2016年9月20日火曜日

いつでもどこでも、の罠

手放すと見えるようになるものがある。
最近はスマートフォン。
見回すと、どこでも、誰でも、みんなが画面に見入っている。
7~8年前からどんどん広まって、今ではスマホ持っていない方が目立つようになってきたように思う。
私も、以前はiPhoneユーザーだったから、その便利さと手軽に楽しめるアプリがたくさんあることは知っている。
うまく使っている人にとっては、ビジネス・プライベート問わず手放せない道具になっているのだろうし、確かにいつでもどこでもインターネットにつながっているという、一種の安心感みたいなものは感じたことがある。

ただ、この手軽に便利な機能が、そこから抜け出せなくしてしまっている側面もあるように思う。
別にデバイスの文句を言うわけじゃなくて、なんというか、ギャンブルに低所得者からお金を巻き上げるシステムがあるように、スマホにも「ある環境」を脱する機会と気持ちを吸い上げていくシステムがあるように感じてしまった。
30年前はテレビゲーム、20年前にはポータブルデバイス、15年前にはインターネットというように、その時々に人々を熱中の渦に巻き込み、そしてそこから還らぬ人がいたことも間違っていないだろう。これらのツールには、それがなければ生活維持が困難になってしまう程度にまで脳へ衝撃を与える力がある。いや、デバイスの持つ力を増幅させる別の力が人間にも備わっていると考えるのが妥当だろうか。
壊れていくことを望む人はいないのだろうが、いないといのは理屈の話であって、デバイスがいつもある環境を選びとる意思があって、それを際限なくよしとするときに目の前に現れる(ように見える)幻想や快楽は、その世界へ入り込む動機となるに違いない。そして、そこから目を背けたり、脱しようとする人に、更なる誘惑が待ち構えている。

・・・とまぁ、無痛文明っぽい立ち位置から、最近見えるスマホ社会をスケッチしてみました。
便利な道具だけどさ、それを理由にやるべきことをやらない人が、一丁前の口をきいても、あんまり響かないよね、ってことが立て続けにあったので、メモ書きしてみました。