2024年4月29日月曜日

ゴールデンウィークにふと思う

 世間では大型連休が始まったと報じられる。我が家にとっては、今のところただの3連休。私の仕事はカレンダー通りなので、なか3日に年休をとることもなく、長女が土曜日通学なので、なんとなくのんびりの休日を過ごしている。合気道も今週は土曜日だったので、日曜、本日と、家事→買い物→庭掃除、で過ごす。

 お隣さんが引っ越してきて大体1年。3人きょうだいの一番下の子は、はじめ抱っこされていた(まだ、生まれたばかり)のに、もう歩いていて、先日4人目が生まれたとのこと。子ども、特に他人の子の成長というのは、ことのほか早く感じられるもので、一番上の行動に、二番目がイヤイヤを発し、三番目がマイペースに遊んでいる、という様子を庭同士で眺めている。ご近所付き合いってこれくらいの距離でいいな、と思う。

 先週、先々週は洗車していたのだけれども、今週は完全に草むしり。芝が伸びてきた時に、すっきり芝刈り機をかけたいので、芝以外の草(=雑草)をむしりまくり。いろいろ試してみたのだけれども、やっぱり手がぬいていくのが、終わった後すっきりする。去年くらいから、「ある日」に一日かけてやるんじゃなくて、一日数時間でも何回かに分けてやる方法をとっている。春から夏の、暑さ順応を兼ねた儀式みたいなものになっている。真夏になると、とてもできたものではない。

 そういや、急に暑くなってきたから、エアコンも掃除してやらんといかんな。なんだかんだで週末に家のことをやっていると、いろんなことは考えるけれども、ほとんどのことが「どうでもよく」なってくる。とりあえず明日はやってくる。ラジオ聞きながら、日常に目を向けるのも、自分の精神衛生上はいい効果があるんだろうな。休日なんか、基本、これでいい。

中澤朋子『不倫女子のHappy Holidays!』Audiobook.jp。

  感想は、最後の段落部分のみ。それまでは、本書を読んで浮かんできたことをメモ

 「不倫」という言葉は、社会的な背景があって生まれた言葉といえる。自分にやましいことがないから言えることだけど、他人と他人が好き合っているという関係が起点となって、そのお互いの置かれた状況によって、それが不倫であるかどうかが決まる。よって、率直には自分には関係のないこと。もう一歩踏み込むならば、それは当事者同士の関係であって、それ以外の人には、原則関係のないことといえる。

 だから、それが(なぜか)自分の身に降りかかる時というのは、何かが私の境界を突き破って入り込んでくることに他ならない。このことですら「他人に迷惑をかけないようにしてからきてね」になってしまう。そんな状況に置かれた人が、休日をどう過ごすかということについても「そんなの、自分で考えなさいよ、大人なんだから」。一人になって何かを思い出して苦しんだり、いわゆるイベントに孤独を感じて苦しむ、なんてのは仕方のないことだけれども、それは当事者同士で作ってしまっている感情なのだから、そこまででしょう。

 じゃあ、こういうことが当事者間の人間関係と、社会的に作り上げられている常識みたいなもののギャップによって作られているから、「社会が変わるといいよね」という論調はやっぱりちょっと違和感があるわけで(本書はそこまで言っていない)。社会に求められているのは変化ではなく寛容。余計なことを言わない、感じさせない態度が、成熟した社会といえるのだと思う。人のあらさがしをして、ネットで曝して笑いものにする、というのは寛容さの微塵もない自分本位の、自分が一番大事な人達の行動だから、そういうものは、少なくとも自分の中から排除した方がいい。

 そもそも「不倫」なんて言葉を使うから、自分の本心と社会的な後ろめたさとの間で悩み苦しむ人々が絶えないわけで。冒頭にもドライに表現したけれども、本質は、人を好きになる気持ちであり、それ以上でも以下でもない。私の周りには、いわゆるこういう関係を経て幸せをつかんでいる(ように見える)人がいる。相談を受けた数人には「全力で奪い取るのがマナーなんじゃないの」と言った覚えはあるが、これも「奪う」なんて言葉を使うからとがって見えるのであって、要は「一番好き合ったところで覚悟をきめた方がいいんじゃね」って言っているだけで。当事者それぞれの感情を考えたら、どこかに被害者は出るけれども、この態度を決めきった人達が、人間関係を次のステージに進めることができるのだと思う。

 さらりと聴いた本だけど、いわゆる「不倫」(←この言葉は好きじゃない。人間関係の本質を突いていない)も、人間関係の一形態として考えると、いろいろ思うところはあるな。この本の記述から学んだ一番大きなことは、笑いのツボは千差万別ということ。重なることは滅多になく、場合によっては人を不快にさせることがある、というくだり。著者は多分その人との相性、みたいな文脈でこの表現をしているのだが、これは本質を突いている事実のように思える。

寺地はるな『ガラスの海を渡る舟』PHP研究所、Audiobook版。

  発達障害の疑いのある道と認められたい羽衣子。凸凹きょうだいの二人が、祖父の死を受けてガラス工房を始めるお話。モチーフに東日本大震災や、コロナ禍が語られる。

 ガラス工房で「骨壺」を中心に、ありとあらゆることで衝突する二人と、それがいくつかのエピソードを経て氷解していく。少なからず人間関係が変化していく、その感情の動きを静かに、しかし確かな変化を伴い表現される。それぞれの時期に、それぞれの立場・見え方から語られる物語は、頭の中にすっと入り込む描写とはいえ、じわじわと深いところまで入り込んでいく。終章まで進めると、きっと気持ちが軽くなる内容です。

 表現で印象に残っているのは、

・新しいことは、いつも静かに始まる。イベントのように用意されたものではない。

・解決しないことは、対処すればいい。

木宮粂太郎『水族館ガール』実業之日本社、Audiobook版。

  正直なところ、中学生向けのティーンズ小説かライトノベル的な読み物かと思っていたし、そんな軽い読み物を欲していた時期の聴き放題コンテンツだったので、軽い気持ちで聴き始めたが、これがなかなか読ませる内容でした。

 内容については解説に詳しい記述がありましたが、いわゆる「職場」小説から、「専門職」小説へ、そこに個性的な人間関係が加わって、軽い語り口でありながら、水族館職員のマニアックなやりとりから、イルカの生態まで、いろんな角度から「水族館で働くこと」が浮き彫りになるような内容となっている。水生動物を扱う博物館としての位置づけもきちんと据えられており、「水族館とは何なのか」「その役割の変遷から不変の価値」「わかりやすさ、を考える」など、専門職が抱く矛盾とそれに向き合う若い出向自治体職員の奮闘が、エンタメとしても読ませる内容で描かれている。

 軽い気持ちで手を出した本ですが、なんともなんとも、自分の興味関心をバシバシと突いてくる内容でした。面白い読み物です。

瀧本哲史『武器としての交渉思考』星海社、Audiobook版。

  交渉はゲームでも、勝負でもなく、コミュニケーションである。そして交渉のゴールは、自分も相手も合意できること。そのためには、相手の立場を理解する、自分が話すよりも相手の言い分を聞く。

 交渉とはお互いの意向に重なりがある場合にのみ成立する。

BATINA(複数の選択肢)をもつ、ZOPA(合意できる範囲)を把握する。

雨穴『変な家』飛鳥新社、Audiobook版。

  これは、怖かった。文句なしに怖い。『ちょんまげぷりん』にほっこりした次に聴いたので、余計に落差があったかもしれない。

 書店で平積みになっていた頃に、パラパラと立ち読みして、次に進まなかった本でした。だって、図面を観て何か突っ込むかのような印象を受けてしまったので。聴き始めてびっくり。ちょっとした間取りの違和感から展開する壮大なミステリー。いい意味で期待を裏切りながら、ついていけるかどうかのギリギリの展開で、次が気になってしまう物語です。なんか、人間の内面や闇、脆さ、そして狂気、さらに良心、さまざまな感情に触れていく内容なので、聴き入ってしまいながらも、少ししんどい。要は、ミステリとして良作だったことです。

 いやぁ、小説にはこういう突き抜け方をするものがあるのでやめられない。

荒木源『ちょんまげぷりん2』小学館、Audiobook版。

  前作『ちょんまげぷりん』の続編。聴かせる。

 前作から数年後、青年となったユウヤが今度は江戸時代にタイムスリップする。突飛なストーリーでありながらも、ちょっと想像力を膨らませると、現代人を江戸時代の人がみたら、見た目からやっぱり「変な人」なのだろう。石を投げるのだろう、逮捕(お縄)するのだろう。そこで出会う木島安兵衛がお許しを得るための「プリン」開発劇。その中で成長するユウヤとタイムスリップの謎。めまぐるしく展開する物語に、ほっこりしながらも、ついつい引き込まれてしまう魅力がありました。知略謀略や陰謀などは物語のスパイスになっていながらも、その辺はさらっと流して、ほっこりできるいい小説です。読了感がいい良作でした

北村薫『空飛ぶ馬』東京創元社、Audiobook版。

  そうか、推理小説だと思って聴いたら、少し聴き方が変わったかも知れない。謎が深まっていく様子が、らせんを描いて何かに向かっている感じは受けたのだけれども、歩きながら全体の筋を理解するには、夜な夜なぶったるんだ頭には、ちょっと負荷が大きかったようです。評価は高い読み物なので、もう少し余裕があるときに、もう一度聴いてみよう。

荒木源『ちょんまげぷりん』小学館、Audiobook版。

  江戸時代から現代にタイムスリップしてきた侍が、シンブルマザー家庭で暮らしを共にする様子を描いた軽い小説。ありえない描写が、なかなか読ませる内容で、江戸時代の人々の暮らしと、現代の人々の暮らしを比べる観点が、とても面白い。

 外出を控えて家事をしていた木島安兵衛が、その料理の腕を買われてコンテストに参加し・・・というあらすじなのだけれども、ひょんなことから、江戸時代と現代との接点が見いだされ、というたいへんほっこりする小説でした。最後まで聴いたら、題名の意味するところがわかりました。

チェット・リチャーズ著、原田勉訳『OODA LOOP』東洋経済新報社、Audiobook版。

  OODAループとは、

 Observe 観察

 Orient 状況判断、方向付け

 Decide 意志決定

 Act 実行

 のサイクルを指す。元々軍隊の戦術レベルでの意志決定プロセスを分析して抽出したフレームワークのようだ。

デヴィッド・グレーバー著、酒井隆史、芳賀達彦、森田和樹訳『ブルシット・ジョブ -クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店、Audiobook版。

  どうでもいい仕事、やらなくてもいい仕事というものがあるのは、私も感じていることであるし、組織的な営みとしては「やむを得ない」ものであるとも思うところがある。では、それを完全に切り捨ててしまうと、、これが意外と困らないものが多い。そういった仕事を表現し、対策を論じている書籍だと思っていた。

 ビジネス書の注目書籍の中で、注目されていた時期もあり、気にはなっていた。ただ、聴いてみると、どうにもしっくりこない論考でもあった。なぜか。本書の論考は、文化人類学者が「よくある要らん仕事の本質を言語化する」のが本著のねらいであった。このことに気づくと、確かに本著は事例が抱負で、Bullshit Jobが浮き彫りになっている。

 誰でも知っているが、誰にも言われていないが故に、誰も言わない、ことを明晰に表現するのは困難だが、これを表現することに関する意味。Bullshit Job。bull-shitとは、下品な言葉だが、くだけた親しみ・率直さを表す。BSと略す。いやなもの、不必要なもの、嘘、ホラ、でたらめ、嘘つき、嘘をつくのが上手い人、でたらめな、ばかばかしい、怒った、酔っ払った、だます、嘘をつく、でたらめを言う、いい加減なことを言う、など。嘘、だけでなく欺瞞のニュアンスがある。「クソどうでもいい」も限定的。無意味、とりつくろいと見せかけがある。「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で不必要で有害でもある雇用の形態」「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で不必要で有害でもある雇用の形態であるが、本人がそうではないと取り繕わないといけないと感じている」。

 実用的な暫定的な定義は「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で不必要で有害でもある有償な雇用の形態である。とはいえその雇用条件の一貫として本人がそうではないと取り繕わないといけないと感じている」仕事。取り繕う=pretendがポイント。空気でもって言わないことになっている、とする世界のこと。

 Shit Jobとは異なる。shitは、劣悪な労働条件で、実入りの少ない、さげすまれる仕事を強調する。この仕事は、「キツい仕事」くらいと訳され、役に立つ仕事である可能性が高い。例えば、トイレ清掃など。本来は他者からもっと評価されるべき仕事だが、そうなっていない。その仕事に就いている人も、そういうことに気づくことができて、取り繕う必要は無い。Bullshitとの違いは、pretendのくだりで、取り繕う必要とその空気感の有無が大きな違いになる。

 こういう概念構築の仕事って、有益でない言葉遊びのように語られがちだけど、実際には世界の一隅をきちんと照らして、その価値を浮き彫りにする仕事として、本当に有益なのだと思う。哲学とか社会学の成果っていうのは、こういうところにあるのだろう。そういった価値に気づいて、自分なりに言葉にできたということが、この書籍から学んだことだったりする。

深井龍之介『歴史思考』ダイヤモンド社、Audiobook版。

  コテンラジオでおなじみ、深井龍之介氏による著書。世界に名だたる著名人のライフストーリーを追いながら「歴史思考」を提唱する。成功や失敗は、若いときの出来事だけではない。人生100年時代に30歳までで成功を測るのは早すぎる。現代とは異なる常識・背景を知るための思考の柔軟性、物事をそのまま受け止めるためのメタ思考。歴史を学ぶことの意味に、知識・教養だけでなく、具体的な事象に対して思考を広げ・深めるための土台を養うことを加え、よりよく生きるための学びという視点を与えている。学生時代に、こういう番組・先生に教わることができたら、と思ったこともあったが、今出会えたこともきっと意味があることだろう。

凪良ゆう『流浪の月』東京創元社、Audiobook版。

  身体も心も居場所のないサラサ。小学生の時に、両親と暮らせなくなり、引き取られた親類の家にも居場所はなく、ようやく見つけたフミとの生活も「誘拐事件」として扱われ、自分の思いとは裏腹に、社会的にもねじ曲げられ記録される。

 自分の思いと、周囲の認識がずれることは珍しくない。ただ、本作では周囲の認識が自分の虚構を真として作り上げてしまう社会を、前面に押し出して表現する。「事実と真実の間には隔たりがある」という表現がじわじわと自分に浸透してくるような物語である。

 実際にこんなことあったら嫌だな、と思ってしまうような内容も、結局人間というのは理屈に合わない行動や感情の揺らぎの中で、似たような言動をとっているのかもしれないし、観察できる他者の言動も、結局理屈には合わないことなのかもしれない、いや、多分そういうことが占める割合って、自分が思っているのよりも大きいのだろう。となれば、人にとやかく言うのではなく、自分がどうあるべきか考えて一つでも行動に移す方が、自分にとっては有益だろうと思う。そうできないことがあっても、それも自分だと認めることができれば、自分ではない他者のそれも寛容さで受け容れられるかもしれないし、受け容れられないにしても、自分に負の影響がないように制御できるようになるだろう。

 案外、強い人、というのは、凝り固まった鉄壁の論理を身につけている人ではなくて、状況に応じて自分を変えることで、自分の強いところで常に対峙し続けられる人のことなのだろうと思うに至る。

荻野弘之、かおり&ゆかり『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 -この生きづらい世の中で「よく生きる」ために』ダイヤモンド社、2019年。

  自分ができることと、できないことを区別する。事実と評価は異なる、事実に善悪はない。どんなことであっても「善用」はできる。「自由に至る唯一の道は『我々次第でないもの』を軽く見ることである」欲望、判断、忌避、意欲は自らの欲望としてもいい(我々次第のもの)が、例えば、評判、身体、地位、財産などは、我々次第でないもの(裁量の外にある)であるから、として、軽視する。これを「禁欲」と呼ぶのが古代ストア派の考え方として紹介されている。この根本的な思考から、個別具体的な考え方が論じられる。

■以下、項目引用

84 人々を不安にするものは、事柄それ自体ではなく、その事柄に関する考え方である

132 「傷つけられた」と君が考える時、まさにその時点で、君は実際に傷つけられたことになるのだ

152 他人と同じことをしないでいながら、同じものを要求することはできない

164 他人をも自分をも避難しないのが、教養のできた者のすることである

アラン・W・エッカート『大草原の奇跡』めるくまーる、2000年。

  大学生も後半に差し掛かった学部3年生の頃から、修士課程を修了する直前まで、とにかく本を読もう、とアルバイト代を原資に毎月10,000円分の図書券(当時)を金券ショップで買って、10,500円分の本を買うということをやっていました。おかげで、当時JR静岡駅、静岡鉄道センター付近の金券屋で顔を覚えられてしまう始末。

 この本は、そんな頃に静岡市の谷島屋さんで、多分平積みになっていたものにピンときて、小説枠で買ったものと、時期的に思われます。それから、浜松帰宅後の数回の書籍整理を生き残り、前回帰省時に所沢へ移送してきたもの。状態が良かったので、そのまま読み始め一気に読み切ってしまった。

 私が生まれる前に、オーストラリアで出版されたものが、世界十数カ国で翻訳されたロングセラーらしいです。著者のことも、この物語のことも知らなかったのだけれども、日本でも古くに出版されたものが絶版となって、2000年に再版されたようです。

 自閉症っぽい男の子が、草原で遭遇したアナグマと二ヶ月間生活を共にした物語。一言でまとめるとこうなるが、その出来事を通じて起こる成長・家族の変化が、胸を打ちます。特に引き込まれるポイントとしては、アナグマの行動と、主人公ベンとアナグマとの生活の描写が、活き活きと表現されていること。訳がいいのかもしれないが、原著はもっとすごいのかもしれない。おそらく両方が素晴らしいのだと思う。結末も、フェードアウトしていくようなイメージの物語で、私は好きです。思わず頬が緩む。

 現時点では絶版となっているらしいのですが、文庫化とかされているのかな?いずれにせよ、図書館になければ、入手は難しいと思いますので、興味のある方はお知らせください、お貸しします。

■引用

230 ねえ、ウイリアム、あの子とアナグマはなぜだか切っても切れない間柄なのよ。私たち、理解するよう努めなくちゃね。理解できないとしても、あの子を助けてやりましょう。

阿部のり子『今さら聞けない!自治体係長の法知識』学陽書房、2023年。

  現在係長級の自治体職員Iyokiyehaの、まさに今の課題にぴったりの一冊。法律初学者にもわかりやすい説明文と、業務上の具体的な法律適用に関しては、勉強会の対話形式で説明が進行する。大変わかりやすい。

 業務にあたり、決裁文章をチェックしたり、自分が矢面にたってクライアントと相対する時に、法制度の知識というのは、自分の言動を裏付けるものであるといえる。この知識の特徴は「知らなければ守れるものも守れなくなる」こと。知っていて、正しく使いこなすことができれば、いろんな人のいろんなことを守ることができるのにも関わらず、だ。

NHK青春アドベンチャー まとめ(6件)

●上田早夕里『火星ダーク・バラード』角川春樹事務所、2008年、NHK青春アドベンチャーより。

 Web時代になって、ラジオ(音声)ドラマっていろいろあるのだけれども、NHKの長年培ってきた歴史が安定感を感じさせる。この番組、らじるらじるを使うようになって、ようやく毎回聴くことができるようになったのだけれども、突飛な設定も、ラジオドラマならすんなり受け容れられるようなところがある。本作もそれに近い。

 人類が火星に移住して・・・と言った時点で、随分先のことだなぁ、なんか幻覚がでてきたなぁ、とミステリの要素に引き込まれていくのだが、小説だと「?」と読み返してしまうことも、音声というのはなんとなくイメージを作ってとにかく進んでいく。これは面白い。プログレッシブの特殊能力とか、SF要素もすんなり受け容れられる。受け容れると、作品の面白さがわかるということも珍しくない。


●シャミッソー原作、池内紀訳『影をなくした男』岩波書店、1985年、NHK青春アドベンチャーより。

 灰色の男から、無限の金袋を受け取る代わりに自分の影を差し出した男の話。影がないことで愛する人を失い、世界中を歩く旅にでる。友人に宛てた手紙の中で「人間社会において『影』を大切にすること」に言及する。この物語における「影」には、象徴的な意味があると思うのだが、それはおそらく、普段気にも留めないけれども、いつも自分の身近にあって、自分にとって価値を見いだせなくとも、今を生きる自分にとってあってあたりまえの存在、のようなものなのだろう。それを刹那的なものと引き換えた時に、身に起こる不全感、他者からの見られ方、失わなければその意味はわからない、というそういうものなのだろう。


●斉藤洋『白狐魔記 戦国の雲』偕成社、2006年、NHK青春アドベンチャーより。

 作者の斉藤洋といえば「ルドルフ」のシリーズで、児童文学作者だと思っていたが、こういう戦国ものも書くらしい。原作は長編(全6巻)でした。各巻の題名を見ると、時代を行き来したのかと思わせるが、青春アドベンチャーでは戦国時代の織田信長のエピソードがモチーフになっていた。歴史物といっても、人物描写が豊かで、信長の人間らしい側面が垣間見えるエピソードが特徴的。他の時代の、他の登場人物もそのように描かれているのだろう。面白い歴史物といえる。


●綾崎隼『死にたがりの君に贈る物語』ポプラ社、NHK青春アドベンチャーより。

 全10回シリーズ。ある人気小説を巡る、作家とファンの織りなす、自分を深掘りしていくドラマ。原作はライトノベルかティーンズくらいの読み物になるのだろうか。とはいえ、自分語り、親との関係に悩んだり、他の人から注目を集めることの表裏、話し手と受け手の認識の違いからくる人間関係のもつれ、そして心をすり減らすような言動。現代に生きる人の悩みの一辺をラジオドラマとして仕上げている。

 

●柴田よしき『小袖日記』文藝春秋、NHK青春アドベンチャーより。

 雷に打たれてタイムスリップし、平安時代、源氏物語の作者とされる香子の元で執筆を手伝う小袖となって、平安時代の人間模様を描く歴史フィクション。

 これは、軽く聴けて大変面白い作品。源氏物語を読んでいると、人間関係がもう少し背景を伴って分かるのかな、とも思いつつ、源氏物語を読んでいなくても充分楽しめる作品でした。


●フランシス・ハーディング著、児玉敦子訳『嘘の木』東京創元社、NHK青春アドベンチャーより。

 嘘を養分に育ち真実を見せる実をつける木と、ある研究者のねつ造にまつわる事件を追う、一人の少女の物語。児童文学として紹介されているが、本格的なミステリーかと思わされる。

 特にご縁があったわけではないが、NHKのラジオドラマ「青春アドベンチャー」の枠で放送されていたもの。ラジオドラマは脚色もあるが、ミステリーとしての物語の根幹は残し、音声で表現されている。大変聞き応えのある物語だった。嘘の木と父親の行為、それを巡る少女の成長、というか独り立ちしていく様が物語として語られる。


年度初めに思うこと 240407

  新しい年度になりました。職場はステイ、でもちょっと持ち場が変わって、昨年度係長級兼務で関わっていた兼務先に課内異動しています。地味だけど、仕事は全く違うので、またいろいろ覚えないといけない。私の立場からは「人間関係が面倒な職場」なので、ちょっと面倒。起こっている事案が、人間関係に留まっている件と、仕事に若干の影響がでている件。どちらも、仕事の本質ではないと思えるので、まぁ、距離を保って付き合うしかない。

 合気道は、ますます面白く、ますます充実している。連続技-基本技-基本動作のつながりが見えてきて、何を学んでも自分の知っている何かにつながってくる、という感覚。今まで詰め込んだお道具箱のふたが開いて、いろんなものが自分の理解の中に入ってくる感覚に近いのか、何をやっても面白い。受け身も一段上がったのか、下手くそであっても、痛い落ち方をしなくなったので、とりあえず受けられるという安心感も出てきた。

 身体は疲れる趣味の活動だけれども、少なくとも頭はすっきりするし、身体についても、回り回ってリフレッシュになっているように思う。貴重な時間だ。

 昨年度はちょうど今くらいに、問題勃発で、本業(兼務元)が年がら年中激務になってしまった頃だ。あれから1年、いろんなことが起こって、いろんなことを考えるわけだけど、まぁとりあえず全部経験だよってことで。ふんわり前向きにいきましょうか。

昇級審査 240324

  大人になってからテストを受ける機会というのは、めっきり減ったのだけれども、合気道を始めてから、定期的に審査がある。この緊張感はなかなか刺激的で、身体と頭がフル回転していることを感じられるいい時間である。若干空回り感もあるが。

 「それなりに」というのが総論。お稽古は積んでいるので、それなりに姿勢も技のキレもよくなっているようには思うが、ここで物足りなさが出てきているのも、おそらく昇級のあるあるなのだろう。もっとできるようになりたい、が強くなった。前向きな気持ちは出てきているのだけれども、一方で能力的な自分の傾向、みたいなものも見えてきた。やっぱり私は、即時対応は弱い。昔っからそうなんだけど、偏差値が高くない人の典型、みたいなところは合気道でもやっぱり表面化していて、技の名前をぱっと言われても、ぱっと動けないあたり、多分反応速度なのだろうな、と思う。自覚ができたから、そういう脳トレをしながら、やっぱり記憶に定着するようなお稽古をすべきなのだろうな。

 1級審査は「それなりに」じゃなくて、「やるだけやりました」と胸張って言えるようになっておきたいな、と思った。

入間市駅前散策 240320

  次女と映画にいったのは前述した通り。映画前後も面白かったので、ちょっと記録。

 興味深かったのは、この映画館が入っている商業施設とその周辺の街並みである。映画館が入っている建物と、その向かいにある商業施設は、いずれも最盛期を過ぎて下り坂局面のテナントビルのように、店舗が少なく、立ち入り禁止スペースが多いもの。広いからといって、テナントが全部が全部広いのはなく、空きテナントが多く、ちょっとさびしい。ユナイテッドシネマが上層階の2フロアを埋めていて、あとは1階にちらほら店舗が入っている。

 道向かいにもう一つ商業施設があって、少し離れて百貨店丸広がある。それらが2階のレベルで屋外通路がつながっており、その通路を使うことで、横断歩道などを利用せずに移動できる。とはいえ、休日でも快適なほど人通りが少ない。道向かいの商業施設の状況は映画館のビルと似たようなものではあるが、こちらは映画館ではなく、ボウリング場やサバイバルゲームフィールドなどが入っている。その意味では若干特徴はある。

 そして、百貨店丸広である。その雰囲気を、失礼を承知で一言で表すならば、さびれた百貨店、か。個人的にはこういう雰囲気は嫌いではないし、百貨店らしく何でもあるので、数時間歩くにはもってこいの規模だと思う。入り口に「6F レストラン街」と書いてある横に「6F 紀伊國屋書店」「6F 山野楽器」とあるので、??と思いながら6Fへ。飲食店は「ファミリーレストラン」という看板で、何でもある洋食屋さん風のお店。娘が選ばないかな~と思っていたら、娘がこの店をチョイス。建物が古いのでさびれた感じがあって、パーテーションもちょっと安っぽい感じはあるのだけれども、明るい店内で、落ち着いた接客、料理もきちんとおいしい、と、なかなか楽しい時間を過ごすことができました。さすがに6Fともなると、遠くまで展望できるので、期待していなかっただけに、いい昼食になりました。

 たぶん、家族みんなで来たなら、不発だったのだろうけど、次女と二人でのんびり過ごすにはいい場所でした。また行ってもいいかな、と思える街並みでした。今度はもう少しゆっくり歩きたいものです。

次女と映画を観に行く 240320

  年度末、後輩達が休日出勤しているような話は聞いたが、こちらはこちらで大事なこと。

 ここ数年恒例の「映画ドラえもん」を観に行く日でした。先日、新所沢パルコが閉店したため、今年は入間のユナイテッドシネマへ行ってみた。

 映画版のドラえもんは、毎回何らかのモチーフがあって、ほとんどメッセージはないながらも勧善懲悪っぽいエンターテイメントとして成立させているのが、なんとなく飽きさせない。親となって、この歳になっても楽しみと満足感が得られるものだと、個人的に思っている。昨年なんかは、次女と行って、後日(春休みに)次女のお友達を引率して再度観る(その間に妻と仲間の母親達がコーヒーブレイク、という催し)ことになったのだが、名作にありがちな「あぁ、こういう伏線だったのね」と思える箇所もあって、それなりに楽しんでしまった。

 で、今年のドラえもんも、音楽をモチーフに人間の営みとして、文化的な行動としての音楽の側面を取り上げて、人と人とがつながっていく模様を描いており、「あぁ、なるほどね」と思える内容だった。これはこれで満足。入間のユナイテッドは、映画館の規模そのものはそこそこで、地方都市の映画館としては規模、設備とも上級な方に入るように思えた。ポップコーンもなかなかうまいし、量が多い(ので、ひるんだ父娘はSサイズ)。カウンターの接遇も良く、大変心地よい時間を過ごすことができた。

テンション 240318

  自分で考えていることとは異なり、思考や身体というものは正直だ。次年度体制の発表を受けて、完全にテンションが下がっている自分がいる。不安というよりも、外圧が自分の動きを決めてしまっているかのような窮屈さの中で、何か面白くない、という感じである。全員残留というなかなかないことが発表された後、それならばという規定路線。大体、車の中で話をしたことと同じ。この配置は、私と同じようにテンションが下がる人が複数人いるのではないか?と思ってしまう。仕方がない、そういうことだ。

 とはいえ、問題の所在がどこにあるのかというと、ごく少数の個人の「わがまま」にあるわけで、大人になりきれない数名の人達のために、私のテンションが下がっていて、いわゆる「余計なことを考える」必要があって、「余計な時間を使う」のが、どうにもやる気になれない大きな理由と言えるだろう。

 こんなことに「戦略」とか「目的」を持ちたくないものだ。最近の学びでいえば、この剣はPDCAを高速で回すのではなくて、大きな方針だけ持った上で、OODAを高速回転させて対象となる人間関係において混沌を生み出していくのがおそらく有効だろう。まぁ。これも「余計なこと」だけれども、短時間でも丁寧に、淡々と。

盲 240316

  YouTuberで、元国会議員の方が有罪となったとのこと。やったことへの評価は各報道にしてもらうとして、私が新聞でこの記事を読んだ時に思ったこと。

 一体、何の仕事をしたの?この人は。

 過去に行ったことはどうあれ、国会議員に名乗りをあげて、有権者から得票し、国民の代表としての身分を与えられた。その後海外から何かちょろちょろと発言していたらしいけれども、結局国会には現れず、議員辞職となり、今日の報道である。何か政治的な理念や解決したい課題、国民の代表としての発言があったなら、何らかの形でやってほしかった、と思う。今でも何かあるならば、きちんとルールに従ってやってほしいと思う。今のところそういうものは表れてこないけど。

 某政党の公約がどうか、というのはあるし、国政の度に、個人的には「しょーもない」という公約を並べている人達がいる。その是非や好み、自分の信条との関連はどうあれ、その人達なりの主張があって、それを国の正式なルールの中で主張する。制度を敬って、理解して、その上で自分の信条を語ること、それ自体が悪いわけではない。では?ということだ。

 今、現時点では何も評価できない事案である。評価しないから、認める認めない、賛否含め、判断保留である。そんなことをした政治家というのは、一体何なのだろう?と考える。

 こんなこと言っていると「お人好しなんだから」と言われるが、この方も、日本という国に対して、まだ信条がある、あるいはできるのであれば、きちんと国会の場で述べて欲しい。「こんなやつ」と断罪してしまうのは、そんなに難しくないけれど、頭の労力を使うだけで、きっと何も生み出さない行動といえる。だから改めて「一体、何の仕事をしたの?」というわけである。

長女の卒業式に思う 240315

  長時間勤務が常態化しているこの時期に、終日お休みをいただき、長女の中学校卒業式に列席する。儀式というものは、そのものが好きなわけではないが、落ち着いた、荘厳な雰囲気の中、「卒業」ということを意識する時間になる。長女が誕生してから15年。中学校の入学式は、コロナ禍の人数制限の中、次女(小学校)の入学式と重なったことにより、ぼちぼち口をきかなくなった長女の方へ私が参加したのが、つい最近のように思えた。こういうのは何というのか?「ノスタルジー」という言葉は浮かんだが、ちょっとしっくりこない。「古いものを懐かしむ気持ち」はかすっているけど、ちょっと違う。でも、なんだか過去が急にやってくる、というような時間だった。

 卒業にあたり、親宛の手紙なんかも用意されており、普段自宅では見せないような表情で卒業を喜ぶ?長女を見ていると、確かに成長しているのだな、と嬉しいような、だんだん自分が知らない娘の姿があることを垣間見せられ、別に悪いことでもやましいことでもないのだけれども、複雑な気持ちになったり。

 とにかく、卒業式というのは不思議なもので、自分が考えるというより、感情や記憶が「やってくる」感じ、自分で制御不能なんだけれども、別に怖さとか焦りなんかがない、穏やかに「何か」が「やってくる」感じ。悪くないけれども、地味に初体験、みたいな時間を過ごすことができた。儀式が作り出す空気に当てられたのだろう。アンコントローラブルだけど、それでいい、そんな時間もいい、そんな自分の感情も悪くない、全然怖くない。44年間生きてきて、そう何度も経験はないことだろう。家族の側面ってこういうこともあるのだと思い知らされた一日でした。

 毎日毎日追いまくられてきた中だからこそ、かもしれないのだが、何かいい一日でした。

 奇しくも、本日は職場の内示日と重なりました。私はステイ。来年度はどうなるかな。

伝え方と目的 240309

  息子が終業式で、ちょっとしたスピーチをやるらしい。原稿を書いて「修了式」と誤字(正しくは終業式)で堂々と記された、なぜか封がされた封筒を準備していたのだけれども、どうやら読んでコメントが欲しいらしい。封を開けると中からは「町内会総会の報告」という文書。・・・いろいろと突っ込みどころが多い。

 スピーチ原稿は、というと、正直60点の内容。書くことが得意でない中一男子だから、まぁこんなもんか、とも思いながら、言いたいことを1/3くらいにして赤を入れていく。

 句点、読点がないのは論外。すべて修正するだけで、割とまんべんなく赤くなってしまう。とはいえ、頼まれたのだから、コメントを集約しなければ、用紙全面が真っ赤っかになってしまう。

 やることは、結局今仕事でやっていることと同じで、要は「スピーチの目的と内容が一致していますか」ということ。ついつい注意してしまう。とはいえ、こういうトレーニングを繰り返して繰り返してはじめて、そういうことに気づけるようになる、直せるようになる。この書く力、読み解く力、国語の力なんだけど、生成AIなんてものがあったとしても、こういうことを考えて文書を仕上げていくという作業は、誰に何と言われても、社会でよりよく生きるために必要なスキルであると思う。

 個人的には必要不可欠な技能だと思うのだけれども、今後どうなるかわからないのと、コミュニティによってはすでに文書が正しく読み書きできなくてもやりとりが成立していることもあり、このあたりは正直必要であり続けるかわからない。とはいえ、自分がよりよく生きようと思ったら、きっと読み書きのスキルは大事だと言うことにしている。だって、目の前の人と共通言語を使って意思疎通していくことで、知らないことを知って、知ってほしいことを伝えることだから。

コンテンツの寿命2 時間軸 240303

  前述したことと関連して。時間的な流行り物の寿命が、どんどん短くなっているような気がする。これも、別にいい悪い、と言う話ではない。個人の発信が、世界中で認められていく、というものを以前よりも多く見聞きするようになった。個人的には「何がいいのかよくわからない」ものも多いので、背景や流行る・バズる理由もよくわからない、というのが正直な感覚ではあるが。とはいえ、否定するものではないし、それをうるさくやると「老害」と言われる年齢だから、余計に気をつけなければいけない。

 とはいえ、「○○って今年の話だっけ?」というくらい、ブームの起伏は激しい。それを追いかけていたら疲れる、ということもあるが、気になるのは「よくわからない、残らないもの」をどこまで追いかけるか、という姿勢である。私の立場はシンプルで、20年以上前から「自分が気にならないものは、気にしない」で一貫している。聞かれれば、知らない、でいいし、教えてもらえばいい。ついでに、その魅力も聞けたら、それで新しいことを知った気になれば、みんなハッピーじゃないか。

 そう思っていれば、流行り物を追いかける時間は必要ないし、のんびり構えていたらいいのだと思う。2ヶ月後には・・・というものも少なくない。発信する人達にとっても、そこに執着しているわけではないと思うけど。

コンテンツの寿命1 質的 240303

  バズる、という言葉すらもはや「遅れている」のかもしれない。いろんなものが流行っては次のものへと移り変わっていくのを、半ば敢えて距離をとるように眺めている。

 個人が発するもの・ことが世界へと発信されていく。Webの世界ではそうしたことが起こり、それは肯定・賞賛されているかのように見える。その価値を認めること、それ自体についてどうこう言うつもりはない。ただ、そこに既存の価値を貶めるような、見下すような雰囲気はないか?と問い続けている。ない、とは言い切れない。正確には、その個人がそうした雰囲気をまとって発信をしている例ばかりではない、というべきか。中にはひいき目に見たとしても粗悪な侮蔑感情を感じるものがある、がそういうものはちょっと特殊カテゴリーにいれておこう。最近気になっているのは以下の2点である。

 一つは、新しい価値観を取り上げて肯定・賞賛することによって、自動的にそれまでの価値観の見え方が「自動的・相対的に下がってしまう」ということ。

 もう一つは、本人にその気が0であったとしても、例外、一つ目を含め、周囲がそういう雰囲気を作り始めたり、あるいは受け止める側がそう受け取ってしまう、という可能性である。

 少なくとも自分にはこうした点が気になるような事例ばかりである。そう感じてしまう自分の立場から見回すと、いわゆる受動的メディアに対しては、細心の注意を払っていないと、そういう雑な感情がすっと自分の中に入り込もうとしているのを感じる。意図して排除しないと、容易に入り込んでしまう。最近の流行り物に気をつけるべき、という態度には、こんな背景がある。

何か言いたい症候群 240224

  なんとなく、世の流れから一歩引いて眺めているつもりになって考えると、近年、いろんな人に「何か言いたい症候群」が蔓延しているように見える。通称「オレオレ病」くらいにしておきましょうか。

 オレオレ病を受け容れてしまうと、自分の周辺にあるもの・ことの何かに照準を当てて、その「何か」を指摘し始めてしまう。自分と違うこと、身体的特徴、経験・歴史、好き嫌いまで。「○○なんだよね~」「▲▲なんだぜ」なんて発言が増えて、場が暖まってくると、蘊蓄を超えて、その場で自分が楽しい内容や発言にすり替わってくる。このすり替わりや、安全地帯でないところで人の容姿や性格をいじりだしたり、それに呼応して品のない笑い方をしていたり、といったことを見聞きすると、一気に冷めてしまうし、笑えなくなる。私は、話題がどうこうもありながらも、その根っこにある「人をちょっと見下したい、ちょっと優越感を得たい」欲求が見えてしまうと、物理的・精神的な距離をとりたくなってしまう。大体、同じ場には行かなくなるし、やんわりと距離をとったり、場を離れるなど、そういった行動が出てきてしまう。「病気が出た」という表現は、大体こういうことになる。

 不思議なもので、言葉遣いや話題が変わるのは、その人の変容がそうさせることもあるが、なんとなくだけど、言葉遣いや話題選びによって、その人の変容が促されることがあるようにも思える。要は、いい言葉を使っていれば、その人にいい影響が出てくるし、悪い言葉を使っていれば、その人にはいい影響があまり出ないように思う。自分の視野が、人に向かってばかりいれば、いつも「笑いのネタ」探しに走るから、細部に至るまで指摘できるように分解する、些細なことも笑えるような見方しかしないから、自分は磨かれない。

ブームとか、興味のあることとか、世代とか 240218

  世の中で流行っているアニメの主題歌を聴いてみて、むむむ。TikTokのショート動画とか見せてもらって、むむむ。ほう、楽しいのか、盛り上がるのか、と思ってしまう自分がすでに今の世代の価値には気づけていないのだと気づく。気をつけないといけない。

 とはいえ、そうしたことに迎合する気もなく、私は私が興味のあるコンテンツを楽しむので充分。新しいツールやコンテンツも、食わず嫌いにならないように、でも自分に響くものだけ選んでいけばいいよね。

 先日、新聞で「マルハラ」なる話題を読んだ。どうも、LINEのやりとりで長文や文末に句点「。」を打つことが、今の若い世代にはプレッシャーになる例もあるらしい。いやいや、そんなこと・・・と思うのと同時に、おや、これは世代間のズレか?と気づく自分もいる。元々LINEは長文のやりとりに向かんなぁと思っているところもあるけれども、そういった背景すら共通言語になり得るかというと、それもきっと疑問が残るところだろう。

 古い考え方と言われるかもしれないのだけれども、私は何らかのフィルターが入っている良質なコンテンツの方が、自然に自分の中に入ってくる感じがする。自分にとって。たぶん、好き嫌いの程度も影響しているのだと思うが、偏っていることは偏っているのだという認識の中で取り入れた方が、解毒作用があるように思う。すなわち(なんぼか)冷静に事実認識に近づける、ということだ。

 だから、LINEとはいえ誤読の余地がないように、丁寧に発言しているつもりだし、余計なことは言いたくない。「Iyokiyehaさん、乗り遅れますよ」と言われたってしょうがないじゃない。老害にはなりたくないが、だからといって若者に媚を売るつもりはない。若い世代がチャレンジングに何か行動を起こそうとするなら、あえて揚げ足取りテストを行う程度で「がんばれ~」と言ってあげたい。当面はこんな考え方でもって、人の邪魔をしないようにしていこう。