2007年5月27日日曜日

片思いはこじれる

 人が三人集まれば社会になる。何かで聞いた話。

 仕事の中で、あるチームと関わるようになった。ピンでもコンビでもない人たちは、それが何人であっても一つの社会であり、人間関係は限りなく複雑になる。

 例えば、その中のAさんとBさんのお話。仮に、AさんとBさんがお互いに「友達になりたい」と思うと、割とすんなり友達になれてしまう。逆にAさんとBさんがお互いに「あいつ嫌い」と思うと、その二人は交わらないが割りと平穏に過ごすことができる。でも、AさんはBさんと「友達になりたい」と思っているのに、BさんはAさんのことを「あいつ嫌い」と思うと、その二人の関係はこじれる。ここまでは二人の人間関係で、それほど複雑じゃない。
 そこにCさんという人が介入するとする。AさんとBさんがこじれる状況で、Cさんは二人とそれぞれ「友達になりたい」と思うとする。これは、AさんとBさんがこじれてストレスになるだけではなく、Cさんにとってもストレスになることとなり、人間関係が二人の関係にとどまらず社会に影響を与えてしまっているモデルとなる。二人の関係がこじれているだけなのに、その影響が二人の間にとどまらない状況がここに生まれる。
 こうなると、いろんなことが難しい。課題に対するチームアプローチというのは、人間関係を超えた力を利用して行うものであるが、逆に人間関係がギクシャクしている状況でチームを成立させるのは、より大きなストレスを生み出すことになりかねない。このことは、チームを運営する人間としては、押さえておかなければならない。

職業選択と「天職」

 「天職は周りが知っている」

 先日、NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」の番組の中で、装丁家鈴木成一氏の言葉が響いた。
 天職があるかないか、まがりなりにも労働行政の末端で、求職者に「仕事とは?」みたいなことで相談に乗る仕事をしている私にとっては、無条件で納得させられる言葉であった。

 求職者の相談の中で、私も一応「希望する職種はありますか?」と聞く。カウンセラーの仕事を始めて1年目、2年目の初めくらいまでは、その答えを起点に相談を始めていたが、今ではあまりそういうことをしない。せいぜい相談も終わりに近づいて、ざっと確認をする段階でこの質問をして、後に「どうしてもその職種じゃないとだめっていう理由はありますか?」などの質問を加える。

 学生時代には、私も「天職」みたいなものを探していたのだろうし、周囲にも「合った仕事」を探したり、一歩進んで「これが天職」みたいなこだわりを持った人も少なからずいた。彼ら彼女らの多くとは、あまり連絡を取らなくなってしまったが、今は何をやっているのか気になる。
 そういえば、私にも「この仕事は『何か』抵抗がある」と、好条件のお誘いを断った経験がある。今となってはその選択は正解であったのだが、振り返ってみれば先方には何て失礼なことをしてしまったのだとも思う。そして、私を支えてくれていた多くの人は私のことを「何て青臭い奴だ」と思ったことだろう。それでも私のことをよく知っている人は「あぁやっぱり、Iyokiyehaだもんなぁ」と苦笑いをしていたに違いない。
 だから私は「好きな仕事を見つけてください」とは相談の中でも、講習の中でも言わない。というか、言えない。希望を起点に進める就職活動もあれば、求人から始める就職活動もある。私の場合は、半々だが、今の仕事に就いたときのことを考えるとやや後者よりだったのだろう。

 少し話がズレた。「天職」の話。私には、今のカウンセラーという仕事が私にとっての「天職」かどうかはわからない。でも、嫌なことや面倒なことがあっても、それを半分は楽しみながら生き生きと仕事ができているという自覚はある。だから、この仕事が「天職」かどうかは、上司であったり先輩、同期、後輩、ひょっとしたら嫁さんや友達、家族が決めてくれることかもしれない。私の思考や努力の及ばないところで決定されることだと思えば、それが私にとって「天職」かどうかは、どうでもいいことじゃないか。そんなことを考えた番組であった。

2007年5月21日月曜日

畳屋と「いい街」、「住みたい街」

 出勤途中、畳屋の軽トラックとすれ違う。社宅は現在畳の張替え中。

 はて、今日は午後からの予定ではなかったか?

 出勤直後、携帯電話がブルっている。見れば嫁さんから畳屋さん到着とのこと。予定は午後だったはずだが、予定を見事に覆す、いやある意味予想通りか、地元の畳屋さん登場。

 まだ、甲府に住み始めて2ヶ月経ってないが、近所のお店は商売っ気がなく、人情味溢れるおじさんおばさんが第一線で活躍している街ということは感じられるようになってきた。嫁はよく「ここに一生住むと言われたら考える」と言うが、わからないでもない。「いい街」と「住みたい街」とはちょっと違うのだなと思えるようになった。

 とはいえ、まだ二ヶ月。これからもっと良さを見つけたいものだ。

庭のドクダミ

 現在の住まいは庭付き一戸建て(社宅)。学生の時にはそれがいいとか悪いとか全く考えていなかったし、実家がいわゆる庭付き一戸建てだったので、引っ越すまでは特に何も考えていなかったのだが、住んでみるとなかなか快適ではある。窓が多いので、今の季節なんかは網戸にしておくと気持ちいい風が入ってくる。

 この庭付きというのが、ゆとりと同時に仕事を増やすものだなと思い始めた。おそらく、暮らしにいろんな意味でゆとりがあるからそういうことを考えるのだろうが、具体的には庭の草取りである。別の県の社宅に住んでいる会社の同期から噂では聞いていたが、ドクダミという植物がなかなか曲者である。
 GW前に、独特のニオイをガマンしながら一通り、ビニール袋10枚分くらいのドクダミを抜いたところだが、もう新しい葉っぱが庭一面に顔を出している。薬にもなるような植物だから、全てが全て悪い葉っぱではないはず。それでも、一度でも掃除したことがある人ならわかるだろうが、あの独特のニオイに囲まれてブチブチと手作業で掃除をしていると、30分くらいで滅入ってくるのも事実である。
 先日、実家に帰った時に両親にこの話をしたところ、父親から「表面の土を10cmか20cmざーっと掘れば生えてこなくなるぞ」と言われたので、今日の掃除では、どぶさらいに使う鍬のようなものでガリガリと土を掘ってみた。おそらく5cmも掘っていない(掘れない)だろうが、幾重にも張り巡らされたドクダミの地下茎(?)がすぐに姿を現し、いくら掘ってもそれが続いている。何たる生命力、というか、種を残すという生物としての本能に忠実、そして我々人間と同じように、とりあえずの安全が確保されるならばいざというときの保険を幾重にもかけておく周到さが見え隠れしているようにも思えてしまった。敢えて人間として驕ることを許されるのであれば、「敵ながら天晴」と言いたくなるような、そんな生命力を見た気がした。

 とはいえ、日常生活の庭掃除をする一旦那から言えば「このやろう、生えてくるんじゃねぇ。耕運機で根こそぎ掘り起こしてやろうか?」となるわけで、私も自然人にあこがれる社会人なのだなと思った昼下がりだった。

2007年5月14日月曜日

結婚ラッシュ

 高校時代の部活の友人の結婚式二次会に誘われる。この週末の地元への帰省は、これがメインの用事。

 率直に言ってしまえば、私は様々な人間関係の集まりに参加するのは苦手である。顔は見たことがあるけども名前は知らない、というシチュエーションが苦手で、どうしても避けてしまいがちである。今回はおめでたい席なので、一応参加させてもらったというのが当日までの偽らざる気持ち。
 とはいえ、めでたい席なので、楽しかった。普段あれこれ考えて行動しがちな私。めでたい席は、余計なことを考えない方がいいのだと実感。招待してくれた上に、おみやげまでもらってしまい、ご機嫌で帰ってきたところ。H氏へ、ありがとう、そして幸せになれ。

 その後、暇ではないだろうが、時間のある同級生と飲みに行く。もう10年かぁ、などとおっさんじみたことも言ったわけだが、まぁ、月日の経つものは早いものである。私もこの1月に結婚した。この日集まった連中も、先日結婚しただの、これから結婚するだの、子どもができただの、落ち着く者もちらほら。私もその中にカテゴライズされているのだが、それにしても身の回りで結婚ラッシュが起こっているようにも思える。そんな年頃なんだなぁと、しみじみ。「結婚するしないは人生設計の違い」なんて言葉で盛り上がっていたりするのだけども、すでに結婚した立場から敢えて言えば、やっぱりタイミングなんだろうなと思う。まぁ人それぞれだから、どうでもいいことだけど。結婚したから須らく幸せになるとは思わないし(私は今とっても幸せですが・笑)、とっても身近なところに破局を迎えた人たちもいるわけで。やっぱり人間関係なんだなと。一寸先は闇。要は闇を手探りで歩くパートナーとしてお互いに頼れるかどうかじゃないのかなと。

 「余計なことは考えない」とか言いながら、キーボードを叩くとこういうことを書いてしまうのだな。まぁ、いっか。

2007年5月13日日曜日

雑記5/13

 母校の教授が栄転されるということで、昨日、その送別会に参加する。お世話になった先生方、先輩方、同期、そして後輩達、たくさんの人が集まる。これも先生の人徳だろう。私も直接の指導教官というわけではないが、やはり6年も大学に籍を置いていたことで、いろんなことでお世話になったことのささやかなお礼ということで参加。「相変わらず」というのがぴったりな先生だった。これまでも、実績をあげてきた先生だったが、今後は日本の教育というステージで、さらなる飛躍を遂げられるのだと思う。母校からまたお世話になった方がいなくなってしまうのは寂しいことだが、とりあえずそれは置いておくとして、素直に声援(エール)を贈りたい。

 送別会の席上、便乗する気は全くなかったが、いろんな方から「おめでとう」と祝福を受ける。一応、連絡先を知っている人には、何らかの形でお知らせしたつもりだが、やはり漏れはあるわけで、申し訳なさを感じると同時に、私自身いろんな人に支えられて今に至っているのだと感じた。数人から「今は中国地方にいると聞いている」と言われるが、今は山梨県甲府市在住です。早く転居のお知らせを出さないといけない。

 祝福されてうれしかったこともあるが、もう一つうれしかったのは、後輩達からの思い出話。私が学部4年生から大学院2年生まで、新入生のセミナーに参加していた(指導教官の担当時間だったこともあり)のを覚えていてくれたこと。卒業論文の大きなテーマにもなっていたアイスブレイクゲームを、何年も経った今でも覚えていて、そんな話題が酒の席で聞けたのが個人的には何よりも変えがたいものだと思った。先輩というだけで慕ってくれて、時には食ってかかられ、活発な議論もした後輩達も、今は私を追い越して学校で「先生」と言われる立場になっている。そんな優秀な連中から「お世話になりました」なんて言われるのは、なんだか歯がゆい気もするけど、日本の教育の次世代を担う彼らに、ここも素直に彼らに声援を送りたい。

 送別会の後、二次会には参加せず行きつけのジャズバーへ。たまたまライブとぶつかる。このお店では、よく生演奏をやっているようだが、私がライブに当たったのはこれが初めて。来てよかった。ピアノ、ギター、ベース、ドラムに途中からヴォーカルが加わる構成。ゴキゲンな演奏にしばし酔いしれ、ご機嫌で岐路につく。浜松駅までは嫁さんが迎えに来てくれていたので、これまた楽させてもらう。
 ジャズのライブって、それほどたくさん行ったことがないのだけども、やはりCDの演奏とは違うものを感じる。おそらく、これが専門家(?)達の言うところの「Groove」とか「Swing」とかいうものだと思う。演奏の場に流れる、空気とかリズムの流れがグルーヴで、それを生み出す演奏や場のテンションがスウィングというところか。演奏できるようになると、また理解も変わってくるのだろうが。その雰囲気に、身を解放することで心地よさを覚える。私の楽しみ方は、そのくらいだろうか。あえて言葉にするほどのことでもないが。これが結構病みつきになってしまうから、ジャズが好きなんだろうし、それを理解してもらえないから嫁さんは呆れているのだろう。まぁ、それはそれ、これはこれ。

2007年5月9日水曜日

人と会って話をすることの意味

 以前から「人と会って話をすること」と「情報共有」との関係を考えていた。先日、プロフェッショナルの仕事術スペシャルで、人と会うのは感情を共有するため、というまとめを聞いて、なるほどと思った。波長というか気の合う人と会って話をした後の充実感と「感情の共有」というのは、おそらく通ずるところがあるのだろう。
 知り合いには、いろんなタイプの人間がいる。誰とでも接点を持つ人、気の置ける人間としか付き合わない人、あるいは同一のコミュニティの中で人間関係を完結させようとする人もいれば、逆に自分のコミュニティに他人を混ぜようとする人もいる。本当に多種多様で、一人ひとり人間関係の作り方は違うようにも思える。
 私自身を振り返ってみれば、主観的に楽しそうと思えば、金と時間をかけてどこまでも行ってしまうし、逆に得るものがコスト(金と時間)を割り込むと判断すれば、たとえ隣近所で開かれる酒の席でも行かないことがある。後は、そのときの気分の問題もあるが。私自身の判断に無理させない、ある意味正直で、ある意味とても生意気だと思うが、それが私なので仕方がない。
 番組の中で、One of themではなく、For youのコミュニケーション。相手に興味を持つことで、相手にしゃべらせる、しゃべろうと思わせる、そのために面と向かって話をする。「腹を割る」という言葉があるが、それは自分と他者双方の脳の共感回路が働いた結果、個人間で生まれる状態のことを言うのだと思う。共感→開示→認知の深まり→充実といったところだろうか。
 よって、情報共有はツールを解しても、情報源を増やすことでもできることであるが、本音やそれを通じた自己変容というのは面と向かって話す必要があるという整理ができる。だから、大事な相手とは会って話をする必要があるのだろうと思う。

トラブルシューティング

 以前より、某N電話会社の電話対応には疑問をもっているのだが、今回のトラブルの対応はいかがなものかと思う。24時間年中無休を謳ったフリーダイヤルに電話をかけても、一向につながらない。自動のアンサーフォンで「只今電話が混みあって、大変つながりにくく……」うんぬんの後に、呼び出し音。繰り返し。たっぷり20分待ったら、「後でおかけなおしください」で通話が切れる。20時過ぎに電話かける私も私だけども、24時間謳うのなら、この対応はまずいだろう。後でかけなおすなら、もっと早く通話を切るべきだし、そうでないならばお話中にして、つながらないようにしなきゃいけない。その上で、実態を掴んで、回線や対応できる人員を確保するなりの対応が必要と思われるのだが、どうだろう。とりあえず私の評価は、対応が遅いということに尽きる。

ネットワークに関して

 PCの調子か、ルーターの調子なのか、Web接続ができなくなった。インターネットの利用が始まった頃と違って、PCの設定をいじれば復旧するものではなくなってきた感がある。マニュアルを見ながら確認していっても、全くお手上げである。
 いつしか、ネットワークの構築ができる人を「専門家」と呼ぶようになってしまったように思う。ダイヤルアップの頃は、私が扱っているPCがどういう機器を経て、情報を入手するのかということがわかりやすかったのだが、今となってはよく分からない。手元のPCが、どんな仕事をしているのか、わからないままに情報を目にしていることになる。
 考えてみれば、不安なことだと思うのだが、不思議と危険な感じがしない。手元で操作している機器が、ブラックボックスを経て、自分の欲しい情報を手に入れてくるのだから、どういうルートかもわからない情報を目にしていることになる。ひょっとしたら、フィルターがかかった、捻じ曲げられた情報かもしれないし、悪いやつがWeb上に流している悪い情報かもしれない。
 勉強した方がいいとは思っていても、全く勉強する気が起こらない。でも、トラブルに見舞われたことをきっかけに、ネットワークのしくみというものも、少し勉強しようと思う。お手上げになる前に。

CDを買う

 CDを買う理由ってどこにあるのだろうと考える。私は、気に入ったアーティストや聞いてみたいCDは買って聞くことにしている。カラオケのネタにするくらいなら借りてくる。基本的にレンタルで音楽を聞くのは、あまり好きではない。ちなみに、身近なところで、ウチの嫁さんはCDをほとんど買わない。レンタルしてきて、MDに録音して聞いているのと、我が家のミニコンポの近くに置いてあるのを見かける。 結局、私と嫁さんのスタンスが違うので、事ある毎に「また買ったの?」「借りればいいのに」「売ったらいくらかになるのに」「処分しないの?」とか言われてしまうのだが、買う側の私にしてみれば、結局「記念品」みたいなもので、なかなか処分には至らない。
 この春の転居を機会に、岡山で使っていたラックの中身を整理して、半分以上を実家に送った。嫁さんにしてみたら、それでも「多い」との評価らしい。ゴールデンウィークの休みを利用して、実家の部屋掃除をしてCDも整理してみたのだが、やはり私の中で「記念品」になっているものが多い。高校生の時に格好つけて聞いていたBon Joviや、大学生になって初めて一人暮らしをしたときに持っていった2枚のアルバムや、当時惚れていた子にふられた時に大音量で聞いていたアルバムとか、悩んでいた時に一晩中聞いていたアルバムなんかが出てくると、やっぱり売ったり捨てたりはできない。言ってみれば、結婚式の記念写真みたいなものになってしまっているのだなと思いながら、整理をしていた。
 人によって「その物」の価値は変化する。形見なんてのはその典型だと思う。そして、自分にとって価値あるものというのは、何らかの形で自分の所有物になっていることが条件の一つであると考える。それが他人のもののまま、私にとって価値あるものになるとは思えない。だから、買うことによって私の所有物にしておくのだなと思う。CDはそうした諸々のものの一つであり、借りずに買うことの意味はそこにあると思う。