2019年8月16日金曜日

井上章一、森岡正博『男に世界を救えるか』筑摩書房、1995年。

・国際日本文化研究センターの現役論客井上氏と、同センター勤務時代の森岡氏(現在、早稲田大学)が、ジェンダーを切り口に社会と世界、そして自分の内面をえぐりだしていく対談集。
・大まじめに歴史認識や男女関係を整理し新しい視点を加えていくことはもちろん、その背景となる社会構造や、それを引き受けつつ本音と建て前を揺れ動く自らの思考を率直(赤裸々?)に語ることで、(論理的には)エコロジーや愛と権力、脳死移植などへと展開していく。話題は尽きることがない。
・大胆にテーマを展開させる中で、森岡氏のライフワークである「生命学」の萌芽が読みとれる。「矛盾を抱えながらも、よりよく生きるための知恵」を思索し、その整理が進んでいる。
・時々「中学生かよ!」と言いたくなるような自己開示があるなど、(当時)気鋭の学者が本気で対談すると、人の内面がここまで言語化されてしまうということに、思わず吹きだしてしまいそうになる箇所も随所に含まれている。そういう展開ができること、それ自体が同テーマの他の著書にはみられない特徴であるといえる。
・概念形成や言葉の定義にこだわること、それらを深めていくプロセスは、上記「おもしろい」対談といえど、哲学を基礎とした知的創造の営み、あるいは真剣勝負の記録といえるだろう。
・概要:本書は性的な差異から見える現代社会の姿(1、2章)、環境活動から見える言論や(いわゆる)神話の位置づけと役割(3章)、そもそも「環境」とは何か(4章)、そして環境活動や社会変革における「少女」概念の定義とロリ・エコ・フェミの整理(5章)で構成されている。

(以下、引用)
33 頭を占領したフェミニズムは、やがていつか身体も支配してゆきます。 同 「愛」と「やさしさ」につけこみながら、フェミニズムは男の中に侵入してくる
35 自分の本性をコントロールして、いいことがあるんですよ。マゾ気分を楽しめるのです。私はこんなに美人が好きだ。しかし、倫理としては、それを公の場所で実行してはいけない。ああ、この二律背反、このジレンマ。自分の中のこの分裂に耐えて、苦しんで、生きてゆかねばならない・・・。
44 我々が問うべきは、「本質的に値段などつけようのないもの」ではなく、「本質的に値段なんかをつけるべきではないもの」なのです。(中略)値段をつけるべきではないものに、値段をつけてしまうことへの、倫理的反発。これが、売春を本質的に悪と決めつける人たちの、倫理的根拠なのでしょう。
45 資本主義の波にまったをかける反動勢力としての倫理。これが現代の倫理学に期待されているひとつの役割なのです。
52 臓器移植はすでに政治問題化していますからね。(中略)貨幣を介した市場での交換によって人間活動が運営されている現代日本において、セックスや臓器移植という相互行為に対しては、貨幣交換によってではなく、贈与によって運営すべきであるという、倫理のプレッシャーが働く。 同 現代の倫理は我々に、次のようなことを要求しているのでしょう。セックスにおける贈与の見返りは、たとえば具体的な性交渉行為そのものの中(性交に参与しているという満足感)にだけ見出せ。あるいは自分のセックス・アピールの贈与の見返りは、他人の視線がもたらす快楽の中にだけ見出せ。要するにセックスのカテゴリーの外での見返りを期待するな。臓器提供における臓器の贈与の見返りは、臓器を提供するという行為のただ中(たとえば人類愛への奉仕)にだけ見出せ。臓器提供の外に見返りを期待するな。このようなストイックな囲い込みの思想が、タダならよいが金をとると悪いという倫理の基盤になっている可能性があります。
57 金がからむと「道具化」がすすむという話もあります。売春とは、男が自分の快楽の満足のために女性を道具として利用することだし、臓器売買も、自分の生命と健康のために人間の肉体を道具として扱うことである、というわけです。倫理学は伝統的に、人間や生命を「道具」として扱うことに反対してきました。しかし、我々の癒しがたい本性のうちに、人を道具として使うことへの衝動があることもまた事実であるように思います。
76 運動で負けるからこそ、言説面では敗者が光る、っていうメカニズムを、どこかでちゃんと計算にいれているんじゃないか・・・
82 二つの相容れない勢力が戦いをする。このとき、一方が勝ち、他方は負けます。勝った方は、敗者を徐々に征服し追い詰めていく。ただしこのとき、滅びゆく敗者は、死に際に、強烈な怨念のシャワーを発します。このシャワーの毒は、多くの人々に良くない影響を与えるかもしれない。そこで、勝者は現実世界での勝利と引き換えに、敗者に架空世界での勝利を渡す。そうすることで、敗者の怨念が「鎮魂」をとりおこない、戦いを集結させる。
106 「不自然だ」というのは、人間の気持ちの問題、つまりある種の自然プロセスを見たときに人のこころに湧いてくる「気持ち」の問題
118 自然にかえれという魂の衝動が、生命を抹殺せよという方向へと突き詰められてゆく。たぶん、「自然=生命」と考える人たちは、これとは逆に、「自然にかえれ」とは、<いのち>がつぎの<いのち>を連綿と生み続けてゆく、その生命の連鎖への参与のことだ(後略)
130 ナウシカを見てください。彼女は、自分の意志と判断力で行動する、自立した少女です。そして、危機に直面したときには勇敢に戦うことのできる「戦士」です。ナウシカは、性的には未成熟でありながらも、自分の足で自立して立ち、すなおで、勇敢で、かわいらしくって、ほのかなエロスを備えている。 同 そういう「少女」のエロスこそが、我々に宗教的とさえ言える思想のパラダイム・シフトを引き起こすことができうのですから。思想の次元での転回を導くような、少女系エコ=フェミニズムのことを、私は「ロリコン・エコロジカル=フェミニズム」と呼びたいのです。
172 「正義のいやらしさ」や「権力のドロドロ」をも自らのものとして引き受け、そのうえでそこに還元できない「愛」や「倫理」を見失うことのない地平で、それらすべてとの永遠の格闘を――つまり答えのない闘争を――続けるようなものになるはずなのです。(「生命学」)