2020年12月19日土曜日

対人援助の本質に近づく

  雇用支援から福祉へと転身して5年目。様々な場面に直面させてもらっている。

福祉では、「要件を満たしたら補助」というものが多いのだけれども、一方で「生活の支えが少なくて不安定な人に対する援助」がある。今の私には、立場も手伝って後者のような雰囲気を感じとると、本質に近い仕事だ、と不思議な高揚感がやってくる。

 じゃあ、対人援助って何だ?と自問した時に、今まであまり言語化してこなかったことに気づく。最近考えているのは、生活に制度を貼りつける、という前に「対象者が支えの中で安定感を高めること」にあると言語化できた。

 「主訴を把握し、本人のニーズに沿った支援をする」ということが広まるにつれ、言語化・顕在化しているニーズに引っ張られがちだが、中には潜在ニーズについての言及もされている。最近の様々な経験から、この「潜在ニーズ」が見出せないクライアントも少なからず存在しており、言語化・顕在化の限界を感じているところである。

 要は、「人は何かを欲している」というのは必ずしも正しいわけではなく、「本当に何もない」ということもある。また、「欲していることに気づけない」ことも知的障害者を中心に、知的障害の有無を問わず、珍しくないことに気づいた。この「(今は)何もない」「ニーズに気づけない」ことが、意外と多いということを、支援者の立場の中にしっかり位置づけたことによって、上記言語化に至った。

 具体的な視点と段階は以下の通りである。

1 クライアントの中にあるエネルギーを見つける

2 エネルギーをクライアントの意識にあげる(増幅または言語化・顕在化)

3 エネルギーの範囲を確認して方向づけ

4 エネルギーの放出先を望ましい方向に促進する

 この「エネルギー」というのが特徴であり、曲者になる。私のイメージでは、その人の原動力・動き出すための意思・行動を起こすための何か、といったイメージである。

 何を働きかけても、口では「いいね」と言いつつ、結局動かない。動かないのではなく、動こうとしない。何か意思がありそうだけど、よくわからない。そもそも意思がそこにあるのかないのかわからない。生存のための行動はとるけれども、目的行動をとっているように見えない。こういう時に「エネルギーがない」と表現する。一方で、確認したことに同意をするのだけれども、とにかく違ったことをしてしまう。人に迷惑をかけてもお構いなし。言ったことはやらないのに、何かをしてしまう。問題行動が多かったとしても、こういう時には「エネルギーはある」と表現する。そういう使い方をする「エネルギー」である。

 対人援助というのは、この「エネルギー」を見据えて、このエネルギーに火を付けてあげる、クライアントに気づいてもらって、その原動力がいい方向に使われるように働きかけを続けていく、ということではないのだろうか、と考えるようになった。その見極めって、今まで自然に何となくやっていたのだろうな、と思う。

 あくまで主役はクライアントにあって、その行動が間違っていたとしても、支援者としてそれを罰するのはやはり間違っているのだろうな、と思うところでもある。とにかく「関わり続ける」「エネルギーを見据えて、関わっていく」ことが求められているのではないかと思うこの頃です。

2020年12月6日日曜日

知的能力が低いとは…

  前職でも現職でも「知的障害ってどういう人?」と問われることがある。前職では主に会社の人事担当者から、現職では悩んで窓口にやってきた当人からの質問にあるもの。障害のある人に対する支援に15年ほど関わっていて、折に触れて考えてきて、未だに「これだ!」という説明に出会えていない。

 確かに、都道府県毎の定めはあります。身近なところでは「18歳以前に発現している」「知能指数が70以下」「生活上の困難」という三要素があげられており、これを満たす人に療育手帳が交付されている。これを定義として紹介するのだが、よく考えている人はほぼ十中八九「知能指数が70以下ってどのくらいの人なんですか?」と継がれる。これに答えられない。よくある正規分布を取り出して説明していたこともあったけど、わかったようでわからない。「成長が止まってしまう」なんてことを言う人もいるけど、止まってないし、相対的だし、個人差あるし、としっくりこない。

 最近、研修講師をする機会があって、改めてこの点を説明する(しなければならない)機会があったので、考えて絵を描いて考えたところ、その人の認知機能(能力)に立脚して、

「見たり聞いたりして集める情報量の範囲が狭いことと、その判断や行動の方向の安定性が弱い」人達のこと。

 とひねりだした。要点は2つ。

 一つは、取り入れることのできる情報量が少なく、時に偏ってしまうこと。ヒトが五感を通じて情報収集することを、雨が降っている時に雨水をトレーで集めようとするイメージで考えると、そのトレーの大きさが小さいことと、トレーを置く位置がその時々で変わりやすいことである。知的能力が逆に高い人だと、トレーの面積が大きいだけでなく、そのトレーを配置する時に「効率よく雨水が集まる場所」における人になります。トレーが小さくて、その時々で置く場所が変わりやすいから、認識できる情報量とその種類の偏りが生じやすいということになる。

 もう一つは、認識したことを通じて判断したり行動する時の安定性である。こういう状態ならこうするのが常識、という結びつきの強さを「安定性」という言葉で表したものである。上記トレーのイメージを使うなら、集めた雨水の処理方法ということになる。「雨水はここに捨ててください」という指示があったり、貼り紙があったり、そもそもその町では雨水処理はこう!って決まっているなど、いわゆる「常識」の範囲で処理できるかどうかということである。「安定性」としたのは、問題行動も適応行動も説明できると思ったからである。すなわち、問題行動となる場合は、収集した情報から作った少ない選択肢の中から選んだ行動が常識の範囲を外してしまうことで表現できる。雨水処理をその辺にぶわっと捨ててしまう、楽しいからその辺に撒いてしまう、楽しすぎて人にかけてしまう、といったイメージである。一方で重度障害者であっても適応行動が定着している人については、収集した情報から作った少ない選択肢の中から選んだ行動が常識の範囲に収まっている、ということである。水が入っていたらここに捨てる、しか思いつかないようなイメージである。

 最重度の知的障害者でもかわいがられるような行動ができる人は、環境から得る情報はとても小さくても、自分がとりうる適応行動に必要なものだけ収集して、たとえ選択肢がちょっぴりでも、収集した情報と強い結びつきで適応行動となる(選ばざるをえない、それしかない、かもしれない≒安定)、という説明が成り立つ。一方で軽度知的障害者が問題行動を起こすということは、最重度の人と比べると収集できる情報も多く、そこから作る選択肢もいくつかあるのだけれども、そこからの選択に余計な情報が入り込みやすく、決まった行動に結びつきにくい(≒不安定)。

 内容も言葉もまだまだ磨く必要のある説明なのだけれども、「軽度知的障害者が問題を起こしやすい」とか、警察のやっかいになると「ボーダーだからね」と安易な発言に結びついて思考停止してしまわないように、あくまで能力と特性という観点から考えてみた現時点での到達点です。なんかね、正規分布との結びつきもピンとこないし、問題行動(←この定義もビミョー)と結びつけるのも安易だし、理解力っていっても適応行動と必ずしも結びつかないし(できることはできるもんね)、一歩俯瞰して考えているところです。

 いい説明あったら誰か教えてください。

2020年11月29日日曜日

自己実現(仮)のカタチ

  テレビを観るのはあまり好きじゃないので、控えているのですが、ここ数日何となくインタビューを伴う番組が放送されていたので、ぼんやりと眺めていた。あるアーティストは、おおよそプロトコルを作ったら支離滅裂にも感じられるような内容を堂々と語り、感情を全身で表現して歌を歌っていた。別の番組では若者がスマートフォンとアプリケーションとで作品を世に打ち出していた。

 全く異なる取り組みを眺めていたのに、頭に浮かんだのは「何がこの人達を成功に導いたのだろう。いや、『成功』じゃないな…」という共通した疑問。「成功」の定義は難しくて、勘違いもされやすいので、表題のように「自己実現」くらいがいいのかもしれないけど、これも誤読されそうだ。ただ、暫定的に「(自分が望んでいたかどうかは別として)自分の納得いく形で、社会に広く受け入れられる要素」は何なのだろう?と考えてみた。

 感情をむき出しにするだけでは、おそらく社会に受け入れられない。たぶん変な人、と思われてしまうだろう。私の仕事でも、相談者として支離滅裂なことを楽しく話す人がいたら、それは(私は)楽しいけれど、周囲にどう受け入れてもらえるかなぁ、と考えるし、そもそも負の感情をむき出しにされたら「関わりたくない人」みたいに思ってしまうし、広くそう思われてしまう、と考える。

 もう一つの側面はもっと難しい。だって、今や誰でもスマホを持っているから。SNSも使っているから。その中でチャンスをつかむ人っていうのは、「その他大勢」と何が違うのだろう。

 今の到達点としては、「ツールはどうあれ、人と人との関わり」と「感情の奥底を表現すること」が背景にあって、自分が何とか信頼できる場所と時間の中でそれを積み重ねた時に、表現した感情に「反応してくれる人」がいるということ、これがその他大勢との違いなのだろうと整理した。SNSで世界中とつながる、という実感は、それを実感する経験があってこそであって、私みたいな凡人にとっては、結局自分の周辺とのつながり、でしかないわけで。

 別に自分を卑下しているわけではなくて、同じものを使っていて、同じことをしている人の成果が全く異なっているという現実をどうとらえるのかなということに対する、自分なりの到達点ということで。

2020年11月23日月曜日

ZOOMを使ってみる

  スマートフォンを使い始めてもう15年弱になるのか。この期間、いろんなツールを使ってみたけど、継続して使い続けているツールってほんのごく一握りだなと思う。メモや情報管理の大半は、結局Eメール(下書きとか自分への送信とか)に落ち着いてしまった。動画共有サイトなんかは、あっという間に時間が過ぎ去ってしまう割に得るものが少ないことに気づいてからは、信頼できる人が紹介してくれるものしか観なくなっている。スケジュール管理(私的)に「Staccal」というアプリを使っている程度だろうか。メッセージに関しては、個人的には端末共有ができるEメールとか「メッセンジャー」をメインに据えたいのだけれども、世の中の流れには逆らえず「LINE」は使っている。

 そんな個人的な背景がある中で、COVID-19の感染拡大防止が一気に広がり、「ソーシャルディスタンス」が掲げられたのが今年の3月頃。個人的には「ソーシャル」よりも、何だろう…身体とか物理的、みたいな言葉の方がしっくりくるんだけどね(ある人は「フィジカルディスタンス」と使い続けており、私は賛同しています)。身体接触・接近は避けつつ、社会的にはつながりを維持・拡大していくべきだと思うので。まっ、意味するところは「ソーシャルディスタンス」も変わらないだろうから、スルーしていますが。

 話が逸れた。便利なツールが紹介・利用される中、この感染拡大防止の一環として一気に認知されたWeb会議やWebを介した意見交換があります。個人的には以前から一部の作業にはとっても有効だと思っていたのですが、Zoom会議(や集まり)が注目されてから、世の中のバリアや固執した考え方、みたいなものが一部で氷解しはじめているように感じるところもあります。私が今、身を置いているPTAなんかは、古臭いイメージがつきまとっており、実際に古いところ無駄もたくさんあるのだけれども、形や組織が流動的であるからこそのフットワークの軽さがあって面白い。学校毎のPTAの上位団体として地域のPTA連合会というものがあるのですが、そこが今年度の研修をZoomで開催するので参加したみたのだが、これが意外と面白く、メリットが多いことに気づきました。

 調べてみると賛否両論いろんな意見があるので、それらを取り入れて敢えて放っておいて私見をシンプルにまとめると、こんな感じでしょうか。

○メリット

・講義型の研修や情報伝達に関しては、集合して行うものとあまり変わらない効果が期待できる。

・受講側としては、私的空間で気楽に参加できる、服装・飲食なども自由、眠気覚ましの行動も自由、(今のところ選んでいるのでそういうものはないが)取り組み姿勢も自由。

・質問はチャット機能を利用することで、整理したやりとりが一部可能になる。

・場所と時間を選ばないので、いいものは手軽に、しょうもないものはそれなりの対処ができる。移動コスト(費用・時間)の大幅な削減になる。

○デメリット

・発言はしにくい。雰囲気が伝える部分は大幅にカットされてしまう。この点についてはチャット機能がいい働きをするかもしれないが、意見を共有して練り上げるという相談・検討における雰囲気の役割が期待できない。


 といったところでしょうか。まだまだ、研修を数回受けた程度なので、会議(意見検討)については未知数です。質問に関しては、音声とチャットと試してみたのですが、チャットに軍配です。情報の流れがほぼ一方向になるような従来の集まり、には十分使えるツールだと思いました。いろいろ使えそうだよね。雑感まで。

2020年10月31日土曜日

行動によって伝わるメッセージ

  同じ人から名刺を何度もいただくことがある。私も仕事の中で、一度お会いした方に名刺を出してしまうことがある。理由は様々であるが、ちょっと申し訳ない。大人の知恵ではあるが、自分の記憶が何か発した時には「お会いしたことありましたっけ…?」と言いながら名刺を準備することにしている。相手も「どうでしたっけ…」などと応じてくれたら、「念のため」と名刺交換。人の顔と名前を覚えるのが苦手な私の、緊急事態への対処法です。

 とはいえ、世の中にはいろんな人がいるもので。

 先日、「顔を売るのが仕事なので」と言いながら名刺を出してきた方。私はもう4~5枚名刺をいただいているのですよ~と喉元まで出かかって、「いつもありがとうございます」と大人の対応をしたのですが、その名刺から伝わるその人のメッセージは「いつもお世話になります」じゃなくて「誰にでも私を知ってもらいたい」なんだよね。でも私が受け取るメッセージは「お前とは、そんなに関わってないよね」となってしまう。

 「顔を売るのが仕事」という言葉が、ものすご~く軽く浮いてしまう一件でした。多分、今後困ったことがあった時にも、助けてくれそうな人リストの上位には出てこないんだろうな。残念な件でした。私も気を付けないといけません。

2020年8月30日日曜日

A+B=C

 ある物事の結果は、背景と取り組みによって成り立つ。正確じゃないけど、数式で示すとこんな感じ。

A+B=C背景+取り組み=結果

 物事だから、加算、減算だけでは表しきれないけれども。よく「こうすればよかった」という失敗を悔やむことがある。それは「論理的には」Bに関することだから、Bが変化すればCが変化することになる。論理的には正しい。とはいえ、現実だから「そんなにうまくいかないだろう」ということはある。背景Aと関連のない取り組みBはあり得ないわけで、AとBは必ず関係がある。背景Aがわからなければ、闇雲に取り組みBを打つことになり、これは非効率である。仕事で言えばPDCAサイクルと関係してくるが、背景Aの分析ってすべての基本になる。結果Cを検討するには、背景Aと取り組みBを検討することになるが、順番としてはA→Bである。

 何を言いたいのかというと、「背景Aが変われば、取り組みBと結果Cは変わる」ということ。背景Aの変化が大きければ大きいほど、取り組みBも結果Cの変化も大きい。つまり、Aがひっくり返るほどの変化ならば、BもCもひっくり返るほど変化していい、ということになる。

 よく後輩に、「背景が変われば結果が変わるだろ?」という。支援計画においてはそういうことになる。もう一歩踏み込めば、背景が変われば取り組みだって変わるわけです。これって、結構普遍的なことだよな、って思う。

(加筆)
 この方程式は、不完全ながらいろんなことを示唆してくれる。
・C(結論、目標、ゴール…)を導くためには、B(手法、取り組み…)だけでなく、それが置かれているA(背景)が前提(不可欠)となる。
・Aが変われば、Cは元のままでなくなる。
・Bによって、Cの質が変わる。支援者の腕の見せ所。

ごほうびのありかた

 ごほうびのありかたって考えどころだなぁ、と思う。 それも大人へのごほうびとなると、これはエゴ(欲)と表裏一体のところがあるからなかなか難しい。

 例えば、自分が持っているりんごの数で、りんご畑の手入れの時間が変わるとします。1こ持っている人は1時間、2こ持っている人は2時間、3こ持っている人は3時間、、としましょう。 ちょっと前までは、3こ以上持っている人でも、とりあえず2時間やってくれたらそれでいいですよ、というルールだった。理由としては、1人で4時間、5時間行うよりも、みんなにりんご畑(木)のことを知ってもらいたいという理由もあるからだ、ということ。みんなそれなりに納得して、りんごをたくさん持っている人でも2時間やってみんなから「よし」としてもらったし、1時間やればいい人の中でも「もう少しやっていこう」と畑でアルバイトするようになったりしていました。1こ持っている人と複数持っている人、とで対応が異なっていたわけですね。 これが、「いやいや、2時間やるものしんどいから、みんな1時間でもいいんじゃない?」ということになる。大勢の人は「いいんじゃない」と賛成する。それはそうだ、負担は少ない方がいい。こうなるとそれまで1こ/複数とで少し対応違ったのだけれども、全員が同じ条件で「1時間やればいい」ということになる。こうなるとどういうことが起こりえるだろうか。・「1時間やった者同士」ではあっても、「私はきちんと義務を果たした(1この人)けど、あなた(複数の人)は特例でしょ」という感覚が生じる。・私はたくさん持っているけど、義務を果たしたし経験もあるから、まだ経験のない人に作業の仕方を教えてあげる、という物言いになる。

 作業が楽になるから「りんご畑作業は1時間でいいですよ」案はほぼ必ず可決されるようなものなのだけれども、りんごを持つ人達の中で分断が生じる可能性は高いと思います。 ルール作りにおいて、原則(1こにつき1時間)の作成と、ごほうび(作業免除=例外)の設定って、対象者間の関係に注目すると、慎重になりすぎて然るべきことだと思う。

2020年8月10日月曜日

篠田博之、月刊『創』編集部編『開けられたパンドラの箱 やまゆり園障害者殺傷事件』創出版、2018年。

 ・今思い出しても「気持ち悪い」事件である。2016年7月26日に神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」に植松氏が押し入り、利用者19人殺害、27人を負傷させた事件である。

・初めてこのニュースを聴いた時に、ショックと同時に「気持ち悪さ」を感じたことを覚えている。昨年度、判決が出たことを機にこの「気持ち悪さ」に挑戦してみようと本著を手にとった。

・報道には表れてこなかった本著の記述を読んで感じたこと。1植松氏が語る内容は、「それ自体を切り取れば筋が通る」こと。2植松氏の主張は「社会にとって氏の言う意味でのメリットはある」こと。

・上記を受けて、私は現職を置いておいたとしても、これらの主張には賛同できないし、そもそも立っている前提が異なるので全く論外と考えている。私は生命至上主義をとっているわけではないので「生命は何を差し置いても尊い」とは言いにくい。とはいえ「すべての人がよりよく生きるための選択肢」を大切にしたいと考えている。

・氏の主張は、論理的にも「拡大解釈の余地を残しており、現に生きて生活している人の生きる選択肢を取り上げる可能性がある」ため論として不十分である。たとえ、心失者(下記説明)を社会から排除することで、社会的コストの削減になるとしても、それは金銭財政的な側面しか見えていないため、やはり不十分な論である。

・ 心失者=意思疎通の取れない人間。40、57ほか。与死=社会が一定の基準を満たした人に死を受容させるもの(松村外志張、2005)(『ギフト+-』のモチーフと同じだな)

・質的なこと。あくまで三人称の理屈である。氏は当事者となったわけだが、一人称、二人称の問いには至っていない。不安の中で生きることが人に与える影響が全く考慮されていない。優性思想とは異なるという主張ではあるが、評価しがたい。

・そもそも、根源に立ち返った時に「いのち、存在の価値」って何なのだろう?という疑問が生じている。氏はそれを認めていないのだろうが、ではこう考えている私はどう考えている/いないのだろうか?(136より)

・根本は「わからなさ」と「ためらい」、そして「優柔不断」。やはりどこかで「わからなさ」と「ためらい」というのは、歯がゆいほどの「優柔不断」になる。(中略)時間に追われ始め、時間泥棒が登場して時間に煽られるようになると、やっぱり合理と即決主義、あるいは能率ということが優先される。(156より)

 なにもかもわからなければいけないのか、人と非人を分かつ必要があるのか。それを分かつ必要があるという氏の主張に対して、私の態度は否定であるものの、ではどんな立場からそういう態度になるのか、というと特定の立場は定まっていない。そもそも、人が生きる、ということそのものに対して発するべき問いなのだろうか、立場を定めなければならないのか、という根本的な問いが生じる。併せて、社会的弱者と言われる人たちの中には、危機的状況下において、命を落とすリスクがある。

 人間のことって、わからないことばかりで、理屈で答えが出ていることにも感情や背景が介入して優柔不断になることは自然な反応だろう。古今東西のいろんな人が、そうした人間を様々な形で記述しているのであるが、未だその全てはわからない。わかったことがあるから更なる謎が生じることもある。そういう存在に対して、何もかも「知ったふり」をして、社会の効率を判断基準としてその生殺与奪を判断するという行為は、子どもが「よくわからないけど、食べてみよう」と消しゴムを食べてみる行為とそんなに変わらないような気がする。判断力のある大人がとるべき行動ではないと思う。


■以下引用

11(刑法39条)刑法39条では被告が犯行時、心神耗弱ないし心神喪失であったと判断された場合は、それぞれ罪を減じたり無罪にすることが決められている。

20(犯罪とは)犯罪とは、何らかの意味で社会に対する警告といえる。社会が今どんなふうに病んでいるのか、それを示した犯罪に私たちがどう立ち向かい、どんな対応をするのか。それまでの社会システムをどう改めて、悲惨な犯罪が起こらないように予防していくのか、この事件の投げかけた問題に、果たしてこの社会は答えることができるのだろうか。

57(心失者)自分は心失者とそうでない障害者との線引きはできると思っています。判断の基準は意思疎通できるかどうかです。例えば自分の名前と住所を言えるかどうか、です

84(7項目の提案)1.安楽死 2.大麻 3.カジノ 4.軍隊 5.SEX 6.美容 7.環境

197(共生社会)(松本)(略)理由は何であれ警察が容疑者を「他害のおそれ」の段階で逮捕し、刑務所送りにすれば、彼の危険思想は変わるのか、安全な市民に買われるのかという話なんです。「おそれ」の段階では無期懲役や死刑なんてとても無理です。つまり、いつかは地域に戻ってくるんですよ。(略)私としては、「それが犯罪防止に役立つかどうかはさておき、まずは地域での孤立を防ごうよ」と思うわけです。(略)隔離では何も解決しない。

2020年8月4日火曜日

池井戸潤『ロスジェネの逆襲』ダイヤモンド社、2012年、Kindle版。

・TVドラマ「半沢直樹」の原作。
・痛快である。ドラマ化されたことをきっかけに読み返してみたが、やはり面白い。勧善懲悪と言い切れない半沢のキャラクターと、彼を取り巻く個性的なサラリーマンたちの物語。
・「これがサラリーマン」と思われると、語弊はあるが、エンターテイメントとして読む分には、半沢語録的なものもあって面白い。
・世の中で筋を通すことの困難と、他のものに巻かれることとを、会社組織という枠組みの中で描いている。
・ドラマで有名になった「倍返しだ!」は、小説ではそんなに出てこない。

以下、引用。
1855 結局、世代論なんてのは根拠がないってことさ。上が悪いからと腹を立てたところで、惨めになるのは自分だけだ。
1884 仕事は与えられるもんじゃない。奪い取るもんだ。
2732 すべての働く人は、自分を必要とされる場所にいて、そこで活躍するのが一番幸せなんだ。
3540 人事が怖くてサラリーマンが務まるか。
3776 仕事の質は、人生の質に直結しますから。
4320 いつもフェアなわけじゃないかも知れない。そこにフェアを求めるのは間違ってるかも知れない。だけど、たまには努力が報われる。だから、あきらめちゃいけないんだ。
4405 批判はもう十分だ。お前たちのビジョンを示してほしい。なぜ団塊の世代が間違ったのか、なぜバブル世代がダメなのか。果たしてどんな世の中にすれば、みんなが納得して幸せになれるのか?会社の組織も含め、お前たちはそういう枠組みが作れるはず。
4412 正しいことを正しいといえること。世の中の常識と組織の常識を一致させること。ただ、それだけのことだ。ひたむきで誠実に働いた者がきちんと評価される。

中井紀夫著、ジョージ・ルーカス原案『国境の銃声 ヤング・インディ・ジョーンズ2』文芸春秋、1993年。

・同シリーズ第2巻。
・舞台は1910年代後半のメキシコ。メキシコ革命を背景に、インディの成長を描く。当時のアメリカとメキシコの関係が垣間見える。
・メキシコ革命のことは、それがあった、ということだけ世界史で触れた程度で、その内容や様子は知らないことばかりであった。第二次世界大戦のチェ・ゲバラ等の方が有名である。
・パンチョ・ビリャ(ビシャ)と行動を共にすることなり、革命を叫ぶ戦いに参加する。ただ、ビリャを取り巻く人たちに触れることで、その戦いの意義を考え、「革命にのまれてしまった」革命軍の様子を見て、インディが生き方を選んでいく様子が描かれる。
・おそらく、歴史的、専門的にみたらいろいろ細かいことはあるのだろうが、小説としては大変面白い。『ジャッカルの呪い』で未決だった事件にも決着がつく。

田口俊樹著、ジョージ・ルーカス原案『ジャッカルの呪い ヤング・インディ・ジョーンズ1』文芸春秋、1993年。

・Iyokiyehaが中学生くらいの頃、TVドラマ化されていたシリーズのノベライズ版。インターネット上の古書店を巡って大人買いしてしまった。
・ジョージ・ルーカスが元々歴史教材用として作成したものと言われている。歴史上の出来事・人物と若き日のインディが関わっていく。
・人間の営みや様子がよく描かれている。
・本編はシリーズ序章である。1900年代初頭のイギリスとエジプトの国際関係や、エジプトの神話がうまく取り入れられている。
・子どもの冒険ではあるが、上記のため今読んでも大変面白いものだった。

長尾彰『宇宙兄弟 今いる仲間でうまくいくチームの話』学研プラス、2020年。

・「組織開発ファシリテーター」長尾氏による「チーム論」。リーダーの在り方を、チーム形成のプロセス(タックマンモデル)に重ねて、グループ/チームの学びや、それぞれの段階におけるふるまい方について説明している。
・学者の分析とは異なり、ファシリテーターの視点で、豊富な経験に基づき、さらに『宇宙兄弟』のエピソードを重ねているため、どんな場面で具体的にどうするか、という指針が得られる。
・前著『完璧なリーダーはもういらない』でも「愚者風」と紹介されていたように、リーダーの在り方は一長一短がある。背景が異なれば、結果は異なるもの。チームの段階やリーダーのパーソナリティによって、似たような場面でもできること・すべきこと、は異なるもの、と実体験では感じるところはあったが、本著はそれをリーダーの立場から整理している。
・本著の「チーム」の考え方を取り入れると、1構成員全員がリーダーシップを発揮する、2リーダーシップは組み合わせても機能する、3「やらない」という行動が望ましい場面がある、ということを学べる。

■以下引用
52 ファシリテーションは「0から1を生み出す」「メンバーが自主的に関わり合い、成長していく」チームリーダーにこそ求められる能力
63 チームの成功法則は、所属するメンバーでしか生み出すことができないものであり、僕たちが多くの成功事例から得られるのは「正解」でなく「学び」や「ヒント」です。
104 「タックマンモデル」=チームの発達段階
108 「無敵」とは(中略)「そもそも敵なんて最初からいない」という捉え方
109 第2ステージへと成長するためには、(中略)心理的安全性が生まれていることが前提となります。
124 「心理的安全性」の確保について
195 いくら素晴らしいチームワークを発揮したメンバーでも、ミッションやプロジェクトが変われば、必ずしもうまくいくとは限りません。(中略)なぜならば、チームの「目的(WHY)」が変わるからです。
217 (チームをアクティブにするために)あえて「しないこと」を増やす。

「外国につながる子どもたちの物語」編集委員会編『クラスメイトは外国人 課題編 -私たちが向き合う多文化共生の現実』明石書店、2020年。

・緑本。前の2冊と同じく、同じテーマを扱っており短編集のような構成になっているため、本書1冊だけでも充実した内容になっている。
・当事者や専門家に言わせたら「こんなもんじゃない」と言われるのかもしれないが、バランスのとれた内容であって、かつ解説編では歴史や課題の背景を丁寧に解説している。読んでいて考えさせられることばかりである。
・高校生レベルの世界がわかっていると、背景は読みやすいところもある。ただ、世界史で触れなかった内容が原因となって起こっている課題も少なくない。
・とりあげられている課題は、一つ一つが研究対象になるくらいの人権問題ばかりである。それだけでなく、私を含めた「日常生活の中に確かにある」ことばかりで、随所で物事の見方を考えさせられる。
・「知っているつもり」が色眼鏡になることもある。今の時世に通ずることだけれども「情報の質」が改めて問われる内容であった。知らないこともたくさんあったけれども、それらも冷静に情報として取り込む必要がある。
・ちょっとテーマがずれるのだけれども、上記のように感じたので、冷静な情報を意識して取り入れないと、知らぬ間に自分が偏っていく、死角が増えてくる、と思った。事実は事実として取り入れる姿勢は大人に必要なことだろう。

2020年8月3日月曜日

日本語研究会編『日本人の9割が知らない「ことばの選び方」大全』青春出版社、2017年。

・「かど」と「すみ」の違いは、「角張っているものを、内側から見ると『すみ』、外側から見ると『かど』など。普段「?」と立ち止まるような言葉の謎を解説する。
・底本はいくつかあるようだが、身近な言葉や漢字について、千本ノックばりにこれでもか、これでもかと紹介している。
・ところどころ、説明に「おや?よくわからんぞ」と思わせるようなところもあったが、全体としては「知っていたい」ものを数多くとりあげている。
・辞書をひいてもわかりにくいときに調べたい1冊といえる

「外国につながる子どもたちの物語」編集委員会編『クラスメイトは外国人 入門編 ーはじめて学ぶ多分化共生』明石書店、2013年。

・69ページ、日本語を学んだアンドレが「あの日からオレは変わった。っていうか世界が変わった」というセリフが印象的だった。
・外国にルーツをもつ、外国とつながる子どもたち/大人も含めて、が抱えている生活を垣間見た感じがした。あくまで一面でしかないわけだけれども、それくらい根深い、そしてわからない。わからない、から一歩進むための一冊といえるだろう。
・私の生活は日本にとどまっているので、「言葉がわからない」ことのキツさがわかりにくい。必要な情報を手に入れることができないことへの不満と不安。身近なところで、そういうことに困っている人がいるということに気づかない、という怖さを改めて感じた読書となった。
・本書を読んだからといって、何かが具体的に変わるかといえば、面と向かって接する人のアセスメントに時間がかかるようになったことくらいかもしれない。とはいえ、わからない前提で目の前の人から教えてもらう、目の前の人に語ってもらうことの意味を感じ取れるようになるならば、本書に触れた意味はあるのだろう。
・日本にいる外国ルーツの人達の生活をイメージすることは、その人たちと何らかの形で関わる上で必要なことといえる。
・外国ルーツであることを隠していたというお話が印象的だった。理由はどうあれ、自分のことについて「言えない」環境は果たして健全なのか、という疑問が生じた。

「外国につながる子どもたちの物語」編集委員会『まんがクラスメイトは外国人 ー多分化共生20の物語』明石書店、2009年。

・ちょっと気を配ればどこにでも住んでいる外国にルーツを持つ若者たちについて、教育現場で関わる人達、何らかの活動で関わる機会のある人たちによる、丁寧なヒアリングを基に作成されている読み物。解説マンガ、とでも言えるだろうか。
・海外にルーツのある(主に)少年たちの入国理由は様々である。その親御さんが、日本語をできる/できない、で子どもの生活は大きく変わってくる。
・外国人に対する否定的な態度について、無理解から、拒否的な行動まで幅がある。相手の立場を「でも…」でつなぐと、自分本位の考え方を押し付ける内容になることに気づいた。
・家庭の事情だけでなく、ルーツのある国の歴史も関わってくる。
・言葉がわからないことで、必要な情報が入手できないだけでなく、思考材料がなくなり、無気力が広がるように思う。
・どんな関わりがいいのか、まだまだわからないことが多いものの、少なくとも可能性を減らす・閉じる対応は、現場としては間違っていると思う。

斉藤洋『ルドルフとイッパイアッテナ』講談社、1987年。同『ルドルフとともだちひとりだち』講談社文庫、2016年。

 ブックカバーチャレンジ(FaceBook参照)で先行しましたが、カミさんが娘に買ってあげていたものを借りて読んでみた。
 ネコたちの生活を描く小説。児童文学に分類されているお話だが、「子どもが本当に面白いものは、大人でも面白い」の法則が当てはまる小説だと思う。誰も傷つかない、それでいて擬人化されてはいるけれどもネコたちの感情が生き生きと表現され、物語としての伏線や盛り上がりもきちんと盛り込まれている。読んでいて「次が気になる」内容で、次女の寝かしつけ時に読むのが楽しみになってしまった小説である。お話が進むにつれ、徐々に深まっていく「友情(ネコだけど)」がうまく描かれ、引き込まれる小説だった。『~ともだちひとりだち』は、ちょっと切ないエピソードもあり、ますます読ませる。楽しかった!
 表題の他にも続編あり。映画化もされました。

2020年5月10日日曜日

理解できる、理解しようとする

 一方的な文句を言える人は、相手を理解できていないだけでなく、相手を理解しようとしない、ということなのだろう。
 何かの拍子に自分の発言が認められたと感じると、その方法が「その人にとって」有効な手段としてその人の経験となる。何度も認められれば、その人が主張するときの常套手段となるのだろう。
 例えば、威圧的な大きな声を出す、相手の業務範囲を超えて「もっともらしく聞こえる」主張を繰り返す、「もっともらしく聞こえる」資料作成を要求する、毎日報告を求める、見える実績を強要する。大きな声や威圧的な態度は、人間関係を上下関係に固定して主張を命令化しようとする行為といえる。もっともらしく聞こえる主張や毎日報告、資料作成の依頼は、数値化とか定期報告などの公開を求めることだが、「何のために?」「誰のために?」と問うた時に、どんな答えになるのか興味深い。このあたりの話題は、厚生労働省がハラスメント対策と合わせて「顧客や取引先からの迷惑行為」として情報収集しているところであるが、ガイドラインの作成などを期待したいところである。
 要するに、相手のことを理解しようとしないから、「もっともらしい」主張であっても、その実は自分のための要求にすりかわっていることが散見される。足元を見ないから、海外の事例等を持ち出して、主張の補強をしようとする。打つ手がなくて困っているところに、具体策や有用な情報もなく行動することばかりを求める行為は、無責任で自己中心的な行為といえる。そのことを言葉を代えて伝えようとしても、そもそも相手を理解する気がないから話題が噛み合わなくなり、ますます声が大きくなり、根拠のない自分勝手な主張になっていく。「もっと仕事してください」、具体策のない発言は、もはや主張にはなっておらず、相手にも伝わらず、自分の立場が危うくなっていることにも気づけず、話も聞いてもらえない、伝わらない不全感が募るばかり、それでも(自分勝手な)主張を聞いてほしいから、時間ばかりが過ぎていき、相手の邪魔をしていることになる。他方、言われた方は「自分が悪いことをしている感」が募り、不安と心拍数の増加、過緊張に襲われる。思考の柔軟性は損なわれ、全く生産性のない時間が流れていくことになる。
 一方的な発言、いわばオレオレ発言については、感情を動かさずに(冷静に)、こちらは無責任なことを言わず、言うべきこと、言う必要のないこと、言わない方がいいこと、を区別しながら、説得しようとしない(わかろうとする準備がないので、わかってもらえない)こと、自分の身体反応を把握して度が過ぎればそれを伝えてしまう、周りに支えてもらえるようにきちんと共有しておく(特に職場)、という準備をしておいて、反撃に備える。反撃はシンプルに端的に「一方的に」相手の反撃を許さないように行う、というのが基本的な対策だと思う。厚生労働省のガイドライン、早くできるといいよね。反撃の補強・根拠になると、社会はもう少し生活しやすくなると思う。
 相互理解を求める人が、実は一方的な人だった、ということは珍しくない。相手を理解しようとしない人に相互理解を求められる時に襲ってくる徒労感ほど疲れることはない。相手のバランス感覚が問われることですが、バランス感覚はあるかどうか、とその自覚があるかどうか、の二軸で考えた方がより本質に迫ることができると思います。場と内容等が変わればバランスがとれるのか、あるいはそもそもバランスをとろうとする自覚があるのかないのか。「話せば分かる」ことばかりではない、ということを肝に銘じておかないといけません。バランス感覚そのものが「ない」場合には、自衛すべきですね。
 自分の頭の整理のための投稿ですが、ひょっとして今こういうことに悩んでいる人がいたら、その改善のヒントになれば幸です。私の場合は、様々な「貴重なご意見」(カッコ付き、ね)へ対応するための整理ですけどね。

2020年4月24日金曜日

リンクのリスト

○静岡大学
 https://www.shizuoka.ac.jp/
 母校です。

○特定非営利活動法人 富士の国・学校ビオトープ
 https://www4.hp-ez.com/hp/fuji-biotope/page1
 在学中にお手伝いさせてもらったNPOです。今は誰が、どこで、何をしているのか…ちょっと見えないですが。

○特定非営利活動法人 浜松NPOネットワークセンター
 https://www.n-pocket.jp/
 私の原点と言われたらここになるかな。今でも地元静岡県浜松市で活躍しています。

○独立行政法人 高齢・障害・求職者雇用支援機構
 http://www.jeed.or.jp/
 キャリアと言われたら、もうしばらくはここの障害者雇用支援です。11年勤務しました。
 障害者雇用に関する資料はここ
 障害者職業カウンセラーの仕事はこれ

https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/
 そして、今の職場です。
 組織マニフェスト
 計画・施策
 統計情報
 財政
 地味にこんなところにいます。

2020年4月14日火曜日

山崎聡一郎『こども六法』弘文堂、2019年。

・2019年のベストセラー。2020年4月においても、書店では人気ランキングに入っている。六法(本書では、日本国憲法、刑法、刑事訴訟法、少年法、民法、民事訴訟法+いじめ防止対策推進法)の条文の意味を、平易な言葉で紹介する。
・著者の経験を基に、「法律はみんなを守るためにある」(オビ)という立場で各条文を紹介している。意味を取り上げて平易な表現にすると、法律はこんなに読みやすいのだとわかる。おそらく、条文になれた人にとっては、私と同じくらいの労力で生の条文を読み解けるのだろうが、六法に触れる機会のない私にとっては、大変参考になる一冊であった。
・法律では、いわゆる「普通」に生活するためのルールが定められている。しかしながら、普段それを意識しないために、知らぬまにルールを破ってしまっているような時もある。また、ルール違反を目の当たりにすることもある。知ると知らないのと、それを理解しているかしていないかによって、自分の行動が変わってくるということがある。
・他の法律でも取り組んでほしいものであるし、本書で紹介されている六法についても、必要に応じて生の条文に当たらなければいけないことが出てくるかもしれない。そんなときのガイドになる一冊といえる。複数の法律を並べて理解しやすいというのも、本書の特徴といえる。

■引用
195 いじめ問題も含め、そういった問題を深刻化させるのはしばしば大人たちの「見て見ぬふり」なのです。

2020年4月4日土曜日

宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち』新潮社、2019年。

・医療少年院の勤務歴のある著者が、問題行動と言われる反社会的行動の背景には認知機能の低下があると仮定し、その改善・行動抑制のための訓練として「コグトレ」を提案する新書。
・「反省以前の子ども」がいることと、その背景・内容を、知的障害者の特性と重ねて整理する。そしてCBT(認知行動療法)の限界を指摘し、認知トレーニングの有用性を提案する。
・(少年)刑務所の実態には驚くばかり。仕事上、そういう対象者と接することはある。しかしながら、受刑者のエピソードはどれも、人間の持っているエゴや感情の延長線上にあるもののようにも読み取れる。本書でそのことを確認できた。
・知的障害者の世界の見え方、表現・行動の特徴を、認知機能や身体機能の低さから説明する。今まで「知的障害者は、理解するのが遅いんです」などと表現してきたが、そこに厚みを与える貴重な事例が数多く紹介されている。
・ひょっとしたら、学問的には非行少年と知的障害の特徴を重ねることには、因果関係の逆接があるのかもしれない。しかしながら、今まで現場の実感として漠然と感じていたことに、一つの仮説が示されたことは、現場職員の大きな支えになると思う。
・本書の特徴は、上記事例紹介に加え、改善提案として著者がとりまとめている「コグトレ」を改善提案として、その効果や可能性を紹介しているところにある。現場にいる人間にとって貴重な手がかりといえる。

以下引用
6(病院の限界)病院は世間では最後の砦のように思われていますが、実は発達障害や知的障害をもち様々な問題行動を繰り返す少年に対しては、結局は投薬治療といった対症療法しかなく、根本的に治すことは困難なのです。
9(テーマ)彼ら(矯正施設にいる少年)にどんな特徴があるのか、どうすれば更正させることができるのか、そして同じような非行少年を作らないためにどうしていけばいいのか。少年院勤務で得た知見を踏まえ、本書で私の提案を述べていきたいと思います。
19(Rey複雑図形模写)”世の中のこと全てが歪んで見えている可能性がある”(中略)見る力がこれだけ弱いとおそらく聞く力もかなり弱くて、我々大人の言うことが殆ど聞き取れないか、聞き取れても歪んで聞こえている可能性があるのです。
22(実態)更生のためには、自分のやった非行としっかりと向き合うこと、被害者のことも考えて内省すること、自己洞察などが必要ですが、そもそもその力がないのです。つまり、「反省以前の問題」なのです。
39(反省できない。Q 自分はどんな人間?A「やさしい」)少年院に来てみてどう感じているかと尋ねてみても、ニコニコして、「まあまあ」「楽しい」と答え、そもそも自分が置かれている立場が理解できていないのです。(中略)40彼らは感情を表す言葉として「イライラ」しか知らないのでした。(中略)(非行少年の内)約8割の少年が「自分はやさしい人間だ」と答えたことでした。どんなにひどい犯罪を行った少年たちでも同様でした。
43(トレーニングの目的)”人を殺したい気持ち”を消し去ることは、そう簡単ではないと感じます。(中略)44そういった気持ちにブレーキをかけるトレーニング
47(非行少年の特徴5+1)
・認知機能の弱さ 見たり聞いたり想像する力が弱い
・感情統制の弱さ 感情をコントロールするのが苦手。すぐにキレる
・融通の利かなさ 何でも思いつきでやってしまう。予想外のことに弱い
・不適切な自己評価 自分の問題点が分からない。自信があり過ぎる、なさ過ぎる
・対人スキルの乏しさ 人とのコミュニケーションが苦手
+1身体的不器用さ 力加減ができない、身体の使い方が不器用
98(気付かれない子どもの障害)
1次障害:障害自体によるもの
2次障害:周囲から障害を理解されず、学校などで適切な支援が受けられなかったことによるもの
3次障害:非行化して矯正施設に入ってもさらに理解されず、厳しい指導を受け一層悪化する
4次障害:社会に出てからもさらに理解されず、偏見もあり、仕事が続かず再非行に繋がる
110(「軽度」が生み出す誤解と虐待)違いが出るのは、何か困ったことが生じた場合なのです。(中略)柔軟に対応するということが苦手なのです。111軽度であれば健常人と見分けがつきにくく、当然放っておかれることが増えます。軽度といった言葉から支援もあまり必要でないと誤解され、また本人も普通を装い、支援を拒否したりするため、支援を受ける機会を逃してしまいます。113もし虐待してしまう親に知的ハンディがあったならば、虐待を防止するためには、親子再統合に向けた心理・社会的支援に加え、親の生物学的視点、つまり能力面にも焦点を当てた支援が必要になってくるのではないでしょうか。
114(保護すべき人は?)障害者は傷つきやすい存在です。成功体験が少ないため自信ももちにくいのです。
139(CBTの限界)認知行動療法は、考え方を変えることによって不適切な行動を適切な行動に変えていく方法ですが、“考え方”を変える以上、ある程度の「考える力」があることが当然の前提になっています。そこには聞く力、言語を理解する力、見る力、想像する力、判断する力が必要なのです。これらの力がまさに認知機能と呼ばれるものです。逆に言えば、対象者の認知機能に何かしらの問題があれば、トレーニングを受けていても何をやっているのか理解できない、判断できない、といった状況が生じてしまい、その効果はわからなくなってくるのです。
149(「自己への気づき」「自己評価の向上」)行動変容には、まず悪いことをしてしまう現実の自分に気づくこと、そして自己洞察や葛藤をもつことが必要です。適切な自己評価ができるからこそ“悪いことをする自分”に気づき、“また悪いことをやってしまった。もっといい人になりたい”などといった自己洞察・自己内省が行えるのです。そして、理想と現実の間で揺れ動きながらも、自分の中に「正しい規範」を作り、それを参照しながら“今度から頑張ろう”と努力し、理想の自分に近づいていくのです。152自分が変わるための動機づけには、自分に注意を向け、見つめ直すことが必要です。(中略)少年たちが変わろうと思ったきっかけに共通しているのも、これまで社会で失敗し続けて自信をなくしてきた彼らが、集団生活の様々な人との関係性の中で、“自己への気づきがあること”そして様々な体験や教育を受ける中で、“自己評価が向上すること”の二つなのです。
160(コグトレ)ワーキングメモリを含む認知機能向上への支援として有効な、「コグトレ(認知機能強化トレーニング)」

2020年3月29日日曜日

森岡正博『生命学に何ができるか 脳死・フェミニズム・優性思想』勁草書房、2001年。

・修士論文で主要文献として読み抜いた一冊。生き方を問う学問(知のあり方)を提唱する著者の論に傾倒し、大学院生の頃はずっと読んでいた一冊。精読は3回目になり、17年ぶりだったようだ。
・白黒はっきりさせることが望ましくないと考えられることに対して、政治的な判断や決め打ちを避けて判断保留を選ぶことや、他の選択肢を探る姿勢、結果がどんな背景から生じるのかを見据える態度など、私が今大切にしている「あり方」みたいなことの根がこの書籍にあるといっても過言ではないと思う。そういう意味では、私の分岐点になる一冊といえる。(ふりかえってみて、であるが)
・脳死、女性活動、障害者地域生活活動、優性思想などの論点について、その歴史記述と活動の争点を丁寧に追う展開に、並々ならぬ迫力を感じつつ、その丁寧な仕事から著者が提唱する「生命学」の輪郭が確かに見えてくる論文である。
・学生時代に読んだ時は、ただただこの迫力に圧倒されていて、どこに論理の破れがあるのか、どこが「アウトライン」止まりなのか、と思ったものである。今、私が自分の経験を重ねながら読み返したところでは、確かに「生き方を問う上で必要な視点である」ことは変わらないのだが、「それを受け取れない、発せない人が、確かに存在し生活している事実」に対してどうするのか、そして「そういう人が社会の大きなうねりを作り出してしまっていることに対し、どうするか」ということについては、確かにこの時点ではわからない論点といえる。高度に知的な営みができる人たちのための知のあり方、になってしまっては、やはり人間を分類することになりかねない。
・といったことについては、今後の著者の論稿にヒントがあることを期待しつつ、私にしても経験を言葉にすることで寄与していきたいと考えている。

■以下引用
14(人間の真実とは)どちらかのリアリティが正しいわけではなく、そのようなお互いに矛盾するいくつかのリアリティを同時にまとめて生きなければならないのが人間の生命なのだ。頭で分かっても身体・感情が分からないという事態そのものを、人間の真実としてとらえてゆくような視点が必要なのだ。
54(脳死問題の本質)脳死問題の本質は、脳死になった人と、それを取り巻く人との「出会い」の問題であると私は考えた。脳死とは「人と人との関わり方」であり、問うべきは「場としての脳死」である。(中略)脳死は「関係性」の面から議論されなければならない。
81~(他者の到来 現前・不在)ないはずのものが現れているとか、あるはずのものが現れていないという出来事がわれわれを襲うからこそ、われわれは、世界に働きかけ、他人に働きかけ、自分を変容させながら、それらの意味を探ろうとするし、それらの謎を追求しようとするのだ。(中略)この世界を意味あるもの、豊かなものにしているのは、われわれの前に絶えず到来する「現前」や「不在」たちである。生命ある私が、他の人々や、生き物や、自然物たちとかかわりをもちながら、時間の流れのなかで歴史性を蓄積し、生きて死んでゆくときに、世界が私の前に見せる相、それが「現前」と「不在」である。(=他者)
111(パーソン論とは)パーソン論とは、<ひと>でない人間の生命に対して差別的な取り扱いをしている多くの<ひと>たちの日々の行為を、そのまま追認し、正当化してくれるイデオロギーなのである。その行為を変えなくてもよいと保証してくれる点において、それは保守主義の思想である。
136(ウーマンリブとは)女性たちが、国家や男性からの束縛を解き放ち、自分自身の人生のために、女であることを自己肯定して生きはじめる、その生き方のことである。
170(ウーマンリブの思想的地平)リブは常にふたつの本音から出発すると田中は言う。中絶に関して言えば、女の身体は女のものという本音と、私は胎児の殺人者だという本音の、その間でとり乱す地点から出発することこそ、リブが切り開いた思想的地平である。
196(田中美津論「とり乱しー出会い」論)田中のリブとは、女としていまこの時代に生きる自分の中にある「矛盾」や「みっともなさ」を「直視」して、そういう自分自身のあり方に「とりみだしつつ、とりみだしつつ」、「こんな私にした敵に迫っていく」という生き方なのである。ー217われわれは自分の内面を直視し、みずからとり乱すときにはじめて、そのとり乱しを通路として真に他人と出会ってゆけるからである。そういう「出会い」をつなげてゆくことで、この生きにくい社会の中で、女と男、抑圧者と非抑圧者がお互いを分かり合い、社会を変えてゆく道筋をつけることができる。(中略)218矛盾する二つの自己の間で揺れ動き、おろおろし、とり乱す、その事態のただ中にその人間の真の姿が立ち現れるのである。ー240出会うとは、みずからを真の意味で振り返り、とり乱しを回避せずにみずからを変容させてゆくことなのだ。
242(生命思想への問いかけ)「即時的な問い」への「一般的な解」を導こうとする知の営みを行いながらも、それによって隠蔽されがちな、「その問いに向かっている『この私』はいったい何者なのか」という問題に絶えず自覚的であり続けること。私はどのような歴史性と必然性と権力性を背景にして、その問いに向かおうとしているのかに、絶えず自覚的であり続けること。そして、その問いに決着をつけることが自分の人生にとって必然的であるのならば、「一般的な解」の模索よりも、自分の実人生における問いの明確化とそれへの決着のほうを優先させること。たとえ「一般的な解」には到達しなくても、自分の人生において何かの決着を付けることができれば、その決着によって新たに変容した自分の存在は、いままでとは違った種類のさざ波を人間関係の網の目に送り届けはじめるに違いない。そして、どこかで他人が同じような問題に直面したときに、そのさざ波が知らぬ間に伝わって、その人間を間接的にサポートする可能性が生まれてくる。このような出来事もまた、生命倫理の問題に対するひとつの「解」のあり方であると私は思う。245「悪からの遡及法」
281(人工中絶から見る男たちの生命倫理)「男の不感症」という地点から「無責任なセックス」を経て、「女性への中絶の強要」へと結びついていくような、一本の細い線が存在する。そして、その線を伝って「暴力」が連鎖してゆき、その先端で、もっとも力の弱い胎児が犠牲になるという構図がある。(中略)「男たちの生命倫理」は、生命学へと直結している。
377(二分できない命題に対し、「可能性」という方向性を示す)選択的中絶を行わない可能性を含ませたうえでの、障害児出産を事実上の理由とした禁欲、避妊、不妊手術は、いま生きている障害者への視線と無意識の態度という点に最大の自覚的注意を払うかぎりにおいて、倫理的に許容され得る態度である可能性がある。
383(第四の優性学に対して)第四期の優生学は、親が自分の好みに応じて、生まれてくる子どもの肉体的あるいは精神的な性質を人工的に変えたり、能力を増進させたりすることをめざす。親が操作するのは、自分自身ではなく生まれてくる子どもという他人の身体である。(中絶と異なり、子どもを殺すわけではない点が第三期との差)384(親のエゴ)そこにあるのは、子どもの幸せを願う親の気持ちではなく、子どもの将来を自分のプランどおりにコントロールしようとする親の「欲望」「エゴイズム」だからである。
396(不道徳な生命学)生命学は、かならずしも道徳的な思想と生き方のみを導かない。生命倫理への生命学的アプローチは、生命倫理学の一般的な主張からは遠くかけ離れたところまで逸脱する可能性を秘めている。(中略)不道徳な生命学とは、みずからの差別意識や悪に漫然と開き直っているだけの人間の姿と対比させたときに、その対極に位置する生き方である
400(まとめ 生命学とは)生命学とは、生命世界を現代文明との関わりにおいて探り、みずからの生き方を模索する知の運動のこと(中略)(1)現代文明に組み込まれた生命世界の仕組みを、自分なりの見方で把握し、表現してゆく知の運動であるとと同時に、(2)私が、限りあるかけがえのないこの人生を、悔いなく生き切るための知の運動である。
421(まとめ 生命学の方法論)私の「生き方」としての生命学ー423生命学の課題は、「主観的な思い込み」や「独断」をいかに排するかということである。ー425自然科学の特徴である「客観性」と「実証」は、生命学においては「豊かさへの寄与」と「人生における検証」によって果たされているとも言えるー426生命学の具体的作業は、(1)自己の問いなおし、(2)自分の人生における実験と検証、(3)他者との出会い、(4)生命世界の自分なりの解明と表現、(5)得られた知見についてのコミュニケーション、(6)社会変革への参画、(7)先行者の表現物の学習、などによって構成される。

83(生命学の知の方法)他者と出会うとは、他者を理解しようとすることではなく、他者の他者性と出会ってゆらぐことである。そして、そのゆらぎをきっかけにしてみずからを問いなおし、みずからを変容させ、今までとは異なった生へとみずから生きなおしてゆくことであり、新たな生を通してそのゆらぎを人々に伝えていくことである。他者と出会うとは、謎を理解しようとする試みによって見えなくなっていくものが存在するということにつねに敏感になることでもある。このような「謎のなかに到来する他者」を大切に思い、そのような出来事を尊重していこうとする気持ちの中で汲み上げられ、人々のあいだに網の目のように伝わっていくゆらぎのさざ波、それこそが「いのち」なのではないのだろうか。われわれに知があるかぎり、われわれは謎を理解しようと試みるだろう。謎を理解しようとするプロセスの中で消え失せていくもの、押し潰されていくものに対して敏感になり、謎を理解しつつもそれとは別次元で揺さぶられ続ける主体を私の中に維持すること。そして、私のなかの揺さぶられる主体が、私のなかにある秩序化する主体に、その揺さぶりを絶えず伝染させていくこと。これが、他者と出会いながら、謎に立ち向かう生命学の知の方法なのである。ー128(他者論的リアリティを通じて)揺らいでいる私の実態をありのままに見つめ、私が揺らぐとはどういうことか、なぜ私は揺らいでいるのか、私は自分の揺らぎとどうやって対決してゆけばいいのか、揺らいでいる私が世界を見たときに世界はどういう相貌をもって立ち現れるかを、自分の頭とことばで解明する作業を、われわれは開始しなければならない。それが生命学の知の方法である。ー248(田中美津 実践)「悪ではないもの」の内容を記述して「そのように行動せよ!」と指令する倫理学ではなく、「悪」を背負った者同士が、みずからの存在を自己肯定しつつ、どのようにして「悪ではないもの」をめざして歩んでいけるのかを、とり乱しと出会いのプロセスのなかで学び合い、伝達し合ってゆく営み。「闇」を隔てたそのような伝達ひとつひとつが、「生命学」の実践ー391
(内なる優性思想に対する生命学とは)生命学とは、法や規範によってみずからの行為を制限され、コントロールされた人間が、その一見不自由な境遇の中から、以前は想像すらできなかったような新たな生と死の可能性をみずからの内側から開いてゆくための知の方法(中略)われわれがみずからの「悪」に開き直らないようにするにはどうすればよいのかを、全力で考えようとする。そのときに、正論の倫理学に対抗して個々人の内側から具体的に立ち現れてくる思想や生き方が「生命学」なのだ。生命学は、個々人の人生においてのみ実現され得る。(中略)生命学とは、私に呼びかける声であり、その声に応じて私が模索をはじめるときに私の内部から立ち上がってくる何物かである。

あるもので考える

 組織人としての春先は、人事の季節。Iyokiyehaにとっても例外ではなく、前の職場でも今の職場でも人事異動は4月1日付発令なので、この年度末はただでさえ忙しいところに、職場環境の変化が加わることになる。
 不思議なもので、組織人は殊の外「人事」というものに興味があるようで、内示日なんかは異動表なんかとにらめっこしながら各々の分析を口にする、ということが周辺で見聞きされる。
 私の場合は、自分が異動に巻き込まれる機会が多かったこと、内示表を見るのが面倒くさいこと、必要な人からは連絡があったり直接聞く機会があること、など理由をつければいくらでもあるが、率直に言えば面倒なので人事異動にはあまり執着していない。自分の周りに誰がくるのかな、仲のいい友人がどこへ行くのかな、くらいしか気にしない。とはいえ、以前同期が明らかな出世コースにのったな、と思った時には人並みに嫉妬(?)っぽい感情が2、3日続いたこともある。まことに不思議なものである。
 いろんなことを踏まえた現在の到達点は、人事を「決める人」と「決められる人」とでは、考えていることが違うということ。もう一つ、考える頭を使うべきは、決まった後どうするか、ということである。

 人事担当者が考えることは「組織の維持・発展」だろう。その背景を持ち、組織をつぶさない、よくするために配置を考える。一方で、人事異動の対象となる者が考えることは「自分のキャリア」くらいであり、個人的に「組織の発展」を考えている人は希少も希少であると思われる。Iyokiyehaは後者を視野に入れたいが、残念ながらまだまだ前者である。
 ある人が、例えば「〇〇と□□にはルートがある(よく異動者が出る)」とか「調書に△△って書いたら希望が通った」という分析っぽいことを口にするが、そこに根拠があるかといえばそんなことはなく「たまたま」と考えるのが妥当だろう。会社組織において、妥当な判断には必ず背景による裏打ちがあるべきで、その背景が異なるにも関わらず結論(と希望)が一致するということは、それは偶然と読み解くのが自然といえる。万が一、その結論に利害の一致があったとしても(例えば、その人に特殊な技能がある、担当者にとって恣意的なもの)同一結論を生み出す背景は異なるものである、と読み解くのがより事実に近いだろう。だって、立場が違えば背景が異なるのは当然だから。
 そう考えているから、今ではどんな人事だって「はい、わかりました」と従うしかない、と思える。もちろん、自分のキャリアから希望は伝えるべきだし、組織的状況から言うべきことは伝えるべきである。ただ、そこまでだろう。伝えられることを考慮して人事の作業を行うのは担当者とその責任者であり、決まったことに対して意義申立てを行うのは、言うまでは権利かもしれないが、それを覆すことを画策するのは越権行為である。
 もちろん、越権行為は組織人としては反則行為でとても信頼されるべき行為ではないわけです。自覚なく上からそれをする人が「老害」と呼ばれる一因となるし、下から突き上げる人は「出る杭」として認識されてしまうわけです。その通りだよね。もし自分の意の通りに身を置きたいのならば、起業して自分がすべて決める立場になるか、人事担当者になるかいずれかだろう。後者はその立場で自らのキャリアを操ろうとしたらそれはそれで越権行為だという落とし穴があるわけだが。

 ということでIyokiyehaは、人事とは一組織人としては「どうにもならないこと」という結論に達しています。なので、自分が影響しないことにはあまり興味がない。頭を使うのも、自分をどこに置かせるかとか、増員やいい人事を求める、というよりは、決まった体制でこの先どうするか、ということに注力したいわけです。
 今年度はそれを邪魔する様々な出来事があったので、ここらで自分の立場を整理しておきました。いろんな意見があると思うけど、自分のエゴをつぶして考えた時には、割と本質に近づいていると思うんだけどね。

2020年3月28日土曜日

Audiobook聴取記録(200310~200328)

・桝野敏明『禅が教えてくれる美しい人を「所作」の基本』幻冬舎。
【所作】(しょさ)1.(仏)身・口・意の三業を能作というのに対して、その発動した結果の動作・行為をいう。2.仕事、生業。3.しわざ。ふるまい。身のこなし。(以下略)
「丁寧に動く」「相手(物)を思いやる」ことで美しい動作(所作3)になる。一日をふりかえり「ああよかった」と思うこと、「日々是好日」。朝「何かいいことがあるかな」と準備する。
目は半開きで微笑みをたたえる。仏像の顔はアルカイックスマイルと呼ばれる。微笑。和の文化には所作が詰まっている。言葉遣いや暦など。相手、物、そして自分を大切にする言動には、美しさがにじみ出てくる。「所作」とは動作だけでなく、心構えも語られる。「強い人」にあこがれてきたが、折れない、負けない(強い、勝ちにいく、とは異なる)生き方を「所作」から考えるきっかけになる。

・森田愛子『呼吸整体師が教える 深呼吸のまほう ー体の不調が消える、人生が変わる』ワニブックス。
普段意識しない「呼吸」について、身体への影響や、その効果的な方法について解説している。「鼻から吸って、口から吐く」ことと呼吸する「姿勢」によって、身体を整えていくことについて解説する。人を整えていく、という発想は、以前読んだ(紹介した)システマや、武道の呼吸に通じることを感じた。

深沢七郎「楢山節考」『楢山節考』新潮社、1964年、37~108ページ。

・辰平のとまどいとおりんの覚悟。掟をやぶってまで引き換えした辰平を追い払うおりん、そして無言で去っていく辰平の思い。小説の体裁で淡々と描かれているこの部分から、ものすごい迫力を感じた。
・何がこの迫力になっているのか、冷静に読み返してもよくわからないのだが、感情を直接揺さぶられる描写であった。
・地方の伝承や口伝の歌などを引用しているものと思われる。虚構と現実とを行き来させられるような小説だった。
・残念ながら、収録された他の短編はそれほどの迫力ではなかった。「月のアペニン山」は統合失調症患者の生活なのだろうと察するが、「東京のプリンスたち」は昭和の高校生の生活を描いている。それほど胸に迫るものではなかった。

松下啓一『図解 地方自治はやわかり』学陽書房、2010年。

・職場で参加した研修で、最優秀賞をいただく機会に恵まれ、そのご褒美としていただいた書籍。
・率直に、少し古い書籍なので制度面で古い記述はある。
・上記は参考に留めるとして、地方自治における基礎からトピックまで70のテーマを、各見開き2ページで説明している。様々な自治体資料を用いて、図表が充実しており、制度を説明する時の参考にもなる。
・著者の記述とは関係ないが、資料について。引用に行政資料が多いことから、改めて行政資料が一般読者向けにはなっていないと思う。正確な記述は重要なのだけれども、行政資料って対行政向けのもが多いなと感じることがある。おそらく企画段階の「正確な」イメージ図がそのまま説明資料として使われることによって起こる現象かと思われる。
・首長、議会、公務員の関係については、身近なことでありながら、その本質に触れることが少ないので、地方分権の流れのトピックと併せて知ることができる。
・こういう内容って、業務遂行そのものに大きな影響はないのだけれども、時折訪れる「頭に汗をかく作業」をするときには、前例に必要以上に引かれず「理性で判断」するための原点や錨のような役割になるのだと思う。課職員である前に地方公務員であり、地方公務員であるまえに一市民、一国民である、ということを改めて意識させられる一冊であった。
・地方自治法を読み解く入門書になりうる内容だと思う。

2020年3月8日日曜日

森岡正博編著『現代文明は生命をどう変えるか』法藏館、1999年。

・1999年時点に、社会問題として取り上げられていた諸問題について、様々な立場の人との対談により著者の論を裏付けていく。1997年にNHKで放送された(とされる)「NHK未来潮流『生老病死の現在』の「核心的な部分」を編集した対談集である。
・テーマは、優生思想、障害と自己変容、不登校、終末期医療、老い、アポトーシス、脳死と、当時(現在にも通ずる)社会問題となっていた「いのち」の問題を取り上げている。現在(2020年)においては、多少の「語られた感」はあるものの、これらの対談によって浮き彫りにされた森岡氏の主張、すなわち「いま起きている様々な問題を、大きな文明のうねりが巻き起こすひとつながりの出来事としてとらえてみる」ことにより「現代文明が、われわれの生命をどこへ連れていこうとしているのかを、一気に見通す」立場に古臭さは一つも感じない。むしろ、現在においても、テーマの広がりこそあれど、対談から読みとれる「『苦しみ』や『つらさ』をあらかじめ巧妙に回避し、かすかな不安に満ちた安定と守りの人生をただ反復しようとする世界」「どことなくどんよりとした暗雲垂れ込める世界」は、今、その真っ只中にいることをも感じさせなくする、自分もすでに麻痺しているかもしれないという不安ばかりである。
・しかしながら、本書で取り上げるのは暗い未来予想図だけではない。その中にあって、一抹の希望をもち、暗闇の中でももがきながら、埋もれながらも光を見出だそうとしている人の闘いもまた垣間見える対談である。そうした人たちの生き様に触れるのも、著者のテーマだった「生命学」の営みなのだろうと、改めて感じさせられる。現代文明分析と勇気の一冊といえるだろう。

■以下引用
〇柴谷篤弘(生物学、環境論、サベツ論など)
「洗脳としての科学文明」
ⅱ(概要)優生思想をどう考えるかという問題からはじまって、現代科学が袋小路に陥っていること、そして洗脳社会のなかでどうすれば
「戦い」を貫けるのか
6(目隠し)社会全体から見て危ないものというよりも、社会を管理することに関わっている人から見て危ないと思われるものは、あたかもないかのごとく、除けておいて見せない。不要な情報をたくさん流すことによって、本当に意味あるものを隠してしまうということもあり得る。
13(科学的解決の落とし穴)技術的な解決は、われわれが本来自分自身の問題として考えなければいけない重大問題から、目をそらせる役割を果たす場合があるということです。
22(学び合いの可能性)今のような社会と、もう一つ、さっき言った学び会うような社会の両方を比べたら、それをすることによって、われわれは何を失っているのか、ということが見えてくるはずなんだけれども、そういう選択がなかったら何を失っているかも見えないわけ。繰り返しになるけど、学びあうというのが一つの可能性なんです。
28(ニーズと欲望)患者のニーズをつくらせておいて、うまく誘い込んで、じつは本当のニーズは医者のほうにあるのかもしれない、そういう疑いが強くあります。
30(言い訳と隠蔽)その調査結果を見てふと思うのは、本人が不幸になるというのは一つの言い訳なんじゃないか、と。本当は自分たちが不幸になるからなんだと、それを言えないんです。
48(本音)本音が出てきたときに固い岩盤にぶち当たったと思わないようにしていくのは、新しい可能性かもしれないですよ。本音を疑い続けながら、自らを変えようとしていくところにかすかな希望の光を見たい。

〇玉井英理子(生命倫理学、臨床心理学)
「生命選択の技術と倫理」
ⅱ(概要)人生において、自分のプランが狂ったときに、それでも人はそこから自己変容して立ち上がっていくということ、そしてそこに生命のよろこびがあるということ
51(テーマ)「生命の質」を選択していくテクノロジーがどんどん展開しています。(中略)そういう技術が進んでいるというのを聞いたときに、多くの人たちはどこか変だと思いはじめている。私も、どこかおかしいぞ、と思うんですが、じゃあどこがおかしいんだ、どこが引っかかるんだと改めて問われてみると、うまく答えられない。
52(現代の記載)むしろ社会全体を見たときは、何が問題なのか気づくきっかけをうばわれていますから、どちらかというとあっけらかんと、それはいいことなんじゃないの、どうしてそれがいけないのっていう感覚のほうが一般的で、障害を持った子どもの存在を可能なかぎり回避するための技術を使うことに対して、ブレーキをかける要因が少ないような感じがして、そちらのほうが怖いと思います。
53(何かポッと:上記を受けて)何か無自覚にポッと乗っている。
54(規格外)規格外になると捨てられていくような社会システムのなかで、われわれは日常的に過ごしているわけです。
56(よく知る、とは)積極的にアクションを起こして、何かを知ったり、明らかにしたりすることが、自分に対する知恵として跳ね返ってくるようなシステムのなかで慣らされてきてしまった感覚ですよね。
だから、今問われていることは、より多く知ることが、本当により良く生きることにつながるのかどうか、ということだと思うんです。
(中略)知りたい欲求にブレーキをかけて知らないままでいるという状態に、みんな耐えられなくなって全体的にすごく耐性が低くなっていると思います。
64(価値観が変わる)否応なく価値観が変わっていくプロセスのようなものを、多くの障害児の親たちはやっぱり経験していると思うんですよ。
68(全体として肯定)およそ子どもというのは、親の期待を一つひとつ丁寧に裏切りながら大きくなっていくようなところがあるじゃないですか。(中略)何か似たような大変さを経験することがあると思うけれども、そのなかでじたばたしたりうろたえたり、でもそのことをきっかけにしていろんなことを考えたりしながら、全体としては肯定していく。すべてを否定する気になれないという感じかもしれない。
71(存在否定)私にとって羊水検査を受けることがどういう意味を持っていたかというと、それは「あなたのような子どもは私の子どもとしてもうこれ以上、生まれてきてほしくない。だから検査を受けるのよ」と、目の前にいるダウン症の息子に対して言っているのに等しい意味を持っていたんです。
76(技術の進歩と社会)つまりわれわれにものを決断させないというか、「悩まなくていいよ」とか「重いものを抱えなくていいよ」というふうに進むのが、文明の進歩であり科学の進歩であると思われているんですよ。
78(選択-管理社会へ)私たちは個人としていったい何を得て、その一方で何を捨てることになるんでしょうか。(中略)今の社会のなかでより多く知るということがもたらす利益の一つは、自分を管理し、子供を管理し、社会全体がみんなを管理していくような管理社会をつくっていくことだと思います。

〇大越俊夫(アメリカ文学、「リバースアカデミー師友塾」塾長、ほか)
「不登校と命の活性化をめぐって」
ⅲ(概要)子どもたちを元気にさせることである。彼はそれを、「いのちに火をつける」と表現する。(中略)不登校の生徒がこれからどんどん増えて、半分がそうなればいい、そうしたら日本も変わる
88(拒絶の意味)「子供が登校拒否して、学校を中退したら、赤飯を炊いて祝いましょう」(中略)拒絶する能力、拒絶した勇気を祝うんです。(中略)拒絶できるのも一つの才能です。(中略)「中退も立派な人生行路の一つである」
89(命が薄い)以下要約:もうくたくた。家から出られない。電車に乗れない。親子喧嘩さえできない。表情がない。目の輝きがない。口から言葉を発しない。専門的には「失感情症」。命から出る電波「命波」がとぎれとぎれになり弱り切っている。
92(人間性)以下要約:人間の持っている残虐性は低い。動植物にはすこぶる優しい。他人に対しても親切。利他の精神に生まれながらに富んでいるといえる。競争を嫌がる。共生とか支え合いの精神が発達している。(以上、不登校の子どもの特徴)
96(つくられた自分になっていく)自我が育たないから、命や心の芯というものが薄くなっていくんです。
105(あたらしい命をそのまま育てる。新しい芽、可能性)大越さんの発想は学校というシステムから落ちこぼれたり、逸脱してきた子供たちを元に戻すということではない。(改行)そのまま育てる。逸脱してきたことを手掛かりにして、新しい命をつくっていく(中略)解体しつつあるということは単にバラバラに無意味化していくことなのではなくて、今までの価値観から見るとダメだとか規格外だとか逸脱だとか言われていたものが、逆に新たなものをつくっていく。その一翼を担っているのが不登校の生徒さんという見方ですね。
108(今をそのまま)「僕の前では、昨日までの君は関係ないから」
111(命が活性化する場)どんなにいいお母さんでも、どんなにいいお父さんでも、その間の関係が冷たかったらダメです。(中略)間さえ平和であれば
112(玄関と祭)お祭りを入れると、非日常的な空間ができる。遊び心を持ちながら、それを活用していく。(中略)最初に玄関を入ったときに、ホッとするような空気が大事なんです。
114(空気)
121(中退生は革命児の卵)(「中退したら赤飯を炊け」「中退も立派な人生だ」)「中退生は革命児の卵である」(中略)かれらが成長して社会を変えていくということでもありますが、かれらを通じてお父さんやお母さんが人生観を変えていく。

〇柏木哲夫(精神医学、心身医学、緩和医療)
「ホスピスがささえるいのちの意味」
ⅳ(概要)「生命」と「いのち」の違い(中略)宗教をもたない人間が、死を目前にしたときに、どうすればいいのか。
128(死の意味)それが誰の死なのかとか、その人と自分とのかかわり方によって、死の意味というのはまったく違ってくるんですよ。
133(生命といのち)つまり人間のメンタルな心理的反応のなかに、じつは生や死が埋め込まれているのではないか。(中略)134 いのちというのは閉じ込められているのではなく、非常に広がりを持っていて、有限な生命に対して無限性を持っている。
136(ホスピスの定義)その定義とは、その人がその人らしい生を全うするのを支えることがホスピスの仕事である。
139(言葉の深さ)きっとそういう場所で出た言葉とか、最後に限られた時間と限られた選択肢のなかで、その人がしたいと言ったことの内容の深さというのは、たぶん他人には絶対にわからないことだと思います。140(いのち論)いのちを支える、サポートするというのは、単にその人の生だけを支えるというのではなく、死を超えて伝わっていくものを支えるというふうに考えていけるとすれば、もっと希望があるのかもしれない
141(「からだは痩せても、いのちは太る)」)
142(死の受容)この種の仕事のむずかしさは、検証ができないということなんです。
147(共感を求める)個人教で死ぬのは、まさに一つの生きざま、一つの死にざまであると思います。(中略)ただし、私の経験では、すべての人に例外なく共通していることは、自分の気持ちや、自分の考えていることをわかってほしいということなんです。
151(いのちをささえる、私の全人格でかかわる)死に直面すると、四つの痛みがあるといいます。すなわち身体的、精神的、それから社会的、そしてスピリチュアルな痛みという四つの痛み(中略)非常に重い、いのちの質問(中略)そのときそのときで、私の全人格でかかわるということ以外に道はありませんね。

〇多田富雄(免疫学)
「老いと死を見直す視点」
ⅳ(概要)脳死の意味や、老いのメカニズムなどをめぐって進んでいった(中略)「老い」のなかに重層的に記憶される時間というもの。能舞台でそれを舞うことが老いの花となるという話は、まったく新たな世界を垣間見る思いがした。
156(死生観)中世の人たちは、少なくとも死者というのを存在しないもの、つまり無とは考えていなかった。「非存在ではない」と考えていたんじゃないでしょうか。
157(全体を見る)お能の中で「死者の声を聞く」ということに私がたいへん興味を持っているのは、それが全体を見た上で語りかける声だからです。全体を見通す目というのは、おそらくすべてが終わったあとの死者の目しかないんじゃないか、と思うからなんです。お能が現代人にも大きな感動を与えているのは、私たちはふだん生者の目で仮りの現象を見ているに過ぎないのだけれども、お能を見ることによって、生の全体を見渡すことができる死者の持っている視野を共有できるからだ、と思います。
160(「無明の井」の背景)何が欠けていると思ったかと言いますと、当事者であるはずの脳死者の声が聞こえてこないんです。
174(死とは)全体を見る支店がどこかで消えてしまったために、「死」の概念そのものが小間切れになってしまった。そのことに対して、一般の人が拒絶反応を起こしているんじゃないかと思います。/そうですね。本来、死は一人の人間に起きるというよりも、その人が存在している場における何か、全体における何かなんです。
176(老いとは)人間が老いていくこと自体が、じつは遺伝子のなかにプログラミングされているのではないか、ということが明らかになってきました。(中略)細胞は積極的に老いているということ
184(老化現象のとらえ方「システム」)複雑な系の場合ですと、一定の細胞に老化の反応が起こると、それによって二次的なアンバランスが引き起こされて、自己崩壊していく場合があるということです。自己崩壊する部分は、単なる細胞の老化の総和としてだけでは捉えきれないシステム自身の問題になります。186 部分の老いの現象論をいくら加算して積み重ねても、本当の意味での個体の老いを理解することはできないと思います。
187(老いの本質)かつての日本の文かでは、「老い」は単に健康な状態から転げ落ちたマイナスの状態にとどまらない、何かそれ以上の意味を持っていたと考えることができますね。
196(存在の花)若いときの美しさというのは、「時分の花」、つまり一時期の花と規定しています。老人になってからの美しさは「老い木の花」という言葉で表現し、それが「まことの花」、つまり完全な美だと書いています。
197(時間が重層的に凝縮して存在の花になる)老いのなかに若さがあり(中略)時間というものを、単純に過ぎ去る物理的な現象と見ないで、その間に蓄積されてくる時間の記憶のようなものに、価値を発見したか
199(新たな時間感覚)時間は不可逆で、人間の能力は落ちていくという世界観から離れることによって、われわれの生命や社会の見方を変えていけるかもしれないし、さらにサイエンスの可能性も広げていけるんじゃないでしょうか。

〇田沼靖一(薬学)
「二重にプログラムされた死」
ⅴ(概要)死というのは生の失敗なのではなくて、きっちりとわれわれの遺伝子に組み込まれたプログラムだという
203(アポトーシス)細胞がどのようにして死んでいくのかというのをよく観察してみると、(中略)ちゃんとしたプログラムにしたがって、きちんとした過程を通って死んでいくことがわかってきました。
211(アポトーシスの機能)生物がかたちをつくるときに、細胞の死がないと、細胞はただ単に塊の状態になってしまいます。/214 ウイルスとかいろんな病原菌が入ってきて、異常をきたした細胞とか、がん化していく有害な細胞が出てきたときに、そういったものをきちんと排除したりするときにも、アポトーシスの機能が働きます。(形作る/維持する)
214(アポビオーシス)「非再生系の細胞」脳神経の細胞のように置き替わらない細胞があって、そういう細胞もやはり別の仕方でプログラミングされて死んでいる。そのことは、アポトーシスとは区別して、アポビオーシスと呼んでいるということ/216 非再生系の細胞に備わっている死であって、それは個体の消去にかかわっている。ですから、個体を自然の循環のなかに戻していく死と捉えています。
219(細胞死から生命を見る)サイエンスの面で、きちんと死が遺伝子にプログラムされているのは新たな生命を更新していくためにあるんだ、ということをやはり認識することが、おそらく人間社会で生きていくとか、自分とは何かということを考えたりするうえで、重要ではないかと思っているんです。/222(アイデンティティ)人間が生きていくためには、自分とは何かということを問えることが大切なことだと思います。
230(性と死、優性生殖)有性生殖のなかで重要なことは、遺伝子として二度と同じ個体をつくらないということ/遺伝子はつねに変化しながら進化できるシステムだといえます。

前川喜平『面従腹背』毎日新聞出版、2018年。

・出版されたことを知ったときに、タイトルを見て思わずニヤリとしてしまった。
・公務員として思うところ、持ち「続ける」べき信念について、元文部科学省官僚として思っていたことを語っている。やりたいこと/やりたくないこと、やるべきこと/やるべきでないこと、これらが必ずしも一致しないことがある。公的機関の多くの先輩が納得しない説明をするところを敢えて語っているといえる一冊。
・公務員である前に、日本人という個人である。
・自分の置かれたところで関わる専門分野と仕事の中で培われる専門性。その信念や理念は、政治によってしても曲げてはいけないことがある。それを見極める目と、知りつつ立ち回る術を養うこと、職業としての公務員のあり方の本質ってこういうところにあるのだと感じた。

■以下引用
7(メッセージ)組織の論理に従って職務を遂行するときにおいても、自分が尊厳のある個人であること、思想、良心の自由を持つ個人であることを決して忘れてはならないということだ。組織人である前に一個人であれ
14(面従腹背)本当の意味で「全体の奉仕者」になるためには、一個人であり一国民である自分自身に正直にならなければならない。一個人として自分は何を国に求めるか、一国民として自分はどのような国を望むか、そこを基点としてしか国民全体の幸福を考えることはできないのだ。
126(学問によってのみ真理・真実に到達できる)学問は、真理や真実に迫ろうと人類が積み重ねてきた営みである。それは「学問の自由」が保障される中でしか実現しない。自由な学問的営みの中で真理・真実により近いとされていることを、整理し構造化し、子どもの発達段階に応じて再構成したものが「教科」である。真理や真実は学問によってしか到達できないものであり、法律に書いたから真理なのだ、真実なのだなどと主張することはできない。
151(教育の原則)「『不当な支配に服することなく』とは『教育の自主性』『教育の政治的中立』という教育行政がふまえるべき大原則を継承」「『法律に定めるところにより』とは、単に手続き的な面で法律を根拠にして教育行政を行えばよいというものではない。法律の手続き的合法性のみならず、内容的正当性をもってはじめて法律による行政が成り立つものである。教育行政が恣意的に行われたり、権力的に実施されたりすることを避けようという趣旨。
160(道徳の扱い)人間の内面的価値への限度を超えた国家的介入であると考えざるを得ない。(中略)「個人の尊厳」と「地球市民」の視点が欠けている。
187(行政の権限)国民の代表者が作った法律に基づいて、政府が国民から預かっている神聖なもの
211(「眼横鼻直」がんのうびちょく)「眼は横に、鼻は縦についている」という当たり前のこと(中略)要するに、真実をありのままに見て、ありのままを受け止める、そうすれば自他に騙されることもなくなるだろうと、そういう意味です。
222(公務員のあり方)政治かと官僚の間には、ある種の緊張関係がなければならないと思う。どちらかがどちらかに依存してしまってはいけない。(役人生活の仕事は、1対4対4対1くらい)

AudioBook聴取記録(200101~200308)

2020年に入ってから聴いたオーディオブックについての記録です。

○枡野俊明『傷つきやすい人のための図太くなれる禅思考』文響社
「図太い」という言葉の本質を、仏教、特に禅の考え方から説く。「動じない、過去や未来にとらわれない、今にこだわる」。「ありがとうさん」「いろいろ聞いちゃうと、ねぇ、あれだろ」など、実際に使えそうな小ネタから、呼吸法の効果・効能まで、実生活、個人に焦点を当て「自分が楽になる方法」を教えてくれる。禅僧ってすごいな、と素直に感じさせられる。

○山本昌作『ディズニー、NASAが認めた 遊ぶ鉄工所』ダイヤモンド社
「楽しい」か「楽しくない」か、楽しい仕事しかやらない。
少量多品種にこだわり続け、「人がやるべき仕事」「人が育つ仕事」にこだわる鉄工所の経営の一部を描いた作品。徹底した標準化、機械化により、半年で旋盤のプログラムを作ることができるようになる教育体制がある。「人の能力」「人を育てる」ことにこだわり抜いている経営は、聞いていてある種の理想型のように感じる内容だった。

○角田陽一郎『「24のキーワード」でまるわかり!最速で身につく世界史』マスコム
自分が通史に自信がないので、著者の主張を活かしきれていない感じはあるが、「思想」「お金」「病気」「水」など、注目されるキーワードを起点に、歴史を記述しなおしている。
・歴史を考える時に、現代とは何もかもの背景が異なる(かもしれない)ことを常に意識することが肝要といえる。その時代を生きる人の生活に関するイメージを作って歴史を読み解いていく姿勢を学んだ。

○鈴木大介『最貧困女子』幻冬舎→Kindle版購入
「再貧困」を、収入額だけでなく、家族・地域・制度(社会保障制度)の三つの縁からの分断であると定義する。これらの縁がなく、日銭を稼がなければ生活が立ちゆかなくなる(と思い込んでいる)人がセックスワーク周辺にいることを可視化する。著者は現在高次脳機能障害の当事者として自分自身を見つめる著作も上梓されているが、元々はこうした「見えない人たち」を可視化することにこだわったルポライターである。「本当に支えを必要としている人に、支援が行き届いていない」という主張には、福祉に携わる身として響くものがある。現場で薄々感じていることではあるが、確かに「行き届いて」はいないと気づかされる。

○内村鑑三『後世への最大遺物・デンマルク国の話』岩波書房
帝国主義時代に、事業の本質や海外事情を紹介する講演録。背景がつかみきれておらず、内容要約が困難。

○ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』上・下、河出書房。
テクノロジーの進化が、人命救助から、アップグレードへと目的がすりかわりつつある。
金銭を積めば、「有利な選択」ができるようになる。
それが、何をもたらすか。
自然中心が人間中心になったように、人間中心が情報中心アルゴリズム中心データ中心になるかもしれない。
データとアルゴリズムが、人間を支配するかもしれない。
データが宗教へ

○稲田将人『戦略参謀の仕事 ープロフェッショナル人材になる79のアドバイス』ダイヤモンド社。→書籍購入済

○玄侑宗久『サンショウウオの明るい禅』文春文庫。→良書。絶版。

○長岡弘樹『教場』小学館。
警察小説。人間関係の中に、上司と部下、そして「見抜かれている感覚」が随所に表現されている。怖くもあり、興味深くもあり。人間の内なる感情に触れる小説。

○岡田尊司『愛着障害』光文社。→Kindle版購入
従来の精神疾患の診断に、「愛着」という視点を組み入れることで、当事者と接して感じてきた違和感を理解するための補助線を一つ手に入れたような気がする。かかわり方について具体的な提案がされていることも特徴といえる。

○中川毅『人類と気候の10万年史 過去に何が起きたのか、これから何が起こるのか』講談社。
研究過程が詳細に説明されている一冊。歴史それも自然史を10万年という膨大な期間で研究・記述している。内容は一般向けとはいえかなり難解であった。気候変動が単に二酸化炭素の増加によって起こっているという単線の理解にメスを入れながらも、様々な取り組みが必要であることを説いている。

○石川拓司、NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」製作班『奇跡のリンゴ「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録』幻冬舎。→書籍購入済
事を起こす(無農薬栽培)には、膨大な背景があった。「やるべき」と考えることにまっすぐひたむきに取り組む、木村氏の思いと行動は清々しい。
虫(害虫)との闘いも、収入がなく生活が困窮することもつらいだろうが、何より「周囲の無理解」が木村氏を苦しめたのだと思った。とはいえ、周囲は周囲で生活がかかっていたのだから無理もない。それを覆していった過程(プロセス)が記録されている一冊。

○吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波文庫、1982年。→書籍購入済

○下園壮太『自衛隊メンタル教官が教える 心の疲れをとる方法』朝日新書、2013年。

○清水健『112日間のママ』小学館、2016年。→良書Kindle版購入

2020年1月1日水曜日

2019年の総括と2020年の抱負

あけましておめでとうございます。
このWebは、ページビューが平均10件前後なので、奇特な数名の方と私の備忘録として機能させています。岡山にいるときに公開始めたからもう15年くらいですね。ほそぼそとやっていきます。

今年もよろしくお願いします。
年始の恒例となった総括と抱負です。

昨年始めに掲げた抱負は以下の通り。
1.「広がる」ことには積極的に関わる。
2.読書の継続。
3.実家との関わりを絶やさない。学んで関わる。
4.身体を鍛え続ける。

「学び続ける」ことを目標にしたんだよなぁ。

1.について、昨年は機会がありました。
春には県内の新任ケースワーカー(障害)向けの研修講師、夏には市内で親の会向け研修と福祉関係者向けの研修講師。関係者向けのものは延長戦でいろいろ考えることはありましたが、それぞれ概ね高評価をいただきました。ありがたい。もう一つは今年になりますが、1月の終わりに、清瀬市主催行事で基調講演の依頼をいただいています(なぜか業務外!)。5年前の御縁からのお話で、半年前から準備しています。
外向きにお話する機会があると、一気に知り合いが増えます。すぐに何かが得られるわけではないですが、波及効果というか知り合いの知り合いから相談が入ったり、困ったときに助けてくれる人が出てきたりと、世界が広がる感じを味わっているところです。この件は、機会があるなら今後も積極的にいきたいものです。

2.について。読書は習慣にできたように思います。朝の10分読書と勝手に名付けて、毎朝少しずつ読んでいます。実際には10分以上になっています、ついつい読み入ってしまうのだよね。通勤時と休日のAudiobook利用も継続できています。紙の本では個人的な評価で精読したものは33冊。流し読みを入れたら40冊超える程度です。Audiobookは多分40冊を超えていると思います(数えていなかった)。途中から、小説がペースダウンしてしまった、というか小説に関するAudiobookの利便性に気づいてしまったので、その分が森岡「生命学」に割かれた感じがします。そのため、3つに分けて各15冊というと少し足りないですが、一昨年よりはずっといい習慣になっていると思いますし、Audiobookの活用が進んでいるので目標としては概ね達成にしておこう。今年は、専門書とその他の二分にして、年間40冊くらい読みたいです。

3.は去年と同じくらいの評価かな。今年は自宅とのバランスをとって家族全員での帰省日数を抑えて、あらゆる機会を使った帰省を考えていこうと思います。離れていることでの限界はあるけれども、離れているからこそできることを考えていこうと思います。

4.は結構がんばった。目標値をつくった木剣は、2019年12月29日時点で19,200本。目標値超えたところで、8kgの金棒という獲物購入に踏みきった経緯とかあります(重すぎて数振れない・笑)が、確実に振り方も腕の形も変わりました。習慣にしたいので、来年は21,000本を目標としてます。
継続している合気道は2019年の6月に4級になって、秋から冬にかけてはお稽古が不安定になったこともありました。じっくりのんびりスタンスですが、今年は3級茶帯に挑戦したいなぁ、と思っています。
あと、週末ジョギングを復活させました。毎日テレビ体操は定着して3年くらいになります。体調は安定していますが、肺活量の維持を目的に、2~3週に1回ペースですが、30分くらいインターバル入れて走っています。これはもう少し頻度をあげて続けたいです。

いい習慣が少しずつできてきました。
今度は、独りよがりにならない習慣へと広げていきたいと思います。
今年は職場でもそろそろ異動かもしれません。何をやることになっても、流れに身を任せつつ、一市民としての務めをほそぼそと果たしていきたいものです。

今年(2020年)の抱負は、上記の振り返りで大体設定してしまいましたが、優先順位とか考えて、以下とします。
1 読書の継続
 40冊読書+Audiobook50冊分
2 身体を鍛え続ける
 10分体操+木剣22,000本(+ジョギング)
3 実家との関わり方
 調べる、帰省する
4 新しい仕事・勉強には進んで挑戦する