2017年12月11日月曜日

ごみの集積所

先々週まで利用していた、自宅目の前のごみ集積所が閉鎖されることになった。その理由は、ご近所さんが自家用車の駐車の利便性を高めるために、ガードレール撤去を検討したからとのことである。なんだか、そのご近所さんと住宅大家さんとの衝突も、集積所閉鎖の一因となっているらしい。
居を構えるということは、こんな近所付き合いも発生するのだなと実感している。「来週までは使えますので」というタイミングでは、新たな場所への移転ということも準備が難しい。
そして集積所が変更となったわけだけれども、この地区の元々の集積所は、歩いて片道3分くらいかかってしまうところに、隣のブロックの集積所を横目に3つ程通過するというおまけ付きの場所である。おまけついでに、多くの世帯が利用する集積所なので、カラス被害も出ているという、何ともいえないところになる。
ということで、なんとなくごみ集積所開設に動くIyokiyehaでした。それぞれの世帯の話を聞いていると、どこどことどこどこは仲が悪いの、お互いさまだの、いろんな人間模様が見えてくる。そういうのは面倒だけれども嫌いじゃない。

2017年11月26日日曜日

においと記憶

人間にとって嗅覚は、身の危険を察知することに使われるので、記憶と結びつきやすい、といったことを聞いたことがある。もう少し正確に表現しないといけないような気がするけれども、調べるのはまた今度ということにして。
オレガノという香辛料がある。普段あんまり使わないのだけれども、最近カリオカ豆を煮る時に使うので、自分にとっての使用頻度が上がったものである。
オレガノを使った時に、ふいに静岡に住んでいた時のある記憶がよみがえった。不思議な感覚である。当時使っていた鍋とか、その時に作っていた料理、バジルを切らしてオレガノを使ったことなど、何も特別なことがないある日の記憶が思い出された。とっても不思議な感覚であり、においと記憶が結びつくってこういうことなんだなと思った出来事だった。

2017年11月25日土曜日

身体操法における正しい線

今年に入ってから合気道を始めました。
山梨県甲府市に住んでいた時に、学生時代の先輩に稽古をしてもらってから10年弱経って、新しい土地で、新しい人間関係の中での合気道再開です。楽しい。
甲府で習っていた時には、短刀乱取りありの昭道館合気道で、基本17本と乱取りを中心に稽古していたのですが、
https://shodokanaikido.com/
所沢では興武館合気道で、基本動作から技を一つずつ練習していくもの。
http://renshinkaitokorozawa.web.fc2.com/

最近は技の練習もするようになったので、少しずつ昭道館との違いを感じつつ身体を動かしています。
合気道の技のほとんどは、基本動作が組み合わさってできているので、わからなくなった時には基本動作に立ち返ってみると、いわゆる「正しい動作」のヒントが得られたりします。自分の立ち位置や相手の相手の立ち位置、体格なんかによってそれぞれ「正しい動き」が決まってくるのでしょうが、それに近づくと身体がすっと動く感覚は、他の運動では得られない身体感覚です。今のところ私はそれに「正しい線」という言葉をつけているのですが、これは稽古が進んでくれば、また違う言葉になるかもしれません。
基本動作一つとっても、膝を抜くタイミングによって、前に出る足の距離が変わったり、毎回自分の身体動作に発見があり、大変刺激的です。


2017年11月11日土曜日

参観会?

最近の小学校は土曜日に参観会(学校開放日)を行う。
今日は参観日だったので、長女と長男が通う学校へ。
2時限目、静かに算数の授業を受ける長女と、なぜかトレーナーを脱いで下着で学級活動に参加している長男。長男の行動にあきれながらも、次女(3歳)が退屈してしまうので、一旦帰宅。
4時限目、再度学校へ。長女が学級活動の司会、長男が「あきまつり」と称した体育館での出し物があるというので、様子を見に行く。
長女の教室前で授業時間開始を待っていると「○○(iyokiyehaの苗字)さ~ん。おられますか~○○さ~ん」と呼ぶ声。「ウチですかぁ~」と名乗り出ると、息子が保健室でぐったりしているとのこと。迎えに出るワタシ。
「熱はないんですけれども、2時間目の途中からぐったりしてしまって…いや、ケガではないんですが、とっても元気一杯だったのに、急にぐったりしてしまったので、念のためということで」と呼び出しを受ける。
「一年生の男の子だと、よくあるんですかね?」と問うと、保健教諭は「う~ん、大きく2つですね。一つは限界まで頑張って突然ぐったりしてしまう子、もう一つは吐くまでのぼせて、吐いたらケロっとしている子。◇◇君(長男)は前者ですね~。

ごめいわくおかけしました。
でも、そんなことも笑い話にしてくれる担任は頼りになるなぁ。

2017年11月8日水曜日

「対象にする」とは 2

何かを考える、という時には、必ず「何か」という対象が存在する。
それについて思いを巡らし、いろいろな角度から見て、物理的であるか否か問わずそれに触れ、時に分解したり、他のものと比べることによって、それについていろいろなことを知り、他の何かとの関係の中で位置づく。
では、その「何か」に言葉がなかったら、いったいどのように物事を考えるのだろうか。
言葉にならない「○※〒☆◇」について、考えることはできるだろうか?
否。
考える対象には、必ず言葉が存在する。そしてその言葉は多様であればあるほど、他のこととの違いを浮き彫りにすることができる。

2017年11月6日月曜日

「対象にする」とは 1

物事は、それを意味する言葉があることで、自分にとっての対象となる。

ラベリングとか命名など呼ばれるが、物理的なものに限らず、頭の中の思考や感情、出来事など、自分事として考えるためには、「それ」が自分という常に動き回るものから離れて存在しなければならない。なぜならば、今生きている自分は常に揺れ動き、感情も刻一刻と変化する。自分でも予想不可能な自分の中にあるものは、それがたとえ自分にとって大切なものであったとしても、そのことについて深く考えを巡らせることはできない。

2017年11月5日日曜日

書くことと頭の中

書くことを避けてきたのだろう。
書くことを避けてきた、がより正しい。

職業人となって、14年目になる。
小手先の技術、というかごまかす方法、要領のよさ、みたいなものが身について、本気で単語一つにこだわって「表すこと」をいつもいつも避けてきた。
正直なところ、毎日毎回単語一つにこだわっていたら、おそらく身体がいくつあっても仕事は終わらないだろう。ただ、書くべきところ=表すべきところ、にあって、言葉にこだわれないようでは、やはり一流の職業人ではないのだろうと思うところである。

考えていること、思うこと、やろうとすること、よかったこと、楽しいこと、悩み、いろいろなことがあるのだけれども、言葉によってそれに価値を与えてあげないと、次の考えや行動には至らない。
これまでにも感じることはあったし、それと向き合ってきたこともあったのだけれども、改めてここでスタートラインに立ってみようと思う。

池井戸潤『銀翼のイカロス』ダイヤモンド社、2014年。Kindle版

「やられたらやりかえす、倍返しだ!」の半沢直樹シリーズ第4弾。今度は国会議員とやりあう銀行員のお話です。
小説なので、純粋に楽しませてもらいました。水戸黄門のように安心して読めるこのシリーズ、大好きです。

-以下、小説だけど引用。
No.729 正論がいつのまにか端に追いやられ、詭弁がそれにすり替わる。考えすぎた挙げ句、時としてバカでもやらないようなことをするのが組織というやつだ。
No.996 袋小路に見える状況でも、どこかに解決策が転がっていることもある。
No.2255 従うより、逆らうほうがずっと難しい。
No.3075 隠蔽は隠蔽を生む。隠蔽はあくまで結果であって、原因は組織の体質にある。
No.4092 欲を捨てれば、真実がみえてくる。
No.4634 物事の是非は、決断したときに決まるものではない。

何か、組織人として引っかかる感じがあるんだよね。別にやましいことはしていないけれど。

2017年11月4日土曜日

いつまで経っても上下関係

前回の投稿が夏休みだったのだが、もう冬が間近に迫っています。
みなさんお元気ですか?iyokiyeha@所沢です。
しばらく、別のBlogのスタートアップをやっていましたが、落ち着いたのでまたこちらにも書き込みを再開していきます。よろしく。

さて、先日前の職場に勤務している元上司と飲みに行ってきました。
私が前の職場に入職して間もない時に所属長としてやってきた方で、私にとっては大変お世話になった上司でもあったので、転職直前の職場に隣の課の管理職として勤務されていた時にも大変お世話になった方でした。組織的ないろいろなことの渦中にいた人ですので、話の端々に愚痴っぽい発言があったりもするのですが、組織的な評価はさておき、私にとってはやっぱりお世話になった上司でした。
お互いに、今職場で何をやっているのかということについては、想像して補いつつ話をするわけですが、立場は違えど真上からの視点・発言でガンガン踏み込んでくるので、お酒の席とはいえ、割と刺激的な時間となりました。他の人だったらたぶんNo Thank you.なやりとりなんでしょうけれども、個人的な関係がなせる業なのか、こういう場は私にとって必要な時間なんだろうなと思うこともたくさんあるわけです。
若かりし頃、もっととげとげしく世の中を見ていた頃の稚拙な発言とか失敗や、当時からの課題なんかを上司として知っている人からの様々な指摘をかわしつつ、受け答えするという機会は、40歳を前にした立場ではなかなかないわけで。今の職場は中途入社なので、周りに気を遣われていることも感じていつつ、その生ぬるさに甘えている自分にも気づかされるわけで。

毎月あったら、しんどいけれども(笑)四半期に1度くらいならあってもいいかなと思う時間です。そんな上司も今年度末で定年となるとのこと。昨年あたりから切れ味が弱くなっている気はしますが、気持ちよく送り出してあげたいと思っています。まぁ、辞めた人間が思うのも、なんだかなぁというところですが。

2017年8月30日水曜日

夏休みの思い出

所沢市では今日が小学校の始業式。
ムスメ1号とムスコは登校の予定でしたが、残念ながらムスコはアデノウイルス感染と見られる、下痢と発熱により欠席。先週末から長引いています。Iyokiyehaもその影響か、昨晩は夜中トイレで冷や汗をかくという、黄信号の状態です。
そんな夏休み終盤でしたが、今年は車の買い替えもあり、いろんなところへ行った夏休みでした。
帰省の途中で相模原市のパカブーへ行きました。フランスから輸入した、投網を使ったアクティビティです。森の中に縦横無尽に張られた投網の中で飛んだり跳ねたり。三半規管が弱いIyokiyehaは完全に酔ってノックダウンしていましたが、子どもたちは珍しく汗びっしょりになるまで走り回っていました。
浜松でも毎年恒例のナイトZOOなど、ほとんど外にいたかな。今年の帰省はIyokiyeha家の介護保険関係の相談とかあったから、ちょっとカミさんにお願いしすぎたかもしれない。
少し早めに帰省を切り上げ、所沢市へ戻ってからは、西武園プール、多摩六都科学館、練馬アニメーションスタジオなど、新しい遊び場も開拓できました。室内遊びも探してみたらリーズナブルにいろいろいけるし、子どもは子どもなりにどこへ行っても遊べるのだと実感した夏休みでした。ただ、西武園のプールは最も混雑が予想されるところにぶつけたため、芋洗いプールで不完全燃焼だったかな。天気もイマイチでムスコはこの時もノックダウンしていました。
後半はどうにも天気に恵まれず、私の体調も優れなかったこともあり、自宅で過ごすことが多くなってしまいました。子どもの宿題を見たり、近所で遊びに出たりして過ごしたのですが、終盤になり冒頭のムスコノックダウンが重なり、無事に(?)お休み終了となりました。
私自身が今後のキャリア形成を見直す機会もあったため、いろんな意味で充電期間になったのかなとも思います。今年もなかなか楽しい夏休みでした。

2017年5月14日日曜日

母の日

 昨日の酒の失敗を埋め合わせるだけではないけれども、長女が「ご飯を作りたい」と言うので、母の日コラボで妻に一日休日を送ることにした。食事は朝晩娘に作ってもらい、家事はとりあえず私。長男には自宅の飾りを作ってもらう。
 根気よく物事に取り組める長女と、飽きっぽい長男。予想通りの動き方をしてくれて、立派な夕食と、完成度イマイチの発表会(バスケットの3ポイントシュート?)。長女については、慣れないところはあるけれども、基本的には口出しと買い物の手伝いをすればよかったので、私はダラダラ庭掃除と靴磨きをすればよく、のんびりした休日になりました。
 普段休日は家族でどこかへ行くことばかり考えがちだけれども、こんな休日も悪くない。

2017年2月12日日曜日

鮮度を保つ

「自分の市場価値を高める」
前の職場に在籍していた頃、転職を視野に入れたときによく考えたことである。障害者職業カウンセラーとしての力量はそれなりに付けてきた実感はあるが、他で通用する自分の強みは何だ?という具合である。
当時のメモを振り返ると、核心をついたものから、こじつけのものまで様々な棚卸しの跡が残っている。
縁あって、今の職場の特別職とご一緒する機会があり、刺激的な時間を過ごすことができた。幹部たちは、今の職場に染まりながらも自分の核を大切にしてきた人たちであることを感じ取れた。それは、ただ異を唱えるだけでなく、調和を乱すのではなく、一人で突っ走るのではない。それは、異なる視点を常に持ち、連携によってより大きな力を生みだし、組織の力を増幅していくような、そんなイメージである。
さらに、一つ響いたのは、
「自らの鮮度を保つ」
ことを意識させられたことである。冒頭で「市場価値」という言葉を使ったが、市場を意識するのではなく、あくまで自分にとってどうか、自分の鮮度はどうか、周囲にいい影響を与えられるかという観点で、能力開発をしていくイメージである。
おごらず、それでもプライドをもって仕事したいものである。昔も今も変わらないことではあるが、やはりどこまでも謙虚にどこまでも真っ直ぐありたいものだ。

研修のまとめ(初任者1年目)

170128_補足
組織人としての筋と公務員としての筋は違うということ。
前職と変わることはない。原典に立ち返り、自分の頭できちんと考えるということだ。

170127_研修から感じたこと
以前の職場は全国各地に勤務地があったり、国の外郭団体だったこともあり、集合研修は大変充実していたのだけれども、今の職場もなかなか研修が充実していると思う。
講師が先輩職員であったり、法律の授業はどうしても文字の羅列になってしまいがちではあるのだが、大変よく検討され、準備に時間がかかっているのだろうということはよく伝わってくる。それに加え、講師の「熱」が伝わってくるものも多く、よく聞く「○□△は堅苦しい」という(固まった)イメージをいい意味で壊してくれるものも少なくない。
そういう「熱」に触れると、これまたいい意味で「これじゃいかんぞ」と思う。何に思うか?自分の仕事に対する姿勢であったり、自分の身の回りで起こっていることだったり、様々である。
今回特に感じたことは二つ。一つは、自分の仕事は何を得るものなのか。答え「信頼」であるということ。なぜそんなに頑張れるのかというと、そこに損得があるわけではなく、そこに自慢できる実績があるわけでもなく、ただ、仕事をこなすことについて、プライドがあるかないかによって個人の動機付けは大きく左右する。
もう一つは、自分は「どのように使われているのかわからない」という現状である。総合計画はあるが、課としてグループとしてチームとしての目標は何なのか。私が所属する課は、どんな方向へ業務を方向づけているのか。周囲に聞いても「そんなことは知らない」と嘘か真かわからないような答えが返ってくる。

2017年1月22日日曜日

インフルエンザ

息子が通う幼稚園で、先週の水曜日(18日)から息子の学級が閉鎖しています。息子は二日間「退屈だぁ〜」と言っていたのですが、同金曜日に発熱。土曜日に「検査にはでないけど、おそらくインフルエンザ」という診断を受け、インフルエンザの治療が始まりました。
インフルエンザの感染については、発熱した日を「0日」として5日間かつ解熱後3日間の登園(出勤)停止と定められているため、息子の場合は今週の水曜日までは登園できないことになります。しかも、22日現在、まだ解熱していない状況です。
いつもはやらなくていいことをやって怒られている息子ですが、食事もとれずにぐったりしている姿を見ると、さすがにかわいそうに思えてきます。
それを見ている長女と次女。それぞれに構って光線を放ってきます。こちらとしては、長男第一に考えて動いてしまいがちなのですが、長女・次女にもきっと負担はかかっているのだろう、と振り返り思い至りました。
最近、課外活動も忙しく、なかなか子どもにじっくり関わっている時間がないのも事実。2月までバタバタするけど、一段落したらみんなでおいしいものでも食べに行こう。

マティーニの研究

年始に帰省していたときに父親からの一言。
「毎日晩酌すればいいじゃないか」
何気ない一言だったのですが、カクテル熱が再燃するきっかけになってしまいました。
そこで、所沢へ帰ってきてドライベルモット(Noilly Prat Dry)を買い、マティーニを作ってみる。
・ジン 3/4
・ドライベルモット 1/4
・ステア
「カクテルの王様」と呼ばれており、バーへ行くと何となく雰囲気でオーダーしてしまうのだが、あんまりおいしくない。あるバーテンダーさんにそのことを聞いたら「それは永遠の課題だ」と万能な答えが返ってきたことがある。
マティーニの味をどう表現するか。これは結構難しいのだけれども、「甘くもすっきりもしていない、独特の香りが鼻を刺してくる」飲み物である。ジンの香りとベルモットの香りは、それぞれ原料となる植物の(強い)香りなのだけれども、それらが「調和」しているマティーニがきっとおいしいマティーニなのだろうと思う。
それで調べてみると、
・ベルモットの比率を下げると「ドライマティーニ」
・ベルモットをスイート系のものにすると「スイートマティーニ」
・ベルモットをドライとスイート半々にすると「ミディアムマティーニ」
・ベースをウォッカにしてオニオンを添えると「ウォッカマティーニ」
・ジン、ウォッカ、リレを材料にシェイクすると「ヴェスパー Vesper」
と、マティーニには様々な種類があることがわかる。

シンプルなレシピだからこそ、アレンジの幅もあり、バーテンダーさんが腕を振るっているのだろうと思うところである。
色々作って試したけれども、今のところ私としては、マティーニのおいしさは材料の「調和」度合いで測られるのだという仮説に立つに至る。

私の好みは「ベルモット少な目」、ドライマティーニなのだろうと思うこの頃である。

想像し難い

先日、ラジオから流れてきたニュースに、生後3ヶ月の娘に暴行を加え、湯船に沈めて殺害したというものがあった。
このニュースを聞いたときに、何か思うところがあったのか、その場面を想像してしまって背筋がぞくっと寒くなった。
三人称の立場に立って、この親御さんと同居人と言われる人を避難するのは簡単だ。けれども、ちょっと視点を変えてみる。

この現場はどんな雰囲気だったのだろうかと。

生後3ヶ月の子どもが泣くのに、手を上げなければ「ならなかった」のはなぜだ。抵抗できたかどうかはわからないが、文字通り必死で動く子どもの命を奪わなければ「ならなかった」理由には何があるのか。湯船に沈めてぐったりしていく子どもを見なければ「ならなかった」のはなぜなのか。その現場には何があったのか。

この事件だけじゃない。最近報道される自分の子どもを殺害するという事件には、「そうしたかった」という身勝手な救う価値のない人が(いないと信じたいが)いる一方で、「そうしなければならない」と追いつめられた人が自分の中の何かを守るために、自分の最愛の存在を手にかけなければならないという出来事が起こっているような気がしてならない。
この後者については「自己責任」という安っぽい言葉だけでは片づけられない、社会の病的な部分や、世の中に垂れ流されているくだらない言説等の影響は否定できないと思う。

福祉に携わるようになって、「ソーシャルワーク」という言葉の意味が、少し自分なりに感じられ、考えられるようになってきたように思う。ただ、その深さと広さを感じる度に途方に暮れることを繰り返している。

2017年1月9日月曜日

遠方から来た友人と語る

投稿履歴の件数を眺めていたら、年々投稿数が減少しているようなので、もともとこのブログのスタンスでもあった、思いついたことを思ったまま書き続けてみようと思います。

正月に地元(静岡県)に帰省していたのですが、その時の出来事から。
前の職場の友人が浜松に遊びに来てくれました。
前職では後輩だったのですが、お互い転職して、同業者としては今度は私が後輩になりました。
歳の差は変わりませんが。

転職の背景は、若干の差こそあれ、自分のキャリアデザインの中に「家族」という存在を位置づけた結果であること。
そして、全国転勤による生活の拠点が定まらないことに対するストレスというか違和感が、前職を離れることと新しい職場探しの時に大きな位置を占めていたということを、改めて確認できたような気がします。

浜松駅前のプロントで、開店直後からビールをあおり、駅南のむつぎくで餃子大(16個)を食べて撃沈するあたり、歳をとったことを確認しつつも、有意義な時間を過ごすことができたように思います。

話をしていて一つ気づいたことは、自分の頭で考えて、自分なりに納得して選んだことについて、立場や背景は違ったとしても「賛同者」がいる、ということはとても心強いこと。驕らず、謙虚に、人に対する感謝を忘れずに、しかし納得感をもって我が道を歩き続けることが、精神安定上大切なことなのだと、考えさせられた出来事でした。

2017年1月8日日曜日

新年あけて初めての投稿

ログを見たら、4か月弱更新が滞っていた。
ちょくちょくチェックしてくださっている方、申し訳ありませんでした。

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

作業後に開いているので、昨年の振り返りとか新年の抱負は後日とします。
今日(昨日になってしまった)は、結婚式記念日につき、外出してそのまま家族でシュラスコをいただいてきました。
東武東上線若葉駅前の「カッピンドゥラード」というブラジルレストランです。

食べ過ぎて動きが鈍くなったので、今日は用事だけ済ませて寝ます。