2019年5月21日火曜日

森岡正博編著『「ささえあい」の人間学』法藏館、1994年。

・出版時には新進気鋭と呼ばれていた5人の研究者による研究会の報告と、その成果物としての論文集。それぞれが異なる専門的立場から「いのち」に関わっている。研究会のテーマは「新たな社会において人々はどのように関わり合ってゆけばよいか」。1989年から5年間にわたる研究会の成果である。
・人間は決してひとりぼっちでは生きてゆけない。そのような人間たちを我々はどうすればもっと適切にささえてゆけるのか。そのような人間たちをささえる社会システムとは、いったいどのようなものか。(はじめに ⅱより)
・医療、看護、仏教(宗教)科学、社会学、倫理...専門の異なる研究者が、自分の立ち位置に根ざしながらも、その枠組みを超え、時にゆらぎながらも、成果としては確かに新たな議論の場を切り拓いていると感じるものである。
・何よりも、各論文(メモ)が、大変専門的な内容であるにもかかわらず、表現が一般向けになっており、丁寧に説明されているなどの工夫がなされているため、読み手の理解度に合わせて深まっていく内容になっているのだと思った
そして、それぞれの論文から、各人の思いが伝わってくるような、書籍として熱のこもったものとして編集されていることも興味深い。今読んでも全く古さを感じない。学術論文であるにも関わらず、読んで気持ちが高揚してくるのもまた面白い。
・個々の「ささえ」、相互の「ささえあい」が、社会問題と共通する「ささえ」とつながっていることをイメージできる論考に、視野が一気に広がる感覚を得た。
・25年前(現在は2019年)に世に出された本書で語られる未来イメージ(日本型福祉国家)が、パズルのようにパタパタと成立しているような気がしてならない。新たな南北問題に踏み込んでいるような現在の日本とその社会システムの中で生活しながら、冷静にそのしくみを語ることのできる人でありたい。
(再まとめ)
・21世紀、高齢福祉社会を突き進んでいく日本の社会がどうなっていくのか。そこで生きる人達を先導する哲学、人間観、社会観、生命観とは何か、について深く追及する共同研究の軌跡。
・一人では生きていけない社会における「ささえあいの人間学」を追求していく。身体だけでなく心をささえること、何をささえ、どのようにささえたらもっと適切といえるのか。末期医療における「ささえあい」をモデルにして様々な角度から専門の枠組みを超えて議論している。
・気鋭(当時)の学者5人が、5年間にわたり繰り返してきた会合と、その度に提出された論文を編集したのが本書である。研究会の成果というと、一般的には最終報告書が公開されるものだが、本書においては、この研究会に提出されたほぼ全ての論文を編集し公表することで(1)未来図として検討された議論の本筋から外れたいくつかのテーマも紹介している(2)検討の軌跡や、参加者が立場・考え方を変えていく様子がわかる、ような構成となっている。
・こういった形式の論文集(共同研究)に接する機会は滅多になく、大変新鮮な読み物であったということと併せて、哲学的な議論が加わることによって、どの分野からの切り口にもその不足点や要所や言葉の意味や定義のレベルで整理されていくことを感じた。一つのことが分かると、一つ視野が広がるような感覚である。本書の論文一つ一つからそうした深まりが得られたことで、また新たな疑問が提示されるとともに、私の疑問も深まっている。知りたいことは増えているのだが、それが気持ちのいいこととして感じられる。知的好奇心を刺激される感覚を味わうことができた。

(以下、引用)
ⅱ 完全には自律できにくい人間どうしがお互いに「ささえあって」ゆくという形の社会原理の可能性を探ろうとした。
(佐藤雅彦)ささえる人をささえること、既存の価値を現在にあわせて超えていく。
・ささえる人をささえることと、既存の価値を現在に合わせて超えていく。
221 (「仏教学」には)「異論を挟まないで、それはそれとしてきちんと受け止める」というあり方をした、信仰の学問としての一面があります。
222 たとえば、浄土宗の教学はこうあるべきだというものがありますよね。ところが現実の人に接して、いま悲しんでいる人に対してことばを伝えるときに、伝統的ながんじがらめの四角いことばを使ってはとても表現し切れない。やはり、その場ではその人に合った表現をします。けれども、やっぱり自分のこころの中では、どうもこれは本来的な浄土教の教え方からは外れているかもしれないという危惧は感じるわけです。
224 おそらく、現代に対応していこうとすれば、きっと従来の仏教学とか、伝統的な仏教の学問の体系からは、完全に逸脱してくるでしょう。しかし「学問的な体系」から逸脱したとしても、仏教そのものの教えが「真理」である以上、その「真理」から逸脱することはありえないでしょう。旧来の学問の体系からの逸脱を抜きにしては新しい学問の創造や、独創的な発想の展開は成立しないはずです。
229 率直に言って、ささえを受ける人がこころの安らぎを得ることができ、そのグループの中でしっかりとして、サポートができればそれでいいと思いますね。(略)
230 だから、僕はターミナル・ケアに宗教者が直接参加すべきだという画一的な理論には否定的です。
同  宗教はターミナル・ケアに関わる人たちの、知識・感性などさまざまなものを貯蔵する「タンク」として機能するのか、今後の日本で求められる方向性じゃないでしょうか。

(斎藤有紀子)スローガンではなく、対象を想定し、借りものの言葉(外来語)に意味を見出すべき
237 和語の中に私たちが安らぎを見出せるのは事実ですが、和語は「説明不要の安心感」を私たちに抱かせる。→だから「ささえあい」を論じると、心得的になる。
238 ささえが必要な場面では、そこにいる人々はたいてい現実と格闘しています。彼らはぎりぎりの状況に置かれてもなお、目前の現実と向き合っていかなければなりません。その過酷さを少しでもささえるには、具体的な問題解決システムの確立を目指す必要があるでしょう。輸入された概念は、この「問題解決システム確立」過程で、私たちがすべきこと(してはいけないこと)を、具体的原則にして指し示します。それは、ささえを必要としている社会的弱者にとって、和語(耳に心地よいが現実のどの場面を説明するのかよくわからない)よりも、よほど力になるものではないでしょうか。
240 終末期を迎えている患者/看護・介護を必要とする高齢者/判断能力が不十分とされる子どもたち/障害をもつ人々に対し、彼らの主体性を尊重した医療(ケア)を提供しようと考えたとき、果たして現在のような「保護し、保護される」関係でいいのか。保護することと主体性を尊重することは、ときにぶつかるのではないだろうか。
241 私はこれまで権利主張を前面に出す物言いに、かなり抵抗してきました。自己決定「権」といってしまったときに感じる居心地の悪さと、しかしそれに目をつぶっては、私たちが善意と思っていることが空回りしてしまうのでは、という危機感を行きつ戻りつしておりました。(略)しかし「実質的に」制度をささえ、他人が尊重されるためには、やはりまず権利から始めるのも得策だと最近感じ始めています。
242 「ささえあい」という可能性に満ちた和語を「権利」「個人」「自己」という概念なしで使うとき、一つ心配なのは、前回の論文でふれたように、周囲でささえる人の大変さを誰も肩代わりできないことです。(略)冷たいスローガンに終わってしまいます。
243 「個人」を想定し、「権利」を定め、それに対する「社会」の義務をはっきりさせることが、ひとつ実質的なシステムとして、ささえの基盤となってきます。借り物の「権利」「自己」「個人」「共感」「自律」概念を利用しながら、それをいかに私たちらしく、私たちの社会になじむ方法で運用してしまうかが、一つの試されどころでしょう。

(土屋貴志)ささえあいの本質
304-305 「ささえの原則」
 根本原則:「共感」が達成されるよう努めるべきである。
 二次原則:
 (1)相手にかかわっていこうとする
 (2)相手の可能性を信じる
 (3)事実に直面しそれを受け容れなければならないのは、その人自身なのであって、他の人が代わってやることは決してできない
306 自分以外の人が何を考え、何を感じているか、全部わかるわけではないが、全然わからないわけでもない。私たちは言語表現や身体的表現を通じて、他人の体験しているものを限定的に感じ取ることができる。だからこそ、この限られた能力をフルに活用して、なるべく本人の体験しているそのままを感じ取るべきだといえるのです。
 認識に関する命題 ⇔ 存在に関する命題
308 共感の本質とは、重荷を代わりに背負うことではなく、背負っている本人を一人ぼっちにしないこと
310 死に対する恐怖や不安そのものを完全に解消することは、(宗教を含め)いかなる「ささえ」をもってしても不可能かもしれません。しかし、それはしばしば非常に大きな助けになります。この「分かちあい」こそ「ささえあい」の最終的な到達点のように、私には思われるのです。

(赤林朗)ささえ業
319 「ささえ」においては、「ささえ」られる側も「ささえ」る側と同じように重要なのです。(コンサルテーション・リエゾン P321)
322 「ささえ」行の特徴、「調整的仲介的」な機能。もう一つは、常に実践に携わり「ささえ」を必要としている人との直接的・間接的な関与を通じて、「ささえ」を達成していくという特徴です。理解を見出すにしても、それは実践の中から得られるものです。
325 「ささえ」業を現実化させるためには、「実践の科学化」という考え方も参考になります。
(森岡正博)
329 「ささえあい」の実践には専門分化した個別的な「援助」と、それら相互をスーパーヴァイズする「調整・仲介」機能の二種類が必要であるという点が、よりはっきりするように思います。
330 「ささえあいのシステム」の全体像 「『ささえ』の四つのカテゴリー」
 (1)「ものや環境を与える<ささえ>」
 (2)「技術や機能を与える<ささえ>」
 (3)「情報や心の糧を与える<ささえ>」
 (4)「存在を与える<ささえ>」
同  各自はそれらが心得を自分のこころの中で唱えているだけではダメだと思うのです。というのは、まず社会の構造上の問題があって、それが原因でなにかの問題が生じている場合、いくらみんなが心得を唱えて行動しても、事態は全然解決されないからです。
332 (1)について(略)将来は社会の主流になるであろう非健常者が生活できてそして死んでいけるような「都市」を、計画的に作ってゆかねばならないのです。
335 これを成功させる秘訣のひとつは、都市の立体化にあると考えています。
336 (2)について、ボランティアの力が、将来の福祉施設を運営してゆくうえでのキーとなるのはまちがいありません。
337 そこで、ボランティアでもない、パートタイマーでもないという、新しいカテゴリーの援助職を作って運営してゆくべきだと思います。
338 「病院」に対応する「看護院」のような施設
340 (3)について、生老病死にかかわる相談事と情報提供を一括に担当する「人生アドヴァイザー」という職種を作りだし、彼らがそれらの問題に包括的に対処するのです。(略)都市共同体の中では、人生アドヴァイザーの役割を、家族・親戚・近隣のネットワークに求めるのではなく、都市社会の中の「職業人」の中に求めなければなりません。
341 (4)について、家族によるこころのささえを補うものとして、私は「友人」によるささえに注目したいと思います。(略)そのにょうな友人関係のネットワークを、より多く形成させるような「文化」や「生き方」を醸成してゆくこと、これがささえあいのシステムを作り上げることの一部となるのです。
342 ひとつだけ確実に言えることは、ささえあいのシステムが根づいた社会とは、非常に多くの人が「ささえあい」のために働いている社会となるという点です。福祉社会とは、自分のためだけに働く比率が減り、ささえあいのために働く比率が増えるような社会のことです。
343 国外で安い労働力を搾取するという「帝国主義的・植民地的南北問題」から、国内で外国人の安い労働力を搾取するという「福祉型南北問題」への移行です。
同  これが、経済の優等生日本が、二十一世紀に世界に向けて示す<日本型福祉国家>の基本モデルとなるわけです。
344 いままでのささえあいの議論では、ある一つの社会に生きる「個人」の間のささえあいを念頭において、研究を進めてきました。しかし、その個人が所属する「社会」あるいは「国家」のレベルでの、他の社会・国家とのささえあいもまた、実は我々のテーマであったことに気づきます。
同  これからの日本社会を襲うものは、この暗黙の「同質性」の崩壊なのではないでしょうか。

2019年5月4日土曜日

ホセ・ルイス・ゴンザレス・バラド編、渡辺和子訳『マザー・テレサ 愛と祈りのことば』PHP研究所、1997年。

・ご縁ある思い出の本だが、当時はパラパラと眺めていたものであった。きちんと読んだのは今回が初めてといえるだろう。
・マザー・テレサや「死を待つ人の家」のことを調べたこともあったが、当時「なぜそんなことをするのか」全くわからなかった。今もわからないことではあるのだけれども、マザー・テレサがそうした活動に取り組む「理由」の一端は感じとれたような気がする。
・人を助けることの意味、貧しい人たちとの関わり方、それが清く尊いことは感覚として了承できても、到底納得できることではなかった。今では、分からないなりにも、若い頃に感じていた「拒否」にはならない。「わからなくはない」ところまでは受け入れられるようになった。
・今回つかんだことは、マザー・テレサにとって出会う人ーー友人、先生、道ゆく人、だけでなく、助けを必要としている人、死にかけている人を含めたあらゆる人ーー全てがイエスその人であるとする感じ方、考え方、物事の捉え方というところ。マザー・テレサの様々な言葉に貫かれている意志は、この点の近くにあると思える。
・この学びは、「今、ここ」の感覚や、禅の思想にも通じることのように思える。絶対的な何かを感じ取る、あるいはそれすら手放し「今、ここ」のみを感じ取ることとの接点であるように思えるようになった。

86 ハンセン病者、死にかけている人、飢えている人、エイズに羅っている人々は、すべて皆、イエスその人なのです。
87 あなた方がこれから触れる貧しい人々の姿の中に見るキリストと、ミサ中のキリストは全く同じなのですよ。

内山興正『〔新装版〕坐禅の意味と実際 ー生命の実物を生きる』大法輪閣、2003年。

・マインドフルネスの瞑想から、坐禅の実際へ。マインドフルネスが「頭の体操」と割り切り、宗教性を排除したプログラムとなっているのに対し、坐禅は仏教に根ざした実践の一つの形といえる。
・「『自己が自己の実物を生きること』を、実際にやるのが坐禅です。」(14頁)表現にはいくつかあって、「自己の真実を生きること」「自己が自己を自己すること」(同頁)「ただかくの如く生きている」(30頁)など。
・正しい姿勢を、骨と筋肉でネラウのみ。よい(坐禅)、悪い(坐禅)の価値判断ではなく、「何か」を目指すこともない。ただ坐禅すること。「祇管打坐(しかんたざ)」という。
・何かになるための坐禅ではなく、自分を取り戻す、ただ自分である時間が坐禅である。なにも目指さないが、何からも解放されること。

(以下、引用)
6 おのおの自己自らの目をもって、自己から出発することこそが、真に仏教的な求道の態度そのものにほかならないのですから。
13 あなたはいつも、ただ他との関係(かねあい)においてだけで生きていて、本当の自分を生きていないから、自分の人生がさびしくなるのでしょう
14 『自己が自己の実物を生きること』を、実際にやるのが坐禅です。
48 坐禅とは、まさしく「ただかくの如くある実物」を、もっともよくネラウ姿勢なのであり、この「ただかくの如くある実物をネラウ姿勢」をねらって「ただかくの如くある」というのが、祇管打坐(ただ坐禅する)ということなのです。
51 坐禅の姿を骨組と筋肉でねらい、そうして「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません。
52 坐禅の姿勢をネラウと同時に思いを手放しにすることによって、心身ともに「坐禅する気になって坐禅する」ことになります。この「坐禅する気になって坐禅する」ことを、決して「思う」のではなしに「実行する」のが坐禅です。
 このことを道元禅師は薬山和尚の語をひいて「不思量底の思量」といわれます。骨組と筋肉で坐禅しながら、思いの手放し(不思量底)をネラウ(思量する)のだからです。また瑩山禅師は「覚触(かくそく)」という語をつかわれます。これははっきり覚めて(覚)実物を実物する(触)のだからです。
61 いま仏祖正伝の坐禅(真実生命の坐禅)はそうではありません。欲望も煩悩もじつは生命力のあらわれなのですから、これを憎み、断滅していいはずはなく、しかしそうだからといって、もし欲望、煩悩にひかれてそれを追うならば、それによって、かえって生命は呆けてしまいます。この際大切なことは、思いによって呆けさせることなく、かえって思いもすべて生命の地盤にあるものとして、在らしめながら、しかしそれにひきずりまわされないことです。いやそれにひきずりまわされまいと頑張るのでなしに、ただ覚めて生命の実物に帰ることです。
63 ふだんのわれわれの日常生活の行動では、ほとんどこのような思いを追った結果、まざまざとある似た姿を固定せしめ、この固定した煩悩妄想にかえって重みがかかり、この煩悩妄想によってふりまわされて行動していることばかりです。いやむしろ、ふだんのわれわれときたら、今の自分がこのような煩悩妄想にふりまわされているのだということさえもわからないで、ふりまわされている、といった方があたっています。
64 このような坐禅体験が充分に身についてくれば、ふだんの生活においても、たとえさまざまな思いが往き来しつつも、それにふりまわされることなく、自らの生命を覚触して、そのことにより真新しい生命の実物から出発しなおすことができるでしょう。
82 坐禅で大切なことは、それらいずれにもかかわらず、とにかくただ坐禅をねらい、坐禅を覚触して、ただ坐ることです。
96 自己の生命の実物とは、小さな個体的な私の思いをはるかに超えたところにありながら、現にこの小さな個体的私に働いている力なのです。
99 生命の実物としていえば、この小さな個体としての私の思い以上のところで、根本事実として、自己は「生きとし生けるもの、ありとあらゆるもの」(一切生命、一切存在)と不二、ぶっつづきの生命(尽一切自己)を生きているのです。これに反し、ふだんのわれわれは小さなこの個体的自分の思いによって、この尽一切自己の生命の実物を見失い、くもらせてしまっております。そこで今、思いを手放しにすることにより、この生命の実物に澄み浄くなり、この生命の実物をそのまま生きる(覚触する。非思量する)ーーそれが坐禅なのです。(このような坐禅を「証上修の坐禅」といいます。100頁)
102 (前略)「不疑」という、信についての第二の意味がでてきます。このことも、単に他人のいうことを聞いて疑わないというのではなく、「それを本当と思っても思わなくても、信じても疑っても」ーーそんな自分の思いにかかわらないところでーー事実として不二の生命の実物を生きているということを疑わない、ということだけが、仏教の信の意味です。