2007年6月28日木曜日

最近の中学生

 現在の自宅は、大通りから一本入ったところにある住宅地の一角にある小さな一戸建て。自宅前の道路は少しだけ広くなっている。お客さんが来たときなんかは、路上駐車になるがそのスペースに車を停めてもらっている。
 昨日、仕事から帰ってきたときに、自宅のガレージ前のそのスペースに座り込む三人の中学生っぽい女の子達。私が単車をガレージの前に停めて、ガレージの中に単車を入れようとする一連の行動の間、彼女らはずーっとしゃべりまくっていた。

 率直に言えば、こういう失礼なやつは大嫌いだ。

 ただ、それでも年頃の子達ですから、「何となく迷惑っぽいこと」をしたい気持ちはわからんでもない。ちょっといけないことしてるんだぜ、っていうスリルがテンションをあげることってあると思う。だから、追い出す気はなかったのだが、何が私の怒りの琴線に触れたかというと、目があっても頭を下げることすらしなかったこと。それはないだろう、と。ずるいなぁ、と思う。向き合わずに、コソコソと悪いことして開き直るのと同じような感情だろうなと。
 だから、合気道の練習に行くのに車を使う際、敢えて何も言わずにエンジンをかけることで、彼女らには散ってもらいました。たぶん、私の本意は伝わらないが「嫌なやつ」っていう気持ちは伝わったんではないだろうか。彼女ら成りに「むかつくらー」とか言われそうですが、まぁそれはそれ、これはこれ。

2007年6月26日火曜日

表現しきれない感情

 ストレスが閾値を超えて、精神的に何らかの病気にかかってしまった人との相談をしていると、世の中本当にひどいヤツがいるものだと、怒りにも似た感情が私の中に存在していることに気づく。私自身、まだ未整理の感情だが、そのひどいヤツに対して「ぶっとばしてやりたい」といった直接的な怒りではなく、かといって「真綿で締めてあげましょうか」のような穏やかな怒りでもないし、だからといって呆れているわけでもない。

 例えばその人自身がただのわがままとか、誰の言うことも聞かずに今の今まで我流を押し通すような人であれば、「勝手にやってちょうだい」と言ってしまうこともたやすい。世の中そんなに甘くない。
 でも、あきらかに環境、というか特定の人につぶされてしまった人がいる。その一方で、「このままだと、目の前のこの人につぶされてしまうのでは……」と思うような家族もいたりする。個人的には「あなたが大人になってくださいね」なんて言うのも、多分私にはできるんじゃないかと思うが、私も組織人、客観的根拠がなければそんなことは言えない、言わない。私のお陰で誰かを助けたなんて言おうと思わないし、逆に私のせいで誰かの病気が重くなったなんて言われたくない。

 どうしようもない環境で目一杯やってきて、周囲とうまくやろうとした結果が完治の難しい病気となったら、一体何のためにやってきたのか?ということになってしまう。原因を作った人が特定できるのであれば、その人に代わって私が仕返しをしてやりたい気分にもなってしまう。人の生きる力みたいなものを踏み潰しておいて、そのことを自覚せずへらへらしているしょぼい人に、今病気になってしまった人がどんな苦労をしているか、とつとつと伝えてあげたい気分になる。冷静に、淡々と、それでも力強く。

2007年6月25日月曜日

バカは騙される

 給料日に、同僚の一言。「手取り減ってない?」

 私は4月分の給与に転居手当がついたり、配偶者手当とか、嫁さんを扶養に入れたことで各種税金が安くなったりしているとか何やらで、4月はいつもの150%くらいの給料をもらっていたので、その変化に全く気づきませんでした。いい意味で余裕のある生活ができる仕事に就いていることもあるし、悪い意味で私自身の給料のしくみがわかっていないとも言う。

 ただ、先月の給与明細と今月の明細とを比べると、やはり納税額が変わっており、結局のところ10,000円くらいはマイナスになっている計算になる。

 でも、岡山にいるときにも、山梨に来てからも、広報とかで「所得税と住民税の比率が変わります。でも負担額は変わりません」と聞いていたのに、どうしてこんなことが起こるのだろうか?鍵は「定率減税」なるものの撤廃とのこと。うーん、税金ってわかりにくい。。。

 近いうちに、このあたりのしくみはきちんと調べておかないといけないと思ったところだが、今日の教訓は「バカだと騙される」ということ。誰に?言うまでもなく、国ですね。そういえば、先日紹介した『シリコンバレー精神』にこんなくだりがあった。曰く、世の中の仕組みは世論が作るのではなく、2,3人の狂気が突っ走ることで生まれる、とのこと。梅田氏は、シリコンバレーから生まれる世界の仕組みを揺るがす人たち(Googleとか)のことを言っていたが、そのまま政治のしくみにも当てはまることだと思う。

 やりやがったな、この野郎。でも、次はそうはいかないぞ。

2007年6月24日日曜日

ブラジル人のお祭り

 嫁さんが調べてきた「ブラジル人のお祭り」。隣町、南アルプス市で開催されるということで、遊びに行ってきた。あいにくの天候だったことに加え、駐車場に入れないというアクシデントがあり、長居はしなかったのだが、シュハスコ(焼肉を串にしたもの)を食べて帰ってきた。

 帰り道、嫁さんが「あんなところでも、あれだけ集まるだね」という。確かに、南アルプス市役所支所の駐車場を一部使って、公共機関の建物とで半日のイベントをやるだけで数百人が集まるのは、凄いことのようにも思う。
 思うに、いわゆる社会的マイノリティに関するイベントは、ニーズに合えば参加者はかなりの数になる。今回のイベントは、主旨はよくわかっていなかったが、ダンスの披露と太鼓(地元のものと思われるが)の披露という文化交流だけでなく、精神医療に関する相談窓口も設けられていたようだし、会場を歩いていたら派遣会社のようなブースも設けられていた(私はポルトガル語が読めないので、専ら雰囲気と嫁さんの翻訳による判断)。消防隊による防災講座のようなものもあり、傍から見たら「何でもあり」のイベントに見えたが、それが多くの人のニーズに合っていたのではないだろうか。
 ちょっと想像力を働かせたら、言葉が通じない文化の中で生活していて、突然日本語のチラシがスーパーに貼られていたら、私なら多分仲間を求めて参加するだろうなと。

 そんな真面目なことも考えながら、シュハスコに舌鼓をうち、隣町にはブラジル人が結構いるんだなと、軽く触れることができた一日だった。フットワーク軽く、あちこちに顔を出すのもまた楽しいこと。

梅田望夫『シリコンバレー精神 ――グーグルを生むビジネス風土――』筑摩書房、2006年。

 インターネットの世界の仕組みが変わりつつある昨今。その萌芽がシリコンバレーに生まれつつある1990年代後半から2000年代前半にかけて、シリコンバレーを生活の拠点に事業を展開してきた梅田氏による、シリコンバレー観察記ともいえる雑誌(『Forsight』新潮社)連載を書籍化したもの。
 この読書から私はたくさんのことを学んだ。その中でも大きな二つのことを感想文として書き残しておこうと思う。

 まず一つは「ルール」というものについて思うところである。「起業」と一言で表すと社会人として様々なイメージが浮かぶ。例えば、「時代の最先端をいく事業展開」「確実に儲かるしくみづくり」「ニッチ(隙間)産業としての位置づけ」など、ブレインストーミングをすれば20や30のイメージを書き出すことはたやすい。ただ、梅田氏が表現するシリコンバレーにおける事業経営のルールというのは、おそらくそのどれにもあてはまらないように思う。こんな記述がある。
「事業の成功・失敗はあくまでもビジネスというルールのある世界でのゲームで、それを絶対に人生に反映させないこと」
「事業とは『失敗するのが普通、成功したら凄いぞ』というある種『いい加減な』遊び感覚を心の底から持つこと。『成功するのが当たり前、失敗したら終わり』という『まじめ』発送を一掃しなければならない」
「失敗したときに『投資家や従業員や取引先といった関係者に迷惑がかかる』という考えを捨てること。皆、自己責任の原則で集まってきているのだと、自分勝手に都合よく思い込まなければならない」(以上、本書66~67ページより)。
 こういったルールを、感じ、読み取り、事業展開に反映させる経営者が、たとえ事業で失敗したとしてもシリコンバレーで生き残ることができる。梅田氏は、ビジネスの世界における「ルール」について従来のそれとシリコンバレーのそれとで比較しながら、グーグル等の突き抜けたベンチャービジネスが生まれる土壌について説明している。
 私自身の生きる世界とは違う次元の説明であることは理解した上で、敢えて私の糧とするところは、私が仕事や生活の中で出会う人や組織にそれぞれの「ルール」があり、それぞれ私の「ルール」とは多少異なりながら存在しているということである。そして、これまで軋轢を生じながら存在してきた各人、各組織も「新しいルール」の基で新たな連帯を生む可能性があるということのように思う。自らが持っている仕組みや制度といった「武器」を機能毎の「実」に落とし込み、誠実さと率直さをもって新たな「使い方」を創造する。金銭的な報酬を介さない中で、新しいものを生み出す際の考え方として「ルール」の見つめ方について感じることがあった。

 もう一つは、生きる姿勢のようなものについて感じること。「マドル・スルー muddle through」(泥の中を通り抜ける。先行きが見えない中、手探りで困難に立ち向かう」といった意味)という言葉が、あとがきに散見されるが、このことが一つ目の学びを支える上で押さえておきたい考え方だろうと思ったことである。「好きなことを仕事に」とか、「自分にとってやりがいのある仕事を」といった安易な思考ではなく、「未来を創造するための『狂気にも近い営み』」というところまで昇華して初めて、これまで想像もしなかった新しいものが生み出される。取り組んでいる時には、わけがわからないし、私自身のコントロールを超えたところで様々なことが同時並行的に動いている状況は、不安で不安で仕方がないが、その中で揉まれながらそれでも大きなビジョンの基で目の前のことに一生懸命になるのは、心身ともに消耗することである。ただ、その状況すら「もう一人の自分」は楽しむくらいでなければ、新しいものは生まれない。

 梅田氏はやはりシリコンバレーにおける起業家について記録しているのだが、私自身の生き方に反映させて考えると、こういった学びがあった。ここのところ、梅田氏の文章を読むようになったが、おそらく生きる世界は全く交わることはないと思う中にも学ぶものはある。そういったことを一つ一つ考えることが、きっと私が「好きで好きでたまらない」ことなんだと思う。そういった意味で、私が私について客観視するための助けとなった書籍である。

2007年6月17日日曜日

回転寿司に思う

 嫁さんと某回転寿司チェーン店に行く。私はこのチェーン店の利用は初めてである。

 寿司屋の看板を掲げた飲食店(要はチェーン店ではないところ)は、私自身の支払いで利用したことはないので、ネタの良し悪しは判断できないが「割とおいしい」というのが率直な感想である。外食としてまた利用してもいいかなと思えるし、子どもができても利用できそうだ。
 回転寿司というと、私にとっては「回転」が物珍しいものであったが、大学に籍を置いているときに、指導教官と食事に行き「待たずに食べられる」という価値が加わった。今では「安くて、割とおいしい」といったところだろうか。

 じゃあ、何で安いのか?ということを考えてみる。「安い=いいネタではない」という図式は以前から疑問には思っていたが、今食べても「割とおいしい」と思えるわけで、ほとんど当てはまらないといえる(実際、どんなものを使っているか確認しているわけではないが)。大量仕入れによって、経費を抑えていることは十分考えられるが、それにしても一皿105円という安さは説明できるのだろうか。

 そうなると「回転」がカギを握るのではないだろうか。設備投資という側面から見たら、決して安いものではないと思う。ただ一度作ってしまえば、後はランニングコストがかかるだけで、それらを含めた設備投資の費用が利益によって相殺されれば、後は利益となる。そして「回転」の意味は、ホールスタッフの削減と考えることができる。事実、今日行った回転寿司は60席以上のボックス席があるにもかかわらず、ホールスタッフは3~4人で回していた。案内と説明、勘定が回れば、それ以上のスタッフは要らない。他にも、キッチンでも注文を受けて作っていたら60席以上のボックス席全てを捌くのに膨大な人数のスタッフが必要となりそうだが、一部の注文以外は、コンベアに乗せてローテーションで流せばいいため、非常に効率がいいといえる。

 事実、どんなことが経営努力になっているのか、わからないところではあるが、こうやって考えてみると意外と面白い。何か知っている人がいたら、ぜひ教えてください。

同じベクトルを生み出す、別の動作

 力の方向が同じであっても、それを生み出す動作には様々な方法がある。

 合気道を教わるようになって、日課となっている運動の時も身体の部分部分を意識するようになったように思う。例えば、走り方であったり、木刀の振り方であったり、傍目にはわからないと思うが、私としては動作を頭で確認しながら次の動作へと流れる。いわゆる「当たり」の動作だと次の動作はスムーズに流れるように続いていくが、そうでないと今までの身体に刻まれた動作へと戻ってしまう。後者が悪いというわけではないと思うが、動いた後の気持ちよさを比較したときには、明らかに前者に軍配があがる。このことは、先日も話題にあげた「ナンバ」の動きを提唱する甲野善紀氏の説明するところにも通ずるものがあるように思う。

Web:松聲館http://www.shouseikan.com/index.html

 合気道習いたて+中学校の授業で剣道をかじった、程度の私が今日感じたのは「肩で動く」こと。これまで木刀を振る時には、大きく振りかぶり、腕全体の力を使って振り下ろすことを繰り返していたが、合気道で教わった手刀の動きを真似て肘を固定し肩の関節を意識して振ってみる。振る速さはあまり変わらないが、振り終わった時に木刀を静止させるときの腕の負担が全然違う。
 あぁ、こういうことかもしれない。今はまだ肩から動かすことに慣れていないので、脇を締めていると窮屈に感じ動きにぎこちなさがあるのだが、それでも身体全体の機能から見れば断然動きやすいし、次の動作への余裕も出てくる。試しに「突き」の動作をしてみると、これまで腕が伸び切って不安定になってしまっていたのが、いくぶんか安定した軌跡を描けるようになる。

 すごく単純に考えると、手刀や木刀を振り下ろす動作は、身体を前進させながら手や木刀を伝い力が下に向かうことになる。この二つの力が、肩を使うことによって、腕の力だけでなく足が前に出ることによって生まれる「身体が前進する力」が加わり、より大きな力が生み出される。冒頭の一文は、このことを表している。

 こういう実感が伴うと、身体を動かすのは本当に面白い。

2007年6月16日土曜日

庭のドクダミ 2

 何もしない休日は、夕方になるとおもむろに庭掃除をするのが日課になってしまった。別に、嫁さんに「やれ」と言われているわけではないのだが、私が手を入れた庭ゆえ、何となく気になってしまう。

 ドクダミには悩まされている。というのも、私個人としては彼らを全滅させるつもりはなく、庭の片隅にでも住処を固定してきれいな花を咲かせてくれたらいいくらいに思っているのだが、どうもそれでは飽き足りないらしく、庭の中央にまで進出してくる。これが抜いても抜いても生えてくる、あたりまでは先日のブログで書いたとおり。
 だから、ホームセンターで鍬を買ってガツガツと庭を掘り起こして「どうだこのやろう」とやったのが3週間前。今後こそ、と思っていたがやっぱりまた生えてきた。最近、雨が降って土が軟らかくなっていたので、生えてきたのを抜いてみると、その理由がわかった。先日鍬で分断した根っこで、土の中に埋もれていたものから、ぴょこっと新しい芽が伸びて葉が土の上に出ているのである。

なんという生命力。

 素直に感心してしまったところだが、このままでは放っておいたら転居後すぐの状態に戻るのは、時間の問題である。ということで、また庭を掘り起こして、今度は出てきた根っこを手で取り除くという、ちょっと面倒な作業をしている。植えたラベンダーと、嫁がプランターで育てているハーブが、いずれ庭に広がるといいなぁと思いつつ、その準備をしているところである。旦那vsドクダミの戦いはまだ続く。

2007年6月14日木曜日

身体全体で動く

 ひょんなことから、合気道を始めることになった。中学校で剣道を、高校で柔道を、それぞれ体育の時間にかじった程度(部活は球技でした)の私は、武道に何となくあこがれはもっていたものの、この歳で初心者として道場に通うというのも、何か縁がないとやりにくいなぁと思っていたところに舞い込んできた大学時代の先輩からの話。

 剣道をきちんとやってなくても、毎朝20~30回くらい、木刀の素振りをしている私が感じていたのは、慣れるとある程度までの速さ・軽さで思うように振れるようになるのだが、それ以上にはならないこと。以前、甲野善紀氏の動作の映像をテレビで見たときに思わず息を呑んでしまったことがある。「柔らかく、速い」というシンプルだが、雲の上のものを見ようとしている気分になったことを今でも覚えている。休日にたまにNHKとかで放送されている剣道の試合の動作とは、似ているようでどこか違うもの。そんな動作にあこがれをもちつつも、今までなにもしてこなかったのだが、ひょんなことで先輩から合気道をやってみないかという話が出てきて、今回それに乗ってみた。

 おもしろい。

 自分の身体のこんなところがこんな風に動くのか!という驚きの連続である。まだまだ、それを意識してコントロールできないのだが、足を動かす方向に腕を通して力が発せられるような感覚があり、私の身体にとってはとても新鮮な感覚がある。こんな動作が意図してできるようになったら、きっと普段の私の動作も変わるだろうなと。

 山梨に来て2ヶ月。仕事にもだいぶ慣れて、合気道を始めて、来週から岡山でやっていた手話が再会する。仕事で頭を使って消耗しきっているところもあるので、身体で何かを学ぶ機会を意図して作ってみたが、どうやら当たりらしい。もっと充実した生活を目指そう。

2007年6月12日火曜日

Iyokiyeha流、サービスの感じ方

 組合の会議で池袋まで行ってきた。電車の冷房がきつすぎるとか、東京から中央線で30分西へ走ると豊かな田園風景が見られるとか、勝沼の葡萄畑は電車から見るとなかなかいい景色とか、そんな感想もあるけれど、今日は昼食をとったお店で考えたこと。

 静岡生まれ静岡育ちの私は、東京へ行くたびに自分が田舎者だと感じてしまう。まぁ、そういうことを感じる感じないは自分の勝手なのだが、そういう気持ちがきっと店(食事処とか喫茶店とか)のチョイスに影響するのだろうなと。どんな街へ行っても、私は大体個人経営っぽい、見た目にはあまり美しくないお店に入ることが多い。店の種類も、オープンカフェよりはカウンターのある喫茶店、レストランより定食屋といった感じである。
 池袋の駅前、サンシャイン通りとかいう道を歩くと、どうも私好みの店構えが見つからない。限られた時間の散策だったこともあるのだろうが、初めての街で歩く道もミスしたのだろう。電車の冷房にすっかりやられて、頭がぼうっとしていたのかもしれない。そんなわけで、通り沿いのきれいなカフェ・レストランに入る。街行く人の格好も、甲府とはどこか違うなと思いながら、オーダー。見たところ学生っぽいウェイトレスがオーダーを取りにくる。
 マニュアル通りのやりとりの後「ありがとうございます」、笑顔。悪い気はしない。それがマニュアルにあったとしても、悪い気はしない。人の笑顔というのはそういうものかと思う。隣に座った女性にオーダーを取りに来た若いウエイターも、こっそり見ていたらオーダーをとった後、笑顔。感心。

 客商売だもん、従業員もそれくらいは徹底しないとね、笑顔も立派なサービスよ、とは思う。でも、意外とそういう店(店員)は少ないのが実際のところだと思う。かくいう私は、そういうサービスを受けて気分よくなりたいがために、結構いろんな店で店員さんのマニュアル崩しをやっていたりする。要はこちらが笑顔でやりとりすれば、相手が笑顔になるだろう、と。ちょっと気の長い社会調査だが、こんな積み重ねで行きつけになってしまった店も少なくない。ただ、今日のお店はそれをやる前に、一本とられたなという感じである。ちょっといい気分になった昼食だった。
 ただ、この店で感じたもう一つのことは、笑顔以上はないな、ということ。あまり私が選ばない店でもあるわけだが、もっとこじんまりした店だと「兄ちゃんどっから?」みたいな話にもなるのだが、しっかりしたお店にはそういった「驚き」はないなと。

 こんなことを考えた、東京出張でした。

2007年6月11日月曜日

梅田望夫/茂木健一郎『フューチャリスト宣言』ちくま新書、2007年。

 久々に爽快感のある読後だった。

 読んで考える、議論して考える、という従来の思考方法においては、大学という場所がその知を育み、昇華させていく場として機能していたが、インターネットというインフラが身近になったことにより、従来の「読む」「議論する」とは異質の思考方法が生まれる。ホームページ(Web)やブログ(Blog)により誰でも自分の思考を「インタネットという世界に」問うことができるようになったというインターネットの位置づけは、その可能性を含みながらこれまでクリアに説明されることがなかったのではないか。

 社会現象としても紹介される「ネットひきこもり」を否定するのではなく、現代における情報の蓄積や思考の昇華のために必要な「手段」として、むしろネット上の人格を奨励しているかのようにも読める。もちろん、ただ引きこもるのではなく、そうして得た情報や思考、その産物を自らの生き方に反映させるべきという提案は、私が大学院時代に思考の下敷きとしていた、森岡正博の「生命学」にも通ずるところがあり、思わずうなずいてしまった。リアルとネットとの行き来を、どんな頻度でどんな密度で行うか。
 生き方を豊かにするためのWebの使い方を、このブログを起点に、この本を参考に考えてみようと思った。

対談: http://www.chikumashobo.co.jp/special/futurist/talk/index.html

2007年6月10日日曜日

今週の出来事

 先週はとかく残業が多かった。別にそれを自慢するつもりは毛頭ないのだけども、ちょっとした舞台が用意されると私のような小さい人間は万全の用意をしたくなる。

 PowerPointというソフト、学生の時にはしょうもないスライドを大量に見せられたせいか、あまり好きではなかったのだけども、今の仕事をするようになって、言葉でクリアに説明「しきれないこと」を補助的にイメージ化して表示できるあたり、未熟な私にとっての「武器」になりつつある実感がある。所内見学の対応とか、ちょっとした会議の場、講演の場で効果的に使う方法をさぐりさぐり、スライドを作っているとついつい時間が経つのを忘れてしまう。来週が一つの本番。今の仕事に就いてから40~50人を前にしゃべる初めての場。今週も妥協しないように作業しようと思う。

 大学の時の先輩(在学期間は重なっていないが、同期のお兄さん)の近所に引っ越してきたことがきっかけで、合気道を習うことになった。身体をもっとうまく使いこなすための一助として、あわよくばちょっとした護身技になればいいなと思ってのこと。これまで武道については学校の授業で剣道(中学校)、柔道(高校)と触れてきたが、「とにかくやりなさい」で身体を動かしていたそれらの授業とは違い、私自身の身体の感覚を確かめながら動く合気道というものと、それを教わる姿勢とで、こんなに楽しいものかと驚くほど。翌日はひどい筋肉痛に悩まされたところだが、毎週、自分の身体を見つめなおす時間が作れることが本当に楽しみである。