2008年12月30日火曜日

自分がすべきことの範囲

先日、とある友人と話をしながら考えたこと。
特に仕事の中で、自分=Iyokiyehaがすべきことってどこまでなんだろう、と。

友人殿も、人相手の仕事に就いている。
もちろん、Iyokiyehaも日々人と会って仕事をする。
私の仕事は、場所が変われば立場も変わる。
同じ「支援者」や「相談者」という言葉を使っても、クライアントさんの前ならば指導者色が濃くなるし、事業所に出れば営業さんやコンサルタント色も出てくる。
どちらも「やれば、どこまでもできる仕事」である。

気づけば、膨大な書類の山、作業の山となって、いつの間にか仕事に追われる毎日となってしまうのだが、では、その中で「本当に自分がやらなければいけないこと」って何だろうと考える。
「自分がやらなければいけないこと」=自分にしかできないこと、と読み替えてみると、ちょっとその姿の輪郭が見えてくる。
すなわち、人に任せられることは人に任せることをまず考える。
その「人」には、同僚・先輩だけでなく、目の前のクライアントさんも含めると、意外と面白い結果となる。

指導者としての一面を持つIyokiyehaであるが、今年度気づいた大きなことは、「指導の一部を、クライアントさん本人にも担ってもらう」ということである。
もちろん、私が説明すべきことを全て調べてもらうとかいう乱暴な話ではない。
これは、「もっとも入りやすい時」に「もっとも欲しているもの」を「簡潔に」指導するということである。
よって、「いかに伝えるか」というHowの視点よりも、「いつ」「何を」伝えるかというWhen、Whatの視点の強調である。
ちょっとしたことだけれども、このことはIyokiyehaにとってちょっとしたパラダイムの転換であった。

支援技法はもちろん大切である。
ただ、その技法に凝るだけでなく、タイミングと的確な内容を把握するアセスメント(評価)の技法によって、技法の未熟さは結構フォローできること、または今持っている技法の効果を最大値へと引き上げてくれるように考えるようになった。
このことは、意外にも仕事の効率化にもつながると思うのだけれども、この話のまとめはまた別の機会に。

エコえこ

地元、浜松に帰省する。
スーパーで買い物をすると、やはり「エコバック」を推奨するポスターが貼られている。
時代は変わったと、ふと思う。
5年前までは、レジで「袋要りません」というと、「はい?」みたいな顔されたのに。

まぁ、いろんな解釈があるので、レジ袋の有料化に関する価値判断は避けておく。
例えば、Co2削減がどれだけとか、ゴミが減るといった、正の解釈がある反面で、エコバックの方がCo2排出量が多いとか、エコバックの売り上げがウン千億円だとか、レジ袋の方がCo2削減量が少ないとか、立場変わればデータの見方も変わるので、一概に何がいいとは言えない。
個人的には「必要ないものはもらわない」ことによる「ムダ削減」で充分だと思う。

ただ、ここ2年くらいのレジ袋に関する変化は、つくづく「国の号令ってすげぇ」と思ってしまう。
それと同時に、国(だけでなく、公共のと読み替えるのがいいか)が本気を出して掲げたキャンペーンというのは、良くも悪くも国民に「思考停止」させるだけのインパクトを与えるものなのだと感じた。
様々な解釈がされている環境問題に関して、「とりあえず」の立場で、ベターな一手を打つ。
今回、白羽の矢が立ったのが「スーパーのレジ袋」であるわけだ。
最近では、必要だと思って5円出してレジ袋を買うことに、ちょっと後ろめたさを感じたりして。

Iyokiyehaは、普段大きめのトートバックにあれこれとモノを詰めて出かけるので、買った品物はそのバックに放り込んでいる。
もう、学生の頃からだから10年近くになるか。
自分で考えて「正しい」と思ったらやってみることが信条になったのは、このあたりなのかもしれない。
だから、エコバックだって、もう少し突っ込んでみて、自分の頭で考えて価値判断をしたいものです。
「いつの間にか思考停止」の可能性に気づいた以上は、そのままにしておきたくないですね。
個人の地道な活動が広がることにより、世の中のしくみが変わることを、ちょっと感じているところです。

2008年12月23日火曜日

身体が連動して動く

先日の続き。

http://iyokiyeha.blogspot.com/2008/12/blog-post_21.html
(2008年12月21日投稿)

合気道で技が発動する時、自分から出力される力はそのほとんどが「直線」ではない。
動作が直線に見えても、相手に伝わっている力はいくつかの別のベクトルによって生み出される複雑な力である。
合気道や太極拳によって繰り出される力が、他の打撃系の武術と違うのは、このあたりなのかもしれない。

下半身は、低い位置を這うように、先日考察した「前進」をしながら、腕は肩から大きな円を描く、それと同時に肩の回転とは違う回転量で腰のひねりが元に戻る。
それらが連動することで、自分の腕を通じて相手に加わる力は、勢いをつけて体当たりするのとは全く別質の力になる。

面白い。

身体の各部位の動作が、それぞれ独立しながらも、相手に加わる力としては合成され、それも独立した複数の動作から生成される力のため、力と力によって相殺されるような質の力ではない。
ある一点でかかる力に対し、それを相殺しようと思っても、時間の経過(一瞬だが)とともに、力の方向は変化を生む。
これが、合気道をやっていて面白さを感じるところでもある。

この「各部位の独立した動作が連動する」ということに関連して、毎日やっている木刀の素振りでの気づき。
最近、袈裟斬りがスムーズにできるようになった。
以前は、袈裟斬りの動作をすると、肩と肘に「つっかかり」を感じ、どうしても手首に負担がかかっていたのだけれども、ゆっくりと何度も肩を意識して練習したところ、以前よりもスムーズに肩と肘が連動するようになった。
手首に要らん負担はない。

自らの身をもって、人体の面白さを体感している。
神経系の動作は、奥が深い。

先日の出来事

先々週くらいになるだろうか、通勤時に聞いているラジオの占いコーナーの一幕。
「今日のラッキーパーソンは、駅前の喫茶店の店員さん!」
だそうだ。

・・・アバウトだなぁ。

まぁ、いいんですが。
地元ネタなら、「俺の巴里」のおじさんがラッキーパーソンということに(わかる人向けのネタです)。

ということで、その日は「俺の巴里」へ。
勤務を早くあがれた時の勉強は、ここかマクドナルドです。

徒歩にて、「俺の巴里」へ向かうと、向こうから、おばさん×2、おじさんの一群が。
特に絡まないのですが、その発言が何だか面白くて。

おばさんA「これって、これなの?」
おばさんB「そうそう」
おじさん 「あれはあれだよ」
一同 「(笑)」

通じてるんだ!

英語なら、
A: This is this?
B: Yes,yes.
C: That is that.
All: Ha-Ha-
こんな感じでしょうか。

傍からみたら、何も言っていないのと同じです。
言葉って、多分に「関係性」によって成り立っていることがあるんだなと、真面目に考えた出来事でした。

・・・「俺の巴里」?
行きましたが、いつも通りおじさん(マスター)と絡むことはなく。
ラッキーパーソンって何だろうと思った日でした。

「関係性」を考えるための出来事を目の前で起こしてくれたこと、この一点のための占いだったと思うことにしています。
久々の雑記でした。駄文で、申し訳ないです。

2008年12月21日日曜日

「前進」に関する一考察

合気道の師匠から教えられていたことで、どうにも不可解だったことの一つに対し、ひょんなことから気づきがあったのでメモ。
「前進」する際の、足の運びと身体の連動に関すること。
ちなみに「ひょんなこと」=「娘を抱いてあやしていた」である。

歩行や走行動作の際に、後ろ足を蹴って前進する方法では、後ろ足の蹴る力によって前進する力が生成される。
この場合、最も強い前進する力は、後ろ足で蹴った力が運動エネルギーへと変換され、身体動作速度が最大になった時に生まれる。
この力は、後ろ足を「蹴る力」によって生成されるため、力の大きさは足の筋力次第ということになる(部位に関する勉強は未実施)。

これまで、何となく「感じ」や「予感」はあっても、不可解だった合気道の理合(りあい)の一つは「後ろ足で蹴らずに前進する」ということ。
もちろん、全く蹴らないことはほとんど不可能であるとは思われるが、蹴る力ではない別の力を利用して、身体を前進させるという理合である。

娘を抱いて、揺らしてあやしている時に、ふと「つつっっ」と身体が前進した。
いつもと違う感覚に気づき、動作を何度か復習してみる。
ちなみに、娘はその感覚が快刺激なのか、ニヤニヤと笑っている。

理合を言語化すると、以下のように表現される。
つまり、体重のもつ「位置エネルギー」(重力に従い、真下に働く力)を、身体動作を調整することによって、身体全体を前進させる力として開放することである。
直立すると、体重の分だけ位置エネルギーは存在しているものの、直立する足の筋力と均衡がとれるため、エネルギーは解放されず留まったままである。これが「気をつけ」の姿勢。
通常の歩行・走行動作は、この真下に働いている位置エネルギーに対して斜め上気味に地面を「蹴る」ことによって、身体を前進させる。
一方、合気道的な動作では、腰と足の位置を「調整」することによって、位置エネルギーの「落ちる位置」を調整し前に押し出すことにより、結果として身体が前進する。
感覚としては、身体の中で「前に動こうとするエネルギーを溜め」つつ、膝の関節を調整し足を前にスライド「し始める」のに合わせて、腰が前進し、身体がそれについていく感じである。
位置エネルギーによって生成された前進エネルギーが、一旦身体内に溜まり、引き絞った弓が元に戻るときのように力が開放される。
この力が人に伝わると、伝えられた方は一瞬にしてものすごい力がのしかかってくるような感覚に襲われる。
師匠に正面当てをかけられたときに、ふっとんでしまう時のような感じなのだろう。

感覚を掴むためのとっかかりができたので、また動作によって意識化していこうと思う。

ちなみに、宮本武蔵が言ったこととして、師匠から「剣は身体動作についてくる」といったことを紹介されたが、そのことに関する思索もまた、深めたいと思う。
最近、袈裟斬りの動作が安定してきて、肩や肘のつかえもとれてきたことと、関係があるかもしれない。



(仮説-左:通常の歩行・走行動作、右:合気道の理合による前進動作)

森博嗣『ナ・バ・テア ――None But Air』中央公論新社、2005年。

『スカイ・クロラ』シリーズ第2弾。
http://iyokiyeha.blogspot.com/2008/09/sky-crawlers2004.html
(2008年9月9日投稿)
やはり、独特の世界観は変わらず。
飛ぶために生まれてきた「僕」と、大人になった「彼」との物語。
「キルドレ」の姿が、少しずつ輪郭を持って立ち上がってくる。
とはいえ、謎は謎のまま、物語は進行していく。
不思議な感覚に漂うような、浮遊感のある小説だった。

どうして、普通のものを決めるのだろう。
普通を決めるから、普通じゃないものができてしまう。
理不尽な話ではないか。
何をもって普通なのか。
意味はないのに。
そういう確固とした理由もないところで境界を無理に作ろうとする姿勢が、普通という馬鹿なやつの正体だ。
(186ページより引用)

淡々としているのに、なぜか物語に引き込まれてしまうような感覚があるのは、『スカイ・クロラ』と同様。

おすすめ度:★★★★☆

2008年12月20日土曜日

ムスメ

最近、ペロリンと舌をよく出すようになりました。あうあうと、言葉にならない声を出しています。
相変わらず、よく寝て、よく飲んで、順調に大きくなってます。

2008年12月19日金曜日

職場開拓とは言うけれど・・・

過日のイベントにて。
「障がい者雇用は、職場開拓が重要」という意見が大勢を占めた。

おそらく、
受け入れ先がある
  ↓
就職先がある
  ↓
希望者が就職できる
という理屈だと思う。
確かにそんな一面はある。

ただ、それがすべてかというと、そうでもないよなぁ、と思ってしまった。
何でそう思ったのかということを振り返る。

理由はいろいろあるけれど、
1.職場定着の理屈と、職場開拓の理屈は、視点が異なる
2.具体的な対象者がいない職場開拓は困難を極める
といったあたりが、肝だろうか。

最近、職場定着=対象者と事業所の間にある「環境調整」(対象者の認識・能力と、事業所のニーズの差を小さくする等)とまとめているが、この理屈と「受け入れ先の有無」という状況は、一緒に取り組むべきことだけれども、具体的支援の中では厳密に区別すべきだろう。
よりどりみどりの開拓ができても、そこに認識・能力の自覚がない対象者ばかりいても定着はしないだろうし、事業所ニーズを的確に把握しなければ、マッチングはうまくいかないだろう。
また、どんな形であれ、想定する対象者がいない「職場開拓」は、あくまで一般論になってしまう。
一般論でうまくいくマッチングなんて、皆無だろう。
あくまで、自分が担当する、もしくは所属施設の利用者を想定して、仕事を見つける、創り出す視点は必要といえる。

といっても、考えが固まってしまうと、アポなし突撃開拓なんてことがまかり通ってしまうのだろう。
アポなし開拓も必要かもしれないけれども、信念もって、高い営業スキルを持ってやってもらいたいものです。

2008年12月18日木曜日

スピーカー再び

先日の土曜日には県の事業の講師、本日は会社のイベントでスピーカー。
どちらも、障がい者の就業支援を学ぶ人のための研修講師である。
本日の任務をもって、今年人前で話すことは、とりあえず終了です。


先週末と、今日の講師っぷりに点数をつけると70点くらい。
ふりかえって、イマイチです。
さっき投稿した、先週あたりのイライラを加味すると、もっと得点は下がってしまうけれど野、70点は中身だけドライに評価した結果。
参加者の多様なニーズには応えきれなかったかなと。
きっと、今回の参加者は、もっとクリアな、もっと総括的な、もっとデザインされた講義を聴きたかったんじゃないかなと、本番の雰囲気を素直にふりかえると、そう思う。


ギリギリ合格点ということで残念がるだけでは意味がないけれども、貴重な気づきもあった。
これまで、人前で話す時、自分が「伝えたいこと」をその場でいかに伝えるかということのみにこだわってしまっていたところ、今回も同様ではあるのだけれども、今回はオートクラインも働いていたことに気づいた。
http://iyokiyeha.blogspot.com/2008/06/2002.html
(2008年6月13日投稿)
よくも悪くも、余裕があったのだと思う。

まだまだ精進しろということですね。

読書状況081216

<今週の状況>
仕事と子育ての合間を縫って、少しずつ。
早朝勉強を、復活させたいですね。

○既読
・勝間和代『お金は銀行に預けるな ――金融リテラシーの基本と実践』光文社、2007年。

○一部(雑誌含む)
(精神保健福祉士通信講座テキスト複数)
・『Foresight』(新潮社)
・『週刊ダイヤモンド』(ダイヤモンド社)
・『TOPPOINT』(パーソナルブレーン)
・『PHP』(PHP研究所)
・米内山明宏『DVD付き はじめての手話入門』ナツメ社、2005年。
・松下幸之助『道をひらく』PHP研究所、1969年。
・寺田昌嗣『フォーカス・リーディング』PHP研究所、2008年。

○オーディオブック
・マーク富岡『3000人のユダヤ人にYESと言わせた技術』サンマーク出版、2008年。
・(現在)ジェームズ・アレン著『「原因」と「結果」の法則』サンマーク出版、2003年。

○現在進行中
・茂木健一郎、NHK「プロフェッショナル」製作班編『プロフェッショナル仕事の流儀 あえて、困難な道を行け』日本放送出版協会、2008年。
・弘兼憲史著、ラルフ・マッカーシー訳『バイリンガル版 部長 島耕作 新装版③』講談社インターナショナル株式会社、2007年。
・森博嗣『ナ・バ・テア ――None But Air』中央公論新社、2005年。
・竹内薫『[非公認]Googleの入社試験』徳間書店、2008年。
・ジャック・キャンフィールド、マーク・ビクター・ハンセン著、木村真理、土屋繁樹訳『こころのチキンスープ』ダイヤモンド社、1995年。
・Og Mandino “The Twelfth Angel” Ballantine Books,NY,1993.
・池谷裕二『記憶力を強くする ――最新脳科学が語る記憶のしくみと鍛え方』講談社、2001年。
・ノーマン・ドイジ『脳は奇跡を起こす』講談社インターナショナル、2008年。

野口悠紀雄『超「超」整理法』講談社、2008年。

前著は、名前だけは知っているけれども、立ち読みで済ませていた。
確か、学生時代。
当時こそ、「整理」が必要だったのだけれども、当時はノートパソコンを持ち歩くということをして、割と効率的に乗り切っていたように思う。

仕事をするようになって、物理的資料(紙、など)、電子資料(データ、など)問わず、「内容」で分類することに無理を感じていたところに、ぴったりくる内容だった。
以前、勝間和代氏の著書で「MECE Mutually Exclusive Collectively Exhaustive」に関する学びに触れたが、資料を内容で分けると、どうしても「ダブり」が出てくる。
こんなことに気づいたら、会社のパソコンで受信メールを分類するフォルダが、人・内容で混在していたことに気づいた。
ダブりがあると、分類できない。
同時に、モレがあると、分類できない。
なら、例えば「人でモレなく、ダブりなく」フォルダを作成すればいいことに気づき、整理したところ、非常に快適である。

本著では、Googleの提供するGmailに関する記述が多い。
以前より使っていたGmailだが、本格的に使ってみると、意外と使い勝手がいいことに気づく。
「検索」が機能することが、こんなにも便利だということに気づかされるシステムだ。
身の回りのものやことを「整理」する際に気に留めておきたいこと、それは「追えるようにしておく」こと。
パソコンを使えば、検索が効くようにしておくのが、モノを探すときにストレスを感じないコツといえる。

おすすめ度:★★★★★

最近のイライラ 081215作成

先週から今週にかけて、職場でひどい態度だったなぁと、素直に反省。
次から次へと細かな作業が舞い込み、目の前のことに必死になっているところに、追い打ちをかけるように意味のわからない本部指示に基づく作業。
上司にも、同僚の方々にも迷惑かけました。
さらに、仕事に抜けがあり、結構危なかったものもありました。
とばっちり受けた方々、申し訳ありませんでした。

どれもこれも、予定の立て方が下手なくせに、やるべきことに一つ一つ本気で取り組んでしまうからなのだけれども、その中で感じたことは、「仕事はできる人に集まる」のではなく「やる人に集まる」だけということ。
結局、「誰がやるの?」みたいな牽制のしあいっていうのが、大嫌いなので「じゃ、やりますね~」と言ってしまう。
職場で一番下っ端というのも、なかなか面倒ですね。
やるべき人が、面倒なこと言わないで、それぞれが効率を考えて動けば、もう少しマシになるのかもしれないね、と愚痴を言ってみたり。

オブラートが破れたので、ここまでにします。

幸か不幸か、今日は一日家のことをやりながら休めたので、明日からまたワーカホリックになろうと思います。
仕事大好き!
最近、素で言っている自分がちょっと不器用で、結構好きだったりします。