2017年1月22日日曜日

インフルエンザ

息子が通う幼稚園で、先週の水曜日(18日)から息子の学級が閉鎖しています。息子は二日間「退屈だぁ〜」と言っていたのですが、同金曜日に発熱。土曜日に「検査にはでないけど、おそらくインフルエンザ」という診断を受け、インフルエンザの治療が始まりました。
インフルエンザの感染については、発熱した日を「0日」として5日間かつ解熱後3日間の登園(出勤)停止と定められているため、息子の場合は今週の水曜日までは登園できないことになります。しかも、22日現在、まだ解熱していない状況です。
いつもはやらなくていいことをやって怒られている息子ですが、食事もとれずにぐったりしている姿を見ると、さすがにかわいそうに思えてきます。
それを見ている長女と次女。それぞれに構って光線を放ってきます。こちらとしては、長男第一に考えて動いてしまいがちなのですが、長女・次女にもきっと負担はかかっているのだろう、と振り返り思い至りました。
最近、課外活動も忙しく、なかなか子どもにじっくり関わっている時間がないのも事実。2月までバタバタするけど、一段落したらみんなでおいしいものでも食べに行こう。

マティーニの研究

年始に帰省していたときに父親からの一言。
「毎日晩酌すればいいじゃないか」
何気ない一言だったのですが、カクテル熱が再燃するきっかけになってしまいました。
そこで、所沢へ帰ってきてドライベルモット(Noilly Prat Dry)を買い、マティーニを作ってみる。
・ジン 3/4
・ドライベルモット 1/4
・ステア
「カクテルの王様」と呼ばれており、バーへ行くと何となく雰囲気でオーダーしてしまうのだが、あんまりおいしくない。あるバーテンダーさんにそのことを聞いたら「それは永遠の課題だ」と万能な答えが返ってきたことがある。
マティーニの味をどう表現するか。これは結構難しいのだけれども、「甘くもすっきりもしていない、独特の香りが鼻を刺してくる」飲み物である。ジンの香りとベルモットの香りは、それぞれ原料となる植物の(強い)香りなのだけれども、それらが「調和」しているマティーニがきっとおいしいマティーニなのだろうと思う。
それで調べてみると、
・ベルモットの比率を下げると「ドライマティーニ」
・ベルモットをスイート系のものにすると「スイートマティーニ」
・ベルモットをドライとスイート半々にすると「ミディアムマティーニ」
・ベースをウォッカにしてオニオンを添えると「ウォッカマティーニ」
・ジン、ウォッカ、リレを材料にシェイクすると「ヴェスパー Vesper」
と、マティーニには様々な種類があることがわかる。

シンプルなレシピだからこそ、アレンジの幅もあり、バーテンダーさんが腕を振るっているのだろうと思うところである。
色々作って試したけれども、今のところ私としては、マティーニのおいしさは材料の「調和」度合いで測られるのだという仮説に立つに至る。

私の好みは「ベルモット少な目」、ドライマティーニなのだろうと思うこの頃である。

想像し難い

先日、ラジオから流れてきたニュースに、生後3ヶ月の娘に暴行を加え、湯船に沈めて殺害したというものがあった。
このニュースを聞いたときに、何か思うところがあったのか、その場面を想像してしまって背筋がぞくっと寒くなった。
三人称の立場に立って、この親御さんと同居人と言われる人を避難するのは簡単だ。けれども、ちょっと視点を変えてみる。

この現場はどんな雰囲気だったのだろうかと。

生後3ヶ月の子どもが泣くのに、手を上げなければ「ならなかった」のはなぜだ。抵抗できたかどうかはわからないが、文字通り必死で動く子どもの命を奪わなければ「ならなかった」理由には何があるのか。湯船に沈めてぐったりしていく子どもを見なければ「ならなかった」のはなぜなのか。その現場には何があったのか。

この事件だけじゃない。最近報道される自分の子どもを殺害するという事件には、「そうしたかった」という身勝手な救う価値のない人が(いないと信じたいが)いる一方で、「そうしなければならない」と追いつめられた人が自分の中の何かを守るために、自分の最愛の存在を手にかけなければならないという出来事が起こっているような気がしてならない。
この後者については「自己責任」という安っぽい言葉だけでは片づけられない、社会の病的な部分や、世の中に垂れ流されているくだらない言説等の影響は否定できないと思う。

福祉に携わるようになって、「ソーシャルワーク」という言葉の意味が、少し自分なりに感じられ、考えられるようになってきたように思う。ただ、その深さと広さを感じる度に途方に暮れることを繰り返している。

2017年1月9日月曜日

遠方から来た友人と語る

投稿履歴の件数を眺めていたら、年々投稿数が減少しているようなので、もともとこのブログのスタンスでもあった、思いついたことを思ったまま書き続けてみようと思います。

正月に地元(静岡県)に帰省していたのですが、その時の出来事から。
前の職場の友人が浜松に遊びに来てくれました。
前職では後輩だったのですが、お互い転職して、同業者としては今度は私が後輩になりました。
歳の差は変わりませんが。

転職の背景は、若干の差こそあれ、自分のキャリアデザインの中に「家族」という存在を位置づけた結果であること。
そして、全国転勤による生活の拠点が定まらないことに対するストレスというか違和感が、前職を離れることと新しい職場探しの時に大きな位置を占めていたということを、改めて確認できたような気がします。

浜松駅前のプロントで、開店直後からビールをあおり、駅南のむつぎくで餃子大(16個)を食べて撃沈するあたり、歳をとったことを確認しつつも、有意義な時間を過ごすことができたように思います。

話をしていて一つ気づいたことは、自分の頭で考えて、自分なりに納得して選んだことについて、立場や背景は違ったとしても「賛同者」がいる、ということはとても心強いこと。驕らず、謙虚に、人に対する感謝を忘れずに、しかし納得感をもって我が道を歩き続けることが、精神安定上大切なことなのだと、考えさせられた出来事でした。

2017年1月8日日曜日

新年あけて初めての投稿

ログを見たら、4か月弱更新が滞っていた。
ちょくちょくチェックしてくださっている方、申し訳ありませんでした。

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

作業後に開いているので、昨年の振り返りとか新年の抱負は後日とします。
今日(昨日になってしまった)は、結婚式記念日につき、外出してそのまま家族でシュラスコをいただいてきました。
東武東上線若葉駅前の「カッピンドゥラード」というブラジルレストランです。

食べ過ぎて動きが鈍くなったので、今日は用事だけ済ませて寝ます。