2022年6月26日日曜日

ポイ活に伴う、動画広告

  刹那的というか、直球というか、品がないというか。少なくとも好意的には見ることができない。

 「歩数でポイントがたまる」といったアプリを複数使用している。なんというか、徒歩通勤なので、その運動量がポイントになって、ちょっとお得なことがある、というアプリが複数紹介されており、いくつか使っている。結果、アマゾンギフトは数千円分になっており、ちょっとしたお小遣いの上乗せになる。ありがたいことだ。

 ただ、よくあるのが「広告を見て」ポイントが付与されるというしくみ。この動画広告というのが曲者で、15秒なら15秒、30秒なら30秒端末の使用を制限されてしまう。自分に関係のある広告は30に1つもないので、洗濯物を干しながら、インターバルでスマホをタップしているのだが、タイミングが合わないこともあり、見えてしまう広告も少なくない。

 大別すると、商品がお得、お金が儲かる(≒ポイントがたまる)系、痩せたい系、出会い系、まんが系、ゲーム系、系系とうるさいかもしれないが、こんなあたりが目につく。以前はそれでも「動いていると見てしまう」ことがあったのだが、最近に至っては「見えると気分を害する」ものも含まれており、なんというか、広告業の倫理観みたいなものを疑ってしまうところがある。

 「時代に合った」と言われたら、そういうことなのかもしれない。ウチではカミさんも子ども達も動画でコミュニケーションが成立している。私は取り入れることを拒否しているため、その辺の面白さが全くわからないが、少なくとも広告は費用なのか人材なのかモラルなのかわからないけれども「お行儀が悪い」コンテンツが多いように思う。登録してアンケートに答えるだけで○万円、とか、仮想通貨がもらえる、など、ゲームに至っては「はぁ…」とあきれてしまうようなものも少なくない。

 自分の周りに、当たり前のように(私が思うに)そういう質の低いコンテンツがあふれている世の中って、大変だよなぁ。


2022年6月19日日曜日

やっていいこと、誰のためにもならないこと。

  インターネットのせいとか、テレビ番組のせいとかいうつもりはない。ただただ、以前からいたような人達が世の中の表舞台に出てくるようになって、それに賛同するコバンザメのような人達が集まって徒党を組むようになった、といったところだろうか。私の仲間にはそれを端的に「輩(やから)」と呼ぶ人もいる。

 これまでに、子どもの関係で幼稚園にも顔を出していたし、小学校に至ってはPTAまでやっていたので、いわゆる親の愚痴、みたいなものを耳にする機会はたくさんあった。面白いもので、悪口というのは増幅機能が働いて、いつの間にか悪口自慢、大変自慢になっていく。その足元で、本当に悩んでいる人を巻き込んだり置き去りにしたりして。怖いのは置き去りになっていても、話の焦点がそこに当たらず、増幅装置の中にあって話題にならない、いわば「見えていても見えないもの」として扱われてしまう。

 おっと、今日の話はそこじゃない。

 いろんな機会を通じて「生活者の声が政治に届く」場面を目の当たりにしている。最新ではないが、大きく取り上げられたのは「日本死ね」でしたね。うまい表現だなぁと思いつつ、国会で前面に取り上げられた様子を見て「なに便乗してんだよ」と腹がたったのも事実。発言者をどうこう言うつもりはないけれども、個人的には、それが全てであるかのように国政の場で演説する方にはイエローカード、それをあたかも子育て世帯の総意であるかのように知らせたメディアはレッドカードでした。プライドも何もないんだな、この人たちは、と思うところもあり。

 それで、自分の周囲を見回してみると、ここのところひどいものが目につく。便所の落書きのような「ご意見」が(なぜか)正式なルートを通って、正式な場で、正式なやりとりの材料になってしまう。ろくに調べもせず、情報収集もなく、主張もないまま、「ご意見」がまかり通っていく。声をあげるのは構わない。デモ更新に象徴されるように、本当に小さな声が大勢の力を借りて世の中にあふれだしていく、という手法はある。ただ、最近周囲で起こっていることは、それとは全く異なるもので、正式なルートにいる(べき)人たちの一人でも自分のすべき社会的役割を全うすれば、もっと異なる形で、もっと大勢の人達の賛同を得て、実態と説得力を帯びて、正式な場に出てくるものである。物事の筋を外した主張は、間違った人に間違ったことを植え付け、世の中が(多分)間違った方向に向かっていく助けにしかならないような気がする。

 「○○言ってやった」「△△さんと知り合いだから」「今度(偉い人)に言ってくれるってよ」などなど、てんで勝手なことを言っているのを耳にしたことがありますが、学校に文句があるなら学校にきちんと言えばいいじゃん、あなたの主張を届けるところはどこですか?言いたいことをいわゆる「地元の有力者」に言って「ご意見」になることが、あなたの望むことですか?こういうことはみんなで考えて行動するべきだと思う。学校関係だと、PTAとか部活とか、いろいろ話題になっているけれども、まともな意見はほんのごくごく一部しかないように見えます。特にPTAに至っては、見るも無残、聞くも恥ずかしい「ご意見」が多すぎて、品位を疑うものが少なくありません(この点のみ補足。本来の役割を見失った集団は不要だと思いますが、学校毎背景が異なるわけですから、何もかもすべてを不要とする意見には全く賛同できません)。

 飲みの席の愚痴も結構、井戸端会議も結構、便所の落書きはやむを得ない、として、公私の別ってことはもっと意識しないと恥ずかしいぜって思うこの頃でした。

オスカー・ブルニフィエ文、クレマン・ドゥヴォー絵、西宮かおり訳、重松清監修『こども哲学 よいこととわるいことって、なに?」朝日出版社、2006年初版、2020年第2版。

  恒例の図書館で、子ども向けの絵本をあれこれと見ていた時に見つけた一冊。平易な表現で手にとる。ただ、問いの質は決して平易なものではない。

 哲学の問いを、こどもの問いとして6問。大人なら「何らかの回答」は示すことができるだろうが、それは「正しい」のか?それとも「よいこと」なのか?あるいは「やってもいいこと」なのか?これらは似ているようで異なる。

 ゆさぶる内容だ。答えや著者の立場は伏せて、様々な立場の様々な意見を列挙して、それを語るのみ。ウチの次女(現在7歳)に見せたところ「書いてあることはわかるんだけど、難しい」と言いつつ、なんだかんだで毎日読んでいるらしい。おそらく、噛み応えのある内容なのだろう。

 こどものように毎日読む内容としては、大人には諦めが入ってしまうほどの内容だろう。「そういうものだから」とつい言ってしまいがちに。とはいえ、少し時間をおいてまた読んでみたいな。多分自分の状態と置かれた状況によって、感じ方が違う本だろうから。

重松清『きみの友だち』新潮社(新潮文庫)、2008年。

  純粋に現代小説を読んでみたいと思った時に、Amazonで調べて買ってみた一冊。独特な語り口と、自分のまわりを含め「どこにでもあること」を淡々と浮き彫りにする小説。短編小説が重なって、一冊を通して一つの物語として結ばれる、簡潔明快でありながら自分の思い出にコツンと触れる、それでいてきれいなイメージのある言葉が綴られている。私はとても好きな小説だった。

 自分にとってはどうでもいいと思ってしまう周囲の人たちのやりとり。そこにいる私は、私であって私でないような感覚がある。そして、私以外の「みんな」には興味がなくなっていく。うっとおしくなって離れようとした時、その視線の先にいた一人の子、友だちでもなんでもないと思っていた子が、自分にとっては友だちになっていく過程と、その子が目の前にいなくても友だちでいるという感覚。「みんな」が「友だちだ」と言い合っていることへの違和感と自分にとっての友だちの意味。

 一人称と二人称とが織りなす日常の描写が、自分の思い出をなぜか想起させる小説でした。こういう静かな、それでいて自分の内側にコツンと触れてくる文章って、不思議だ。そして、素敵だ。

ジョージ・ルーカス原案、横田順彌著『東洋の秘術 ヤング・インディジョーンズ9』文藝春秋(文春文庫)、1993年。

  シリーズ9作目。若き日のインディの活躍・・・と書きたいが、本編は中国の農村で、毒蜘蛛にかまれて寝込んでしまうお話。その治療に東洋医術が施される、というのがあらすじ。

 背景は1900年代初めの中国。万里の長城で出会った三船敏郎が、インディの落とし物を届けようと農村に向かう途中で出会う毛沢東など、若き日の歴史上の人物もとりあげて、読み物として面白くしているのが、わくわくさせる。表題の「東洋の・・・」は話の筋から言えば東洋医術のことなのだろうけども、インディを休ませてくれた農家の借金取りを撃退した三船の柔道や、農家のあたりまえの等身大のもてなしが言葉の通じない人々を結びつけていく様なども含めているのだろう。

 以前、読書感想文でとりあげたくらいに読んだ小説なのだけれども、大人になってから読んでも面白さはそのまま、歴史的な背景などが読めるようになると、面白さも深みを増すことを感じた一冊でした。

宮澤正泰『はじめての自治体会計0からBOOK』学陽書房、2020年。

  4月に異動となり、関わる仕事の分野が変わっただけでなく、仕事の質も全く違うものになりました。公金を扱う立場になったのにも関わらず、前職含め、Iyokiyehaは予算、会計など公金に関わることをほとんどやってこなかったので、まずは基礎知識、ということで手に取った一冊。

 会計にまつわる言葉、自分を通って動いていく決裁文書の行方と手続きの意味、など、本来は事務処理をしながら学ぶようなことについて、まずは知識として網羅している(と思われる)内容でした。多分、会計に関わる1,2年生が読むような本ですね。でも、会計シロウトの私としてはこれくらいでいい。

 イラストで流れがわかりやすい、というその記述内容もさることながら、お金の動きというのが社会を動かす基礎になる、ということも感じ取れるような内容でした。要するに、Iyokiyehaが関わる、施設や利用者に支払う給付や補助金というのは、そうした施設やその施設利用を円滑にするものであって「お金の流れが滞れば、施設の維持や利用者の確保が滞る」のである。円滑、というより必要不可欠な循環である。ヒトを含む動物でいえば血流にあたるものが公金の流れ、会計処理が動かすもの、である。

 自治体職員っぽい仕事への異動だったわけですが、これまで見えなかった(実は、見ようとしていなかった)事業の裏方さんの役割がよく見えるようになってきたように思います。それは公金を適切に使うこと、使えるように手続きをすることが会計の役割であって、それは一部の事業を通じて社会のしくみを維持するために不可欠な役割である。ここしばらく数年は、こういったことにプライドをもって仕事をしていくことになりそうです。

佐藤義典『実践マーケティング戦略』日本能率協会マネジメントセンター、Audiobook。

  マーケティングというと、つい頭のいい人が高度な分析をして未来予測する、ということをイメージしてしまっていたのだけれども、ごく普通に、何か物事を仕掛ける時に、相手のことを考えて、予想する、という、自分も身近なところでやっている珍しくないことだということに気づく。自分や自分の目の前にあるコトやモノの分析から、世の中を読み解くフレームワークについて解説している。書籍でもう一度確認するつもり。

喜多川泰『運転者 -未来を変える過去からの使者』ディスカヴァー・トゥエンティワン。Audiobook。

  この著者の小説は、とにかく外れがない。Iyokiyehaにはぴったり、しっくりくる物語ばかりなんだよね。『「手紙屋」 -僕の就職活動を変えた十通の手紙』(2019年1月12日投稿)もよかったのだけれども、中年男性Iyokiyehaとしては、主人公と同年齢ということもあり『運転者』の方が聴いている時のインパクトが強かった。帰宅途中に思わずコンビニでコーヒーを買って、聴き入ってしまう内容でした。今度活字でも読もうと思う。

 運の善し悪し、という考え方ではなく、運とはご先祖様や自分が他人のためになることをしてためられる物であって、「運がいい」という時はそれまでにためた運を使うことができた時なのだ、という考え方や、運をためるコツとして「上機嫌」でいること、他人に対して(自分を)開いていること、というのは、自分の生活に取り入れられる具体的な方法だと思う。このことと、もう一つ感じたことは「他人のことはわからない」ということ。実は身近なところに著名人やその分野での有名人がいるかもしれない、道行く人は実はすごい実績のある人かもしれない。とはいえ、そういう人と知り合って一緒に何かをしたり、いい情報を得られるなんていうことは、その人に営業をかけることによって成立するのではなく、機会がそこにあって自分が行動できた時、に人がつながっていく、というもの。要は、機会が訪れるように、自分を開いて準備をしておくことと、いい機会を感じ取れるか否かはおいておいて、他人のためになることを自ら行動できることの二つしかないということだ。

斉藤幸平『人新世の「資本論」』集英社、2020年。Audiobook→書籍(集英社新書、2020年)。

  書店でも平積みになっていて、私の勤務先の管理職向けの研修講師に招かれていた接点で、Audiobookを試してみたもの。哲学的なところをもう少し丁寧に読みたいので、書籍に挑戦した。やっぱり斉藤氏は「エコバックと環境配慮を結びつける」ことは気になっているのだろう。身近なことから壮大な思索を展開している。

 世界的に広まったSDGsの取り組みをきっかけとして評価しながらも、その問題点を鋭く指摘し、SDGsを超えた取り組みの必要を説く。

 論考のモチーフとして斉藤氏が立脚するのが、マルクスの思想である。歴史の教科書にも『資本論』は取り上げられて、社会主義の基礎を築いたと教わった(ことしか筆者は覚えていない)のだが、マルクスの思想は資本主義から社会主義への転換を論じただけでなく、特に晩年は「よりよい社会」とか「世界の平和」という安っぽい言葉に象徴されるような、人と社会のあり方について、もっと鋭い思考に至っていたことを数々の資料から取り上げる。この地点までマルクス論を展開した上で、資本論でも登場する「コモン」の内容を詳述し、現代社会に活かす知恵として「脱成長」を掲げている。しかも、その「脱成長」は清貧や懐古主義的、「昔に戻ろう」「不便を受け入れよう」といったものではなく、資本主義のパラダイムとは異なるところに価値を見いだす地点での「脱成長」を論じている。

 「脱成長」「自由」といった、聞き慣れた言葉が、実は資本主義の範疇での思考に留まっていることを思い知らされる論考であり、マルクス理解が(最大で)高校世界史レベルだった私にとっては目からウロコの一冊であった。著名人が高評価している理由もなんとなく感じられただけでなく、哲学者としての一面をもつ斉藤氏が、ここまで平易な表現でこれらの論述を展開していることにも素直に驚いた。

 すべてを数値化してサービスにしない、資本主義の論理にすべてのことを当てはめない、コモンズを意識して資本主義の外にある価値を大切にする。当たり前といえば当たり前なのだが、社会的共通資本、という価値については、再考しつつ深めていきたい。

2022年6月12日日曜日

学校という場所、友達という人

 娘(長女13歳)が、学校へ登校するのに遅刻したり、時に休んだりするようになった。

ほとんど口をきいてくれなくなって1年以上経つので、今さらやいのやいの言うつもりはないし、そもそも学校行かないくらいで大騒ぎするつもりもない。ただ、心配ではある。

新しい環境に少数集団として入ることになり(学区の関係で、同じ学校の卒業生は学年で数人しかいない)、表面上はうまくやっていてもストレスためていたりするのかもしれないし、学年が変わって悪くはないと言いつつ一年生の時のクラスが良すぎたのでそのギャップが気に入らないのかもしれないし、毎年この時期(梅雨)は気圧が不安定になるので偏頭痛や天気痛みたいなものがひどくなっているのかもしれないし、SNSを中心にWeb上で何か嫌な気分になっているのかもしれないし、シンプルに友達と何かあったのかもしれないし。

同じように心配するカミさんが話を聞いても、ハッキリしたことは言わないわけで、上記のようにいろんな理由が考えられるし、そもそもこの外側に何かあるのかもしれないし、何かあってもうまく表現できないのか、そもそも何もないかもしれない。

自分の子どもとはいえ、やっぱり一人の人間なのだなと思う。わかっていると思うのは親の思い上がりで、接している時間が長いから分かりそうなことは確かにあるんだけれども、とはいえ相手は一人の人間だからやっぱり完全に理解するのは無理、と結論づけざるをえないんだよね。

まがりなりにも43年生きてきて、その中の数週間って、全体からみたらそんなに長くないんだよね。ある意味あっという間なわけで。そんな時期に、安全な場所で迷うことができるようにしてあげることくらいしかできることがない、ということに気づく出来事で、Iyokiyehaも自分なりにはいろいろ考えています。

娘が外的要因で学校に行きたいのに行けない状態なら、積極的に守ってあげなきゃいけないんだけど、内的要因で学校に行きたいのに行けないなら(周囲の支えはあったとしても)自分で何とかするしかない。そもそも学校に行きたくないなら理由は知りたいけど無理させる必要はないわけで、他人が「学校に行かせなきゃいけない(義務)」だからひっぱってでも連れていく、と言うのは違うアプローチなのかな、と思う。もし学校が要らんことするならそれは指摘しなきゃいけない(とはいえ、そんなことしないと思うけど)。

ダイバシティが「多様性(を認める)」という言葉で紹介されるようになってきたわけど、人の多様性だけでなく、場の多様性も大事。まずはとにかく動くエネルギーを蓄えてほしいものです。