2007年2月26日月曜日

法律による援助と人的支援の整理

 仕事の話題が続いて恐縮ですが、タイトルのようなことを考える機会が立て続けに起こったところです。最近、この手の相談を受けることが多いのですが、高等教育機関(大学とか専門学校とか)の卒業を控えて、または卒業後、就職でつまづいてしまうケースです。
 発達障害の疑いありとの依頼で、面談直前になって精神疾患も?とか何とか。相談しながら詰めていこうと思って、相談を進めるのですが、どうも反応が薄い。課題をやらさせても、かなり能力の低さが目立つ。知的なハンデかな?と疑って、課題を構成すると、やはり疑わしい結果になる。
 もう一度相談からです。生育歴を丁寧にとっていくと、なるほど指摘はされている。現在は、どの疑い(発達障害、精神障害)でも法的な援助を受けられる域に達していないとなると、知的ハンデの線で法的な援助を受けることが望ましいという結果を出さざるを得ません。ただし、これを本人、親御さんに伝えるとなると、言葉を選びながら、それでも法的援助を勧めていくことになります。

 よく、私の所属する機関について「利用は手帳がないとできませんか?」という相談を受けます。答えは「No」なんですが、法律によって仕事(人的支援)とその対象が規定されている機関っていうのは、その法律に「乗ってくる人」へは法律の枠内で支援ができるんですが、それに「乗らない人」にできることには限界があるなぁと思うところです。

 先のケースでは、乱暴な言い方をすれば「知的障害の可能性があります。今後、就職して自立した生活を目指すのであれば、手帳を取得した上で、ウチの支援を受けるのが望ましいです」となります。法律が下敷きになっている機関を有効に利用するには、やはり法律に乗る必要があるのですね。
 また精度の高い整理をしたいところですが、とりあえずメモまで。

2007年2月21日水曜日

安打製造機であれ

しゅそ(主訴):病苦についての患者の訴えのうち、主要なもの
(広辞苑より)

 カウンセラーなんて仕事をやっていると、この「主訴」というものが大切になってくる。私の場合は、いわゆる障がい者がお客さんとなり、仕事をする上でハンデのある人との相談が主な業務となる。そして、所属する機関は、必要に応じて支援プログラムの提供も業務として実施することができるため、その人に合った、いわば「オーダーメイド」の計画を作ることができる。
 ただ、お客さんにもよるのだが、特に精神障がい者と呼ばれる方は、主訴の把握がとりわけ難しく、相談業務が空振りに終わった感を味わうことが多い。相談後、「満足してもらえなかったなぁ」と思うものである。個人的には、「俺は働きたいのに、働けないって言うんですか!」と怒鳴られる(経験あり)方が、なんぼかマシだなと思う。
 昨日相談した方も、結局主訴の把握が甘いまま、「とりあえず適性検査をしてから続きのお話しましょうか」と。適性検査をしたら、いたって標準の職業能力。で、お客さんは「対人業務でなければいいです」と。なるほど、そしたらその内容をハローワークに伝えて、職場開拓してもらいましょうか、となったら、何だか満足されていない様子。一体、この人は何を知りたかったんだろうってな後味の悪さが残った経験でした。ただ、まぁこの人の場合は、病気のせいでサングラスをかけていたこともあり、表情から感情が読み取れなかったことも影響しているとは思いますが、それでも、、、でした。

 人の生活、人生に少しでも関わってくる仕事をする者として、ホームランバッターではなく、安打製造機にならないといけないなと思うこのごろです。三振なんてもってのほかですね。精進します。

2007年2月15日木曜日

情報のギャップ

 某知り合いからの、某情報。私の関係者のところ(直接関係はない)に行って挨拶してきたのだけども、ちょっと感じが悪かったとのこと。似たような仕事をしていて、その業務協力を要請&顔を通す意味での挨拶に行ったとのことですが、どうも気が乗らなかったみたいです。
 一方で、同じ情報を別のソース(私の属するところ)からとったところ、「住み分けができている」とのこと。

 いやいや、この認識のギャップはいかがなものでしょう。かたや、協力を要請しにいって、嫌な顔されて、結局困難事例を丸投げしてくるとのこと。かたや、住み分けができている。いやぁ、話を聞く限りじゃ、後者は前者を煙たがってるのが本音なんじゃないの?という気がします。前者が後者を煙たがっているのは、前々からのことだから、全然何とも思わないけど。
 どっちが正しいかじゃなくて、どっちが本音なのかな、という地点で気になります。そして、公開される情報が、どれだけ真に迫ったものなのか。それが、確かな実績を作る上で、大切な要素になるような気がするんですがね。

2007年2月13日火曜日

強者の理屈

 先日、とある漫画を読んでいたときにひっかかった台詞がありました。
引用はできないが、貧富の差であるとか、環境問題といったものは、経済的に富める人・豊かな人でなければ考えられない。考える余裕がない。とか、なんだかそういった感じのやりとりです。日本の大企業に勤めるサラリーマンが、フィリピン支社で勤務しているときに知り合った従業員に語った言葉です。

 なるほど納得です。確かに、今の自分には食べる余裕があって、こうやってブログなんぞを更新する手段もある。食うや食わずで生きている人たちからみたら、きっと雲の上の存在にも映るかもしれません。自分が吐く言葉は、きっとその対象となる人には、真に届かないのだろうなとそんなことをふと考えました。

 私自身の生活を振り返ってみると、どうだろうと思います。私が毎日相手にしている人たちに話していることは、どこまで通じているのか。そして、私という「強者」の理屈と、それを受け取る人たちとの妥協点はどこにあるのか、ということについて、もっと冷静に考える必要があるように思った漫画の台詞でした。

2007年2月12日月曜日

北の漁場 ほっ海

 ふぐ鍋を食べた。
 本場山口では「ふく」というらしい。
 それはさておき、昨日から後輩と嫁の義理の妹が岡山に遊びにきているので、行きつけの飲み屋でふぐ鍋を囲む。4人ともふぐの経験はなく、興味から予約しておいたもの。このことをちょっと書いておこうと思う。

 コースのメニューは以下の通り。
・刺身(てっさ)
・皮のポン酢和え
・鍋(ふぐ、黄ニラ、白菜、しいたけ、マロニー、他)
・雑炊

 刺身は独特の食感でおいしい。皮はさらに歯ごたえがあってコリコリした感じ。どちらもお酒のあてには最高。鍋は、ふぐのぶつ切りを沸騰しただし汁(昆布)の中にどどどっと入れて、浮いてきたら薬味(大根おろしに唐辛子を混ぜたもの、ねぎ)をのせて、ポン酢をつけていただく。ぱさぱさした感じは全くと言っていいほどなく、ぷりぷりした食感が独特で、それでいて噛むとじゅわっと出てくるだしがたまらなくおいしい。野菜をひとしきり食べた後の雑炊。鍋物の後の雑炊って、結構お腹一杯で食べられないことが多いのですが(Iyokiyehaはちょっと心配したのですが、杞憂でした)、どんぶり一杯の御飯を雑炊にして、4人でぺろりと平らげました。
 本当においしい御飯をいただいたことで、満足。占めて4,000円のコースでした。岡山に来られることがあれば紹介しますので、連絡くださいね。

北の漁場 ほっ海
岡山県岡山市下中野810-2
TEL: 086-245-0457

http://map.yahoo.co.jp/pl?p=%B2%AC%BB%B3%B8%A9%B2%AC%BB%B3%BB%D4%B2%BC%C3%E6%CC%EE810-2&lat=34.63183667&lon=133.89588194&type=&gov=33201.192.252.1

 

感覚

 先月結婚した嫁さんとは、趣味も違えば、生活習慣も結構違う。専門領域は全く違うし、好きな食べ物も音楽も結構違う。違う違うだらけなのに、一緒にいて楽なのは、どっか「おもしろい」と感じるポイントが似通ってるからだと思う。
 市民活動を経て今に至っているからか、考え方は結構リベラルなんだと思う。大きな会社では「面子」とかいわゆる「常識」といったものに、とかく縛られがちだけども、組織としてそういうものの中にいながら、個人的には「おもしろい!」と感じるポイントが結構ある。それを公の場で言ってしまうと、何となく言葉が通じなくなってしまうので、公には黙っているのですが、私も話すのが好きですから、どこかでしゃべりたい欲求が出てきます。
 そのはけ口、というわけではないけども、今の生活には、その辺の「根っこ」が似ている人がいつも自宅にいるから、いろいろあっても、総じて「楽」なんだろうと思う。

2007年2月10日土曜日

Blogを設置

 Iyokiyehaです。HPやmixiとは独立させて、Blogを立ち上げてみました。
もっと気楽に、普段考えることを書き綴ろうと思いまして。

 このページがどうなっていくか、全くわかりませんが、いずれは、
日々考えることが自然にまとまっていく場所になったらいいなぁと
思ってます。

 こちらも、どうぞよろしく。