2019年9月16日月曜日

森岡正博『完全版 宗教なき時代を生きるために』法藏館、2019年(初版:同社、1996年)。

・著者の森岡氏が、「生命学三部作」の一巻と位置づける主著の一冊。初版から24年経ち、内容はそのままに、解説となる「まえがき」「あとがき」を書きおろしで追加した完全版。
・生命学とは何か、という定義ついては、後に紹介する書籍にゆずるとして、個別具体的な経験を語り、整理して表し他の人の生き方の参考となるような支えのあり方、といった性質上、そのことを意識して読めるかどうかにより、本著の捉え方が変わってくる。確かに本書は生命学のあり方を表した作品(論文)といえる。
・20年くらい前に初版を読んだ当時には、氏の自分語りが強烈な印象を受け、読了感のあまりよくない一冊だったと記憶している。自分の修士論文の中でも、うまく引用できず(当時の自分には扱いきれず)悶々とした覚えがある。
・自分もそれなりに経験を罪、生き方も考え、自分なりに変わってきた今では、これらの表現が実感を伴い、自分の中に入り込んでくる感覚がある。
・「私」が活きる世界と自分との関係をどのように読み解き、その中で自分がどう生きるのか、ということを考えるための知恵=生命学ともいえるだろう。しかしそれは、結晶としてかくあるべし、という知識の集積ではなく、あくまで自分の生き方として実践され、何らかの形で表現され、その知見が伝わっていくものであり、そしてその目標は、対象となる人も内容も(今のところは)制御できないもの・ことなのだろう。
・自分を拓き(開き)続けること、自分で考えて行動すること。「私が私であり続けるために、私は変わっていかなければならない」(226ページ)ということに凝縮される。

(以下引用)
3 オウム真理教が力を持つような時代に、科学にも満足できず、宗教の道にも進めない私はどう生きていけばいいのかをひたすら考えた。オウム真理教事件の核心は、科学時代における「生きる意味」の問題だ、というのが私の直観だった。これが本書を貫くテーマ(後略)
39(科学「ラディカルな消去法」批判)世界は、無視できない様々なファクターによって、動いているはずだ。
62(生命学とは・第三の道の可能性)それは、生と死や「いのち」や存在の問題に目隠しをする唯物論の社会、科学主義の社会に異議申し立てをしつつも、それらの問題に対する解答をけっして宗教の「信仰」には求めず、そしてどこまでも思考放棄せずに、自分の目と頭と身体とことばを使って自分自身でそれらの問題を考え、追求し、生きていくという道である。そうした生と死と存在の問題の追求を、右の四つのスタンスに立ちながら、他者とのコミュニケーションを通じて、自分ひとりの責任において行い、自分自身の生死に決着をつけていくような道である。
 私はこういうい知性のあり方と、そういう知性に裏づけられた生のあり方を「生命学」ということばで呼んでいる。
99 <自分を目覚めさせてくれたいのちの恩人を、知性をもって相対化しろ>
136 敵は自分の外部にあるのではない。敵はほかならぬ自分の内部に巣喰っているのである。生命を問いなおすとは、そういう生を生きている自分自身の姿を問いなおすことなのだ。
201-2(目隠し構造)自分がもっている「見たくない自分」を見なくても済むようになってきたときに、人はどのような心理状態になるだろうか。その答えは簡単だ。人は、まるで生まれ変わったような自分を体験することになる。
(中略)見たくない自己を見なくてもいいような状態になったとき、人間は、自分の身体が行っていることの意味がほんとうに見えなくなる。「あるべき自己」が「良きこと」をしたのに、なにがおかしいのかという思考回路になってしまう。
216 「ほんとうの自分」とは、目を閉じて自分を真っ白にしていくことによって獲得されるのではない。「ほんとうの自分」とは、目を見開いて、見たくないものをどこまでも見てゆくプロセスのなかで、そのつど立ち現れてくるものなのである。
225 大事なのは「ディスコミュニケーション」(註:お互いに全然わかりあえない状態)から逃げないこと(中略)つねにみずからを「無理解」と「謎」に向けて開き続けること。
226 私が私である続けるために、私は変わっていかねばならない。

2019年9月15日日曜日

養老孟子、森岡正博『対論 脳と生命』筑摩書房、2002年(初版:同『生命・科学・未来』ジャストシステム、1995年)。

・前回読了が2004/2/27とあった。修士論文を執筆しながら読んでいたものと記憶している。15年経って読み返してみたが、内容は古さを感じない。(1)現代社会を生きる私のよろこびとは何か、そして(2)その現代社会と私との関係はどうなっているのか、という点において、氏のテーマは変わっていないのだろう。それだけ普遍的なテーマであるといえる。ただし、現代においてはテクノロジーは確実に変化している。
・40歳を迎えた私にとって、森岡氏の一貫した思考方法において、現代社会におけるテクノロジーをつかんでいくことが組み込まれていることをはっきりと読みとけたことは、大きな進展といえる。「個人のあり方」に偏っていた学生時代の読み解き方とは大きく異なることを実感している。
・人は変わっていく。望むと望まないと関係なく変わっていく。その変化を納得して受け止められるかどうか、受け入れられるかどうか。意図して仕掛けて変わっていくこととは少し異なり、環境(広義:自分以外の全て)の影響を受けて、予期しようがしまいが、私におとずれてくる変化を、とらえて、受け入れて、それに納得できるということが「悔いなく生ききる」ことの意味ではないかと思っている。
・対談集を続けて読んでいるが、本当の意味での議論ってこんなに知的好奇心を刺激させられるのかと実感させられる。テーマが深まり、広がり、触発されて次のステージに移り変わる様子が読みとれる。

(以下引用)
10(「意味」の意味)意味というのは結局いろんなものの関係ですよね。(中略)意味はその人が死というものをどういうシステム・考え方の中に位置づけているかということだと思うんです。死自体が存在するとかしないとか、そういう話じゃなくて、そういうものをめぐる全体的なシステムがどうかという質問になっちゃう。
20(解剖道)死体と向き合っているあいだは、相手は他者なんです。ある段階からそれが他者でなくなって、自分の手が動いていく道筋みたいなものが生まれてきた。自分の手が動いていくといっても、自分で動かしているんですけどね。だけど、それは自然に動いていくので、いってみれば境界がなくなっちゃう。(改行)強いて他者だと考えているうちに、自分が何をしているのかというと、相手に聞いているわけです。自分の動作が相手に質問することになり、相手からの返事は耳でなく体で聞いているという、そういう状態になってくる。
28(人の死と科学の限界)何が人の死であるかを「科学的に決める」ことは原理的にできないということが、まったくわかっていないんですよ。人の死が何であるかを決めるのは、宗教であり、習俗・慣習であり、法であり、政治なんです。
86 システムのなかのひとつの歯車にされてしまった生命は、その「かけがえのなさ」を抑圧される。
89 追試不能な「かけがえのない」ものと、法則とか統計の次元で意味をもってくるものとを、社会のなかでどうやってうまく結合させていけばいいか、ということですね。
92(変化すること)私の成長に応じて、世界の見方も変わるし、真実そのものも変化していく。それだけではなくて、世界を見ようとする私自身が変化していく。(中略)つまり、私が対象を認識したり、何かを考えたりすることの、その全体が変化していく。世界を見たり考えたりするその基準点そのものが変化していく、という感じなんです。生命世界というのは、そういう動き方をする世界じゃないかと。
121(自己家畜化)(第一段階)現代文明は、痛みとか不快なことを自分でコントロールできる範囲内にどんどん繰り入れるという形で進んでいて、われわれの多くがそれを承認しているという事実があると思うんです。(中略)(第二段階)極端な痛みや苦しみは全部排除するけれども、耐えられる痛みや苦しみは自然に任せておくという形での巧妙なコントロールを始めると思うんです。
124 自分は基本的に変わらなくて、ただ環境のある範囲内の変動に応じて、ゆらゆらと揺れているだけ。そういう生のあり方を選択することになるのでしょう。
131 要するに個性とか個人とかいうから死んでしまうわけであって、右の人とか左の人が同じであれば誰も死ななくなる。それが一種の理想社会です。
154(ヒューマニズム)結局ヒューマニズムというのは、人間のあいだにまず差別を設け、強者による弱者の搾取や支配を正当化するイデオロギー装置であるといえる。普通ヒューマニズムは、搾取とか差別とかに対抗するイデオロギーだというけれども、よく考えるとヒューマニズム自身が差別の構造をもっている。
164(二つの「知」)まず単に「知る」こと(中略)学問というのは一つは、現実を広げていく作業(中略)何のためにそういうことをするのかという目的が入ってくる。それが入ってきた「知」というのは、何らかの目的のためのものですから、もはや純粋な「知」ではない。
196(変化すること)われわれがものを覚えていくには二通りあって、人から伝えられて覚えることも確かにあるんですが、もう一つ重要なのは、そういう死んだ人体という自然と自分が密着していくことによって、自分のほうが変わってくるという体験によっても覚える。しかも、これは絶対に口では伝えられない。なぜかというと、いまの自分はかつての自分ではないわけです。
198 ポイントはやはり、自分が変わるということですね。私がいいたいのは、とくに近代の自然科学という「知」が、自分があることを体験したり、ある世界を見たり、この世に生きて何かすることで変わっていくというあり方のなかで育まれる「知」というものを、系統的に排除し、抑圧してきたということです。それが近代から現代の自然科学的な知のあり方であり、それを支えているのが近代的社会の構造だと思うんです。
199 そのためには、生命というもののあり方から突っ込んでいくのがいちばん早いというか、真っすぐな道だと思うんです。なぜかというと、生命というのは結局変わるからです。我々自身が生命そのものであり、生命はほかの生命と関係しながら、成長して変わっていくでしょう。固定したら死んじゃうわけです。だから、まさにいま我々が話題にしている「知」のあり方とか、他人を変えることは自分が変わることであるという問題の本質がそこにある。
215(共犯関係)この社会のシステムは、個々人の意図や動機をうわべでは尊重するように見せかけながら、実はもっと大きなシステムの効率のために、裏側からこっそり利用するようなことをします。そしてその仕組み全体を、我々が無意識に肯定している。抽象的な言い方ですけど、そういう構造の欺瞞というか、システムと個人との共犯関係みたいなものを、きっちりと見ていくことが必要です。それが、いまの「知」の課題でしょうね。