2015年4月29日水曜日

嫉妬

「嫉妬」
・自分よりすぐれた者をねたみそねむこと。
・自分の愛する者の愛情が他に向くのをうらみ憎むこと。また、その感情。りんき。やきもち。

 完敗である。人並みに嫉妬している自分に気づく。三月にも似たような感覚があったと記憶している。いろんな背景や予測が脳裏に浮かぶと、それらを制御できなくなっている自分がいることに気づく。過程でありながら、結果となって表れている様子は、揺るぎないものとして私の目の前に立ちはだかっている。
 整理をつけたはずのことが、ちょっとしたきっかけにより整理の枠をはみ出して自分を困らせる。焦らせる。「そうはいかないぞ」と頭では思っていても、身体は素直に反応してしまう。
 せめてもの救いは、その対象が自分にとって苦手であったり嫌な存在ではないということである。だからこそ嫉妬するのかもしれないが、だからこそ安心してゆらぐことができるのかもしれない。

パーソナルデータに対する姿勢

TOPPOINT 2015年5月号 城田真琴『パーソナルデータの衝撃』ダイヤモンド社、2015年。より

・様々な企業が収集に力を入れている「パーソナルデータ」について、企業の動きと消費者にとっての価値とリスクに関する解説をしたもの。
・パーソナルデータとは、個人の位置情報、関心事、交友関係、購買履歴など。
・Quantified Self:QSとは、ウェアラブルデバイスなどを用い、自分の活動や状態に関するデータを収集し、生活習慣の見直し等に活用しようというもの。
・家計簿や遺伝子検査等、Web上での情報収集の仕組み(アプリ等)が利用されている。個人の関心事や消費行動、果ては遺伝子情報までWebを通じて企業に差し出していることになる。
・販売促進広告を効果的に配信するなど、消費者にとってのメリットはある。
・ただし、遺伝情報に関して「究極の個人情報」であると同時に「家系情報」にもなりうる。子供や孫まで保険の加入や雇用に関する影響がでる可能性を示唆している。

 個人情報の保護について敏感になっている昨今であるが、様々なツールを使用することにより自分の情報が思いもよらないところへ流出してしまっていることも考えられる。
 鑑識眼を養うことを主張しているようだが、そのためにはインターネットやWebに関する知識の他、ソフトウェアやプログラムに関する知識が不可欠であるといえる。加えて、自分が使用するツールの仕組みやその前後の関係について知り、自覚をもって使う姿勢が問われているように感じた。

2015年4月9日木曜日

ジュネレーションギャップ

Iyokiyehaがお風呂で生後4ヶ月の娘の背中を洗おうとして、膝の上にうつ伏せにした時の、6歳の娘との一幕。
娘「おぉ、Kちゃんお空とんでるみたい。」
父「ほぅ、スーパーマンみたいだな。」
娘「・・・スーパーマンって何?」
父「・・・そうか、知らないか。電話ボックスで変身して空飛んでいくやつだな。」
娘「・・・ライト君みたいなやつ?」
(注:先日最終回だった烈車戦隊トッキュウジャーのトッキュウ6号のこと。)
父「・・・何でライト君?」
娘「だって、アプリチェンジャーって電話みたいのでしょ?あれで変身するじゃん。」
(注:アプリチェンジャーとは、ライト君が変身するときに使うスマートフォンのようなもの。)
父「電話、か。電話ボックスって、知らない?」
娘「・・・?お父さんの電話?」
(注:妻はスマホ、Iyokiyehaはガラケーを使っている)

以上。
世代間差は、確実に存在すると感じた出来事でした。

連携を妨げる人間関係

ここのところ違う案件で似たような現象が起こっているので記録しておく。
ある支援者が突出した支援をしてしまうことにより、支援全体の統一が図られない状況がある。それは業務を逸脱していることを「正しさ」で覆い隠し、更に自分がもっとも一生懸命仕事をしているのになぜ周囲の人はやらないのかという「正しさ」でもって自らの行為を正当化する試みであるように思う。
特に医療・福祉・介護など対人業務の現場においては、ある人の人生に関わっていきながらも、制度上の限界を越える手法として「連携」ということが言われている。この言葉は古くから使われているにも関わらず、その実体は明確に表現されていないように思う。「密な情報交換」や「相互理解」という言葉が飛び交い、これでもかこれでもかと現場にいる者同士相手が思い通りにならない事例を取り上げて「連携がなされていない」と罵り合うのが現状である。

敢えて一歩踏み込んでいきたい。
クライアントを支援することと、クライアントを思い通りに行動させることは全く異なる。支援とは当事者が問題解決するプロセスにその人の状況に応じ様々に関わることであり、そのために様々な形でのフェードアウトが組み込まれているものを言う。支援者の立場の者がいなければ成立しない生活環境は、当事者の問題解決能力を逆に吸い取ってしまう(スポイル)ことに他ならない。
関係者がケース会議をしても、支援チームでの役割が変わらないということは、ある突出した支援が制度の枠組みを越えて実施されているわけで、チームに対してハードワークを求めるのではなくむしろ自らの支援内容が適切であったかどうかを問い直す必要がある。
クライアントを依存させるのであれば、その離脱方法は計画に組み込んでおくべきだし、危機管理がなされていないのであれば支援者としては失格と言わざるを得ない。

とりあえずの雑感メモであるが、きちんと整理して自らの行動を律していきたい。