2019年12月22日日曜日

働くことコラム09:雇用支援と就労支援

このテーマ、学術的にどのように分類されているのかということは、まだ調べていないのであくまで現場感覚ということで。

私の職歴は「11年間、障害者雇用支援をやってきました」と言える。転職後、今でもこの表現を意識して使っている。大半は「あぁ、就労やっていたのね」という反応です。全く間違いと言い切るわけではないが、厳密にはやっぱり間違いです。
ここで言うところの「就労」というのは、そのまま「就労支援」のことを指すわけですが、この言葉を踏み込んで(障害者支援諸分野で)その意味をつけるならば、「福祉の立場で対象となる人が『働くこと』を支えること」になるでしょう。
一方で「雇用支援」とは何かといえば、「雇用関係が、広がり、維持され、適応状態がよくなることを支えること」となるでしょう。

「就労」は人を、「雇用」は関係を支えること、これが言葉の意味する本質かと思います。
「じゃあ、Iyokiyehaさんは、障害のある人を支えてこなかったの?」と言われれば、答は「否」です。もちろん、現場の支援職ですから、人を支えてきた(つもりです)し、雇用する企業を支えてきたつもりです。結果として自分は「雇用支援をしてきた」と思います。私の仕事を身近に見てきた人ならば、私の仕事が「就労支援」では収まりきらないことは感じられていたものと思います。「そこまでやらんでも」と言われたことの中には、私が「雇用支援」として大切だと思っていることが含まれていたと考えていました(もちろん、無駄はありましたが)。

ここから先はこのコラムとは別の話題で深めていきますが、制度として「純化」されたものや、定義のあることと、それを具現化するための現場で施行することとの間には、ほとんどの場合差が生じます。制度が現場の意見を反映していればしているほど、その差は小さくなると思いますが、それだけではなく時が経てば施行当時の背景とは環境が異なるわけですから、差は大きくなりやすい、ということができると思います。

自分が就職や転職を考えた時に、厚生労働省の雇用対策に関するデータが自分の就職活動にはほとんど役に立たないのと同じように、雇用支援施策は「その対象者のとなるべき人の背景と制度設計上の対象者像が異なる場合、効果は著しく削がれてしまう」ということが言えると思います。職業訓練の受講指示をがあったとしても、主体的に取り組む意思が弱い人には残念ながら効果が薄いのが、雇用支援施策全般に言えることだと思います。

働くことって、それくらい「わたし」が大切になります。希望だけじゃなくて、自分の置かれた環境や職歴を含めた自分の背景、が大切で、それは自分の生活の上にしか成り立たないものといえます。