2020年8月30日日曜日

A+B=C

 ある物事の結果は、背景と取り組みによって成り立つ。正確じゃないけど、数式で示すとこんな感じ。

A+B=C背景+取り組み=結果

 物事だから、加算、減算だけでは表しきれないけれども。よく「こうすればよかった」という失敗を悔やむことがある。それは「論理的には」Bに関することだから、Bが変化すればCが変化することになる。論理的には正しい。とはいえ、現実だから「そんなにうまくいかないだろう」ということはある。背景Aと関連のない取り組みBはあり得ないわけで、AとBは必ず関係がある。背景Aがわからなければ、闇雲に取り組みBを打つことになり、これは非効率である。仕事で言えばPDCAサイクルと関係してくるが、背景Aの分析ってすべての基本になる。結果Cを検討するには、背景Aと取り組みBを検討することになるが、順番としてはA→Bである。

 何を言いたいのかというと、「背景Aが変われば、取り組みBと結果Cは変わる」ということ。背景Aの変化が大きければ大きいほど、取り組みBも結果Cの変化も大きい。つまり、Aがひっくり返るほどの変化ならば、BもCもひっくり返るほど変化していい、ということになる。

 よく後輩に、「背景が変われば結果が変わるだろ?」という。支援計画においてはそういうことになる。もう一歩踏み込めば、背景が変われば取り組みだって変わるわけです。これって、結構普遍的なことだよな、って思う。

(加筆)
 この方程式は、不完全ながらいろんなことを示唆してくれる。
・C(結論、目標、ゴール…)を導くためには、B(手法、取り組み…)だけでなく、それが置かれているA(背景)が前提(不可欠)となる。
・Aが変われば、Cは元のままでなくなる。
・Bによって、Cの質が変わる。支援者の腕の見せ所。

ごほうびのありかた

 ごほうびのありかたって考えどころだなぁ、と思う。 それも大人へのごほうびとなると、これはエゴ(欲)と表裏一体のところがあるからなかなか難しい。

 例えば、自分が持っているりんごの数で、りんご畑の手入れの時間が変わるとします。1こ持っている人は1時間、2こ持っている人は2時間、3こ持っている人は3時間、、としましょう。 ちょっと前までは、3こ以上持っている人でも、とりあえず2時間やってくれたらそれでいいですよ、というルールだった。理由としては、1人で4時間、5時間行うよりも、みんなにりんご畑(木)のことを知ってもらいたいという理由もあるからだ、ということ。みんなそれなりに納得して、りんごをたくさん持っている人でも2時間やってみんなから「よし」としてもらったし、1時間やればいい人の中でも「もう少しやっていこう」と畑でアルバイトするようになったりしていました。1こ持っている人と複数持っている人、とで対応が異なっていたわけですね。 これが、「いやいや、2時間やるものしんどいから、みんな1時間でもいいんじゃない?」ということになる。大勢の人は「いいんじゃない」と賛成する。それはそうだ、負担は少ない方がいい。こうなるとそれまで1こ/複数とで少し対応違ったのだけれども、全員が同じ条件で「1時間やればいい」ということになる。こうなるとどういうことが起こりえるだろうか。・「1時間やった者同士」ではあっても、「私はきちんと義務を果たした(1この人)けど、あなた(複数の人)は特例でしょ」という感覚が生じる。・私はたくさん持っているけど、義務を果たしたし経験もあるから、まだ経験のない人に作業の仕方を教えてあげる、という物言いになる。

 作業が楽になるから「りんご畑作業は1時間でいいですよ」案はほぼ必ず可決されるようなものなのだけれども、りんごを持つ人達の中で分断が生じる可能性は高いと思います。 ルール作りにおいて、原則(1こにつき1時間)の作成と、ごほうび(作業免除=例外)の設定って、対象者間の関係に注目すると、慎重になりすぎて然るべきことだと思う。

2020年8月10日月曜日

篠田博之、月刊『創』編集部編『開けられたパンドラの箱 やまゆり園障害者殺傷事件』創出版、2018年。

 ・今思い出しても「気持ち悪い」事件である。2016年7月26日に神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」に植松氏が押し入り、利用者19人殺害、27人を負傷させた事件である。

・初めてこのニュースを聴いた時に、ショックと同時に「気持ち悪さ」を感じたことを覚えている。昨年度、判決が出たことを機にこの「気持ち悪さ」に挑戦してみようと本著を手にとった。

・報道には表れてこなかった本著の記述を読んで感じたこと。1植松氏が語る内容は、「それ自体を切り取れば筋が通る」こと。2植松氏の主張は「社会にとって氏の言う意味でのメリットはある」こと。

・上記を受けて、私は現職を置いておいたとしても、これらの主張には賛同できないし、そもそも立っている前提が異なるので全く論外と考えている。私は生命至上主義をとっているわけではないので「生命は何を差し置いても尊い」とは言いにくい。とはいえ「すべての人がよりよく生きるための選択肢」を大切にしたいと考えている。

・氏の主張は、論理的にも「拡大解釈の余地を残しており、現に生きて生活している人の生きる選択肢を取り上げる可能性がある」ため論として不十分である。たとえ、心失者(下記説明)を社会から排除することで、社会的コストの削減になるとしても、それは金銭財政的な側面しか見えていないため、やはり不十分な論である。

・ 心失者=意思疎通の取れない人間。40、57ほか。与死=社会が一定の基準を満たした人に死を受容させるもの(松村外志張、2005)(『ギフト+-』のモチーフと同じだな)

・質的なこと。あくまで三人称の理屈である。氏は当事者となったわけだが、一人称、二人称の問いには至っていない。不安の中で生きることが人に与える影響が全く考慮されていない。優性思想とは異なるという主張ではあるが、評価しがたい。

・そもそも、根源に立ち返った時に「いのち、存在の価値」って何なのだろう?という疑問が生じている。氏はそれを認めていないのだろうが、ではこう考えている私はどう考えている/いないのだろうか?(136より)

・根本は「わからなさ」と「ためらい」、そして「優柔不断」。やはりどこかで「わからなさ」と「ためらい」というのは、歯がゆいほどの「優柔不断」になる。(中略)時間に追われ始め、時間泥棒が登場して時間に煽られるようになると、やっぱり合理と即決主義、あるいは能率ということが優先される。(156より)

 なにもかもわからなければいけないのか、人と非人を分かつ必要があるのか。それを分かつ必要があるという氏の主張に対して、私の態度は否定であるものの、ではどんな立場からそういう態度になるのか、というと特定の立場は定まっていない。そもそも、人が生きる、ということそのものに対して発するべき問いなのだろうか、立場を定めなければならないのか、という根本的な問いが生じる。併せて、社会的弱者と言われる人たちの中には、危機的状況下において、命を落とすリスクがある。

 人間のことって、わからないことばかりで、理屈で答えが出ていることにも感情や背景が介入して優柔不断になることは自然な反応だろう。古今東西のいろんな人が、そうした人間を様々な形で記述しているのであるが、未だその全てはわからない。わかったことがあるから更なる謎が生じることもある。そういう存在に対して、何もかも「知ったふり」をして、社会の効率を判断基準としてその生殺与奪を判断するという行為は、子どもが「よくわからないけど、食べてみよう」と消しゴムを食べてみる行為とそんなに変わらないような気がする。判断力のある大人がとるべき行動ではないと思う。


■以下引用

11(刑法39条)刑法39条では被告が犯行時、心神耗弱ないし心神喪失であったと判断された場合は、それぞれ罪を減じたり無罪にすることが決められている。

20(犯罪とは)犯罪とは、何らかの意味で社会に対する警告といえる。社会が今どんなふうに病んでいるのか、それを示した犯罪に私たちがどう立ち向かい、どんな対応をするのか。それまでの社会システムをどう改めて、悲惨な犯罪が起こらないように予防していくのか、この事件の投げかけた問題に、果たしてこの社会は答えることができるのだろうか。

57(心失者)自分は心失者とそうでない障害者との線引きはできると思っています。判断の基準は意思疎通できるかどうかです。例えば自分の名前と住所を言えるかどうか、です

84(7項目の提案)1.安楽死 2.大麻 3.カジノ 4.軍隊 5.SEX 6.美容 7.環境

197(共生社会)(松本)(略)理由は何であれ警察が容疑者を「他害のおそれ」の段階で逮捕し、刑務所送りにすれば、彼の危険思想は変わるのか、安全な市民に買われるのかという話なんです。「おそれ」の段階では無期懲役や死刑なんてとても無理です。つまり、いつかは地域に戻ってくるんですよ。(略)私としては、「それが犯罪防止に役立つかどうかはさておき、まずは地域での孤立を防ごうよ」と思うわけです。(略)隔離では何も解決しない。

2020年8月4日火曜日

池井戸潤『ロスジェネの逆襲』ダイヤモンド社、2012年、Kindle版。

・TVドラマ「半沢直樹」の原作。
・痛快である。ドラマ化されたことをきっかけに読み返してみたが、やはり面白い。勧善懲悪と言い切れない半沢のキャラクターと、彼を取り巻く個性的なサラリーマンたちの物語。
・「これがサラリーマン」と思われると、語弊はあるが、エンターテイメントとして読む分には、半沢語録的なものもあって面白い。
・世の中で筋を通すことの困難と、他のものに巻かれることとを、会社組織という枠組みの中で描いている。
・ドラマで有名になった「倍返しだ!」は、小説ではそんなに出てこない。

以下、引用。
1855 結局、世代論なんてのは根拠がないってことさ。上が悪いからと腹を立てたところで、惨めになるのは自分だけだ。
1884 仕事は与えられるもんじゃない。奪い取るもんだ。
2732 すべての働く人は、自分を必要とされる場所にいて、そこで活躍するのが一番幸せなんだ。
3540 人事が怖くてサラリーマンが務まるか。
3776 仕事の質は、人生の質に直結しますから。
4320 いつもフェアなわけじゃないかも知れない。そこにフェアを求めるのは間違ってるかも知れない。だけど、たまには努力が報われる。だから、あきらめちゃいけないんだ。
4405 批判はもう十分だ。お前たちのビジョンを示してほしい。なぜ団塊の世代が間違ったのか、なぜバブル世代がダメなのか。果たしてどんな世の中にすれば、みんなが納得して幸せになれるのか?会社の組織も含め、お前たちはそういう枠組みが作れるはず。
4412 正しいことを正しいといえること。世の中の常識と組織の常識を一致させること。ただ、それだけのことだ。ひたむきで誠実に働いた者がきちんと評価される。

中井紀夫著、ジョージ・ルーカス原案『国境の銃声 ヤング・インディ・ジョーンズ2』文芸春秋、1993年。

・同シリーズ第2巻。
・舞台は1910年代後半のメキシコ。メキシコ革命を背景に、インディの成長を描く。当時のアメリカとメキシコの関係が垣間見える。
・メキシコ革命のことは、それがあった、ということだけ世界史で触れた程度で、その内容や様子は知らないことばかりであった。第二次世界大戦のチェ・ゲバラ等の方が有名である。
・パンチョ・ビリャ(ビシャ)と行動を共にすることなり、革命を叫ぶ戦いに参加する。ただ、ビリャを取り巻く人たちに触れることで、その戦いの意義を考え、「革命にのまれてしまった」革命軍の様子を見て、インディが生き方を選んでいく様子が描かれる。
・おそらく、歴史的、専門的にみたらいろいろ細かいことはあるのだろうが、小説としては大変面白い。『ジャッカルの呪い』で未決だった事件にも決着がつく。

田口俊樹著、ジョージ・ルーカス原案『ジャッカルの呪い ヤング・インディ・ジョーンズ1』文芸春秋、1993年。

・Iyokiyehaが中学生くらいの頃、TVドラマ化されていたシリーズのノベライズ版。インターネット上の古書店を巡って大人買いしてしまった。
・ジョージ・ルーカスが元々歴史教材用として作成したものと言われている。歴史上の出来事・人物と若き日のインディが関わっていく。
・人間の営みや様子がよく描かれている。
・本編はシリーズ序章である。1900年代初頭のイギリスとエジプトの国際関係や、エジプトの神話がうまく取り入れられている。
・子どもの冒険ではあるが、上記のため今読んでも大変面白いものだった。

長尾彰『宇宙兄弟 今いる仲間でうまくいくチームの話』学研プラス、2020年。

・「組織開発ファシリテーター」長尾氏による「チーム論」。リーダーの在り方を、チーム形成のプロセス(タックマンモデル)に重ねて、グループ/チームの学びや、それぞれの段階におけるふるまい方について説明している。
・学者の分析とは異なり、ファシリテーターの視点で、豊富な経験に基づき、さらに『宇宙兄弟』のエピソードを重ねているため、どんな場面で具体的にどうするか、という指針が得られる。
・前著『完璧なリーダーはもういらない』でも「愚者風」と紹介されていたように、リーダーの在り方は一長一短がある。背景が異なれば、結果は異なるもの。チームの段階やリーダーのパーソナリティによって、似たような場面でもできること・すべきこと、は異なるもの、と実体験では感じるところはあったが、本著はそれをリーダーの立場から整理している。
・本著の「チーム」の考え方を取り入れると、1構成員全員がリーダーシップを発揮する、2リーダーシップは組み合わせても機能する、3「やらない」という行動が望ましい場面がある、ということを学べる。

■以下引用
52 ファシリテーションは「0から1を生み出す」「メンバーが自主的に関わり合い、成長していく」チームリーダーにこそ求められる能力
63 チームの成功法則は、所属するメンバーでしか生み出すことができないものであり、僕たちが多くの成功事例から得られるのは「正解」でなく「学び」や「ヒント」です。
104 「タックマンモデル」=チームの発達段階
108 「無敵」とは(中略)「そもそも敵なんて最初からいない」という捉え方
109 第2ステージへと成長するためには、(中略)心理的安全性が生まれていることが前提となります。
124 「心理的安全性」の確保について
195 いくら素晴らしいチームワークを発揮したメンバーでも、ミッションやプロジェクトが変われば、必ずしもうまくいくとは限りません。(中略)なぜならば、チームの「目的(WHY)」が変わるからです。
217 (チームをアクティブにするために)あえて「しないこと」を増やす。

「外国につながる子どもたちの物語」編集委員会編『クラスメイトは外国人 課題編 -私たちが向き合う多文化共生の現実』明石書店、2020年。

・緑本。前の2冊と同じく、同じテーマを扱っており短編集のような構成になっているため、本書1冊だけでも充実した内容になっている。
・当事者や専門家に言わせたら「こんなもんじゃない」と言われるのかもしれないが、バランスのとれた内容であって、かつ解説編では歴史や課題の背景を丁寧に解説している。読んでいて考えさせられることばかりである。
・高校生レベルの世界がわかっていると、背景は読みやすいところもある。ただ、世界史で触れなかった内容が原因となって起こっている課題も少なくない。
・とりあげられている課題は、一つ一つが研究対象になるくらいの人権問題ばかりである。それだけでなく、私を含めた「日常生活の中に確かにある」ことばかりで、随所で物事の見方を考えさせられる。
・「知っているつもり」が色眼鏡になることもある。今の時世に通ずることだけれども「情報の質」が改めて問われる内容であった。知らないこともたくさんあったけれども、それらも冷静に情報として取り込む必要がある。
・ちょっとテーマがずれるのだけれども、上記のように感じたので、冷静な情報を意識して取り入れないと、知らぬ間に自分が偏っていく、死角が増えてくる、と思った。事実は事実として取り入れる姿勢は大人に必要なことだろう。

2020年8月3日月曜日

日本語研究会編『日本人の9割が知らない「ことばの選び方」大全』青春出版社、2017年。

・「かど」と「すみ」の違いは、「角張っているものを、内側から見ると『すみ』、外側から見ると『かど』など。普段「?」と立ち止まるような言葉の謎を解説する。
・底本はいくつかあるようだが、身近な言葉や漢字について、千本ノックばりにこれでもか、これでもかと紹介している。
・ところどころ、説明に「おや?よくわからんぞ」と思わせるようなところもあったが、全体としては「知っていたい」ものを数多くとりあげている。
・辞書をひいてもわかりにくいときに調べたい1冊といえる

「外国につながる子どもたちの物語」編集委員会編『クラスメイトは外国人 入門編 ーはじめて学ぶ多分化共生』明石書店、2013年。

・69ページ、日本語を学んだアンドレが「あの日からオレは変わった。っていうか世界が変わった」というセリフが印象的だった。
・外国にルーツをもつ、外国とつながる子どもたち/大人も含めて、が抱えている生活を垣間見た感じがした。あくまで一面でしかないわけだけれども、それくらい根深い、そしてわからない。わからない、から一歩進むための一冊といえるだろう。
・私の生活は日本にとどまっているので、「言葉がわからない」ことのキツさがわかりにくい。必要な情報を手に入れることができないことへの不満と不安。身近なところで、そういうことに困っている人がいるということに気づかない、という怖さを改めて感じた読書となった。
・本書を読んだからといって、何かが具体的に変わるかといえば、面と向かって接する人のアセスメントに時間がかかるようになったことくらいかもしれない。とはいえ、わからない前提で目の前の人から教えてもらう、目の前の人に語ってもらうことの意味を感じ取れるようになるならば、本書に触れた意味はあるのだろう。
・日本にいる外国ルーツの人達の生活をイメージすることは、その人たちと何らかの形で関わる上で必要なことといえる。
・外国ルーツであることを隠していたというお話が印象的だった。理由はどうあれ、自分のことについて「言えない」環境は果たして健全なのか、という疑問が生じた。

「外国につながる子どもたちの物語」編集委員会『まんがクラスメイトは外国人 ー多分化共生20の物語』明石書店、2009年。

・ちょっと気を配ればどこにでも住んでいる外国にルーツを持つ若者たちについて、教育現場で関わる人達、何らかの活動で関わる機会のある人たちによる、丁寧なヒアリングを基に作成されている読み物。解説マンガ、とでも言えるだろうか。
・海外にルーツのある(主に)少年たちの入国理由は様々である。その親御さんが、日本語をできる/できない、で子どもの生活は大きく変わってくる。
・外国人に対する否定的な態度について、無理解から、拒否的な行動まで幅がある。相手の立場を「でも…」でつなぐと、自分本位の考え方を押し付ける内容になることに気づいた。
・家庭の事情だけでなく、ルーツのある国の歴史も関わってくる。
・言葉がわからないことで、必要な情報が入手できないだけでなく、思考材料がなくなり、無気力が広がるように思う。
・どんな関わりがいいのか、まだまだわからないことが多いものの、少なくとも可能性を減らす・閉じる対応は、現場としては間違っていると思う。

斉藤洋『ルドルフとイッパイアッテナ』講談社、1987年。同『ルドルフとともだちひとりだち』講談社文庫、2016年。

 ブックカバーチャレンジ(FaceBook参照)で先行しましたが、カミさんが娘に買ってあげていたものを借りて読んでみた。
 ネコたちの生活を描く小説。児童文学に分類されているお話だが、「子どもが本当に面白いものは、大人でも面白い」の法則が当てはまる小説だと思う。誰も傷つかない、それでいて擬人化されてはいるけれどもネコたちの感情が生き生きと表現され、物語としての伏線や盛り上がりもきちんと盛り込まれている。読んでいて「次が気になる」内容で、次女の寝かしつけ時に読むのが楽しみになってしまった小説である。お話が進むにつれ、徐々に深まっていく「友情(ネコだけど)」がうまく描かれ、引き込まれる小説だった。『~ともだちひとりだち』は、ちょっと切ないエピソードもあり、ますます読ませる。楽しかった!
 表題の他にも続編あり。映画化もされました。