2019年2月17日日曜日

森岡正博『生命観を問いなおす ――エコロジーから脳死まで』筑摩書房(ちくま新書)、1994年。

・大学院生の時に、ある授業(倫理学特講、だったかな…?)で本著と出会い、その後の人生が方向づけられたと言っても過言ではないほどの衝撃があった一冊。私にとっては分岐点とも言える思い出の一冊。
・「生命」の考え方、捉え方について、明確かつ本質的(と思える)問いを発している。著者の提唱する「生命学」が拓く内容。
・「他の生命を犠牲にしたり、利用したり、搾取することもまた、「生命」の重要な本質であるということ」(199ページ)「社会システム、科学技術との『共犯関係』」(198ページ)といった、生命学を構成するキーワードが出現する。
・本著だけでも大変読み応えがあるものであるが、それまでの著書を含む今後の論文へとつながっていく一冊といえる。
・本著後半の梅原批判について、学生の頃は率直に「ここまでやらんでも…」と否定的に感じていたこともあった。今回同箇所を読んだ時には、この後の生命学の展開には必要不可欠な作業であり、さらに梅原論の弱点を突きつつもその補完をすることで、生命の本性を浮き彫りにしていることがはっきり読み取れた。論理の力を感じるとともに、見事な着眼点とその表現力を見せつけられた感じがあった。
・エコロジーや脳死および人体利用について、事例は若干古くなっているが、論理展開に全く問題はなく、むしろ関連した情報を追っていない人にとっては「わかりやすい」内容になっているように思う。

(以下、引用)
8ページ:現代の危機をひきおこした最大の原因は、私たち自身の内部にこっそりとひそむ、生命の欲望なのです。ですから、現代の生命と自然の問題に立ち向かうということは、実は、私たち自身の内部にひそむ本性と戦うことなのです。
124ページ:生命を抑圧してゆく権力装置は、外側の社会システムにあるのではない。それは生命としていまここで生きている私自身の内部にひそんでいるのだ。生命として生きてゆくということは、他の生命と助け合い、調和して生きてゆくことであると同時に、他の生命を抑圧し、それに暴力をふるい、それを支配しながら生きてゆくことなのだ。生命を抑圧する原理は、生命の内部にこそ巣食っている。(略)死すべしロマン主義。
176ページ:いくら「菩薩行」にもとづいていたとしても、それが<人間の身体の「部品視」「物質視」を前提として運営される社会システム>を補強する結果に終わるならば、それに反対するべきという立場が可能だと思います。
203ページ:生命の探求は、まずこの三つの本性(「連なりの本性」「自己利益の本性」「ささえの本性」202ページより)のありかをしっかりと見届け、現代の人間がこれら三つのうちどの本性からも逃れることができないということを、しっかりと自覚することから始めなければなりません。
 そのうえで、現代の科学技術文明と、現代の社会システムが、これらの本性の満足に対しどのような形で食い込んできているのかを確認することが必要です。
204ページ:そのなか(近代がもたらした科学技術文明と、産業文明と、近代市民社会システムの枠内で生活していくこと)で、現代の生命や自然の問題群にどう取り組んでゆけばよいかについて、具体的な提言を行ってゆくこと。
同ページ:そのあとには、「共生」とはそもそも一体何をすることなのか、「自然と技術」の関係はどのようになっているのか、科学技術は人間の「苦しみ」と「快楽」に何をもたらそうとしているのか、生命を「所有」するとはどういうことなのかといった。生命学の根本問題が数限りなく控えています。