2021年12月26日日曜日

前川喜平『権力は腐敗する』毎日新聞出版、2021年。

 元文部科学省事務次官。現在は夜間学校のスタッフなどの活動をしているようだ。以前ここでも紹介した『面従腹背』の流れを受けるような内容の著書です。

『面従腹背』 http://iyokiyeha.blogspot.com/2020/03/2018.html


「何が事実なのかわからなくなる」というのが率直な感想。

 私は近年、「出来事は背景があって理解される」という、立場や相対性ということを意識して物事に向かうようにしているので、余計にわからなくなっているのかもしれない。抽象度が高くなればなるほど、それを観察する人の立場や置かれた背景が影響し、同じ場にいた人であったとしても見え方が変わってくる。どのくらい変わるかというと「はい」が「いいえ」になる、180°方向が変わってしまう、ことも珍しくない。公務労働であれば、地方と国とで抽象度が変わってくるし、政治の世界では更にそれを上回る抽象世界なのだろう。それを読み解ける人の読み解き方(深度)によって、解釈は千差万別になる、こういうことを考えさせられた。

 全編を通じて、前川氏が文部科学省幹部で仕事をしていた時から2019年のコロナ禍に至るまでに、政権と中央省庁周辺で起こったことを、前川氏の視点で描かれている。その立場は反政権で貫かれていると言えるが、それを差し引いて読んだとしても、前政権まで(現岸田政権はまだ読み解けない)に起こったことは、超法規対応が重なり、俗人的な政治が行われてきたように思われる。法制度を起点に見れば、そこに弁解の余地はないだろう。

 これは歴史的に見ても危険な兆候といえるのではないか。そんな感覚の中で、賢明な主権者という文脈の中で放った前川氏の一言が刺さる。「学ぶことによって国民は賢明な主権者になれる。賢明な主権者は賢明な政府を持つことができる。賢明な政府は国民のために仕事をする。学ばない国民は政府によって騙される。愚かな国民は愚かな政府しか持つことができない。愚かな政府は腐敗し、暴走する」(242ページ)

 地道に学ぶしかない。私は現在地方公務員として勤務しているから、その歯車の一つとしての顔を持っているが、とはいえ、地道に学び、おかしなことはおかしいと言い続けなければならないのだとも思い至った。

(以下引用)

47 退職してから発言している私などより、現職にいながら内部情報を国民に知らせた彼らの方が、百万倍勇気があると思う。

237 自由であるということは、人が自らの意思で生きるに値する人生を生きるということだ。

同 自ら考え、判断し、行動する「自己決定」「自律」がなければ、人間は本当に自由とは言えない。(中略:Eフロム引用)人間の心には自由を捨てて権威主義に逃げたくなる弱さがある。それは自ら精神的な奴隷になるということだ。「自発的隷従」という言葉もそういう事態を表している。自由から逃走し自発的隷従に陥った人間には、自由の価値が見えなくなる。人がなぜ自由のために戦うのかが理解できなくなる。

2021年10月2日土曜日

再度ポメラニアン

  勉強に書き物に、ときどき仕事っぽいことにも、再度POMERAを使うことにして、DM200を購入しました。10年くらい前にDM5、5年くらい前にDM30ときて3代(台?)目。その時々にテキスト入力をする機会があるために導入してきたのだけれども、いずれも重宝していました。機能を絞り込んで、テキスト入力に特化したこのデバイスは、バッテリーの容量もよく、ハードな使用にも耐えうるもので、私の好みのデバイスです。DM5は当時スマホ+Bluetoothキーボードの組み合わせに作業がとって変わったために友人に譲渡、DM30は樹脂のコーティングが剥がれてしまった(中古で購入したからかな~)のと、ハードに使ったからか、キーボードのジョイントが壊れてしまったので引退。それから2年くらいですが、奮発してDM200というわけです。

 Wi-fiを介したデータ交換が使えるようになっていたり、SDカードがそのまま使えるなど、私好みの機能が追加され、ジョイントもシンプルになっています。ポメラっぽいコンパクトさには欠けるものの、結局普段は鞄に入れるのだからと割り切って、いろんなところで使おうと思います。会議録とるのにいいんだよね。ウェビナー受講時のメモとりとかに期待しています。あとは今まで通り、朝のちょっとした作文とか。

 このテキストも、息子のサッカー送迎の待ち時間にちょいちょいと車の中で作成しています。今まではスマホでどーでもいいことに時間使ってしまっていたところに、一ついい刺激を作ることができそうなデバイスです。当面は試験勉強にも使えるかなーと、期待しています。また、ちょくちょく報告しますね。

葛西眞彦『間接護身入門』日貿出版社、2019年。

  元刑事、現間接護身アドバイザー、現在は台湾で武器を使った競技格闘技に取り組む著者が、「身を守る」ことの全体像を示した一冊。元警察官で、様々な武道・武術に取り組んでいる、ということで、おそらく1対1で向き合えば「身を守る」ことはできるだろう著者が「それでも気をつける、常に気をつけるべき」ことをまとめており、いわゆる肉体的に襲われた時に身を守る直接護身と区別して「間接護身」という概念を提唱している。

・付き合う人間の普段の様子から“要注意”の人物を縁が浅いうちに見定めておくことで、様々な被害や不要なトラブルを回避する。これが間接護身の真髄です。としている(17ページ)。

・誰でも取り組めることでありながら、腕に覚えるある/なしは関係ない。身体技能はあった方がいいが、それが本質ではなく、どちらかというと「トラブルになる可能性の高い人間関係からあらかじめ距離をとる」ことが重要であるとしている。

・直接襲われた時に対応する直接護身は、肉体的にも、精神的にも、そして法的・社会的にもリスクが高いとする。腕に覚えがあったとしても「本気で人を傷つけよう」「殺そう」と思っている人の不意打ちに即応できるのはまれ。運良く相手を制することができたとしても、それが過剰防衛かどうかは検証され、やりすぎれば社会的な罰を受けることも少なくない。

・人をよく見ること、違和感のうちに安全を確保すること、自らトラブルに近づかないこと、これらが「自分と、自分の周りの人の安全を確保する」ことになる。こうした方法論が「間接護身」の考え方といえる。


 「危険を感じる」ことはある。感覚的なものであるときには、それをどうするか、その状況にどう対応するか、どう行動するか、ということについて、これまではそのときの気分を含めた自分の判断、が優先していた。しかし、本書には「自分とは見える世界が全く異なる人」が自分に対して危害を加えてくるリスク(不確実な可能性)について、様々なデータや事例を通じて教えてくれる。著者は、1対1の体術にどれだけ自信があったとしても、不意打ちに対して適切に(肉体的でなく、社会的にも)対応できる人は(ほぼ)いないと断言している。

 このことは、武術を習うことが無意味ということを表すのではなく、むしろ「危険は誰にでも起こりうる。知識や感覚を総動員して、トラブルから未然に距離をとるための考え方や人の見方を説明している。直接護身から「間接護身」を含めた、いわば総合護身というものを想起させる内容である。


■以下引用

290 間接護身に大事なのは仕事も私生活も、情を大事にして、人と付き合うことではないかと、今さらながら改めてよく感じます。情を大事にして人と付き合うことが、護身における最大の武器であり盾となるものなのかもしれません。

2021年8月8日日曜日

石坂典子『絶体絶命でも世界一愛される会社に変える! -2代目女性社長の号泣戦記』ダイヤモンド社、2014年。

  地元にこんな企業があったのか、と素直に驚かされました。休日の遊び場として、石坂産業さんの「三富今昔村」に遊びに行ったことはあったのですが、社長さんの紹介なんかを読んで、興味が出てきて読んでみた一冊。

 いろんな切り口があるのだけれども、一つ取り上げるのであれば、先代から受け継いだ経営理念「謙虚な心、前向きな姿勢。そして努力と奉仕」に全てが集約されていると思う。公害(ダイオキシン)問題の影響を受けて、これまでの実績がゼロどころか、マイナスもどん底まで地に落ちた石坂産業が、先代の英断や典子社長のアイデアとで盛り返していく様子が記録されている。その様々な取り組みを支える細かな方法は、全てこの経営理念に支えられていると思えるものだった。

 取引企業のトラックから液体が漏れだしているのを見て、プラントを止めて全社員で掃除にあたる、環境基準(ISOなど)を短期間で取得する、社員の大半が辞めても「正しい」と考える社員教育を続ける、地域への奉仕の視点を忘れず広大な里山管理を継続している。語られる事例はどれも派手に見えるところがあり、アイデアパーソンとしての典子社長の手腕として語られそうだけれども、その側面は残しつつ取り組みを支えたのは、上記経営理念を体現できる先代の存在と、その遺伝子(生物学的、社会的含む)を引き継いだ典子社長の意思、そしてそれを感じ取って「自ら考える」人に成長した社員さんが、同じ方向を向いて取り組むようになっているから成し遂げられていると思える。人材育成の更なる目標として「社員には、ものを大切にするレベルへ達してほしい。」(125ページ)と言い、シンプルな言葉の中に、価値観の変化や物への愛着など、社会に生きる人として大切なことを詰め込んでいるように感じました。

 もちろん、全ての取り組みには、本著に描き切れない背景があってこその結果があるわけなので、石坂産業の真似をすればうまくいく、というものではないのだけれども、他者(地域)との共存を本気で考え、できることを愚直にまっすぐに取り組むことと、そのための仕掛けが必要、という点については、謙虚に学ぶべきことだと思いました。


石坂産業株式会社(企業Web)

https://ishizaka-group.co.jp/

三富今昔村(当該企業が運営する里山を活かした施設)

https://santome-community.com/

2021年8月1日日曜日

「笑いをとる」とは、「おもしろい」とは

ウチの子どもらと、テレビのバラエティの話。

最近、我が家の子ども達も、芸人さんのネタを引き合いに出しながら会話するようになってきた。「おもしろいこと言って」とか「それは面白くない」など、傍で聞いていたら何が面白いのかよくわからないことを、何やらこねくり回している様子を時々見かける。子どもたちは、そんな父親の様子をおそらく感じ取っており、私にはその手の話をしてこないのだけれども。

長女、長男、次女、三人が三人とも、本気で何かに取り組んでいる時には、その事の大小はともかく感心させられるし、本気でやった時の失敗やへまは、非難すべきことではなく、助言のきっかけだったり、思わず笑ってしまう出来事であったりするわけです。私にとっては、本当の意味で「面白い」ことであるわけですが、どうもこの「面白い」と子ども達が会話の中で使う「おもしろい」との間には、大きな隔たりがあるような気がする。

元々Iyokiyehaはテレビをあまり見ないのですが、子どもが観ている番組が見えると、何が面白いのかわからないような、人をコケにした話題で子どもたちにも爆笑が起こるのを観ると、なんだか複雑な気持ちにさせられる。何だか、最近の「おもしろい」や「笑いをとる」というのは主語が「自分」に留まっているように感じられる。だから、そこに大きな笑いがあっても、それは「自分の集合」でしかなく、本気の芸人さんが狙うような「笑いの場」とはやっぱりちょっと違うような気がするんだよね。そういう中で形作られた「おもしろい」って、他人がどうあれ自分がおもしろければ(それで)いい、といった雰囲気が感じられるので、私はひいてしまいます。むしろ不快感となってしまのだな。

この辺は複雑です。子どもが観たいテレビ番組くらいは気持ちよく観てもらいたいけれども、私が(多分)嫌いなものを楽しんでいる姿が見えてしまうのは、複雑です。でも、こんなことを考えているのは、敏感な子どもたちにはバレているのだろうな。だから、私はそーっと自分の場所で本読んで過ごすとします。うーん、悩ましい。

八尾慶次『やとのいえ』偕成会、2020年。

  多摩丘陵(今の「多摩センター」あたりがモデルか?)の150年間を、その土地に設置された「十六らかん」さんの目を通して描いた絵本。古くからある農家さんが、駅前開発の波にもまれ、一度は家が取り壊されて家族も出ていったのだけれども、また戻ってきて今の家が建つ様子。それを人々の営みとともに描いている。長い期間(150年!)の定点観測と捉えた時には、多摩丘陵の歴史が分かる絵本ともいえる。

 手に取ったのは偶然です。ここ1年くらい、次女と隔週で図書館に行くのだけれども、最近は娘が自分で借りたい本を探せるようになったので、自分も数冊借りて読んでみることにしたところ、素晴らしい絵本に出会えるようになった、というところです。

 「やと(谷戸)」とは、「そこの平らな浅い谷のこと」で、丘陵地の奥深くまで入り込んでいる地形のことです(33ページ)。地域によって「谷津」「谷地」「谷那」などとも呼ばれます。小高い丘や低い山々の低いところの平らな土地で、関東で言えば東京都の西部にその土地が多く見られます。昭和40年代(1960年代後半から1970年代にかけて)これらの丘を切り開き、谷を埋めて、現在の多摩地区(住宅地中心の街並み)となっています。本書では、その移り変わりを「らかん」さん(お地蔵さん)がずっと見ている、という設定で街の移り変わりを描いています。著者にはひょっとしたら、現代へのアンチテーゼみたいな考えがあるのかもしれないのだけれども、読む立場としては、非常に淡々と、時代の移り変わりだけが読み取れます。その土地に暮らす人の生活、嫁いできたことで変化が生まれ、なくなることでまた変化する。人の生活を通じて、家庭の変化をも描いています。

 Iyokiyehaは1979年生まれ。ちょうどこの土地の開発が始まった頃に重なります。農家を営んできた「あるじ」さんが在宅で介護を受けて生活しているのですよね。後年亡くなって、この家は取り壊され、家族も転居するきっかけになるわけです。当時は、一変化、だったのだろうけれども、振り返ってみたら、割と大きな変化にあたるのかもしれません。街並みが変わり、生活が変わり、家庭のありかたも変わる、その時代の転換点だったのかもしれませんね。こればっかりは、歴史を振り返り、ある立場から物事を眺めた時に整理できることであって、その時々は生活の連続でしかないわけですが。

 きれいな絵を眺めているだけでも面白いのだけれども、こうしていろいろなことを考え、変化を感じ、解説によって深められる良い一冊だと思います。

2021年7月25日日曜日

夢や目標は「ない」でいい

先日の続き、になってしまいそうですが…

こないだの投稿の発言の主を批判するつもりは全くない、というのを前提に。矛先は世の中へ向けて。

「藤沢久美の社長Talk」がVoicyで復活して、楽しんでいたところ、株式会社まぐまぐの松田社長のインタビューを聴く。洗濯を干しながらのながら聴きでしたが、「夢や目標を持たなきゃいけないような風潮がある」というくだりに、思わず手をとめて聴き入ってしまう。いや、松田氏は「情報と脳をダイレクトにつなぐイメージ」を持っているので、全く何もないというわけではないのですが、そうした大きなぼんやりしたものがあってもなくても、とりあえず目の前のことをやりながら、「好きなこと」をイメージしながらだんだん何かをイメージすればいい、という考え方に、「あぁ、こんな感じ」と思ってしまう。

Iyokiyehaは、人生の目標管理がたぶん苦手です。行き当たりばったり、とも言う。でも、転職した頃から、それがまずいと思わなくなりました。多分、同じ組織内や同じ業界など、同一尺度で測ることのできる価値観の中で、自分を磨き上げていくためには目標管理に基づく自己啓発が必要なのだと思いますし、そういう人には世に出回っている自己啓発本の内容ってうんと参考になるのだと思う。この手の人達にとって「夢を語れること」は、その人の実現しようとすることを具現化する有効な手段の一つになるのだと思います。

ただ、それとは異なる、多様な価値観の中をサバイブしていくための生き方というのもあるんじゃないだろうか。そこにあたっては、具体的な夢ってイメージはできなくて、二段も三弾も抽象度が上がったものが目標になるのだと思う。例えば「人と関わる生活」とか「好きなものに囲まれる生活」みたいな。それは職業を通じて実現するものかというと、そればかりではないでしょう。仕事をもった生活の中で実現するものかもしれないし、仕事と理想の生活は切り離されて、ON/OFFで語られることかもしれません。

そこまで深めなくても、

Q「将来の夢はなんですか?」 A「なんか、○○みたいな感じだけど、ぼんやりしています」とか「今のところ、ありません。好きなことは□□です」。なんて、回答があってもいいと思う。悩んでいるなら相談できるし、「決めろ」って言われて決まるものではないし。好きなことにコツコツしつこく関わっていくことで、周囲の見え方が変わってきて自分の進むべき道が見えてくるかもしれないし、そうでなくても自分にとって「心地いい」生活に向けて少しずつ変わっていくのかもしれない。そんな変わりかけのところに「もっと具体的に自分の夢を考えなさい」なんてアプローチは、その人の内発的なエネルギーに蓋をしてしまう行為なような気がしてなりません。そんなことを漠然と考えさせられたインタビュー番組でした。


https://voicy.jp/channel/1714/167760

藤沢久美の社長Talk 株式会社まぐまぐ 代表取締役社長 松田 誉史さん

働くことコラム10:生活支援の限界 -生活リズム

 久々の「働くことコラム」です。最近、雇用支援について身内向けに説明文書を作っているので、そこで改めて考えたこと。

 これから書くことの結論を先出しすると、

・生活リズムを治せるのは自分だけ

・目標か危機感の共有がなければ動かない

 ということです。

 職業カウンセリングのなかで、求職者の相談を受けていると、「仕事ができる/できない」以前の問題で、仕事が決まらない、仕事が続かない、という人が少なくない。支援計画にも「生活リズムを整えましょう」と書いてあって、本人の署名があったりします。話を聞いてみると「分かっているのだけども、早起きすると調子が悪いんです」とかなんとか。具体的に就寝時間と就寝前の時間の使い方を聞くと、24時過ぎ就寝で、直前まで動画を観ている、などなど。

 当時はカウンセラーを名乗っていたこともあり、「○○してみましょう」「■■を試してみましょう」なーんて提案(説得?)していたのですが、今振り返ればなんて悠長なことをやっていたのか、とくやしい気持ちで一杯です。もちろん、組織の都合もあったので、当時はそれで「やむをえない」と思いこんで仕事をしていたわけですが。

 今、私が支援者として、こう言ってきたクライアントが目の前にいたらどうするかな、と考える。私が策定する計画には「○時頃起床して、□時に家を出る」という目標にするかな。指標は自宅を出発する時間でドライに評価する。方法は助言をするけど、基本的には本人任せ。2週間経っても変化がなければ、計画再策定や助言を重ねるけど、職業リハビリテーションや就労支援という枠でできるのは、これくらいかな。

 そもそも、生活支援って限界があるんです。自分の目の前で生活を観察することは困難を極めるものだし、万が一観察できたとしても、観察者がノイズになって通常生活を送れなくなる可能性が大なので、やれたとしてもおそらくやらないでしょうし、やる意味を考えたら労力が成果を上回る事例と言えるでしょう。

 大切なのは、「計画策定」の本来の意味のところです。本人のサインをもらうのが本質なんじゃなくて、「本人が納得して同意する」ことが重要。本人(クライエント)、支援者、関係者がみな同じ方向(目的)を向いて、そのための指標(目標)を共有して、これができてはじめて「本人のペースで」取り組んでいくことが求められます。

 はっきり言っちゃえば、理由はどうあれ、なんだかんだ言って生活リズムが変わらない人って、「自分の枠内でしか物事考えない」(≒考えられない)人がほとんどですから、自分の中に危機感や理想像が浮かび上がって、内発的な動機付けにならない限りは、行動が変わることはないでしょう。ただ、内発的な動機に変わった時に急激に変化することがあるので、それはきちんと支えないといけませんが。

 このコラムで繰り返しになるかもしれないけれども、仕事の現場で通用する「自分の力」って、それが「習慣になっているもの」だけです。業務遂行の技能だけは、とってつけた知識が結果を左右することもありますが、もっと土台の日常生活・社会生活の部分に関しては、習慣=土台になると思います。単発の技能は土台になりえない。ということで、支援者に求められる技能は、「助言の知識とスキル」「クライエントをやる気にさせる(危機感を煽る)相談スキル」「変化を見極める評価のスキル」という当たり前のことと、もう一つ「変わらないことを受け入れる覚悟」みたいなものじゃないかな。間違っても「生活リズムを、外(支援者)から変えられる」と思わないことです。

2021年7月17日土曜日

松本俊彦『薬物依存症 シリーズ ケアを考える』ちくま新書、2018年。

  タイトルの通り「薬物」、および「薬物依存症」に関する基礎文献。国立精神・神経研究センターで、長年この分野の治療と研究に携わってきた松本医師による著書。著者は本書を「紆余曲折の最近⑩年あまりのあいだ、薬物依存症の治療と回復支援について私なりに必死に考え、実践してきたことが詰め込まれています」と評しています。

 世界中の知見と、著者の経験が、(おそらく)学術文献並みの内容でもって、新書の体裁を保っているところが、本書の特徴といえるでしょう。この分野に関わったことがある、あるいは興味のある方であれば、内容は充分理解できるものであると思います。この表現力もすごい。

 人間の身体のこと、医療のことって、文字通りの日進月歩の世界で、私が薬物や薬物依存に対して持っていた知識を一新させ、さらに関わり方についてもその認識を改めなければならないと思うほどのインパクトのある一冊でした。今は福祉、以前は雇用の分野で、支援の対象者としての薬物依存者、その人の傍にある薬物に対して、私は傍からみたらちょっと変わった関わり方をしていたのだと思いますが、その関わり方を支持する内容もあり、一歩進む内容もあり、さらに改める必要がある内容もあり。そして、現状維持からちょっと改善の積み重ねていくにあたり「要求や結果を表現できる環境整備」が地域生活を継続する上で不可欠であることをはっきり認識できました。

 「薬物依存症の回復支援とは、薬物という「物」を規制・管理・排除することではなく、痛みを抱える「人」の支援なのだ」(299ページ)、「(ポルトガルの事例を受けて)薬物問題を抱えている人を辱め、排除するのではなく、社会で包摂すること、それこそが、個人と共同体のいずれにとってもメリットが大きい、という科学的事実ではないでしょうか」(310ページ)、「(自傷行為、依存症者の傾向を)『人』に依存できずに『物』に依存する人たちなのです」(322ページ)。

 これまで、「人の支援であり、統制排除ではない」という福祉の本質(だと思っていること)を横滑りさせて関わってきたところですが、本書はすっきりとその範囲を整理してくれたような気がします。

2021年7月3日土曜日

夢を語ること、目標をもつこと

 こども向けの文書を読む機会があり、ある大人が「自分が子どもの時は○○に没頭していたけれども、□□に興味を持つようになり、△△になった。夢は変わっても持ち続けていたらかなえることができる」みたいなことが書いてあったんです。

 この人の人となりはよーく分かっているので、こども向けにわかりやすい例え話を自らの経験から引いてきた、ということは容易に想像がつくのですが、Iyokiyehaにはコツンと引っかかる。「夢=職業」になっていることと「夢を持ち続ける→かなえることができる」という内容なんだろうな。

 「夢」とか「こうありたい」と思う自分語りそのものは、自分のためには必要なこと。他人の「夢」を聞くことは、自分にとって一つの学びの機会になりうる。しかしながら、それは職業と関連して語られることはあるのだろうけれども、「△△になる」ということが果たして「夢」としてふさわしいのかどうか、ということはよくよく考える必要があると思う。世の中には星の数ほど、数えきれないほどの仕事があり、同じ職名で語られても、置かれた場所や背景によって、その仕事が世の中に与える影響はそれぞれ異なるわけで、職業ってその土台だと思うのです。「目標」であったとしても「目的」とはいい切れない。職業で語るとすれば、△△になって自分がどうありたいか、自分がどうなりたいか、自分が何を成し遂げたいか、ということが「夢になりうる」だけで、自分に付与される肩書を「夢」と言ってしまうのは、わかりやすくても本質とはちょいと違うのではないか、と思うわけです。

 こどもたちに夢をわかりやすく語ることは、メッセージを余白に書き込むような行為だから、そこで△△になるのが夢、と言ってしまうのは、それを書き込まれて理解したこどもには「わたしは▲▲になりたい!」「僕は▽▽になる!」という、なりたい自分、ありたい自分を職業に縛り付けてしまうだけで、安易なキャリア教育になりかねないなぁ、と考えてしまいました。

 いや、ライフストーリーをきちんと聞く経験って大切ですよ。ノンフィクションやインタビュー番組とか、メディアにも様々ありますし、著名人でもそうでなくても、ある人の経験を丁寧に聴くことは、大きな学びになりうると思います。ただ、職業=夢、という安易なメッセージが広まって、職業選択を困難にしてしまう働きかけってあるんだよってことは、人に影響を与える仕事に就く人にはちょっと考えてほしいなぁ、と思った次第です。

2021年6月26日土曜日

中西貴之著、宮坂昌之監『今だから知りたいワクチンの科学 -効果とリスクを正しく判断するために』技術評論社、2021年。

  「ヴォイニッチの科学書」のサイエンスコミュニケーター中西貴之氏が、タイムリーな話題に科学の視点から一石投じた一般書。今世の中が求めるべき情報は、わかりやすくて信頼のある行政や公的研究機関の報告だけでなく、こうした長年の蓄積に裏打ちされた信頼できる民間人による一般向けの科学情報、なのだと思う。

 とかく、「科学の話題」というと専門家がきちんと(中にはイマイチなものもあるけれど)説明するものだけれども、その言葉は専門外の人にとって理解しやすいものであるかどうか、という点は疑問がある。かといって、テレビやラジオなどタイムリーなメディアで毎日基礎情報をやるわけにはいかないし、かといってWebの情報は選び取るのが難しい、というのが現状かと思います。

 著者は一貫して「ワクチンを積極的に摂取すべきもの」として、その理由を科学の視点から一般向けにわかりやすい説明をしている。その現時点のまとめが本著である。中学生~高校生レベルの生物学、化学の知識を基に、ワクチン接種を控えた私たちに必要な情報をきちんと説明してくれている。ワクチンは怖いものではないし、デマに踊らされることはない。しくみを知って、きちんと判断するための材料が満載です。これを読んで、接種する/しない、保留をきちんと選択すればいいと思います。

今西乃子著、浜田一男写真『命がこぼれおちる前に -収容された犬猫の命をつなぐ人びと』佼成出版社、2012年。

  前回紹介した『命のものさし』と同じ著者の作品。もっと児童書に近いかな。子どもと図書館へ行った時に探してみて借りたもの。

 Iyokiyeha家は、長女長男が動物アレルギーなので、犬を飼う、猫を飼う、という予定はないのだけれども、Iyokiyehaは昔『名犬ファング』(海外ドラマ)を観て、犬が飼いたかったことがありました。その後、気まぐれで父親が「柴犬を買ってくる」と出かけていったと思ったら、ウェルシュコーギー種を買ってきて12,3年程飼っていたことがありました。我が家だけでなく臨家にも懐いていたので、特に問題がはなく天命を全うし、何か問題を感じたことはありませんでした。

 本著はそのIyokiyehaの常識とは異なる土俵のお話。様々な理由(到底理解できないようなものも少なくない)でいわゆる保健所に持ち込まれる動物たち。ある水準を超えると殺処分される、というのが半ば(我々の世代では)常識となっているのだけれども、この作品はそれに一石を投じたボランティアと行政の協働のお話。

 「捨てるのは一瞬、救うのは大変」「かわいそう、という一言では何も動かない。すべては自分たち次第」「自分たちの気持ちを行動にうつして、はじめて周りが動く」といった、信念をもって活動した人達ならではの言葉がちりばめられているのも心を揺さぶられるが、何よりボランティアの地道な活動によって、千葉市が「殺処分機を動かさないようにする」という判断をした、という記録が私の心を打った。世の中がよい方向に向きを変えた瞬間だなぁ、と感じたところだ。


ココニャン一家の縁結び

https://ameblo.jp/coconyanikkanoenmusubi/


2021年6月20日日曜日

真面目にやればやるほど…

  仕事の量と質によって感じるストレスが異なるというのは、想像に難くない。

 例えば、仕事量が多ければ多いほど、終わらないことに対する疲れと終わりの見えない(目途が立たない)ことへの不安、それらの相乗効果による悪いことが起こるような予感が、螺旋を描くように絡み合って増大していく。

 一方、仕事の質が悪ければ無意味な感覚が、上記の相乗効果に拍車をかける。質の点でもう一つ気を付けないといけないのは、そこそこ質のいい、本質に迫る仕事ができている場合に、悪循環をいい意味で覆い隠して突破できることがあるということだ。これは、心理学用語で何トカって言ったような気はするが、「前向きに乗り越える」という表現が当てはまる状態であれば、人間は結構なところまでがんばることができる。

 それを期待しすぎるのもどうかと思うが、ここで注意しないといけないのは、「まともな仕事を前向きに丁寧に取り組めば取り組むほど仕事が増える」というシンプルな法則である。そして、これは「仕事の絶対量」によって、まともな仕事の結果が充実感になるか、徒労感になるかが、かなりの部分まで決まってしまう。要するに、仕事の全体量がある一定水準以上になっている場合は、どんなにいい仕事をしても、そこから得らえる(小さな)充実感が、仕事の残量が発する圧倒的な徒労感に覆い隠されてしまう、ということだ。

 この事実に気づけるか、あるいは見えるかどうかが、自分のしんどさに気づいたり、周囲のしんどさに気づけたりする要点になるのだと思う。「仕事を削る」発想がないと、現代人はつぶれるか、やさぐれてしまうような気がしてならない。まずは自分を守らねば。

2021年6月13日日曜日

今西乃子『命のものさし』合同出版、2019年。

 児童書なんだけど、新聞の書籍欄に掲載されていて、図書館で借りて読んでみた本。テーマとタイトルのインパクトでひかれた。

 舞台は愛媛県。公務員として勤務する渡邉清一氏を中心に語られるノンフィクション。清一氏は、獣医師でありながら、野良犬駆除、と畜場、動物園、動物愛護センターに勤務してきた。獣医師として本来は動物の命を救う立場であるべきなのに、野良犬を捕獲して殺処分したり、食肉として出荷される牛の検査、動物園では動物園の移転という仕事を任された後、繁殖を通じて日本における動物の現状を意識し、再度動物園に戻ってくる。そんなキャリアを通じて、いつも悩み、いつも見据えていたのは「命の重さ」。人間の都合で殺される命があれば、人間の都合に合わせて生きられる動物がいる。整合性がとれない現実の狭間で悩み、動物たちの「死」を目の当たりにし続けてきた筆者は、このことについて社会の前向きな変化を希望として感じとっている。

 平易な文章でありながら、扱うテーマは深く、さらに深い。表紙のイラストもかわいいので、気軽に手にとることができるが、こんなに迫力のある内容の本に出合ったのは久々である。「児童書」かどうかは置いておいて、一気に引き込まれる文章と、モチーフとなっている渡邊清一氏が見てきた現場を通して語られる、やるせなさと迷い、怒り、慈しみ、数々の感情が言葉の端々に感じられる。

 Iyokiyehaが修士論文の中で描きたかったのは、こういう人間の内面だったのだろうなと思う。本著は、本気で動物たちの命と向き合ってきた一人の公務員の生きざまが語ることを、見事に表現しているように思える一冊だった。

33 農業用の倉庫で子犬を生んだ母犬。捕獲のために対峙した時の母犬の表情。

54 と畜場に寄せられるご意見や、食肉ができる過程を知らない現代人の言動。

128 殺処分の現実。

158 動物園が「死」を語ること。


2021年6月5日土曜日

PTAについて考えてみた(総括)

  2018年度~2020年度の3年間、子どもが通う小学校のPTA本部に在籍していました。この度、ようやく退任となったことからこれまでの総括をしておきます。

 総じてどうだったかというと、前向きに「学校を身近に感じられるようになったこと」「保護者として学校に関わることに関する距離感がわかったこと」などがあげられるでしょうか。PTAの役員として学校に関わったことで、これまでは役割-役割での接点だったものが、個人-役割(学校)とでやりとりすることについて、変に気負う必要がないことがわかりました。学校予算については、これまで全く意識してこなかったのだけれども、地域や社会の要請にこたえるだけの①人的資源、②裏付けとなる予算、がないということがわかりました。

 ①は質的(優秀かどうか、世の動向を把握しているかどうかなど資質に関すること)なことは話題にしません。○○をやった方がいい、やるべきだ、と意思決定して、職員間での共通認識もある、と言った時に「じゃあ、誰がやるか」となるわけです。すでに予定も労力もいっぱいいっぱいのところで何か事を起こせばそれは兼務になり、現状に足す発想にしかなりません。片手間でやるべきでないことも、片手間でやらざるをえないことになりかねない。これは全てにおいて先生方の負担になり、その被害をこうむるのはまわり回って子どもたちでしょう。

 それに加えて、②予算です。余剰予算は全くない状態で何をさせようとしているのか。地域も国も再考の必要があると思います。

 いずれにせよ、PTA活動をする個人ではどうしようもない、と思うのですが、どうでしょう。教員の資質や事務分掌に関することは、学校の判断によるものだし、予算については学校でもどうしようもなくて教育委員会、果ては文部科学省にまで達するものです。もちろん、課題を整理して明るみに出すことは必要だけれども、それ以上の圧力を、権限のないところ(学校)にかけるのは、マナー違反といっても過言ではないでしょう。その行為が学校の活動を邪魔をすることになると思います。

 しかしながら、残念なことに周りを見回すと、この「マナー違反」が横行しているのが今の学校を取り巻く環境ともいえます。市内でも、「○○を廃止した」「役員のなり手がいないからPTAそのものを廃止した」などの情報があります。そして、それを自慢げに語る当事者を名乗る方もおられます。それを実績に、PTA不要論を展開する方々がおられるのも、それに便乗して地域にも必死に「要らない、要らない」と言って回っておられる方がおられます。

 もちろん、今のPTA活動が「本当にやるべきことだけで構成されているのか」と いう検証は必要です。Iyokiyehaが3年間地味に考えてきたことは、活動の見直しを通して、「必要最低限の活動にすること」「役員は有志で行うこと」「いろんな人に、PTAを通じて気軽に学校に関わってもらうしかけをつくること」でした。一部できたけど、まだまだこれからだ、という時の退任です。ちょっと残念。でも、私としては一旦ここまでかな、という思いもあります。

 現行の活動の中で、学校の教育活動に「きちんと資する」ものは何だろう。それを有志で行うことのできる範囲としくみってどんなイメージだろう、コロナ禍だから一旦ゼロベースで考えてみたらいいんじゃないの?本部での私の発言は、全てこんな背景からだったはずです。ただ、(面白いことに)そのことを発すれば発するほど、意外や意外「これまでは○○だった」「○○を楽しみにしている人もいる」「そんなに悪いものじゃない」「コロナの中でどうやったらできるか」という内側からの現状維持の妙な圧力があったり、思わぬ外野から、直接・間接に「あーだこーだ(聞くに堪えない意見が多すぎました)」言われるなどして、もはやストレスなんて上品なものではなく、呆れ果ててしまった、というのが正直な感想です。

 内側の刺客に対しては、「やりたくないならやらなくて結構。変化が怖いのはそれでも結構。ただ、あなたの心無い一言が、他の人達のやる気 をどれだけ削っているか考えた方がいいんじゃね?」「あなたが、議員や地元の名士?を使ってまで主張したいことは何ですか?」「家庭教育学級の本質は、親の学習権ですよ。やってもいない、参加してもいない家庭教育学級不要論は聞きたくない。『俺は 学ばないから学校なんか要らねぇぜ。よくわからないけど俺には必要ないからみんなも必要ないよな、やめようぜって言っているのと同じです。ちょっと付き合いたくないですね」。

 養老孟司さんが昔言っていた「バカの壁」って身近なところにたくさんあるんだな、ということも存分に学ばせていただきました。その中で私の主張は伝わりきらず、一部の先進的な取り組みの方向と、なんだかよくわからない便所の落書きで盛り上がっている方向のそれぞれ双方から刺され過ぎて、ちょっと痛くなってきました。地域活動の面倒なところってこういうところなのだろうな。それぞれへの懸念は、前者(先進的な取り組み)は本部役員から「無言の排他的雰囲気」がでないといいなと思っています。活動方向や意思決定にWebの仕組みを活用する、というのは、私が本部役員になった当初から主張してしくみを用意して昨年度ようやく花開いたものですが、そのコンテンツや利用方法がすごすぎて、「PTAすごい」が突き抜けてしまうと、別の意味で「負担」を感じる人が出てしまう懸念です。こちらの点はほどほどに取り組む、シンプルなしくみ、を意識することが必要かな。後者(便所の落書き、不要論など)は、過剰反応せず、便所の落書きには逐一対応せず、筋を通ってきたことについて、きちんと対応する、という超基本的な対応が必要かと思います。あまりにアホな内容は報告で曝す、くらいの戦略はあった方がいい。「説得すればみな納得する」という性善説は危険です。

 声の大きな考えない人達や、地元の名士?が何と言おうとも、私の結論は変わりません。PTAは学校を支えるために必要な、緩衝材のような存在。親が学ぶ機会を提供する家庭教育学級はカルチャー講座ではなく学習権の保障(だから、もっとしゃきっとせい!)、個人の文句は個人で言っていなさい、本当の主張と悪口増幅装置を通っている情報を分けなさい、ということです。

 私は、PTA活動は必要で存在も賛成の立場です。活動している人達は応援します。手伝います。学校も見守ります。誰かに負担をかけて派手な活動をするんじゃなくてさ、いろんな人がちょっとずつ学校を気にかけて、子ども(たち)を気にかけて、一緒に盛り上がって楽しめる。役員じゃない親御さんも、卒業生の親御さんも、親御さん自身が卒業生でも、他所からきてたまたま学区に住んでいる人だって、公民館を使うだけじゃなくて(これはこれで思うところがあるけれど)学校に関わっていいんじゃないかな。その窓口としてPTAがある、と思ってもらえるような活動になって欲しいなと思います。

 先日、別の活動で校長先生と会った時に「一旦引退ですが、再登板もありますよね」「いやぁ、Iyokiyehaさんは話を聞いてくれたからやりやすかったですよ」「お互いに結構言いたいこと言ってましたもんね」などと言ってもらえました。再登板するかしないかは全く未定としておいても、学校からそんな風に思ってもらえたならば、内側からどう思われていたとしても、まぁ成果はあったんじゃないかなと思うところです。コロナのせいで、家庭教育学級に全く手がつけられなかったことは純粋に残念でしたが、これは社会教育の枠で考え続けたいと思います。

 あとは、地域活動に参加して感じたこと。私のマネジメントの癖は「異質な声の大きな人を取りまとめるのには、そんなに向いていない」「仕事ほど粘れない」「作業に集中させてもらえた方がいい」「言葉が稚拙」といったことがあることに(改めて)気づきました。学校より広い概念「学区」と関わる時には、ハードなマネジメントは馴染むところと全く馴染まないところがあるので、あえてぼんやりさせておくことを確認する必要もある。地域における「認識の違い」は、仕事などの関係で起こるような「言葉の認識の違い」だけでなく「同じ組織の中でも、関わり方・立場の違いがある」ことに留意する必要がある。こんなことを感じました。

2021年5月23日日曜日

摂食障害 10代からの相談増える 毎日小学生新聞 210519

 摂食障害(その1) 10代からの相談増える

毎日小学生新聞 2021(令和3)年5月19日(一面)


 摂食障害に関する、10歳代からの相談件数が増加している。国は、宮城、静岡、福岡、千葉の4県に「摂食障害治療支援センター」を設置し、相談件数を集計している。その結果、2018年度と2020年度比較で、10歳代からの相談が1.8倍程度になっていることがわかった。また、2018年度には20歳代からの相談件数が最多だったが、2019年度からは10歳代が最大となっている。相談者の抱える問題は、「やせ」「食事の制限」「過食」が目立つ。やせたい願望だけでなく、大人よりもストレスに弱い面も見られる。

 専門家は、新型コロナウイルスの感染拡大防止対策のために、友達とも会わず(会えず)家で一人で過ごす時間が増えていることを背景に、ダイエット動画などの視聴機会の増加が、この結果の背景にあると指摘している。


https://mainichi.jp/maisho/articles/20210519/kei/00s/00s/015000c


 まず、摂食障害。これは「体重が増えるのを怖がり食べるのを極端に制限したりする」と説明がありました。ただ、食べない、やせたいと思う、だけでなく、身体の仕組みとして脳や消化器のしくみに変化が生じてしまうのが「摂食障害」の段階です。イスラム教徒のラマダーンやお寺で時々やっている断食のプログラムとは、表出する行動は同じでも脳や身体の状態は全く違うという認識は必要です。身近な人に摂食障害の疑いがあった時に、声をかけてあげるのは大切だけれども、治療はお医者さんの仕事です。これは勘違いしてはいけない。

 この記事の専門家の指摘通り、動画等で紹介される情報の影響ってあるだろうなと思う。インターネットやSNSの使い方とか、その被害とか、予防・防止なんていろいろ言われています。ただ、私はこうした指摘から一歩ひいて、インターネットやSNSは目の前にあって使う生活が前提、として考えないといけないと思っています。端末を与える、与えないという違いはあれど、情報端末一つで瞬時に世界につながってしまう。これは良し悪しではなくて、それが前提、背景であると考えるべきで、むしろ今の子どもたちの置かれた環境が、徐々に広がる世界ではなく瞬時に広がる世界にあると考えています。となると、端末の使い方、情報の制限などのルール作りは重要であってもそれで充分ではなく、やはり基本に立ち返った「情報を選ぶ力」「悪いものが入ってきてもバランスをとる力」「ファクトベースで物事を見る姿勢」というものを、折に触れて伝えていくべきなのだろうなと思う。

 ここからはおじさん発言だけど、ティーンの情報誌や様々な動画で「個性」をうたっていても、その人気にのまれたら結局同じ尺度に乗せられて、潜在的な競争状態に常にさらされる生活を余儀なくされてしまうではないか、と思うわけです。


(参考)摂食障害治療支援センター

https://www.ncnp.go.jp/nimh/shinshin/edcenter/center.html

2021年5月16日日曜日

精神私宅監置を映画に 毎日新聞 210514

 毎日新聞 令和3年5月14日(15面 くらしナビ)

精神障害者私宅監置を映画に


精神障害のある人を小屋などに隔離する「私宅監置」が、かつて法律で認められていた。沖縄においては、本土復帰する1972年まで続いていた。非人道的な環境に置かれたいわゆる「闇の歴史」といわれる。このことを、独自の調査で明らかにしたドキュメンタリー映画「夜明け前のうた 消された沖縄の障害者」が各地で上映されている。


https://mainichi.jp/articles/20210514/ddm/013/100/022000c

(Web版 精神障害者私宅監置を映画に(有料))


 法律とは、1900年施行精神病者監護法。いわゆる「座敷牢」を合法化したものといわれる。私宅監置者数は毎年3,000人~7,000人ほどになったという。これを問題視した呉秀三氏(精神科医)が入院治療を強く主張した歴史がある。1950年に当該法は廃止となったが、米軍統治が続いた沖縄においては、精神科医療の不足を背景に、1972年まで琉球精神衛生法としてこのしくみが続いてきた歴史がある。

 ドキュメンタリーとしては過去の話題をテーマにしたものです。ただ、「人権侵害」として位置づけると、様々な分野で現代にも続く課題といえると思います。誰かの犠牲の上になりたつ生活。厳密い言えば、私の生活もこうした犠牲があるのでしょう。物事を知るにつれ、そうしたことが見えるようになる。見えなければ、その改善はありえない。生活者として学び続ける意味はこういうところにあるし、このドキュメンタリーもそうした一つの成果だと思う。


■参考

https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c030123/

(ニッポンドットコムおすすめ映画 松本卓也「歴史の闇「私宅監置」に迫る:映画『夜明け前のうた ~消された沖縄の障害者~』」

https://www.jspn.or.jp/modules/forpublic/index.php?content_id=12

(日本精神神経学会 「歩み3:私宅監置と拘束具」

https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/83/

(NHKハートネット 精神障害者の監禁の歴史 精神科医 香山リカさんに聞く)

https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n228/n228_01-01.html

(障害保健福祉研究情報システム(DINF)秋元波留夫「精神障害者は20世紀をどう生きたか」)

2021年5月9日日曜日

緩みを正当化させるムード

  「ムード」という言葉を当てたら、勝手に納得してしまった。

 「コロナ疲れ」とか「自粛疲れ」という言葉が聞こえてくる。COVID-19の感染拡大とその防止対策をとることに対して出てきた言葉である。

 もちろん、それまでと違った生活リズムを余儀なくされ、そのために心身に影響が出る人がいる。労働市場の急変に伴い、将来への不安から体調を崩してしまう、不穏になる、自暴自棄になる人もいる一方、そんなことは俺には関係ないとばかりに路上でごきげんになっている人もいる。夜の飲食がだめなら昼にすればいい、店がだめなら路上でやる。まぁ人間の知恵というのはどこまでも広がっていくものだと、報道を見て感じることがある。

 そういう、周囲への影響を感じないごく一部の人へは「反知性主義」の文脈が当てはまるので、それはもう「基本に帰れ」と言ってその人が気づくまで放っておくしかない。しかし、確かにいる前者の人達(心身への影響が出ている人)に対して、最近の「自粛疲れ」報道は、弱者に冷や水をかけるような「あおり」が生じていないかと、ちょっと心配になる。「この大変な状況で、タガが外れている人がいます。これも『自粛疲れ』でしょうか」みたいな報道って、「それもしょうがいないか」みたいなゆる~いムードを蔓延させていないか?私はそれを感じつつ突っぱねているけれども、弱っている人にとって、こうした報道のもつメッセージってどんな風に受け止められてしまうのかと心配になる。

 できないことをやれと言われても、そりゃ無理だとなるわけだけれども、これまで提案(?お願い?)されてきた対策の中に、基本的なものがあります。そういうことを丁寧に、そして「これしかできない」なら「これをしっかり」やることで、新しい日常をつくって自分なりに安定していくしかないのかな、と思いました。「疲れているから、みんな緩むんです。どうにかしてください」ではあまりに無責任でないか?「ここが正念場、がんばろうぜ。しんどいならこういうところに相談よ」くらいの冷静な報道を期待します。

障がい者スポーツ→パラスポーツに変更へ 毎日小学生新聞 210319

 障がい者スポーツ→パラスポーツに変更へ

毎日小学生新聞 令和3年3月19日 3面

日本障がい者スポーツ協会JPSAは、これまでの「障がい者スポーツ」という言葉を「パラスポーツ」に統一することにした。このことについて、常務理事(高橋秀文氏)は、「『パラスポーツ』の用語が一般化している。障害のある人もない人も楽しめることを強調したい」と説明した。

https://mainichi.jp/articles/20210316/k00/00m/050/274000c

(毎日新聞本紙Web版)


 パラリンピックの「パラ」は、元々は「麻痺させる、立ちすくむ」という意味のparalyzeのparaだと何かで読んだことがありましたが、確かに最近の使い方は「平行、もう一つの」といったparallelのparaとして扱っていることに気づきました。あまり違和感がない変更ではありますが、より包摂的な意味になった、と考えたら、ユニバーサルデザインの言葉版、というイメージもあるなぁと思いました。


https://www.jsad.or.jp/

(参考)日本障がい者スポーツ協会

2021年5月5日水曜日

のんびり自宅で過ごす連休

 自宅と職場以外がいまいちぱっとしないIyokiyehaです。まぁ、自宅と職場が安定してくれていれば問題はないのだけれども。

 くそったれなCOVID-19感染拡大の影響で、今年度の我が家は自宅で過ごすGWでした。子どもたちも諦めモードで、近所で遊ぶことに忙しくしています。私も自宅でごはん作ったり身の回りを整理するなどして過ごしています。ようやく最終日。頭の中は完全に緩んでしまったので、明日から仕事ができるのか?と思うところと、衣替えしてスーツも一新、ちょっと気分を変えてがんばろうとするところとが行きつ戻りつしています。

 中学生になった長女は、親離れが加速し、今までのような軽口は受け止めてもらえなくなってきています(笑)。変化に気づくのは早い方なので、行動を修正して小康状態を保っています。まぁ、口きいてもらえなくなるのも時間の問題だな。息子はなぜか歴史にはまっており、勝手に図書館通いしています。男子ってこういうところあるよね。漫画も多いけれども活字を読んで過ごす時間が増えているようなので、見守るとします。学校から持ち帰った「将来のゆめ」に「サッカー選手」とか書いてあってちょっと面白い。小学生になった次女は、まだ相変わらずかな。我が出てきたので、こちらの思い通りに動かないことも多くなってきているけれども、これもまた成長。こちらはまだ公園とか図書館とか言ってくれる(?)ので、もうしばらくは遊んであげようと思います。

 そんな子どもの変化が見えるのも、少し心に余裕ができたからかな。子への接し方はそれぞれ、愛し方もそれぞれ。「どっか連れていってやれよ」という声が聞こえてきそうですが、こんな状況でねぇ…ということもあり、ふりかえって「これでよし」と思った方がいいと思っています。

2021年5月4日火曜日

本田美和子、イヴ・ジネスト、ロゼット・マレスコッティ『ユマニチュード入門』医学書院、2014年。

 「この本には常識しか書かれていません。しかし、常識を徹底させると革命になります。」

 「ユマニチュード」とは、認知症ケアに関して、クライアントを「人」として扱う、知覚・感情・言語による包括的コミュニケーションに基づいたケアについて、「人とは何か」「ケアをする人とは何か」を問う哲学とそれに基づく実践技術から成り立つ技法のことです。(4ページより)

 本書は、「ユマニチュード」について、核となる技術を紹介しながら、認知症患者さんとその人達にケアする人のことを考えていきます。技術といっても、「見る」「話す」「触れる」「立つ」の動作に関することと、それらのケアを行うための準備や約束事に関すること、例えば「出会い」「ケア」「知覚」「再開」について、図を用いて簡潔に説明しています。

 核となることは、日本語で言う「人間」という言葉に含まれる、「人と人との感情を交えた関わり方」ということになります。技術一つ一つはそれほど難しいものではない「(上記)常識」であるにも関わらず、一貫してそれを行うためには「自分や周囲の環境」が邪魔するので、一連の技法としてはなかなか困難な内容になります。それでも、一つ一つ取り組んでいく必要がある、と思える技法です。

 確かに、ケアの現場でこうした技法が一般化すれば、虐待や不適切介護なんてのはなくなっていくような気がします。人としての安心感があれば患者(クライアント)は落ち着くことができるでしょうし、「問題のある人」を「生み出さない」ための技法であると思います。自分がいろんな人と接する時に役に立つ技法であると思ったのと同時に、何か折に触れて対人支援業務にあたる人に紹介したい一冊でした。

2021年5月3日月曜日

HIV感染者2割減 毎日新聞 210317

 毎日新聞 2021年3月17日 28面(総合・社会)

HIV感染者2割減 20年 検査数激減影響か

厚生労働省のエイズ動向委員会は16日、2020年に新たにエイズウイルス(HIV)感染が判明した人は、速報値で1076人(19年1236人)だったことを発表した。このうち、発症前に感染が確認されたのは740人で、前年の約2割減。新型コロナウイルスの感染拡大で、保健所などの検査数が激減したことを原因としてあげている。

https://mainichi.jp/articles/20210317/ddm/012/040/057000c

「2割減」が注目される記事ですが、どちらかというと「発症前に感染が確認された740人」が気になる記事です。きちんと検査をうける人が結構いるのだと知りました。もっと、発症してから検査するものと思っていました。
もちろん、早期発見、早期治療が望ましいのは言うまでもないです。
「2割減」は結果であって、外出が制限されるならば、原因となる行為(濃厚接触)や検査数は減少して当然だろう。

https://ptokyo.org/
認定NPO法人 ぷれいす東京

信号機の誘導音制限 毎日新聞 210316

 毎日新聞 2021年3月16日 11面(オピニオン)

そこが聞きたい 信号機の誘導音制限 「共生」へ妥協点模索を

視覚障害者に信号の状態を知らせる音響式信号機のうち、8割が稼働時間を制限しています。現状から見える、障害のある人とない人の「共生社会」に向けた課題を取り上げています。
ゴールボールのメダリスト、浦田理恵氏へのインタビュー記事。

仕事帰りなど、音響式信号機が夜鳴っていない時間帯に不安がないといえばウソになるが、道路を渡る時には、足音や他の音を聞きながら渡るため、(浦田氏は)危険な目に遭ったことはない。
アスリートなりに音への意識が高いので、横断歩道を離れてしまうことはないが、そういう視覚障害者ばかりではない。音響式信号機が稼働していない場所で、横断歩道から大きく離れた体験をした視覚障害者もいる。
稼働時間制限の主な理由は、近隣住民からの苦情が多い。視覚障害者にとって音は必要な情報であるが、一方で現在の街中には音があふれているのも事実。お互いが歩み寄れる妥協点が必要。
海外で白杖を使っていると、知らない人でもどんどん声をかけてくれる。印象的だったのは、「骨折してリハビリ中」だった人が「遅いけど、一緒に行こうか?」と言ってくれたこと。
障害がある子どもとない子どもが一緒にいる空間が増えたら、互いの価値観が広がるように思う。

https://mainichi.jp/articles/20210316/ddp/005/070/002000c

音響式信号機を巡る立場の違いは、一律で埋められるものではないと思います。静寂を求めるいわゆる健聴者、音が道しるべとなっている盲者、どちらも広い意味で「人権」でありながら、その指し示す内容は異なるため、この時点で議論を続けたとしても平行線をたどるばかりだろう。
少なくとも、その設置を巡る議論においては、抽象度を一つあげて「目的」で考える必要は感じました。「音響式信号機の是非」ではなく「夜間眠りを妨げられないこと」と「横断歩道を安全に渡ることができること」という問いに読み替えて交点はないか、あるいは本質を外さず、他の問いに置き換えることはできないかどうか、この点での議論は必要だろう。

音響信号機に関するQ&A
https://www.npa.go.jp/bureau/traffic/seibi2/annzen-shisetu/hyoushiki-shingouki/onkyou.html
(警視庁Web)

車いすの不便さを体感 毎日小学生新聞 210305

 毎日小学生新聞 2021年3月5日付1面

「車いすの不便さを体感」(五十嵐朋子)

東京都内で、車いす利用者の生活体験を目的としたレストランが企画されました。
天井が低い、いすがない。「介助なしで来るなんてすごい!」と褒められる。
この店は、「車いす非ユーザー」=「二足歩行障害の人」として少数派(マイノリティ)とみなし、「バリアフルレストラン」としています。車いす利用者の「あるある」を逆転させて作ったとのことです。
二足歩行者が、このレストランで不便だった理由は?二足歩行だからか?天井が低いからか? A天井が低い、でしょう。
障害は周りの環境が作っている、ということを実感できる企画でした。今後もイベントなどで出店されるそうです。

https://mainichi.jp/maisho/articles/20210305/kei/00s/00s/016000c

この記事は、読ませる内容なのだけれども、企画が秀逸だと思う。
近所でこのイベントがあったら、行ってみたい。
世の中は、いわゆる「健康な人」を想定して作られている、とうことを日々感じるところです。
しかしながら、「いつの間にか、自分を社会に合わせようとする」意識が先立ち、意識的に行動してしまう自分がいます。
既に、思考が「健康な人」幻想に憑りつかれ、社会とつながっていることを知らされる記事といえます。
想像力を働かせることでしか理解のきっかけはつかめないのですが、謙虚に学ぶことしかないのだと思いました。

田代まさし、北村ヂン漫画『マーシーの薬物リハビリ日記』アース・スターエンタテイメント、2015年。

 ・タレント田代まさしさんの自著。薬物問題に関して、自身の経験から語っている。

・「薬物許さん」は変わらない。当事者の薬物使用の背景は、個人因子だけではないことについては、改めて知らされた。

・サバイブしても、これでもかこれでもかと襲ってくるのが薬物の怖さ。

・快楽が半端ない、ケタ外れであることに加え、そういう雰囲気が仲間を呼び寄せてしまう構造がある、と読むのが筋だろう。

・互いに互いを欲してしまい、相互補完(依存)が成立しているのが、社会的な構造上の問題。

・身体だけでなく、人間関係を壊すのが、薬物問題の本質に近いところにある問題といえる。

・人間関係を壊しまくった後に、その人-薬物の社会的な依存関係が成立する。人間関係を構築するための頭の容量がなくなってしまう、のだろう。これが肉体的な破壊。

・近年、再度逮捕されてしまったが、塀から出てきて、またマスで語ってほしい、と思う。それが救いになる人がいると思うので。


好感が持てる話題かどうか

ちょっと気づいたこと。

 漫才のネタで「男って○○じゃん」って、バカバカしい行動を話題にして笑いをとるというものがあります。結構好きなものが多いのですが、不思議なことに「女って○○じゃん」になると、好き嫌いが分かれてしまう。一般的にうけているネタであっても、全く笑えないこともある。なぜなのかとしばらく考えていたのだけれども、ちょっときっかけになることがあった。

 ここのところ、人間関係がギクシャクすることがいくつかある。理由が分かるもの、わからないもの様々です。あるいは、理由は分かるのだけれども、なぜそうなってしまうのかということまでは分かりかねる、というものまで様々。人間ってただでさえ難しいのに、それが関係になるともうどうしようもない。相手があることは、自分の力ではどうにもならないことも少なくない。なるべく人に不快感を与えないよう努力して、あとはなるようになるしかない。大人な対応ができているのであれば、あとは相性の問題か分かっていてわざとやられているわけだから、それは嵐が去るのを待つしかない。

 それで、何が違うのかということ。それは、話題の対象が人なのか出来事なのか、ということが大きい。難しいところであるのだけれども、テキスト上話題が「ある人」になるわけだけれども、そのメッセージが「その人の属性」なのか「起こった出来事」なのか、ということで随分好感度が変わってくる。例えば、「Bさんそこでマンガみたいに転んだんだよ~」と言った時に、笑う対象がBさんそのものなのか、転んだことなのか、ということ。前者の場合はさらに2つに分かれて、そこにBさんを見下す意味があるかないかが問われる。見下す意味が感じられた時に、私は受け入れらず冷めてしまう。

 人の話を聞かない人、世界が広がった思春期頃の子、笑いをとろうと必死な人など、そこに好感を感じられるかどうかは、割とこのあたりにあるんじゃないかなと思いました。

2021年5月2日日曜日

齋藤孝『アウトプットする力 -「話す」「書く」「発信する」が劇的に成長する85の方法』ダイヤモンド社、2020年。

  自分が学んだこと、考えたことを「アウトプットする」(何らかの方法で表出する。ほとんどは「話す」か「書く」か)ことで、記憶が定着したり、理解が深まったりする、ということは実感している。だから、こんな風に読んだ本の記録をとっていたりするわけです。

 本書はモニターのプレゼントでもらった本なので、軽く読めるビジネス書だと思って手にしたのだけれども、コラムのような短い単元がまとまって一冊になっている書籍。そのテーマは「アウトプット」に関する考え方から、具体的な方法、そのコツや効果まで、筆者の考えがまとめられている。もちろん、研究者レベルの根拠も添えられているので、軽く読めて勉強になる一冊といえる。

 もっとも自分に影響があったのは、アウトプット:インプット=9:1でいい、むしろ成果を最大化するのであれば、この比率!と言い切っているところである(38ページから)。これはただただ人に話す、書き綴るということも含めつつ「アウトプットを意識したインプットをすることが最も成果があがる」という、知識・思考の心構えを説く本著の核となる部分といえる。

2021年5月1日土曜日

母からもらった腎臓 -生体肝移植を経験して15- 毎日新聞 210317

連載「母からもらった腎臓 -生体肝移植を経験して15-」

毎日新聞 2021年3月17日 22面(埼玉)


この連載、非常に読ませます。

障害福祉の窓口をやっていて、透析患者さんに会うと「おだいじに」とはいいながら、元気な方とお会いする機会がある。また、雇用支援に携わっていた時は「透析が面倒なんだよね」と言える方々と出会うことが多かった。

そんな方々を見ると「透析の技術も上がっているのだな」と短絡的に考えてしまいがちなのだが、実際に透析導入となる方のしんどさ、苦しみ、苦悩というのはそんなものの比ではないのだなと気づかされる。

いや、こういう経験を経て今目の前にいるのかもしれない。そうなると、やはり一人一人に歴史があるという私の相談支援の矜持にもつながってくる。


https://mainichi.jp/articles/20210108/ddl/k19/040/134000c


2021年3月17日水曜日

伝える力3人の奮闘 毎日新聞 210309

 越智貴雄 パラスポーツからの贈り物伝える力3人の奮闘

NHKは、2017年に、東京パラニンピックに向けて障害のある人を対象にしたリポーターの公募を実施し、3人を採用した。障害のある人を、リポーターとして採用したのは初めて。聴覚障害のある後藤さんは、ナレーションにおける「抑揚」に気づく。以後、アナウンサーの発生を研究し、言語聴覚士とも相談し、抑揚の訓練を重ねて伝える力を高めている。脳性まひのある千葉さんは、緊張に伴い生じる不随意運動に悩んだ。しかし、「自分の手足ではなく、別人格だと思う」ことにより、あまり気にならなくなったとのこと。身体機能維持のために、リハビリを継続し、ジムに通い体幹を鍛え、今ではボールを投げられるようになった。生まれつき、左手の指が2本の三上さんは、自分の障害や思いをWebで発信している。

https://mainichi.jp/articles/20210309/ddm/035/050/005000c


障害の特性によって、技術的に不利になってしまうこともある。しかし、その特性を受け入れ、更なる高みに挑戦する姿には、今後も注目していきたい。

https://sports.nhk.or.jp/paralympic/article/reporter/20200331-mikami/

(三上大進と7本の指)

在宅介護従事者優先接種対象に 毎日新聞 210304

 在宅介護従事者優先接種対象に令和3年3月4日 毎日新聞2面(総合)

厚生労働省は、在宅サービスに携わる従事者に関し、自治体の判断で、新型コロナウイルスワクチンを優先接種できるようにする方針を固めました。

https://mainichi.jp/articles/20210304/ddm/002/040/030000c


優先枠をつくると、他の人たちは後回しになるわけだから、慎重な検討をしてほしいところですが、「在宅要介護者が感染した場合でも事業者が対応することができる」ということを理由にしています。感染者が在宅療養を余儀なくなれる、というのは、様々な報道で見聞きするのだけど、それも実態だ。要支援者が感染した場合でも、その人が生活を維持できるように、ということなんですが、この点はきちんと説明しておいた方がいいよね。認識が一致していないと「お前らワクチン打ってるんだから、いつも通りやってくれ」ということになりかねない。

精神患者6割転院できず 毎日新聞 210303

 毎日新聞 2021年3月3日23面(総合・社会)

「精神患者6割転院できず 『対応困難』で敬遠、死亡例も」


日本精神科病院協会(日精協)は、新型コロナウイルスの感染が確認された患者 1012人のうち、6割以上が、コロナ治療のための転院ができなかったとする調査 を発表しました。転院ができなかった理由として、精神疾患の患者対応は難しい とのイメージから一般病院が受け入れを拒否する傾向があることを指摘しています。


https://mainichi.jp/articles/20210303/ddm/012/040/092000c


ただでさえコロナ治療を理由とした転院は難しいのに、その上精神疾患まで…と いうイメージなのでしょう。実際のところ、いろんな人がいるわけですから、この6割の中には「適切な治療が受けられるのに、受けられない人」が含まれているものと推察されます。「クラスターを抱えながら籠城を余儀なくされている精神科病院が増えている」というのが、厳しい現状を突き付けているように思いました。

新型コロナウイルスの感染拡大防止の観点があるから明るみに出たことのようにも感じます。要は、普段から精神障害者の入院に関して、いわゆる「一般病棟 (≠精神科)」での受け入れが難しい現実を目の当たりにします。「二度と連れてこないでくれ」とか言われる場面に出くわすこともあります。その人が何を やったか知ることも知らないこともあるわけで、ただわがまま言って暴れたならやむを得ないけれども、障害の症状として出た行動を否定するということは、医 療の本旨からは外れるんじゃないかとも思うわけです。もちろん、病院だって一事業所であり、その人の対応によって他の人の対応がおろそかになってしまうとかいう事情があるならば、ある程度そのかかわりを制限することはやむをえないと思うのだけれども、そうではない「ただ対応が大変だから」という理由で受け入れ拒否するというのには、やはり違和感があります。もちろん、患者さんは患者さんで、医学的に理由がある指示には従う必要はありますよ。

医療現場の逼迫、どこも大変忙しい、というのはよくわかります。ただ、それとこれとはちょっと別に考えなきゃいけないんじゃないかな、人の健康、そして生死にかかわることだから。

眼球使用困難症候群 支援を 毎日新聞 210302

 毎日新聞 2021年3月2日15面(くらしナビ)


光のまぶしさや頭痛などで目が開けられず、暗闇の中での生活を強いられている「眼球使用困難症候群」と診断された人達の生活を追う記事です。

医学的にはほとんど認知されておらず、脳の機能障害が原因とみられ、眼球や視力には問題がないため、障害認定されていません。

さらに難病指定も未だされていないため、公的支援が受けられないのが現状です。


https://mainichi.jp/articles/20210302/ddm/013/100/007000c


これは以前テレビの特集で何気に見て知った病気?症候群ですが、光を感じるとひどい目の痛みや頭痛、息苦しさや動悸が生じるなどの症状があるものとされています。

自宅でも光が入り込まないように窓に段ボールを貼りつけるなどの生活を余儀なくされており、外にも出られなくなるので、仕事も辞めざるを得なくなる、買い物にも出られないといった生活上の困難に直結するものと言われています。

脳の機能異常って本当に何でもありだなぁ、と圧倒的なすごさと怖さを同時に感じるとともに、診断基準などが整理されて早期に難病指定されることを願います。原因不明の症状によって社会生活困難が生じてしまう事態は、公的扶助によって何とか支えられるしくみになってほしいと切に願うところです。


参考

NHK視覚障害ナビ・ラジオ

2020年11月22日放送

「眼球使用困難症を知っていますか?」

https://www.nhk.or.jp/heart-net/shikaku/list/detail.html?id=47255#contents

2021年3月6日土曜日

常用漢字表への「碍(がい)」追加見送り 毎日新聞 210227

 毎日新聞2021年2月27日29面(総合・社会)


 文化審議会国語分科会(文化庁に設置された、文部科学大臣または文化庁長官の諮問機関)の小委員会は、「碍」の字を常用漢字表への追加を見送るべきだとの見解をまとめました。その理由として、追加を要するような使用頻度の高まりや広がりが生じているとは判断できない、という整理をしています。


https://mainichi.jp/articles/20210227/ddm/012/040/113000c


 地方自治体によっても対応は様々です。いろいろな考え方があると思いますが、「あえて『害』の字を使う理由としてあげられるのは、

1 障害は個人ではなく社会にあるとする考え方

2 「碍」の字の意味は「さまたげる」。そんなにいい意味とはいえない

3 「障」も良い意味ではない

4 平仮名にしたところで意味や業務は変わらない

5 表記の違いで混乱を招かないよう国の文書(法律等)に準拠する

とする見方もあります。

 地方自治体の感覚としては、4,5あたりが妥当なんでしょうが、1が本質的な意味ですね。2,3は「碍」推進の立場の人にとっては論の衝突部分かと思います。

 イメージの問題は大きいのでしょうが、「害」の字が世の中に与える悪い影響というのは計測が困難なので、対応に苦慮するところです。啓発とも関連しそうです。


文化審議会

https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/about/


「生きたい」かなえて 毎日新聞 210227

  長野市内で一人暮らしをしているALS患者が、自治体に重度訪問介護の利用を求めるが、その支給決定ができないとの判断をされたことに対する意見と取り組みに関する連載です。結論としては、自治体が重度訪問看護24時間の支給決定を認めたことで、裁判は終結しています。


https://mainichi.jp/articles/20210227/ddm/012/040/140000c

(「生きたい」かなえて 公助願うALS患者門前払い)


  自治体が支給決定を認めなかった理由として<福祉の考え方の基本は「自助」→「共助」→「公助」です>という論については 、違和感があります。自治体のこの主張には、自助・共助・公助が同一線上に並んだ概念としてとらえ、「足りないなら公助へ」という意思が透けてみえます。この立場にあれば、「自分や周囲ががんばってなんとかなるなら、法定サービスの支給決定はしないよ」というのは妥当な考え方にも見えてくる。しかしながら、「法定サービス使う前に、自分でなんとかしてね、家族やご近所さんに助けてもらってね。何とか助けてもらってね」というのは福祉の本旨に合致するのだろうかという疑問が生じる。

 自助・共助・公助の考え方は、それぞれのサービス(や支援)の形式を表しているのであって、それぞれは重なる部分がありながらも、その対象や内容は大きく異なる、というのが個人的な見解です。守備範囲が違う、その内容も違う。ただし、公助としての福祉サービス(法定含む)はこの部分はしっかりやるよ、制度的にはこれらの組み合わせで、生活の維持はできるようになっているよ、というものだと思います。この事例であれば、地域の事情で「介護者がいないから、サービス利用は少し待って」はあったとしても、「支給決定しない(サービス使えないよ)」は妥当ではないと思います。実際の現場ではもっといろんなやりとりがあったのだろうとも察しますが。

2021年2月21日日曜日

佐藤秀峰『ブラックジャックによろしく』Kindle版。

 シリーズで通読した。おそらく15年ぶりくらいだろう。学生の頃に読んでいたのを思い出す。

(第1シリーズ 9巻(精神科編)より)

「弱くてかわいそうな患者達を、正義の味方の自分が守ってあげている。この感覚が差別といわれるものです」(No.111)

「守ろうとしている。これもある意味差別です」(No.114)

・守る意識が差別というなら、自分が仕事でやっていることは何なのだろうか。この引用を考慮すれば「差別」となる。スポイル、強制、依存、様々な感情の中でも、現場にいて「ふさわしくない」ものがあるのは分かっているつもりなのだけれども、「これでいい」と思った瞬間iに差別意識は入り込んでくる。

・だからといって、完全な自己否定は何も生み出さないし、純化した理論が現場の行動の妨げになることも、感覚レベルでは分かっている。

・おそらく、対人援助業務を続ける限り、ずっと付きまとう理屈だけれども、おそらく入り込んでくる差別意識に絡めとられないようにするためには、絶えず「~かもしれない」と考えることなのかと思う。考え続けて思考や行動が止まらないよう、自己矛盾を抱えながら行動し、考え続けることしかないように思う。

2021年2月20日土曜日

立場が変わると見えてしまうもの

 「しがらみ」って言葉があります。「いろいろなしがらみがあって…」と使いますが、調べてみたら、水流をせき止めるための柵のことなんですね。

しがらみ【柵】

1 水流を塞きとめるために杭を打ちならべて、これに竹や木を渡したもの。

2 転じて、柵(さく)。また、せきとめるもの。まといつくもの。

とあります。(広辞苑)

 人間関係につかう、冒頭の用例は辞書の2の意味の中でも、「望んでいなくても、まとわりついてくる」イメージで使っているということができます。

 人間関係って制御しきれないものですが、自分の立場が変わるとそれに伴っていろいろな人的環境の変化が生まれます。この内、自分の利益になる(と思える)関係を「人脈」、そうではなく面倒な、うっとおしいなど、不利益と位置づく関係を「しがらみ」などと言うのであれば、整理できるでしょう。

 さて、現実に目を向けてみると、Iyokiyehaは現在の職場の他にいくつかの人間関係があります。そのほとんどは上記「人脈」になっているのですが、ある立場関係で、自分の思いもよらない関わりが生じてくることがあります。「いやぁ、最近いろんなしがらみがあってさ」って感じです。漏れ聞こえてくることとすれば、地元の名士が私のある立場に関して「ご意見・ご質問」してくるとか、現状活動がまわりまわって全く事実無根の噂として「ご指摘」が入ってくる。なるほど、なかなか面倒だ。

 これまでの職場は、よくも悪くも理詰めが通用する社会が主流だったのだけれども、このいわゆる「よくわからない働きかけ」については、しょっぱなから殴り掛かられるような雰囲気で、何が偉いかわからないマウンティングを仕掛けられるので、慎重に距離をとっているのですが、相手が全く見えない(発信源が分からない)というのは、なんだか不気味ですね。まぁ、ご指摘の寄って立つ背景が全く事実無根なので、とりあえずは全く怖くないのだけれども、こんなやりとりがまかり通る社会を作り出してしまっている人達の思考が読めないので、なんだか面倒だなぁというのが本音です。事業の主旨ではなく、あくまで感情論の土俵で勝負されるのは、仕事だけで十分お腹いっぱいなんだけど、って感じで食傷気味なこの頃です。

 これって、しがらみ、でいいよね。

2021年2月13日土曜日

資料の共有

これまでに作成した資料等で、共有できるもの(公開されているもの、資料として提供しても問題ない加工を施したもの、もしくは私的なもの)を少しずつアップしていきます。ラベル「共有資料」で、この投稿にジャンプできます。リンクをクリックすると、資料閲覧・ダウンロード(ほとんどPDF)ができます。

○2020年4月23日(2020年5月6日、10日版に更新)
 職場で研修プロジェクトを立ち上げたのはいいのだけれども、コロナ騒ぎで集合研修がやりにくくなっています。悶々としながら、思いつきを形にしてみました。自動スライドショーにトークエディタ(CeVIOプロジェクト「さとうささら」)で作った講義音声を自動再生するようにしたもの。採用されたとしても、お蔵入りになったとしても、個人的には面白い成果物になりました。手ごたえがあるので、一部改変してアップします。好評なら第2弾があるかも。リンク先(Web上)だと組み込んだささらちゃんの音声(「普通」Ver.)が起動せず、スライドの閲覧だけになっちゃうので、お手数ですがリンク先ファイルをダウンロードして、スライドショーファイルとしてPowerPointがインストールされている端末で試してみてください。5月10日追記:なぜか全自動のプレゼンにこだわっていましたが、スライド切り替えは手動の方が便利だと思うので、手動版に調整しました。キーボードの↓キーで進めてください。
 研修資料 エピソード1 身体障害編
      エピソード2 知的障害編
      エピソード3 総合支援法編

○2020年3月5日
 プレゼンとかグループワークの心構え
 職場でプレゼンとかグループワークについて意見交換するのに雑感として吐き出したメモ。15分くらいで書き出したものなので、何のまとまりも根拠もないメモなのだけれども、なかなか面白いメモになったので、備忘録としてアップ。今後磨いていきたいもの。
 心構え(ドラフト)

○2020年1月25日
 北多摩北部地域 高次脳機能障害者支援ネットワーク協議会 主催
 市民交流事業「社会参加への道 ~高次脳機能障害を持った自分だからできること~」
 @まろにえホール(東久留米市立生涯学習センター)
 チラシ
 基調講演配布資料
 令和2年1月26日読売新聞多摩版朝刊26面
 業務外で基調講演なんかやってしまった。
 15年続いている市民交流事業に登壇させていただいた貴重な機会でした。私の講演内容はさておき、第2部のパネルディスカッションが秀逸でした。

○2017年
 今の職場で受験者のためにメッセージを書いてくれと言われ、原稿書いて作ってもらったもの。イラストレーターの仕事ってすごいな。パソコン環境によっては文字化けするかも。内容は「前職の仕事が漏れている」と評価されました。
 先輩メッセージ

○2016年
 日本職業リハビリテーション学会第44回大会京都大会プログラム・抄録集、124-125ページ。
 「精神障害者の雇い入れにおける事業所への支援プロセスの検討」
 本当はこの研究、完成させたいんだけどね。仕事が変わってしまい、障害者雇用の現場から離れて関われなくなっていることから、無期限中断です。興味がある方おられれば、共同研究者にきちんと紹介しますよ。

○2015年12月6日
 特定非営利活動法人 東京高次脳機能障害協議会(TKK) 主催
 高次脳機能障害実践的アプローチ講習会 第3回講習会
 @東京慈恵会医科大学 西新橋校
 講義3「高次脳機能障害者に対する就労支援」
 前職で最大規模の講師経験はこれです。今でも私の実名をGoogleで検索すると、この講習会の講師として登壇したことを全国各地で紹介されているものがヒットする。2020年の基調講演の時には、事務局が私のことをインターネットで調べて「各地で高次脳機能障害の講演をしているのですね」と勘違いされたという裏話がある。

○2015年10月
 伊藤郁乃、大塚麻里子、内田裕子、新藤直子、柳澤朋秀「医療・職業リハビリテーションのシームレスな介入により就労に至った高次脳機能障害の1症例」『医療 Vol.69』国立医療学会、2015年10月、438~442ページ。
 「医療・職業リハビリテーションのシームレスな介入により就労に至った高次脳機能障害の1症例」
 2020年1月25日の市民交流事業の基調講演につながる、2015年の市民交流事業のシンポジウムの事例について、一緒に登壇した先生方が専門雑誌に事例報告したもの。

○2015年
 日本職業リハビリテーション学会第43回大会東京大会プログラム・発表論文集、168-169ページ。
 「障害者雇用における事業所の取り組み状況の検討」

○2014年
 日本職業リハビリテーション学会第42回大会岩手大会プログラム・発表論文集、122-123ページ(共著)。
 「事業所の障害者雇用の取り組み状況に関する調査」
 2014年から2016年にかけて取り組んだ、業務外のこの研究は楽しかった。ものすごい勉強になったし、心の底から楽しかった。ただ、論文は共同研究者が99%作成したものです。

○2013年12月18日
 業務研究会 Bグループ論文集16-21ページ。 報告論文
 ノリノリで推薦されて、ノリノリで突っ込んでいったにも関わらず、本部でブ厚い壁にぶちあたったいい経験。長い目で見たら、ここで鼻をへし折られて私のキャリア的にはよかったんだけど、当時は公私ともどうかなりそうなくらいでした。ほとんど原型をとどめないこの原稿は、ほぼお蔵入りでしたが、反省の意味を込めてアップしておきます。

○2013年10月
 企業向け説明資料(障害特性・職業的課題編)
 そういう調子に乗りまくっていた頃だったからこそ、怖いもの知らずでした。良くも悪くも勢いがあったから、資料刷新に結びついたのかもしれません。テキストとスライドを分けるという手法は、この頃から始まったように思います。ここで作った資料は、プレゼンのスタイルとも合ったようで、今(2020年頃)でも使っている部分があります。

○2013年6月1日
 ノーマライゼーション促進研究会
 話題提供資料
 当時の障害者雇用の状況や制度についてまとめて報告するとともに、業務外ならではの持論を場に出させていただいた貴重な時間でした。この時の報告内容が学会報告(2014~2016@職リハ学会)につながりました。職業リハビリテーションに携わっていた時期の中で、一番尖っていた頃だったかもしれません。

○2004年 2003年度修士論文
 「精一杯生きるために ――森岡「生命学」がいのちの教育に与える新たな視野――」
 抄録
 全文
 今読み返すと恥ずかしい。修士課程2年間は目一杯ゆらいだ時期で、卒業論文で取り上げた体験活動はどこへやら。課外活動は熱心で、最もフットワークが軽い時期だったのに、真面目に読んでいる本は自分自身の内面に切り込んでいくような重みのあるものばかり読んでいました。論述は稚拙ですが、私の原点はここにあるな、と振り返れば確かに感じられる文章です。

○2002年 2001年度卒業論文
 「体験活動の可能性 ――自然体験活動とプロジェクトアドベンチャーを中心に――」
 全文
 勢いだけで書き上げたような、自ら参加した体験活動をこれでもかこれでもかと言語化した壮大な記録。何事にも本気で楽しんでいた20代前半戦の若さだけが輝いている文章です。こんな体験を論文の形にまとめさせてくれた指導教官には感謝しかありません。

2021年1月24日日曜日

夏目漱石『夢十夜 他二編』岩波文庫、1986年。

 ・文学にも触れようと、手に取ったもの。夏目漱石の「入門書」みたいに紹介されていたのと、大学入試問題なんかで取り上げられていたように記憶していたので読んでみた。

・率直に、難しいです。「夢十夜」は夢の話だから、比喩表現や「本来ありえないこと」が入り込んでくる。日常の何かを表しているのだろうとは察するのだけれども、出来事が突飛過ぎて、理解が追い付かない。

・それでも、おそらく人間の複雑な感情や、当たり前の感情を、言葉巧みに表現する日本語の使い方には、時々うなってしまうほどの迫力があった。「永日小品」に収められた短編には、特にその傾向が強い。

・しばらく経ってから、また読んでみることにしよう。小説は読み慣れていないこともあり、なかなか難しいものだとも思ってしまった。

2021年1月11日月曜日

ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ『竹林はるか遠く 日本人少女ヨーコの戦争体験記』ハート出版、2013年。

・終戦時の引揚者による手記。朝鮮半島に住んでいた家族が、社会の不穏な雰囲気を察し、きっかけを経て、故郷日本まで逃亡する。その時に、生き別れとなってしまった兄と再開するまでの体験に基づくノンフィクション。
・以前、アメリカでは賛否両論あったようだが、確かに記述の内容がものすごい迫力である。特殊な技能も何もない普通の女性3人(著者、母親、姉)が、家を出て兄と合流しようとしながらも、鉄道、船舶の出発機会を逃さず、京都までたどり着く。朝鮮半島では、目の前で人が絶命する場面を目の当たりにし、日本人であることを隠しながら逃げ続ける。日本においても、京都では引揚者に対する差別の渦中で、わずかな理解者に支えられながら、たくましく生き延びる様を描く。
・淡々と経験を語るこの本は、読む人に淡々と響くものだろう。同情とかかわいそうとかでは片付けることのできない圧倒的な感情の渦を感じられた。戦争のどうしようもない、そしてとんでもない側面すら、生活に取り込まれてしまう、生活に位置づかざるを得ない状態を受け入れながら、その中で生き延びるためにはそうしたとんでもないことをも利用せざるをえない。「たくましい」という言葉には、これほどの覚悟をもって行動した人の歴史や背景があることも強烈に感じさせられた。

石田淳『行動科学を使ってできる人が育つ!教える技術』かんき出版、2011年。

 「教える」とは、相手から”望ましい行動”を引き出す行為である(25ページ)


 人に何かを教える時に、その成果を測る観点として「行動」がある。Iyokihehaは前職で「応用行動分析」を習って、現場でその考え方を適用して物事を分析してきたので、当たり前と言えば当たり前の観点であるが、転職して周囲を見ているとそうでもない、ことに気づく。多分、立場が違えば、必要な技能も違うから仕方がないこと。とはいえ、対人援助を生業とする上では、相談におけるクライアントの言語表現の他に、生活上の行動を丁寧に把握し、分析していくことは、その人への支援を検討する上で不可欠である。

 などと、支援技法の一つとして「行動分析」を使ってきたが、本著はこの基礎理論ともいえる「行動科学」をビジネス現場、それも社員教育に応用することを紹介したものである。そりゃそうだ、新入社員や異動者に仕事を教える行為は、突き詰めていけば「対象者の行動を変える」ことであり、行動が変わるための方法論の中に「行動分析」が位置づいても全く不思議ではない。なんで、こんな簡単なことにいままで気づかなかったんだろう。

 褒める、叱る、その技法と背景となる信頼関係(ラポール、とか)。行動分析的アプローチに不可欠な、先行条件→行動→結果、その結果が次の行動の先行条件になる、とか、作業(行動)分析の手法や応用など、抱負な事例とともに、非常にわかりやすくまとめられている。基礎理論は実験系の心理学なのだろうが、その成果を現実に適用するのに役に立つヒントが詰まった一冊でした。

 Audiobook.jpで、オーディオブック版も販売していたかと記憶しています。併せてご利用ください。

2021年1月1日金曜日

2020年総括、2021年の抱負

 あけましておめでとうございます。

コロナ禍でも相変わらずなIyokiyehaです。
淡々と2020年総括と、2021年の抱負をアップします。

2020年当初に掲げた抱負は以下の通り。
1 読書の継続
 40冊読書+Audiobook50冊分
2 身体を鍛え続ける
 10分体操+木剣22,000本(+ジョギング)
3 実家との関わり方
 調べる、帰省する
4 新しい仕事・勉強には進んで挑戦する

 読書については理由あって、朝読書を半分にしたため、少なくなりました。Audiobookは、感染症対策に関する情報収集のためにPodcastの利用を増やしたなどの変化がありました。結果、書籍は23冊、Audiobookは38冊分です。今年は下半期に読書時間を戻せる見込みなので、目標は据え置きで。また、昨年の傾向として、小説を読むことが増えたので、この傾向も維持していこうと思います。
 身体を鍛えることについては、木剣はコロナの影響で帰宅後すぐのそれまで定時だった時間にできなくなった(すぐに風呂に入ることにしていた)ことで4ヶ月ほど滞っていました。いろいろ模索して、朝の鍛錬の時間に組み込んでから数ヶ月となり14,340本まで挽回しました。今年は20,000本再挑戦ってことで。
 スマートフォンのアプリのおかげで、ラジオ対象+αの部分は、プランクやら開脚ストレッチを取り入れました。屋内でできるのがいいですね。
 懸案は合気道です。道場再開の目処が立っておらず、待つしかない。木剣がいい稽古にはなってますが、力の流れを意識する機会が減ってしまったので、何か取り組みたいところです。
 実家との関わりは、残念ながら今のところ実績なし、見込み未定となってしまいました。機会をつくって帰省しようと思っています。認知症や老化現象に関する学びは、読書と併せて継続していきます。
 新しい仕事や勉強について。去年初めの清瀬市の仕事(これは、謝金うんぬんでいろいろあったんですが、いい仕事させていただきました。資料は公開投稿を参照)後、資料回覧をきっかけにして、構想が動きました。今まで構想だけあった課内研修について、取り組みが形になりました。職場内での仲間付きといういい流れです。今年どんな展開になるかは、まだ動きながら作っていきますが、ここまでの成果は形としてリリースする準備も併せて進めています。実績ページでまた紹介できると思います。
 地域活動(PTA)は、一応取りまとめの年としました。今年もう一年がんばろうと思っていましたが、非常時のために規約超え(不正ではないよ)をやっている背景があるので、早めの交代がいい(歴史的にも独裁官は短期間しか維持されない!笑)と思ったことに加え、正直いろんなしがらみの中であまりいい思いをしなくなってきたので、ここら辺で一旦まとめておこうと思いました。
 勉強は、読書量とも関連してきますが、今年は一つ挑戦をするので、その結果で来年ふりかえることができると思います。昨年中は、コロナ関係で免疫系を中心に、人体や生物に関する勉強や情報収集が進みました。元々購読していた「ヴォイニッチの科学書」をハブに、中学校理科→人体へと学びが展開しました。課内の研修でも活かされましたね。
https://pages.audiobook.jp/podcast/voynich/index.html
 有料番組ですが、Podcastに登録できる(RSS配信)音声番組だけじゃなくて、PDF資料が毎週配信されるのもいいですね。
 あと、調べる過程でこんな老舗番組も見つけました。
 「医学講座」@ラジオNIKKEI 第18***回って、すごいですね。内容は少し難しいけれどもすごく勉強になる。
 この辺が、習慣に影響するいい発見かな。音声番組をもっともっと利用しつつ、書籍にもきちんと取り組みたいです。

 また、今年はおそらく異動になる年なので、どんな立場になったとしても、新しい環境に適応していくことを一番に考え、身体と家族を大切にしていこうと思います。

こうした総括を受けて、今年の目標です。
1 読書の継続(据え置き)
 40冊読書+Audiobook50冊分
2 身体を鍛え続ける(据え置き)
 10分体操+木剣20,000本(+ジョギング、合気道的なトレーニング)
3 機会をつくって帰省する
 帰省する、両親の様子をきちんと確認する
4 新しい仕事・勉強に前向きに関わり、柔軟に適応する

 基本的には昨年踏襲。コロナ禍と言われたって、それを切り抜けることのできる「いい習慣」を増やしていくことを意識して、「普通に」生活することを目標とします。
 今年もどうぞよろしくお願いします。