に読んだ時は、ただただこの迫力に圧倒されていて、どこに論理の破れがあるのか、どこが「アウトライン」止まりなのか、と思ったものである。今、私が自分の経験を重ねながら読み返したところでは、確かに「生き方を問う上で必要な視点である」ことは変わらないのだが、「それを受け取れない、発せない人が、確かに存在し生活している事実」に対してどうするのか、そして「そういう人が社会の大きなうねりを作り出してしまっていることに対し、どうするか」ということについては、確かにこの時点ではわからない論点といえる。高度に知的な営みができる人たちのための知のあり方、になってしまっては、やはり人間を分類することになりかねない。
・といったことについては、今後の著者の論稿にヒントがあることを期待しつつ、私にしても経験を言葉にすることで寄与していきたいと考えている。

■以下引用
14(人間の真実とは)どちらかのリアリティが正しいわけではなく、そのようなお互いに矛盾するいくつかのリアリティを同時にまとめて生きなければならないのが人間の生命なのだ。頭で分かっても身体・感情が分からないという事態そのものを、人間の真実としてとらえてゆくような視点が必要なのだ。
54(脳死問題の本質)脳死問題の本質は、脳死になった人と、それを取り巻く人との「出会い」の問題であると私は考えた。脳死とは「人と人との関わり方」であり、問うべきは「場としての脳死」である。(中略)脳死は「関係性」の面から議論されなければならない。
81~(他者の到来 現前・不在)ないはずのものが現れているとか、あるはずのものが現れていないという出来事がわれわれを襲うからこそ、われわれは、世界に働きかけ、他人に働きかけ、自分を変容させながら、それらの意味を探ろうとするし、それらの謎を追求しようとするのだ。(中略)この世界を意味あるもの、豊かなものにしているのは、われわれの前に絶えず到来する「現前」や「不在」たちである。生命ある私が、他の人々や、生き物や、自然物たちとかかわりをもちながら、時間の流れのなかで歴史性を蓄積し、生きて死んでゆくときに、世界が私の前に見せる相、それが「現前」と「不在」である。(=他者)
111(パーソン論とは)パーソン論とは、<ひと>でない人間の生命に対して差別的な取り扱いをしている多くの<ひと>たちの日々の行為を、そのまま追認し、正当化してくれるイデオロギーなのである。その行為を変えなくてもよいと保証してくれる点において、それは保守主義の思想である。
136(ウーマンリブとは)女性たちが、国家や男性からの束縛を解き放ち、自分自身の人生のために、女であることを自己肯定して生きはじめる、その生き方のことである。
170(ウーマンリブの思想的地平)リブは常にふたつの本音から出発すると田中は言う。中絶に関して言えば、女の身体は女のものという本音と、私は胎児の殺人者だという本音の、その間でとり乱す地点から出発することこそ、リブが切り開いた思想的地平である。
196(田中美津論「とり乱しー出会い」論)田中のリブとは、女としていまこの時代に生きる自分の中にある「矛盾」や「みっともなさ」を「直視」して、そういう自分自身のあり方に「とりみだしつつ、とりみだしつつ」、「こんな私にした敵に迫っていく」という生き方なのである。ー217われわれは自分の内面を直視し、みずからとり乱すときにはじめて、そのとり乱しを通路として真に他人と出会ってゆけるからである。そういう「出会い」をつなげてゆくことで、この生きにくい社会の中で、女と男、抑圧者と非抑圧者がお互いを分かり合い、社会を変えてゆく道筋をつけることができる。(中略)218矛盾する二つの自己の間で揺れ動き、おろおろし、とり乱す、その事態のただ中にその人間の真の姿が立ち現れるのである。ー240出会うとは、みずからを真の意味で振り返り、とり乱しを回避せずにみずからを変容させてゆくことなのだ。
242(生命思想への問いかけ)「即時的な問い」への「一般的な解」を導こうとする知の営みを行いながらも、それによって隠蔽されがちな、「その問いに向かっている『この私』はいったい何者なのか」という問題に絶えず自覚的であり続けること。私はどのような歴史性と必然性と権力性を背景にして、その問いに向かおうとしているのかに、絶えず自覚的であり続けること。そして、その問いに決着をつけることが自分の人生にとって必然的であるのならば、「一般的な解」の模索よりも、自分の実人生における問いの明確化とそれへの決着のほうを優先させること。たとえ「一般的な解」には到達しなくても、自分の人生において何かの決着を付けることができれば、その決着によって新たに変容した自分の存在は、いままでとは違った種類のさざ波を人間関係の網の目に送り届けはじめるに違いない。そして、どこかで他人が同じような問題に直面したときに、そのさざ波が知らぬ間に伝わって、その人間を間接的にサポートする可能性が生まれてくる。このような出来事もまた、生命倫理の問題に対するひとつの「解」のあり方であると私は思う。245「悪からの遡及法」
281(人工中絶から見る男たちの生命倫理)「男の不感症」という地点から「無責任なセックス」を経て、「女性への中絶の強要」へと結びついていくような、一本の細い線が存在する。そして、その線を伝って「暴力」が連鎖してゆき、その先端で、もっとも力の弱い胎児が犠牲になるという構図がある。(中略)「男たちの生命倫理」は、生命学へと直結している。
377(二分できない命題に対し、「可能性」という方向性を示す)選択的中絶を行わない可能性を含ませたうえでの、障害児出産を事実上の理由とした禁欲、避妊、不妊手術は、いま生きている障害者への視線と無意識の態度という点に最大の自覚的注意を払うかぎりにおいて、倫理的に許容され得る態度である可能性がある。
383(第四の優性学に対して)第四期の優生学は、親が自分の好みに応じて、生まれてくる子どもの肉体的あるいは精神的な性質を人工的に変えたり、能力を増進させたりすることをめざす。親が操作するのは、自分自身ではなく生まれてくる子どもという他人の身体である。(中絶と異なり、子どもを殺すわけではない点が第三期との差)384(親のエゴ)そこにあるのは、子どもの幸せを願う親の気持ちではなく、子どもの将来を自分のプランどおりにコントロールしようとする親の「欲望」「エゴイズム」だからである。
396(不道徳な生命学)生命学は、かならずしも道徳的な思想と生き方のみを導かない。生命倫理への生命学的アプローチは、生命倫理学の一般的な主張からは遠くかけ離れたところまで逸脱する可能性を秘めている。(中略)不道徳な生命学とは、みずからの差別意識や悪に漫然と開き直っているだけの人間の姿と対比させたときに、その対極に位置する生き方である
400(まとめ 生命学とは)生命学とは、生命世界を現代文明との関わりにおいて探り、みずからの生き方を模索する知の運動のこと(中略)(1)現代文明に組み込まれた生命世界の仕組みを、自分なりの見方で把握し、表現してゆく知の運動であるとと同時に、(2)私が、限りあるかけがえのないこの人生を、悔いなく生き切るための知の運動である。
421(まとめ 生命学の方法論)私の「生き方」としての生命学ー423生命学の課題は、「主観的な思い込み」や「独断」をいかに排するかということである。ー425自然科学の特徴である「客観性」と「実証」は、生命学においては「豊かさへの寄与」と「人生における検証」によって果たされているとも言えるー426生命学の具体的作業は、(1)自己の問いなおし、(2)自分の人生における実験と検証、(3)他者との出会い、(4)生命世界の自分なりの解明と表現、(5)得られた知見についてのコミュニケーション、(6)社会変革への参画、(7)先行者の表現物の学習、などによって構成される。

83(生命学の知の方法)他者と出会うとは、他者を理解しようとすることではなく、他者の他者性と出会ってゆらぐことである。そして、そのゆらぎをきっかけにしてみずからを問いなおし、みずからを変容させ、今までとは異なった生へとみずから生きなおしてゆくことであり、新たな生を通してそのゆらぎを人々に伝えていくことである。他者と出会うとは、謎を理解しようとする試みによって見えなくなっていくものが存在するということにつねに敏感になることでもある。このような「謎のなかに到来する他者」を大切に思い、そのような出来事を尊重していこうとする気持ちの中で汲み上げられ、人々のあいだに網の目のように伝わっていくゆらぎのさざ波、それこそが「いのち」なのではないのだろうか。われわれに知があるかぎり、われわれは謎を理解しようと試みるだろう。謎を理解しようとするプロセスの中で消え失せていくもの、押し潰されていくものに対して敏感になり、謎を理解しつつもそれとは別次元で揺さぶられ続ける主体を私の中に維持すること。そして、私のなかの揺さぶられる主体が、私のなかにある秩序化する主体に、その揺さぶりを絶えず伝染させていくこと。これが、他者と出会いながら、謎に立ち向かう生命学の知の方法なのである。ー128(他者論的リアリティを通じて)揺らいでいる私の実態をありのままに見つめ、私が揺らぐとはどういうことか、なぜ私は揺らいでいるのか、私は自分の揺らぎとどうやって対決してゆけばいいのか、揺らいでいる私が世界を見たときに世界はどういう相貌をもって立ち現れるかを、自分の頭とことばで解明する作業を、われわれは開始しなければならない。それが生命学の知の方法である。ー248(田中美津 実践)「悪ではないもの」の内容を記述して「そのように行動せよ!」と指令する倫理学ではなく、「悪」を背負った者同士が、みずからの存在を自己肯定しつつ、どのようにして「悪ではないもの」をめざして歩んでいけるのかを、とり乱しと出会いのプロセスのなかで学び合い、伝達し合ってゆく営み。「闇」を隔てたそのような伝達ひとつひとつが、「生命学」の実践ー391
(内なる優性思想に対する生命学とは)生命学とは、法や規範によってみずからの行為を制限され、コントロールされた人間が、その一見不自由な境遇の中から、以前は想像すらできなかったような新たな生と死の可能性をみずからの内側から開いてゆくための知の方法(中略)われわれがみずからの「悪」に開き直らないようにするにはどうすればよいのかを、全力で考えようとする。そのときに、正論の倫理学に対抗して個々人の内側から具体的に立ち現れてくる思想や生き方が「生命学」なのだ。生命学は、個々人の人生においてのみ実現され得る。(中略)生命学とは、私に呼びかける声であり、その声に応じて私が模索をはじめるときに私の内部から立ち上がってくる何物かである。

あるもので考える

 組織人としての春先は、人事の季節。Iyokiyehaにとっても例外ではなく、前の職場でも今の職場でも人事異動は4月1日付発令なので、この年度末はただでさえ忙しいところに、職場環境の変化が加わることになる。
 不思議なもので、組織人は殊の外「人事」というものに興味があるようで、内示日なんかは異動表なんかとにらめっこしながら各々の分析を口にする、ということが周辺で見聞きされる。
 私の場合は、自分が異動に巻き込まれる機会が多かったこと、内示表を見るのが面倒くさいこと、必要な人からは連絡があったり直接聞く機会があること、など理由をつければいくらでもあるが、率直に言えば面倒なので人事異動にはあまり執着していない。自分の周りに誰がくるのかな、仲のいい友人がどこへ行くのかな、くらいしか気にしない。とはいえ、以前同期が明らかな出世コースにのったな、と思った時には人並みに嫉妬(?)っぽい感情が2、3日続いたこともある。まことに不思議なものである。
 いろんなことを踏まえた現在の到達点は、人事を「決める人」と「決められる人」とでは、考えていることが違うということ。もう一つ、考える頭を使うべきは、決まった後どうするか、ということである。

 人事担当者が考えることは「組織の維持・発展」だろう。その背景を持ち、組織をつぶさない、よくするために配置を考える。一方で、人事異動の対象となる者が考えることは「自分のキャリア」くらいであり、個人的に「組織の発展」を考えている人は希少も希少であると思われる。Iyokiyehaは後者を視野に入れたいが、残念ながらまだまだ前者である。
 ある人が、例えば「〇〇と□□にはルートがある(よく異動者が出る)」とか「調書に△△って書いたら希望が通った」という分析っぽいことを口にするが、そこに根拠があるかといえばそんなことはなく「たまたま」と考えるのが妥当だろう。会社組織において、妥当な判断には必ず背景による裏打ちがあるべきで、その背景が異なるにも関わらず結論(と希望)が一致するということは、それは偶然と読み解くのが自然といえる。万が一、その結論に利害の一致があったとしても(例えば、その人に特殊な技能がある、担当者にとって恣意的なもの)同一結論を生み出す背景は異なるものである、と読み解くのがより事実に近いだろう。だって、立場が違えば背景が異なるのは当然だから。
 そう考えているから、今ではどんな人事だって「はい、わかりました」と従うしかない、と思える。もちろん、自分のキャリアから希望は伝えるべきだし、組織的状況から言うべきことは伝えるべきである。ただ、そこまでだろう。伝えられることを考慮して人事の作業を行うのは担当者とその責任者であり、決まったことに対して意義申立てを行うのは、言うまでは権利かもしれないが、それを覆すことを画策するのは越権行為である。
 もちろん、越権行為は組織人としては反則行為でとても信頼されるべき行為ではないわけです。自覚なく上からそれをする人が「老害」と呼ばれる一因となるし、下から突き上げる人は「出る杭」として認識されてしまうわけです。その通りだよね。もし自分の意の通りに身を置きたいのならば、起業して自分がすべて決める立場になるか、人事担当者になるかいずれかだろう。後者はその立場で自らのキャリアを操ろうとしたらそれはそれで越権行為だという落とし穴があるわけだが。

 ということでIyokiyehaは、人事とは一組織人としては「どうにもならないこと」という結論に達しています。なので、自分が影響しないことにはあまり興味がない。頭を使うのも、自分をどこに置かせるかとか、増員やいい人事を求める、というよりは、決まった体制でこの先どうするか、ということに注力したいわけです。
 今年度はそれを邪魔する様々な出来事があったので、ここらで自分の立場を整理しておきました。いろんな意見があると思うけど、自分のエゴをつぶして考えた時には、割と本質に近づいていると思うんだけどね。

2020年3月28日土曜日

Audiobook聴取記録(200310~200328)

・桝野敏明『禅が教えてくれる美しい人を「所作」の基本』幻冬舎。
【所作】(しょさ)1.(仏)身・口・意の三業を能作というのに対して、その発動した結果の動作・行為をいう。2.仕事、生業。3.しわざ。ふるまい。身のこなし。(以下略)
「丁寧に動く」「相手(物)を思いやる」ことで美しい動作(所作3)になる。一日をふりかえり「ああよかった」と思うこと、「日々是好日」。朝「何かいいことがあるかな」と準備する。
目は半開きで微笑みをたたえる。仏像の顔はアルカイックスマイルと呼ばれる。微笑。和の文化には所作が詰まっている。言葉遣いや暦など。相手、物、そして自分を大切にする言動には、美しさがにじみ出てくる。「所作」とは動作だけでなく、心構えも語られる。「強い人」にあこがれてきたが、折れない、負けない(強い、勝ちにいく、とは異なる)生き方を「所作」から考えるきっかけになる。

・森田愛子『呼吸整体師が教える 深呼吸のまほう ー体の不調が消える、人生が変わる』ワニブックス。
普段意識しない「呼吸」について、身体への影響や、その効果的な方法について解説している。「鼻から吸って、口から吐く」ことと呼吸する「姿勢」によって、身体を整えていくことについて解説する。人を整えていく、という発想は、以前読んだ(紹介した)システマや、武道の呼吸に通じることを感じた。

深沢七郎「楢山節考」『楢山節考』新潮社、1964年、37~108ページ。

・辰平のとまどいとおりんの覚悟。掟をやぶってまで引き換えした辰平を追い払うおりん、そして無言で去っていく辰平の思い。小説の体裁で淡々と描かれているこの部分から、ものすごい迫力を感じた。
・何がこの迫力になっているのか、冷静に読み返してもよくわからないのだが、感情を直接揺さぶられる描写であった。
・地方の伝承や口伝の歌などを引用しているものと思われる。虚構と現実とを行き来させられるような小説だった。
・残念ながら、収録された他の短編はそれほどの迫力ではなかった。「月のアペニン山」は統合失調症患者の生活なのだろうと察するが、「東京のプリンスたち」は昭和の高校生の生活を描いている。それほど胸に迫るものではなかった。

松下啓一『図解 地方自治はやわかり』学陽書房、2010年。

・職場で参加した研修で、最優秀賞をいただく機会に恵まれ、そのご褒美としていただいた書籍。
・率直に、少し古い書籍なので制度面で古い記述はある。
・上記は参考に留めるとして、地方自治における基礎からトピックまで70のテーマを、各見開き2ページで説明している。様々な自治体資料を用いて、図表が充実しており、制度を説明する時の参考にもなる。
・著者の記述とは関係ないが、資料について。引用に行政資料が多いことから、改めて行政資料が一般読者向けにはなっていないと思う。正確な記述は重要なのだけれども、行政資料って対行政向けのもが多いなと感じることがある。おそらく企画段階の「正確な」イメージ図がそのまま説明資料として使われることによって起こる現象かと思われる。
・首長、議会、公務員の関係については、身近なことでありながら、その本質に触れることが少ないので、地方分権の流れのトピックと併せて知ることができる。
・こういう内容って、業務遂行そのものに大きな影響はないのだけれども、時折訪れる「頭に汗をかく作業」をするときには、前例に必要以上に引かれず「理性で判断」するための原点や錨のような役割になるのだと思う。課職員である前に地方公務員であり、地方公務員であるまえに一市民、一国民である、ということを改めて意識させられる一冊であった。
・地方自治法を読み解く入門書になりうる内容だと思う。

2020年3月8日日曜日

森岡正博編著『現代文明は生命をどう変えるか』法藏館、1999年。

・1999年時点に、社会問題として取り上げられていた諸問題について、様々な立場の人との対談により著者の論を裏付けていく。1997年にNHKで放送された(とされる)「NHK未来潮流『生老病死の現在』の「核心的な部分」を編集した対談集である。
・テーマは、優生思想、障害と自己変容、不登校、終末期医療、老い、アポトーシス、脳死と、当時(現在にも通ずる)社会問題となっていた「いのち」の問題を取り上げている。現在(2020年)においては、多少の「語られた感」はあるものの、これらの対談によって浮き彫りにされた森岡氏の主張、すなわち「いま起きている様々な問題を、大きな文明のうねりが巻き起こすひとつながりの出来事としてとらえてみる」ことにより「現代文明が、われわれの生命をどこへ連れていこうとしているのかを、一気に見通す」立場に古臭さは一つも感じない。むしろ、現在においても、テーマの広がりこそあれど、対談から読みとれる「『苦しみ』や『つらさ』をあらかじめ巧妙に回避し、かすかな不安に満ちた安定と守りの人生をただ反復しようとする世界」「どことなくどんよりとした暗雲垂れ込める世界」は、今、その真っ只中にいることをも感じさせなくする、自分もすでに麻痺しているかもしれないという不安ばかりである。
・しかしながら、本書で取り上げるのは暗い未来予想図だけではない。その中にあって、一抹の希望をもち、暗闇の中でももがきながら、埋もれながらも光を見出だそうとしている人の闘いもまた垣間見える対談である。そうした人たちの生き様に触れるのも、著者のテーマだった「生命学」の営みなのだろうと、改めて感じさせられる。現代文明分析と勇気の一冊といえるだろう。

■以下引用
〇柴谷篤弘(生物学、環境論、サベツ論など)
「洗脳としての科学文明」
ⅱ(概要)優生思想をどう考えるかという問題からはじまって、現代科学が袋小路に陥っていること、そして洗脳社会のなかでどうすれば
「戦い」を貫けるのか
6(目隠し)社会全体から見て危ないものというよりも、社会を管理することに関わっている人から見て危ないと思われるものは、あたかもないかのごとく、除けておいて見せない。不要な情報をたくさん流すことによって、本当に意味あるものを隠してしまうということもあり得る。
13(科学的解決の落とし穴)技術的な解決は、われわれが本来自分自身の問題として考えなければいけない重大問題から、目をそらせる役割を果たす場合があるということです。
22(学び合いの可能性)今のような社会と、もう一つ、さっき言った学び会うような社会の両方を比べたら、それをすることによって、われわれは何を失っているのか、ということが見えてくるはずなんだけれども、そういう選択がなかったら何を失っているかも見えないわけ。繰り返しになるけど、学びあうというのが一つの可能性なんです。
28(ニーズと欲望)患者のニーズをつくらせておいて、うまく誘い込んで、じつは本当のニーズは医者のほうにあるのかもしれない、そういう疑いが強くあります。
30(言い訳と隠蔽)その調査結果を見てふと思うのは、本人が不幸になるというのは一つの言い訳なんじゃないか、と。本当は自分たちが不幸になるからなんだと、それを言えないんです。
48(本音)本音が出てきたときに固い岩盤にぶち当たったと思わないようにしていくのは、新しい可能性かもしれないですよ。本音を疑い続けながら、自らを変えようとしていくところにかすかな希望の光を見たい。

〇玉井英理子(生命倫理学、臨床心理学)
「生命選択の技術と倫理」
ⅱ(概要)人生において、自分のプランが狂ったときに、それでも人はそこから自己変容して立ち上がっていくということ、そしてそこに生命のよろこびがあるということ
51(テーマ)「生命の質」を選択していくテクノロジーがどんどん展開しています。(中略)そういう技術が進んでいるというのを聞いたときに、多くの人たちはどこか変だと思いはじめている。私も、どこかおかしいぞ、と思うんですが、じゃあどこがおかしいんだ、どこが引っかかるんだと改めて問われてみると、うまく答えられない。
52(現代の記載)むしろ社会全体を見たときは、何が問題なのか気づくきっかけをうばわれていますから、どちらかというとあっけらかんと、それはいいことなんじゃないの、どうしてそれがいけないのっていう感覚のほうが一般的で、障害を持った子どもの存在を可能なかぎり回避するための技術を使うことに対して、ブレーキをかける要因が少ないような感じがして、そちらのほうが怖いと思います。
53(何かポッと:上記を受けて)何か無自覚にポッと乗っている。
54(規格外)規格外になると捨てられていくような社会システムのなかで、われわれは日常的に過ごしているわけです。
56(よく知る、とは)積極的にアクションを起こして、何かを知ったり、明らかにしたりすることが、自分に対する知恵として跳ね返ってくるようなシステムのなかで慣らされてきてしまった感覚ですよね。
だから、今問われていることは、より多く知ることが、本当により良く生きることにつながるのかどうか、ということだと思うんです。
(中略)知りたい欲求にブレーキをかけて知らないままでいるという状態に、みんな耐えられなくなって全体的にすごく耐性が低くなっていると思います。
64(価値観が変わる)否応なく価値観が変わっていくプロセスのようなものを、多くの障害児の親たちはやっぱり経験していると思うんですよ。
68(全体として肯定)およそ子どもというのは、親の期待を一つひとつ丁寧に裏切りながら大きくなっていくようなところがあるじゃないですか。(中略)何か似たような大変さを経験することがあると思うけれども、そのなかでじたばたしたりうろたえたり、でもそのことをきっかけにしていろんなことを考えたりしながら、全体としては肯定していく。すべてを否定する気になれないという感じかもしれない。
71(存在否定)私にとって羊水検査を受けることがどういう意味を持っていたかというと、それは「あなたのような子どもは私の子どもとしてもうこれ以上、生まれてきてほしくない。だから検査を受けるのよ」と、目の前にいるダウン症の息子に対して言っているのに等しい意味を持っていたんです。
76(技術の進歩と社会)つまりわれわれにものを決断させないというか、「悩まなくていいよ」とか「重いものを抱えなくていいよ」というふうに進むのが、文明の進歩であり科学の進歩であると思われているんですよ。
78(選択-管理社会へ)私たちは個人としていったい何を得て、その一方で何を捨てることになるんでしょうか。(中略)今の社会のなかでより多く知るということがもたらす利益の一つは、自分を管理し、子供を管理し、社会全体がみんなを管理していくような管理社会をつくっていくことだと思います。

〇大越俊夫(アメリカ文学、「リバースアカデミー師友塾」塾長、ほか)
「不登校と命の活性化をめぐって」
ⅲ(概要)子どもたちを元気にさせることである。彼はそれを、「いのちに火をつける」と表現する。(中略)不登校の生徒がこれからどんどん増えて、半分がそうなればいい、そうしたら日本も変わる
88(拒絶の意味)「子供が登校拒否して、学校を中退したら、赤飯を炊いて祝いましょう」(中略)拒絶する能力、拒絶した勇気を祝うんです。(中略)拒絶できるのも一つの才能です。(中略)「中退も立派な人生行路の一つである」
89(命が薄い)以下要約:もうくたくた。家から出られない。電車に乗れない。親子喧嘩さえできない。表情がない。目の輝きがない。口から言葉を発しない。専門的には「失感情症」。命から出る電波「命波」がとぎれとぎれになり弱り切っている。
92(人間性)以下要約:人間の持っている残虐性は低い。動植物にはすこぶる優しい。他人に対しても親切。利他の精神に生まれながらに富んでいるといえる。競争を嫌がる。共生とか支え合いの精神が発達している。(以上、不登校の子どもの特徴)
96(つくられた自分になっていく)自我が育たないから、命や心の芯というものが薄くなっていくんです。
105(あたらしい命をそのまま育てる。新しい芽、可能性)大越さんの発想は学校というシステムから落ちこぼれたり、逸脱してきた子供たちを元に戻すということではない。(改行)そのまま育てる。逸脱してきたことを手掛かりにして、新しい命をつくっていく(中略)解体しつつあるということは単にバラバラに無意味化していくことなのではなくて、今までの価値観から見るとダメだとか規格外だとか逸脱だとか言われていたものが、逆に新たなものをつくっていく。その一翼を担っているのが不登校の生徒さんという見方ですね。
108(今をそのまま)「僕の前では、昨日までの君は関係ないから」
111(命が活性化する場)どんなにいいお母さんでも、どんなにいいお父さんでも、その間の関係が冷たかったらダメです。(中略)間さえ平和であれば
112(玄関と祭)お祭りを入れると、非日常的な空間ができる。遊び心を持ちながら、それを活用していく。(中略)最初に玄関を入ったときに、ホッとするような空気が大事なんです。
114(空気)
121(中退生は革命児の卵)(「中退したら赤飯を炊け」「中退も立派な人生だ」)「中退生は革命児の卵である」(中略)かれらが成長して社会を変えていくということでもありますが、かれらを通じてお父さんやお母さんが人生観を変えていく。

〇柏木哲夫(精神医学、心身医学、緩和医療)
「ホスピスがささえるいのちの意味」
ⅳ(概要)「生命」と「いのち」の違い(中略)宗教をもたない人間が、死を目前にしたときに、どうすればいいのか。
128(死の意味)それが誰の死なのかとか、その人と自分とのかかわり方によって、死の意味というのはまったく違ってくるんですよ。
133(生命といのち)つまり人間のメンタルな心理的反応のなかに、じつは生や死が埋め込まれているのではないか。(中略)134 いのちというのは閉じ込められているのではなく、非常に広がりを持っていて、有限な生命に対して無限性を持っている。
136(ホスピスの定義)その定義とは、その人がその人らしい生を全うするのを支えることがホスピスの仕事である。
139(言葉の深さ)きっとそういう場所で出た言葉とか、最後に限られた時間と限られた選択肢のなかで、その人がしたいと言ったことの内容の深さというのは、たぶん他人には絶対にわからないことだと思います。140(いのち論)いのちを支える、サポートするというのは、単にその人の生だけを支えるというのではなく、死を超えて伝わっていくものを支えるというふうに考えていけるとすれば、もっと希望があるのかもしれない
141(「からだは痩せても、いのちは太る)」)
142(死の受容)この種の仕事のむずかしさは、検証ができないということなんです。
147(共感を求める)個人教で死ぬのは、まさに一つの生きざま、一つの死にざまであると思います。(中略)ただし、私の経験では、すべての人に例外なく共通していることは、自分の気持ちや、自分の考えていることをわかってほしいということなんです。
151(いのちをささえる、私の全人格でかかわる)死に直面すると、四つの痛みがあるといいます。すなわち身体的、精神的、それから社会的、そしてスピリチュアルな痛みという四つの痛み(中略)非常に重い、いのちの質問(中略)そのときそのときで、私の全人格でかかわるということ以外に道はありませんね。

〇多田富雄(免疫学)
「老いと死を見直す視点」
ⅳ(概要)脳死の意味や、老いのメカニズムなどをめぐって進んでいった(中略)「老い」のなかに重層的に記憶される時間というもの。能舞台でそれを舞うことが老いの花となるという話は、まったく新たな世界を垣間見る思いがした。
156(死生観)中世の人たちは、少なくとも死者というのを存在しないもの、つまり無とは考えていなかった。「非存在ではない」と考えていたんじゃないでしょうか。
157(全体を見る)お能の中で「死者の声を聞く」ということに私がたいへん興味を持っているのは、それが全体を見た上で語りかける声だからです。全体を見通す目というのは、おそらくすべてが終わったあとの死者の目しかないんじゃないか、と思うからなんです。お能が現代人にも大きな感動を与えているのは、私たちはふだん生者の目で仮りの現象を見ているに過ぎないのだけれども、お能を見ることによって、生の全体を見渡すことができる死者の持っている視野を共有できるからだ、と思います。
160(「無明の井」の背景)何が欠けていると思ったかと言いますと、当事者であるはずの脳死者の声が聞こえてこないんです。
174(死とは)全体を見る支店がどこかで消えてしまったために、「死」の概念そのものが小間切れになってしまった。そのことに対して、一般の人が拒絶反応を起こしているんじゃないかと思います。/そうですね。本来、死は一人の人間に起きるというよりも、その人が存在している場における何か、全体における何かなんです。
176(老いとは)人間が老いていくこと自体が、じつは遺伝子のなかにプログラミングされているのではないか、ということが明らかになってきました。(中略)細胞は積極的に老いているということ
184(老化現象のとらえ方「システム」)複雑な系の場合ですと、一定の細胞に老化の反応が起こると、それによって二次的なアンバランスが引き起こされて、自己崩壊していく場合があるということです。自己崩壊する部分は、単なる細胞の老化の総和としてだけでは捉えきれないシステム自身の問題になります。186 部分の老いの現象論をいくら加算して積み重ねても、本当の意味での個体の老いを理解することはできないと思います。
187(老いの本質)かつての日本の文かでは、「老い」は単に健康な状態から転げ落ちたマイナスの状態にとどまらない、何かそれ以上の意味を持っていたと考えることができますね。
196(存在の花)若いときの美しさというのは、「時分の花」、つまり一時期の花と規定しています。老人になってからの美しさは「老い木の花」という言葉で表現し、それが「まことの花」、つまり完全な美だと書いています。
197(時間が重層的に凝縮して存在の花になる)老いのなかに若さがあり(中略)時間というものを、単純に過ぎ去る物理的な現象と見ないで、その間に蓄積されてくる時間の記憶のようなものに、価値を発見したか
199(新たな時間感覚)時間は不可逆で、人間の能力は落ちていくという世界観から離れることによって、われわれの生命や社会の見方を変えていけるかもしれないし、さらにサイエンスの可能性も広げていけるんじゃないでしょうか。

〇田沼靖一(薬学)
「二重にプログラムされた死」
ⅴ(概要)死というのは生の失敗なのではなくて、きっちりとわれわれの遺伝子に組み込まれたプログラムだという
203(アポトーシス)細胞がどのようにして死んでいくのかというのをよく観察してみると、(中略)ちゃんとしたプログラムにしたがって、きちんとした過程を通って死んでいくことがわかってきました。
211(アポトーシスの機能)生物がかたちをつくるときに、細胞の死がないと、細胞はただ単に塊の状態になってしまいます。/214 ウイルスとかいろんな病原菌が入ってきて、異常をきたした細胞とか、がん化していく有害な細胞が出てきたときに、そういったものをきちんと排除したりするときにも、アポトーシスの機能が働きます。(形作る/維持する)
214(アポビオーシス)「非再生系の細胞」脳神経の細胞のように置き替わらない細胞があって、そういう細胞もやはり別の仕方でプログラミングされて死んでいる。そのことは、アポトーシスとは区別して、アポビオーシスと呼んでいるということ/216 非再生系の細胞に備わっている死であって、それは個体の消去にかかわっている。ですから、個体を自然の循環のなかに戻していく死と捉えています。
219(細胞死から生命を見る)サイエンスの面で、きちんと死が遺伝子にプログラムされているのは新たな生命を更新していくためにあるんだ、ということをやはり認識することが、おそらく人間社会で生きていくとか、自分とは何かということを考えたりするうえで、重要ではないかと思っているんです。/222(アイデンティティ)人間が生きていくためには、自分とは何かということを問えることが大切なことだと思います。
230(性と死、優性生殖)有性生殖のなかで重要なことは、遺伝子として二度と同じ個体をつくらないということ/遺伝子はつねに変化しながら進化できるシステムだといえます。

前川喜平『面従腹背』毎日新聞出版、2018年。

・出版されたことを知ったときに、タイトルを見て思わずニヤリとしてしまった。
・公務員として思うところ、持ち「続ける」べき信念について、元文部科学省官僚として思っていたことを語っている。やりたいこと/やりたくないこと、やるべきこと/やるべきでないこと、これらが必ずしも一致しないことがある。公的機関の多くの先輩が納得しない説明をするところを敢えて語っているといえる一冊。
・公務員である前に、日本人という個人である。
・自分の置かれたところで関わる専門分野と仕事の中で培われる専門性。その信念や理念は、政治によってしても曲げてはいけないことがある。それを見極める目と、知りつつ立ち回る術を養うこと、職業としての公務員のあり方の本質ってこういうところにあるのだと感じた。

■以下引用
7(メッセージ)組織の論理に従って職務を遂行するときにおいても、自分が尊厳のある個人であること、思想、良心の自由を持つ個人であることを決して忘れてはならないということだ。組織人である前に一個人であれ
14(面従腹背)本当の意味で「全体の奉仕者」になるためには、一個人であり一国民である自分自身に正直にならなければならない。一個人として自分は何を国に求めるか、一国民として自分はどのような国を望むか、そこを基点としてしか国民全体の幸福を考えることはできないのだ。
126(学問によってのみ真理・真実に到達できる)学問は、真理や真実に迫ろうと人類が積み重ねてきた営みである。それは「学問の自由」が保障される中でしか実現しない。自由な学問的営みの中で真理・真実により近いとされていることを、整理し構造化し、子どもの発達段階に応じて再構成したものが「教科」である。真理や真実は学問によってしか到達できないものであり、法律に書いたから真理なのだ、真実なのだなどと主張することはできない。
151(教育の原則)「『不当な支配に服することなく』とは『教育の自主性』『教育の政治的中立』という教育行政がふまえるべき大原則を継承」「『法律に定めるところにより』とは、単に手続き的な面で法律を根拠にして教育行政を行えばよいというものではない。法律の手続き的合法性のみならず、内容的正当性をもってはじめて法律による行政が成り立つものである。教育行政が恣意的に行われたり、権力的に実施されたりすることを避けようという趣旨。
160(道徳の扱い)人間の内面的価値への限度を超えた国家的介入であると考えざるを得ない。(中略)「個人の尊厳」と「地球市民」の視点が欠けている。
187(行政の権限)国民の代表者が作った法律に基づいて、政府が国民から預かっている神聖なもの
211(「眼横鼻直」がんのうびちょく)「眼は横に、鼻は縦についている」という当たり前のこと(中略)要するに、真実をありのままに見て、ありのままを受け止める、そうすれば自他に騙されることもなくなるだろうと、そういう意味です。
222(公務員のあり方)政治かと官僚の間には、ある種の緊張関係がなければならないと思う。どちらかがどちらかに依存してしまってはいけない。(役人生活の仕事は、1対4対4対1くらい)

AudioBook聴取記録(200101~200308)

2020年に入ってから聴いたオーディオブックについての記録です。

○枡野俊明『傷つきやすい人のための図太くなれる禅思考』文響社
「図太い」という言葉の本質を、仏教、特に禅の考え方から説く。「動じない、過去や未来にとらわれない、今にこだわる」。「ありがとうさん」「いろいろ聞いちゃうと、ねぇ、あれだろ」など、実際に使えそうな小ネタから、呼吸法の効果・効能まで、実生活、個人に焦点を当て「自分が楽になる方法」を教えてくれる。禅僧ってすごいな、と素直に感じさせられる。

○山本昌作『ディズニー、NASAが認めた 遊ぶ鉄工所』ダイヤモンド社
「楽しい」か「楽しくない」か、楽しい仕事しかやらない。
少量多品種にこだわり続け、「人がやるべき仕事」「人が育つ仕事」にこだわる鉄工所の経営の一部を描いた作品。徹底した標準化、機械化により、半年で旋盤のプログラムを作ることができるようになる教育体制がある。「人の能力」「人を育てる」ことにこだわり抜いている経営は、聞いていてある種の理想型のように感じる内容だった。

○角田陽一郎『「24のキーワード」でまるわかり!最速で身につく世界史』マスコム
自分が通史に自信がないので、著者の主張を活かしきれていない感じはあるが、「思想」「お金」「病気」「水」など、注目されるキーワードを起点に、歴史を記述しなおしている。
・歴史を考える時に、現代とは何もかもの背景が異なる(かもしれない)ことを常に意識することが肝要といえる。その時代を生きる人の生活に関するイメージを作って歴史を読み解いていく姿勢を学んだ。

○鈴木大介『最貧困女子』幻冬舎→Kindle版購入
「再貧困」を、収入額だけでなく、家族・地域・制度(社会保障制度)の三つの縁からの分断であると定義する。これらの縁がなく、日銭を稼がなければ生活が立ちゆかなくなる(と思い込んでいる)人がセックスワーク周辺にいることを可視化する。著者は現在高次脳機能障害の当事者として自分自身を見つめる著作も上梓されているが、元々はこうした「見えない人たち」を可視化することにこだわったルポライターである。「本当に支えを必要としている人に、支援が行き届いていない」という主張には、福祉に携わる身として響くものがある。現場で薄々感じていることではあるが、確かに「行き届いて」はいないと気づかされる。

○内村鑑三『後世への最大遺物・デンマルク国の話』岩波書房
帝国主義時代に、事業の本質や海外事情を紹介する講演録。背景がつかみきれておらず、内容要約が困難。

○ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』上・下、河出書房。
テクノロジーの進化が、人命救助から、アップグレードへと目的がすりかわりつつある。
金銭を積めば、「有利な選択」ができるようになる。
それが、何をもたらすか。
自然中心が人間中心になったように、人間中心が情報中心アルゴリズム中心データ中心になるかもしれない。
データとアルゴリズムが、人間を支配するかもしれない。
データが宗教へ

○稲田将人『戦略参謀の仕事 ープロフェッショナル人材になる79のアドバイス』ダイヤモンド社。→書籍購入済

○玄侑宗久『サンショウウオの明るい禅』文春文庫。→良書。絶版。

○長岡弘樹『教場』小学館。
警察小説。人間関係の中に、上司と部下、そして「見抜かれている感覚」が随所に表現されている。怖くもあり、興味深くもあり。人間の内なる感情に触れる小説。

○岡田尊司『愛着障害』光文社。→Kindle版購入
従来の精神疾患の診断に、「愛着」という視点を組み入れることで、当事者と接して感じてきた違和感を理解するための補助線を一つ手に入れたような気がする。かかわり方について具体的な提案がされていることも特徴といえる。

○中川毅『人類と気候の10万年史 過去に何が起きたのか、これから何が起こるのか』講談社。
研究過程が詳細に説明されている一冊。歴史それも自然史を10万年という膨大な期間で研究・記述している。内容は一般向けとはいえかなり難解であった。気候変動が単に二酸化炭素の増加によって起こっているという単線の理解にメスを入れながらも、様々な取り組みが必要であることを説いている。

○石川拓司、NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」製作班『奇跡のリンゴ「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録』幻冬舎。→書籍購入済
事を起こす(無農薬栽培)には、膨大な背景があった。「やるべき」と考えることにまっすぐひたむきに取り組む、木村氏の思いと行動は清々しい。
虫(害虫)との闘いも、収入がなく生活が困窮することもつらいだろうが、何より「周囲の無理解」が木村氏を苦しめたのだと思った。とはいえ、周囲は周囲で生活がかかっていたのだから無理もない。それを覆していった過程(プロセス)が記録されている一冊。

○吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波文庫、1982年。→書籍購入済

○下園壮太『自衛隊メンタル教官が教える 心の疲れをとる方法』朝日新書、2013年。

○清水健『112日間のママ』小学館、2016年。→良書Kindle版購入