2019年5月4日土曜日

内山興正『〔新装版〕坐禅の意味と実際 ー生命の実物を生きる』大法輪閣、2003年。

・マインドフルネスの瞑想から、坐禅の実際へ。マインドフルネスが「頭の体操」と割り切り、宗教性を排除したプログラムとなっているのに対し、坐禅は仏教に根ざした実践の一つの形といえる。
・「『自己が自己の実物を生きること』を、実際にやるのが坐禅です。」(14頁)表現にはいくつかあって、「自己の真実を生きること」「自己が自己を自己すること」(同頁)「ただかくの如く生きている」(30頁)など。
・正しい姿勢を、骨と筋肉でネラウのみ。よい(坐禅)、悪い(坐禅)の価値判断ではなく、「何か」を目指すこともない。ただ坐禅すること。「祇管打坐(しかんたざ)」という。
・何かになるための坐禅ではなく、自分を取り戻す、ただ自分である時間が坐禅である。なにも目指さないが、何からも解放されること。

(以下、引用)
6 おのおの自己自らの目をもって、自己から出発することこそが、真に仏教的な求道の態度そのものにほかならないのですから。
13 あなたはいつも、ただ他との関係(かねあい)においてだけで生きていて、本当の自分を生きていないから、自分の人生がさびしくなるのでしょう
14 『自己が自己の実物を生きること』を、実際にやるのが坐禅です。
48 坐禅とは、まさしく「ただかくの如くある実物」を、もっともよくネラウ姿勢なのであり、この「ただかくの如くある実物をネラウ姿勢」をねらって「ただかくの如くある」というのが、祇管打坐(ただ坐禅する)ということなのです。
51 坐禅の姿を骨組と筋肉でねらい、そうして「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません。
52 坐禅の姿勢をネラウと同時に思いを手放しにすることによって、心身ともに「坐禅する気になって坐禅する」ことになります。この「坐禅する気になって坐禅する」ことを、決して「思う」のではなしに「実行する」のが坐禅です。
 このことを道元禅師は薬山和尚の語をひいて「不思量底の思量」といわれます。骨組と筋肉で坐禅しながら、思いの手放し(不思量底)をネラウ(思量する)のだからです。また瑩山禅師は「覚触(かくそく)」という語をつかわれます。これははっきり覚めて(覚)実物を実物する(触)のだからです。
61 いま仏祖正伝の坐禅(真実生命の坐禅)はそうではありません。欲望も煩悩もじつは生命力のあらわれなのですから、これを憎み、断滅していいはずはなく、しかしそうだからといって、もし欲望、煩悩にひかれてそれを追うならば、それによって、かえって生命は呆けてしまいます。この際大切なことは、思いによって呆けさせることなく、かえって思いもすべて生命の地盤にあるものとして、在らしめながら、しかしそれにひきずりまわされないことです。いやそれにひきずりまわされまいと頑張るのでなしに、ただ覚めて生命の実物に帰ることです。
63 ふだんのわれわれの日常生活の行動では、ほとんどこのような思いを追った結果、まざまざとある似た姿を固定せしめ、この固定した煩悩妄想にかえって重みがかかり、この煩悩妄想によってふりまわされて行動していることばかりです。いやむしろ、ふだんのわれわれときたら、今の自分がこのような煩悩妄想にふりまわされているのだということさえもわからないで、ふりまわされている、といった方があたっています。
64 このような坐禅体験が充分に身についてくれば、ふだんの生活においても、たとえさまざまな思いが往き来しつつも、それにふりまわされることなく、自らの生命を覚触して、そのことにより真新しい生命の実物から出発しなおすことができるでしょう。
82 坐禅で大切なことは、それらいずれにもかかわらず、とにかくただ坐禅をねらい、坐禅を覚触して、ただ坐ることです。
96 自己の生命の実物とは、小さな個体的な私の思いをはるかに超えたところにありながら、現にこの小さな個体的私に働いている力なのです。
99 生命の実物としていえば、この小さな個体としての私の思い以上のところで、根本事実として、自己は「生きとし生けるもの、ありとあらゆるもの」(一切生命、一切存在)と不二、ぶっつづきの生命(尽一切自己)を生きているのです。これに反し、ふだんのわれわれは小さなこの個体的自分の思いによって、この尽一切自己の生命の実物を見失い、くもらせてしまっております。そこで今、思いを手放しにすることにより、この生命の実物に澄み浄くなり、この生命の実物をそのまま生きる(覚触する。非思量する)ーーそれが坐禅なのです。(このような坐禅を「証上修の坐禅」といいます。100頁)
102 (前略)「不疑」という、信についての第二の意味がでてきます。このことも、単に他人のいうことを聞いて疑わないというのではなく、「それを本当と思っても思わなくても、信じても疑っても」ーーそんな自分の思いにかかわらないところでーー事実として不二の生命の実物を生きているということを疑わない、ということだけが、仏教の信の意味です。