2023年5月28日日曜日

最近考えたこと 230528まで

寝る前に軽く体操(みんなの体操)をする習慣がついたので、もう一つ「書く」習慣に挑戦。POMERAがあるから、できそうなこと。粗削りで、雑な日記です。


■カウンセリングは世界を救う! 230528

 カウンセリングのスキルって、いろんなところで役に立つ。個別面談でクライアントをエンパワメントするだけじゃなくて、エンパワメントされた人が醸し出す前向きエネルギーは、仕事のパフォーマンスだけじゃなくて、周囲にもいい影響を与える。いい影響を受け取った人たちは、やっぱりいい雰囲気を醸し出せるようになって、また周りにいい影響を与えていく。こうやって広がっていった「いいエネルギー」が作る気流みたいなものは、ちょっとした悪いことも前向きに乗り越えていくだけの勢いがついてくる。何か「やばっ」ってことが出てきても、犯人捜しじゃなくて「どうする?」に注力できるようになる。

 この1ヶ月で私がちょっと使ったのは、以前身につけたカウンセリングの技法の基本的なこと「聴いて、伝える」だけだったんだよね。愚直なことしかできないから、愚直にやってみただけなんだけどね、できることしかできないから。


■自分のこと、を聞きたいのになぁ 230527

 時に周囲の雰囲気とは全く「合わない」自分を感じることがある。その場のエネルギーの流れに乗れず、前からそこにあった岩が川の水を分かつような感覚。「何が面白いんだ?」と思っていろいろ考えてしまう。結果、面白い理由なんか全く理解できず、面白くないから笑うこともできず、時にその会話の内容を聞いていて不愉快になることもある。つくづく不器用だと思う。無反応は周囲にも伝播しやすく、その場の人間関係によっては完全に水を差してしまうわけで。最近は、こういうことを感じた時には、作り笑いまでいかない穏やかな顔を作ってから、席を立つことにしている。タバコが吸えない私は席を立った後徘徊してしまうことになるのだが・・・

 何か、いろんなところで思うのだけど、「その場にいない人の行動」を「指摘・評価して」「良くも悪くも笑いものにする」というのはいかがなものかと。それが、その場(2人なら2人の間、3人以上でも)の共通言語になるならば負の感情を伴う話題であっても、それはその場のエネルギーにのることができるのだけれども、その話題が「自分にとってそう思わない」ことであれば、そのエネルギーには合わせることができず、川中の岩になってしまう。その場に居続けるのは、岩に当たる水勢が強く感じるのと同様に、結構しんどい思いをすることになる。

 内容はどうあれ、私がどんな話題ににも合わせられるという条件はただ一つで、それが「私にとってどうか」ということが含まれること。他人のことを指摘したって、それを「自分とは合わないんだよね」と結んでくれたら、多分「なるほどね」と前のめりになれるのだろうな。逆に言えば、私が基本的にどんな内容であっても興味が持てる話題は、目の前にいいる「あなた」自身のことを、自分なりに表現しているものなんだよね。


■サービスの停止 230526

 地味だけど素敵なサービスが終了することになったとのお知らせがあった。残念である。私にとっては良質なテキストを安価で定期的に配信してくれるものだったので、最近では珍しい取り組みだなぁと思って利用していた。ちょっとした時間に内容を確認して、勉強になるというものでした。

 どうやら、支払いの都合によるもの、とのことでしたが、私目線では納得はいかない、でもきっと配信者さんにとっては大事なことだったり、あるいは、元々何かマイナスバイアスがかかっていたところに、今回の件があってこれを機会にと中止した、とも推測できます。いずれにせよ、しばらくは楽しく使わせていただいていたので、残念ではあるので、この方の次の取り組みに注目しつつ、サブスク費用は他に振り分けようと思います。


■動画広告 230523

 以前から、動画広告の品のなさには辟易させられているが、相変わらずである。「儲かる」とか「得する」みたいなものばかりで、とにかく集客すればいい、みたいな雑な内容を垂れ流されると、時間の無駄だし、利用するわけでもないのにこんな風に不愉快になったりしている自分にも嫌気が指す。ついに、節税をうながすような内容のものまで出てくるようになったが、「納税=損」みたいな前提で、投資を促すような内容で、これまた品のなさを感じてしまう。自分で商売やるのは勝手だけれども、高額な金券がもらえることをエサに、投資サービスに誘導しようとすることには、やっぱり組せない。

 やっぱり、人間の法則「本当に儲かる話は、独り占めする」わけで、相談してウン万円、広告打って何百万って積んでいくと、このサービスはどこかにしわ寄せがくるのだろう。だいたい、本当に儲かる不動産なら、人に売らないで自分で買うよね。


■個別面談 230522

 係長級兼務となって、とりまとめをすることになったチームそれぞれの係員と個別面談を実施している。作業が遅れているのはご愛敬。個別に話をすると、普段の行動ふるまいからは読み取れないような感情を見つけられることもある。大変面白い。「はじめまして」の人でこれである。二度目、三度目になる人は、その人の成長なんかも見えて、大変面白い。


■審査稽古 230521

 合気道の審査が7月に予定されている。3級に挑戦するつもりでいる。これまでいろんな技をやってきたが、その忘れっぷりたるや、あきれてしまうほどである。ただ、体術である以上、なんとなく覚えているものや、動き始めたら「なんとなく」動ける(ようにみえる)ものもある。とはいえ、合気道ってのは体系だったものだし、一つ一つの動作に意味があって、理想的に攻めて受けた時の一連の流れが技であるから、「なんとなく」ではまずい。大人になってから、頭と身体を同時に使って、同時に「わからない」が生じて、頭から煙が出てくるようなチリチリとした感覚を味わう機会というのは、本当に少ないので、焦りながら楽しんでいます。さて、どう覚えたもんかな。

2023年5月21日日曜日

ここ2か月くらいの出来事と都度考えていたこと

よし、がんばろうって気になってきました。ここ2か月くらいのことについて。

 ■キックオフ 230521

 ようやく、ようやく動き出した感がある。課題山積の兼務先で、ようやくキックオフミーティングにたどり着けた。モチベーションがちぐはぐで、前向きに動き続けられる人がいる反面、犯人捜しに躍起になってしまっている人もいる。まずは受け止めて、その上でベクトルを示すしかないが、どこまで力が及ぶか、という不安が常につきまとう。その不安も、やはり業務がわからないところに、とりまとめ役として人をひっぱっていかなければならないという役回りによるところだと思う。昨年度のこれを、少し楽しみながらもう一度気流を作っていくしかないのだろうな、と思う。

 思えば、とりまとめ役(リーダー≒今の職場なら係長級)というのは、上からは現場と観られ、下からは仲間と見られがちな位置なのだろう。いろんなスタイルがあるし、現場から持ち上がりでとりまとめ役になる人も少なくない。現場のことを知り尽くしている人と、まったくそうでなくて異動したらとりまとめ役だった、という私みたいな人もいる。そういうストレスがある、っていうことを、この1年で充分味わっているので、よく言えば慣れもある、悪く言えばまた負担になる、というところなのだろう。

 とはいえ、できることしかできないし、そんなに器用じゃない自覚はあるので、いつも通りにやるしかない、と思うこの頃です。体重は半年で4kgくらい減っています。身体は壊さないようにしよう。


■環境の変化再び 230514

 先月末にメモを書き留めた直後、隣の係長職が復職して復帰、そして先週末再度休職へ。チームのメンバーの混乱はもちろんのこと、管理職も動揺してしまっていたので、調整?というか、自分自身のバランスをとることに注力してきました。なんとなくキャスティングボードを握る形になってしまい、性には合わないのだけれども、とはいえ求められることはある程度やりながら、見える範囲をできるだけ広くして、できるだけ「全体」を意識した波乗りをしないと、他人の感情の渦に巻き込まれてしまう。幸い、兼務元の安定感があるのと、業務が少し落ち着いてきた(先が見えてきた)ので、協力が得られるため、こちらも交渉カードを切ることができて、今のところ感情面の被害は最小限に抑えられているのだと思う。

 席上でも言ったのだけれども、犯人捜しを敢えてするならば、復職者を係長職で戻せといった管理職よりももっと上の人たち、としておくこととして、それ以外の犯人捜しは生産的でないので、パーキングエリアに出すとしても表面化させないようにして、立て直しに動くこととする。幸いなことに兼務先にも、動揺しつつも、馬力を出そうとしている数名がいるのが心強い。立て直し、といっても、現状把握→計画→実行→ふりかえり→…は変わらない。短期間で騒げる実績と、些細なことを無視できる前向きな雰囲気の醸成、内外から援助が得られる雰囲気作り、とやるべきことはなかなか多いので、できることを最大限にして取り組んでいこうと思う。今年度は「生き残る」ことと「一つでも進める」ことが目標になりそうだ。


■環境の変化 230423

 4月に入り、昨年度と同じ職場で勤務しているのだが、環境の変化が甚だしい。

 まずもう何がって、隣の係の係長職が年度変わってすぐに退職してしまうというハプニングが起こりました。これが国の検査の数日前だから、もう混乱の極みである。提示された管理職案が個人的にも元の係にも到底了解できる内容ではないので、それを蹴って、最終的にはIyokiyehaが係長級を兼務する体制になってしまいました。個人的にはやり方工夫して乗り切ろうと思っているのだけれども、意外にもいろんなことに気を遣ってしまう自分がいるんだよね。1ヶ月で3kgくらい減量しているが、割とストレスになっているのだろう。

 便宜上、昨年度の持ち場を「兼務元」、今の体制で追加になった持ち場を「兼務先」と呼ぶことにして、これが集約じゃないのが、ちょっと悩ましい。要は、人を持っていかれるように見える「兼務元」と、助けに来てくれる期待を持っている「兼務先」とのニーズのベクトルが全く異なることに起因するやりにくさ、のことです。「兼務先」をどうにかしなきゃいけないから、そちらに注力すればするほど「兼務元」は面白くないわけで。逆に、戻れるか分からない(この辺は管理職と現場・私の意向が異なる)「兼務元」に立脚した言動は、助けて欲しい「兼務先」にはやっぱり面白くない、ということは容易に想像がつく。これがまた、職員の人間関係がいいので成り立っている、という微妙なバランスの上に成り立っていることを知れば知るほど、気を遣う。まぁ、それくらい気を遣わなきゃいかんのだろう。

 並列の課題として、他にもたくさんあるのだけれども、大きなところは新規採用者への関わりだろう。昨年度に新規採用者を受け容れ、更に今年度も受け容れている。係が一気に若返っているのはいいこともあるのだけれども、業務スキルとしては若干低下していると読むのが妥当だろうし、それを適切に引き上げていくところには、多少なりともケアが必要と考えるが、その馬力が確保しにくい。

 こういうことを背景に抱えながら、更に言えば、Iyokiyeha自身の課題なのだけれども、新しい仕事を人から習うところに時間がかかるということ。「兼務元」は係長業務を中心に、年度末にかけて全体で不足している業務をサポートさせてもらえる環境だったので、自然に教えてもらって円滑に作業に入ることができたのだけれど、「兼務先」は元々基幹業務に係長が食い込んでいるので、ダブルチェックに疑問のある作業が舞い込んでくることになる。これをどのように習熟して捌くか、という私にとっては若干苦手な作業が課せられることに対する不安がつきまとう。

 とはいえ、これは不運な末に対応を迫られている、というよりは「いつ、どこであっても、起こりうる」事象なのだろうと、考えられるくらいの視野は広がってきた。要は、係に女性がいるならば、出産・育児のためにいつ戦線離脱するかもわからないわけだし、このご時世、介護で休職なんてのは珍しいことではない。そもそも家族・少子化対策の一翼を担っている私の持ち場が、急に人が欠けることによって機能不全になるなら、それはそれでリスクヘッジに課題がある、といわざるを得ない。そもそも、同じ係員が事故で戦線離脱することもあるわけだし。

 ちょっと愚痴っぽく書き留めていたら、前向きな気分も生まれてきました。結局、現状把握→適応→行動→ふりかえり→現状把握→・・・というサイクルは変わらないのだなと思いました。そして、結局今回も我を通してしまっているのだな、と改めて自覚するに至りました。さぁ、がんばろうっと。

2023年5月13日土曜日

香取照幸『教養としての社会保障』東洋経済新報社、2017年。(以前Audiobook版聴取歴あり)

  医療、介護、年金、子育て支援、地域福祉、雇用保障など、「社会保障」とは様々な分野で人が生活する上で最低限必要なことを、公的制度として保障するものとして位置づけられています。「国民の『安心』や生活の『安定』を支えるセーフティネットである」と定義づけられるとしています(44頁)。その上で、「現行の社会保障制度の基本的な哲学は、『自助』を基本に『共助』で補完する」(47頁)とする、昭和25年の社会保障制度審議会勧告を引用して、原理原則を説明しています。この文脈に立つと、自助、共助、公助のうち、公助とは生活保護制度のことを指し、冒頭のように、いわゆる「社会保障」と言われた時にイメージできるような諸制度のほとんどは「共助」に該当する、と整理できます。そして、その原則は、国民が経済的・社会的に自立し、自分の生活を支え、自分の健康維持をはかる「自助」が基本にある、ということになります。「自立した人同士がリスクを分散するための制度が共助であり、自助があるから共助があるのであって、自助のない共助はない」(48頁)という一文に、社会保障制度のすべてが集約されているといっても過言ではないように思います。

 本書では、戦後の医療保険の発展から紐解き、年金に関する解説に続き、人口減少社会に関する現状と見通しに触れ、雇用、福祉、介護など各論を展開していきます。いずれも、歴史をきっかけに、現状、そして見通しの解説の上で、「提言」として著者の「こうなるといいな」が論じられています。特徴としては、どの部分を切り取っても、地域生活、社会のデザイン、そして上記で引用した社会保障制度の根幹を考慮して、著者(≠政府)が論じているという点といえます。多分、解説だけなら、中央省庁や学者さんの解説を読んだ方が詳しいのだろうし、提言なら(信頼できる)雑誌・新聞の記事なんかを読んだ方がいいのだろうけど、香取氏が官僚として社会保障にどっぷり浸かった経験が整理され、一般向けに(といっても、少し難しめだけど)まとめられている点が、大きな特徴といえるでしょう。

 制度とは「共助」であるわけですが、だからといって言われたことを何でもやればいいというものではないはず。かといって「自助」が基本とはいえ、その「基本」は社会規範にあったとしても個別事情まで考慮すれば、できる・できないの境界は明確に線引きできるものではない、といえるでしょう。だから社会保障制度は難しくて、だから人の手が必要だ、ということを、改めて確認する機会になりました。行政、社会保障に関わる人にはおすすめの一冊です。

藤井一郎『プロフェッショナル・ネゴシエーターの頭の中』東洋経済新報社、2011年。Audiobook版、2012年。

  企業M&Aの交渉現場のノウハウを起点に、心理学や行動経済学の知見を踏まえて説明する一冊。「相手に選択させる」ためのノウハウが詰まっている。

 専門的な知識や手法についても、様々に説明されているが、基本的にすべての物事について、交渉現場の知見から帰納法で説明されているため、経験はなくとも現場のやりとりの場面が想像できて、行動レベルのノウハウは理解しやすい。その上で、理由や根拠を専門的な知見から説明しているため、もう一段、応用が効く形で理解できる良著。

相沢沙呼『medium 霊媒探偵城塚翡翠』講談社、2019年。Audiobook版、2020年。/相沢沙呼『invert 城塚翡翠倒叙集』講談社、2021年。Audiobook版、2022年。

  奇術士城塚翡翠シリーズ。推理小説なので、内容は詳述しないが、大変面白い。主人公城塚翡翠のキャラクターが立っているので、それだけでも読んで(聴いて)いて面白いのだけれども、推理部分が完全に事実に基づく論理によって暴かれるため、内容が小気味いい。奇術師としての側面が活かされる場面も観られるが、基本的には証拠と推理によって犯人を追い詰めていく。その語り口は、読み物として大変面白い。

吉武輝子、貴島操子、樋口恵子『こうすれば女子社員を戦力化できる』実務教育出版、1970年。

  図書館リサイクルシリーズ(初!)。このタイトルに打ち抜かれた。すでに絶版だろうし、半世紀前の書籍です。当時の常識と、それを当時の感覚で突き抜ける様々な事例や取り組みが語られていた。著者の3人はおそらくこの時代を生き抜いてきた女性たちなのだろうと察する。

 職場の花、男子よりも学がない、良家の子女かつコネがなければ入社できない、女性社員が配属されると男子がやる気になる、男性と同じ仕事はさせられない、男性と比して仕事の質が低い、などなど、現在(2023年)ではとても考えられないような「常識」の数々に驚かされる。図書館の職員さんも、なぜこの書籍をリサイクルに出したのだろうか、と疑ってしまいそうになる一冊。産業界の歴史の勉強だと思って、パラパラと流し読みをしてみました。この部分は、なんというか、ちょっと、面白さすら感じました。

 という書籍の中でも、純粋に学び取れたことは、モチベーション管理や、信頼感、行動で語ることができる姿勢、といったことは、半世紀も前から語られているということ、それも「当たり前」のこととして、今では仕事の効率化、職場定着の文脈で、50年前は女性社員が仕事に前向きに取り組めるようにするための方法として語られているということは、素直に学び取りました。今ではツールも方法も異なるけれども、きっと仕事(とかあらゆる活動)の根底に流れる意思とか向き合い方、人を人として認めることといった、普遍的とも言える人間関係って、きっと今までもそしてこれからも大切なことなのだろうと思いました。

ピーター・シス作、福本友美子訳『ニッキーとヴィエラ ホロコーストの静かな英雄と救われた少女』BL出版、2022年。

  ナチスドイツによるチェコ侵攻に伴い、イギリスに逃れた少女ヴィエルシカ・ディアマントヴァー(ヴィエラ)と、チェコスロヴァキアのこども達をイギリスに避難させることを、民間人として取り組んだイギリス人ニコラス・ウィントン(ニコラス)のそれぞれの物語です。大判絵本で、私の図書館シリーズです。

 イギリス人バンカーだったニッキーは、仕事というよりもプライベートで訪れていたチェコにて戦禍と関わることになり、その中でこども達の疎開をイギリスで受け容れることに取り組むことになります。その取り組みによって戦禍を免れた少女ヴィエラ。チェコで生まれ育ち、家族と暮らしていた平和な日常がナチスドイツの侵攻によって破られます。ヴィエラの両親はヴィエラをイギリスに逃がすことにしましたが、その後ヴィエラと再会することはできませんでした。

 この取り組みについて、ニッキーはその後50年ほど沈黙を守っていたのですが、家族がその資料を見つけて事実を知ります。テレビ出演したその席で、ニッキーの取り組みによって命を救われた人たちが名乗り出る、というエピソードによって、この取り組みが再び世に語られることになった、というお話です。

 どんな世の中にも、人としての信念を貫くことで、歴史の表舞台では語られずとも、人の命を救い、生活を支えている人がいるのだと、改めて感じ取れた一冊でした。戦争を知らない私のような世代の人間が、戦争を語ることには躊躇してしまいがちなのですが、子どもには、素晴らしい人の素晴らしい取り組みをプロが切り取ったものを、きちんと伝えていきたいと思うに至った一冊でした。

ウォルター・ワンゲリン著、仲村明子訳『小説「聖書」:旧約編(上)(下)』徳間書店、Audiobook版。

  「聖書」の内容を、現代語というか読み物として描いたもの。本書はそれを日本語に訳した物といえるだろうか。

 おそらく、「聖書」の内容を通読(聴)したのは初めてだった。通して聴いてみると、なんとなくだけど、古事記との共通点みたいなもの・ことが描かれている。神様は神格化されていることがある反面、大変俗人的で憎めないところがある。でも、やっていることは同じようなことで、きれいな女性と結ばれたり、わがままに離縁したり、感情的に国同士の争いに突き進んでいったり・・・世界各地に神話って語り継がれているわけだけど、意外な共通点みたいなこともたくさんあるのだろうな、と感じるに至る。

 結局、「聖書」となると、神様(God)との契約、が随所で語られます。神の意志に沿った生き方をすれば報われる。私利を優先させれば罰せられる。ただ、この神の意志というのも一貫している(のを読み解けていないだけかもしれませんが)とは言い難く、意外と属人的な意志なんだな、と感じる場面もしばしば。それで国が滅んだりするわけだから、実際にそこで生活していたらたまったもんじゃない、と思う場面も少なからずありました。

 とはいえ、世界中で読み継がれているものであり、毎週教会では聖句を取り上げてありがたいお言葉が語られているわけであり、本当に多くの人の拠り所になっているということについては疑う余地はない。何かの折に触れ、聖書で語られる言葉の背景や意味についても踏み込んで考える機会はありそうです。

西野瑠美子『七三一部隊のはなし -十代のあなたへのメッセージ』明石書店、1994年。

  書籍が並んでいるところを眺めていると、ふと本に呼ばれたように手にとる(とってしまう)本がある。今回はそんな一冊。次女と隔週で図書館通いをしていて、昨年あたりからポツポツとそんな感覚が戻ってきたのか、新たに身についたのか。昨年何冊か紹介しているティーンズ小説はそんな感覚で「呼ばれた」本たちです。

 「なんで七三一?」と言われそうだけれども、Iyokiyehaも説明できない。別に興味があったわけではないし、以前から追っかけていた情報でもない。でも、先日「呼ばれて」しまった。謙虚に学ばせていただく。

 著者の西野氏はルポライターとなっています。戦争関係の話題、というか主に「従軍慰安婦」の分野では、複数の著書含め著名人のようです。今までも何か読んだことがあるかもしれない。本著は、中学生への講演活動を通じて、もっと広く多くの人に日本の歴史を知らせる必要を感じ、元日本人従軍者や被害者家族などへの聞き取り調査を含めて書籍化したもの。中学生向け、を意識してまとめられたのか、表現は平易で読み手に考えることを促す問いが随所に含まれている。

 随分前に「七三一部隊展」みたいなものが開催されていたんですよね。私はまだ中学生か高校生くらいの頃だったけど。当時は、戦争の悲惨な側面、日本の(今で言う)黒歴史、人体実験が行われていた、といったことが伝わってきて、なんとも言えない気持ちになったものです。それから30年くらい経った今でも、こういう歴史の受け止め方には迷いが生じ、戸惑うものだ。とはいえ、記録に残る日本の歴史であることには違いないわけで、まずはきちんと受け止める。しかしながら、戦争のため、実験のためとはいえ、生身の人間を実験の材料(=「マルタ(マテリアル:材料)」という呼び方に通ずる)にしてしまう主体としての感情とは一体どんなものなのだろうか、と思いを巡らせてしまう。このあたりは人への興味が尽きないIyokiyehaの思考の癖かもしれない。「戦争下で感覚が麻痺していた」「大義名分があれば感情からは切り離して扱うことができた」「人ではなくマルタ=材料と捉えていた」など、三人称では様々な理由が考えられるし、そのどれもが「外れてはいない」のだろう。ただ、「当たっている」とも思えないし、主体が生身の人間である以上、感情という言葉では捉えきれない何かがそこに横たわっており、長い時間を経て変質していることなのだろう。

 この一件をもって、Iyokiyehaは善悪のいずれの立場も支えることはできない。善悪って相対的なものだから。ただ、歴史として受け止めて、今後の自分の生活、自分の周りの生活に「何かいい影響」をもたらすことが、歴史を学ぶ意義だと改めて考えるところです。この部隊の存在や研究成果がどこへいってしまったのか、この部隊に関わった人たちの処遇なんかを考えて推測することももちろん大事なことだけれども、そこにはきっと自分の人生への「いい影響」はないような気がする読書でした。ちょっと不思議な読後感でした。