2021年7月25日日曜日

夢や目標は「ない」でいい

先日の続き、になってしまいそうですが…

こないだの投稿の発言の主を批判するつもりは全くない、というのを前提に。矛先は世の中へ向けて。

「藤沢久美の社長Talk」がVoicyで復活して、楽しんでいたところ、株式会社まぐまぐの松田社長のインタビューを聴く。洗濯を干しながらのながら聴きでしたが、「夢や目標を持たなきゃいけないような風潮がある」というくだりに、思わず手をとめて聴き入ってしまう。いや、松田氏は「情報と脳をダイレクトにつなぐイメージ」を持っているので、全く何もないというわけではないのですが、そうした大きなぼんやりしたものがあってもなくても、とりあえず目の前のことをやりながら、「好きなこと」をイメージしながらだんだん何かをイメージすればいい、という考え方に、「あぁ、こんな感じ」と思ってしまう。

Iyokiyehaは、人生の目標管理がたぶん苦手です。行き当たりばったり、とも言う。でも、転職した頃から、それがまずいと思わなくなりました。多分、同じ組織内や同じ業界など、同一尺度で測ることのできる価値観の中で、自分を磨き上げていくためには目標管理に基づく自己啓発が必要なのだと思いますし、そういう人には世に出回っている自己啓発本の内容ってうんと参考になるのだと思う。この手の人達にとって「夢を語れること」は、その人の実現しようとすることを具現化する有効な手段の一つになるのだと思います。

ただ、それとは異なる、多様な価値観の中をサバイブしていくための生き方というのもあるんじゃないだろうか。そこにあたっては、具体的な夢ってイメージはできなくて、二段も三弾も抽象度が上がったものが目標になるのだと思う。例えば「人と関わる生活」とか「好きなものに囲まれる生活」みたいな。それは職業を通じて実現するものかというと、そればかりではないでしょう。仕事をもった生活の中で実現するものかもしれないし、仕事と理想の生活は切り離されて、ON/OFFで語られることかもしれません。

そこまで深めなくても、

Q「将来の夢はなんですか?」 A「なんか、○○みたいな感じだけど、ぼんやりしています」とか「今のところ、ありません。好きなことは□□です」。なんて、回答があってもいいと思う。悩んでいるなら相談できるし、「決めろ」って言われて決まるものではないし。好きなことにコツコツしつこく関わっていくことで、周囲の見え方が変わってきて自分の進むべき道が見えてくるかもしれないし、そうでなくても自分にとって「心地いい」生活に向けて少しずつ変わっていくのかもしれない。そんな変わりかけのところに「もっと具体的に自分の夢を考えなさい」なんてアプローチは、その人の内発的なエネルギーに蓋をしてしまう行為なような気がしてなりません。そんなことを漠然と考えさせられたインタビュー番組でした。


https://voicy.jp/channel/1714/167760

藤沢久美の社長Talk 株式会社まぐまぐ 代表取締役社長 松田 誉史さん

働くことコラム10:生活支援の限界 -生活リズム

 久々の「働くことコラム」です。最近、雇用支援について身内向けに説明文書を作っているので、そこで改めて考えたこと。

 これから書くことの結論を先出しすると、

・生活リズムを治せるのは自分だけ

・目標か危機感の共有がなければ動かない

 ということです。

 職業カウンセリングのなかで、求職者の相談を受けていると、「仕事ができる/できない」以前の問題で、仕事が決まらない、仕事が続かない、という人が少なくない。支援計画にも「生活リズムを整えましょう」と書いてあって、本人の署名があったりします。話を聞いてみると「分かっているのだけども、早起きすると調子が悪いんです」とかなんとか。具体的に就寝時間と就寝前の時間の使い方を聞くと、24時過ぎ就寝で、直前まで動画を観ている、などなど。

 当時はカウンセラーを名乗っていたこともあり、「○○してみましょう」「■■を試してみましょう」なーんて提案(説得?)していたのですが、今振り返ればなんて悠長なことをやっていたのか、とくやしい気持ちで一杯です。もちろん、組織の都合もあったので、当時はそれで「やむをえない」と思いこんで仕事をしていたわけですが。

 今、私が支援者として、こう言ってきたクライアントが目の前にいたらどうするかな、と考える。私が策定する計画には「○時頃起床して、□時に家を出る」という目標にするかな。指標は自宅を出発する時間でドライに評価する。方法は助言をするけど、基本的には本人任せ。2週間経っても変化がなければ、計画再策定や助言を重ねるけど、職業リハビリテーションや就労支援という枠でできるのは、これくらいかな。

 そもそも、生活支援って限界があるんです。自分の目の前で生活を観察することは困難を極めるものだし、万が一観察できたとしても、観察者がノイズになって通常生活を送れなくなる可能性が大なので、やれたとしてもおそらくやらないでしょうし、やる意味を考えたら労力が成果を上回る事例と言えるでしょう。

 大切なのは、「計画策定」の本来の意味のところです。本人のサインをもらうのが本質なんじゃなくて、「本人が納得して同意する」ことが重要。本人(クライエント)、支援者、関係者がみな同じ方向(目的)を向いて、そのための指標(目標)を共有して、これができてはじめて「本人のペースで」取り組んでいくことが求められます。

 はっきり言っちゃえば、理由はどうあれ、なんだかんだ言って生活リズムが変わらない人って、「自分の枠内でしか物事考えない」(≒考えられない)人がほとんどですから、自分の中に危機感や理想像が浮かび上がって、内発的な動機付けにならない限りは、行動が変わることはないでしょう。ただ、内発的な動機に変わった時に急激に変化することがあるので、それはきちんと支えないといけませんが。

 このコラムで繰り返しになるかもしれないけれども、仕事の現場で通用する「自分の力」って、それが「習慣になっているもの」だけです。業務遂行の技能だけは、とってつけた知識が結果を左右することもありますが、もっと土台の日常生活・社会生活の部分に関しては、習慣=土台になると思います。単発の技能は土台になりえない。ということで、支援者に求められる技能は、「助言の知識とスキル」「クライエントをやる気にさせる(危機感を煽る)相談スキル」「変化を見極める評価のスキル」という当たり前のことと、もう一つ「変わらないことを受け入れる覚悟」みたいなものじゃないかな。間違っても「生活リズムを、外(支援者)から変えられる」と思わないことです。

2021年7月17日土曜日

松本俊彦『薬物依存症 シリーズ ケアを考える』ちくま新書、2018年。

  タイトルの通り「薬物」、および「薬物依存症」に関する基礎文献。国立精神・神経研究センターで、長年この分野の治療と研究に携わってきた松本医師による著書。著者は本書を「紆余曲折の最近⑩年あまりのあいだ、薬物依存症の治療と回復支援について私なりに必死に考え、実践してきたことが詰め込まれています」と評しています。

 世界中の知見と、著者の経験が、(おそらく)学術文献並みの内容でもって、新書の体裁を保っているところが、本書の特徴といえるでしょう。この分野に関わったことがある、あるいは興味のある方であれば、内容は充分理解できるものであると思います。この表現力もすごい。

 人間の身体のこと、医療のことって、文字通りの日進月歩の世界で、私が薬物や薬物依存に対して持っていた知識を一新させ、さらに関わり方についてもその認識を改めなければならないと思うほどのインパクトのある一冊でした。今は福祉、以前は雇用の分野で、支援の対象者としての薬物依存者、その人の傍にある薬物に対して、私は傍からみたらちょっと変わった関わり方をしていたのだと思いますが、その関わり方を支持する内容もあり、一歩進む内容もあり、さらに改める必要がある内容もあり。そして、現状維持からちょっと改善の積み重ねていくにあたり「要求や結果を表現できる環境整備」が地域生活を継続する上で不可欠であることをはっきり認識できました。

 「薬物依存症の回復支援とは、薬物という「物」を規制・管理・排除することではなく、痛みを抱える「人」の支援なのだ」(299ページ)、「(ポルトガルの事例を受けて)薬物問題を抱えている人を辱め、排除するのではなく、社会で包摂すること、それこそが、個人と共同体のいずれにとってもメリットが大きい、という科学的事実ではないでしょうか」(310ページ)、「(自傷行為、依存症者の傾向を)『人』に依存できずに『物』に依存する人たちなのです」(322ページ)。

 これまで、「人の支援であり、統制排除ではない」という福祉の本質(だと思っていること)を横滑りさせて関わってきたところですが、本書はすっきりとその範囲を整理してくれたような気がします。

2021年7月3日土曜日

夢を語ること、目標をもつこと

 こども向けの文書を読む機会があり、ある大人が「自分が子どもの時は○○に没頭していたけれども、□□に興味を持つようになり、△△になった。夢は変わっても持ち続けていたらかなえることができる」みたいなことが書いてあったんです。

 この人の人となりはよーく分かっているので、こども向けにわかりやすい例え話を自らの経験から引いてきた、ということは容易に想像がつくのですが、Iyokiyehaにはコツンと引っかかる。「夢=職業」になっていることと「夢を持ち続ける→かなえることができる」という内容なんだろうな。

 「夢」とか「こうありたい」と思う自分語りそのものは、自分のためには必要なこと。他人の「夢」を聞くことは、自分にとって一つの学びの機会になりうる。しかしながら、それは職業と関連して語られることはあるのだろうけれども、「△△になる」ということが果たして「夢」としてふさわしいのかどうか、ということはよくよく考える必要があると思う。世の中には星の数ほど、数えきれないほどの仕事があり、同じ職名で語られても、置かれた場所や背景によって、その仕事が世の中に与える影響はそれぞれ異なるわけで、職業ってその土台だと思うのです。「目標」であったとしても「目的」とはいい切れない。職業で語るとすれば、△△になって自分がどうありたいか、自分がどうなりたいか、自分が何を成し遂げたいか、ということが「夢になりうる」だけで、自分に付与される肩書を「夢」と言ってしまうのは、わかりやすくても本質とはちょいと違うのではないか、と思うわけです。

 こどもたちに夢をわかりやすく語ることは、メッセージを余白に書き込むような行為だから、そこで△△になるのが夢、と言ってしまうのは、それを書き込まれて理解したこどもには「わたしは▲▲になりたい!」「僕は▽▽になる!」という、なりたい自分、ありたい自分を職業に縛り付けてしまうだけで、安易なキャリア教育になりかねないなぁ、と考えてしまいました。

 いや、ライフストーリーをきちんと聞く経験って大切ですよ。ノンフィクションやインタビュー番組とか、メディアにも様々ありますし、著名人でもそうでなくても、ある人の経験を丁寧に聴くことは、大きな学びになりうると思います。ただ、職業=夢、という安易なメッセージが広まって、職業選択を困難にしてしまう働きかけってあるんだよってことは、人に影響を与える仕事に就く人にはちょっと考えてほしいなぁ、と思った次第です。