2022年3月6日日曜日

本当のことがわかりにくい世の中

なんか、嫌な雰囲気なんだよね。身近な人の発言や、出回っている情報や、なんというか社会の空気というかなんというか…

Iyokiyehaの立場は、間違いなく「反戦」です。いかなる理由があっても、一般市民を巻き込むような、人の命が失われるような戦闘は、断固反対です。ただ、職業軍人以外の人に全く被害のない戦闘が可能ならば、国際問題を解決する手段としての「戦争」は方法としてやむを得ないものだと思います。理想的なイメージだけれども。繰り返しになりますが、一般市民に一切の被害が出ない、という条件つきの話です。現代ではありえない。よって、ロシアの行動は理解できません。が、かろうじて価値判断(良し悪しの判断)は保留しています。

ところで、最近のニュース全般に言えるのだけど、この「理解できない」が曲者です。何事にも、それが起こる背景があって、その出来事を見る立場によって、意味が変わってくる。もちろん、事実は一つなのだろうけれども、それを何らかの形で表現した瞬間に、誰かのフィルターがかかったものになる。文脈を踏まえると、完全に客観的な事実というのは記述できないことになってしまう。これが表現の限界といえる。

そこにきて、最近は動画配信などというものが一般的になってきました。報道の世界による特殊な技術ではなく、誰もがスマートフォン一台で動画を作成し閲覧できる時代です。しかしながら、その情報の真偽の確認は人間に委ねられているのが実際のところでもあります。

この「動画」というものも曲者です。テキストによって物事が表現されると、書き手の見え方が反映されてしまうのだけど、では「動画」なら?「誰が撮っても同じだよ、事実だよ」という雰囲気が、かなり広がっているように感じるのだけれども、どうなんだろう。これは、テレビが動画配信サイトにとって変わったにも関わらず、今度はテレビという大物が動画配信サイトという新興勢力を取り込みにかかった一つの事例と見えてしまう。要は、映像の効果は素晴らしい!という雰囲気が蔓延している昨今の世の中の、いわば意思のようなものとも感じられます。

これに加え、フェイクニュースというもの。特殊な技術でなくても、ちょっとした加工を施すだけで、人の目には別の情報がそこに加えられてしまう動画があります。それも、事実とは異なることを伝えてくる内容になってしまっているのに、それをクイズ番組にしても正解できないような精巧な作りのものが横行していることも、びしばしと感じます。

ここに怖さを感じるのが、今回のウクライナを巡る一連の報道です。一つには「ロシア悪者、ロシア討つべし」の論調が報道の大半を占めており、戦闘の主体とされているロシア側の文脈というのが、一般市民である私には見えてきません。かろうじて、Web雑誌「Forsight」だけが、ロシアの文脈をとりあげた記事を一部掲載していますが、世の中の圧倒的な雰囲気は「勝手に軍事侵攻してきたロシア」が大勢のように感じます。大手新聞もしかり。これはアンフェアじゃないのかな。もう一つには、報道では映像がとりあげられており、原発に発砲している様子もニュースとして何度も目にしたのですが、さて「キエフの原子力発電所」と言われている映像が本当にそれなのか、日本に住む私たちが判断できるのか、ということもあります。ドラマ「MIU」(だったっけ?)でテロのフェイクニュースがキーになった回がありました。先にあげたようにクイズ番組の問題になっていても正解できないような映像がある中で、何が事実なのか、ということは実はよくわからないんじゃないか?と思ってしまっている自分がいます。

とはいえ、報道されることが全くの事実無根かというと、それもまた疑わなければならないのか。なんかもう、ほとほと疲れてくるし、そこまで口にしたらさすがにただの面倒なおっさんになってしまう。そんなことを思ってしまった自分がどうするか、というと、やっぱり情報だけには目を通して、判断を保留するという態度を貫くしかないのかなと思う。それも、この「流れ」のある社会の中では難しいのだけれども。情報との付き合い方、見直す時なのかもしれませんね。