2008年3月29日土曜日

「ゼロ」を作り出すこと

昨日、こじんまりした後輩の送別会にて、酔っ払って「うざい先輩」をやってしまったような、微かな記憶がある。
「検査器具を片付けろ」だの、「会議室のテーブルを拭け」だの、「鉛筆は削っておけ」だの。
あー、やっちゃった、って感じです。
最後の最後に。
人に押し付けるものじゃないのですがね。

ただ、今の仕事に就いて3年。
公的機関だからかどうかは特定できないが、ずっと「気になっている」ことは確かなこと。
だから、酒飲んで、タガが外れた時に「ふっ」と出てしまったのだろう。

一言でまとめると「雰囲気はコントロールできる」ということ。
逆に言えば、「コントロールしなければ、雰囲気は作れない」ということでもある。

例えば、カウンセリングに使う部屋。
落ち着いた雰囲気で、余計なことが気にならない場所であることが、純粋な「初対面」を観察するのに必要といえる。
これが、雑多な雰囲気で、余計なものが多いところでは、クライアントはそういったものを気にしてしまい、気が散ってしまうかもしれない。
逆に、張り詰めた雰囲気(レストランでいう、パワーテーブルみたいな場所)になってしまうと、純粋な「初対面」ではなくなり、余計な緊張感を生んでしまう。

仕事で言えば、他ではアメニティが整っていること。
相談室においてある鉛筆入れがボロボロだったり、その中に入っている鉛筆の先が丸まっていたりすると、そこには存在のない「前の人」が見え隠れしてしまう。
検査器具にホコリが溜まっていたり、手の油でベトベトしていたりしたら、それを触ることに抵抗があるだろう。
面接室のテーブルに、指紋がべったり付いているのも、いい気がしない。

私が神経質なのだろうか?
そうかもしれないけれども、それならそれでいい。
でも、私の職場にやってくるクライアントは、私よりも神経質かもしれないから、こういった「ノイズ」の受け止め方が変わってくるかもしれない。

こうやって考えたときに、「ノイズ」は完全に排除できるものではないということがわかる。
だから、あらかじめ「ノイズ」をコントロールし、一定の環境を整えておかないとカウンセリングの基盤が変わってしまう。
基盤が変われば、評価結果の「根拠」が揺らぐ。
現実には、基盤を常に一定に保つのは不可能だが、だからといって、それを放棄していいのかということだ。
できるだけ、制御不能のものを把握し、制御できるものはきちんとコントロールしておく。
これによって、自分なりの「一定」を作ることを、私は「『ゼロ』を作る」などと表現する。

私も1年目に気づいたわけではなく、2年目に後輩ができることがわかった頃にこういった「ノイズ」に敏感になり、いくつかの取り組みをはじめた、というのが正確なところです。
それを後輩に引き継いで、具体的には、朝出勤した時に面接室、検査室、待合室など、クライアントが使う場所のテーブル拭き、鉛筆削りをやってもらったということがあった。
自分なりの「ゼロ」を作ってもらっていたということだ。
3年目は、職場環境が大きく変わったこともあり、細かいことは言わないでおこうと思っていながらも、やはり気になっていたようだ。

余談かもしれないが、このことは「相談」を業務とする仕事だからというわけではなく、例えば戦略会議(今の仕事では「職員会議」がそれに当たる)の場は、整然として、ちょっとした緊張感があるくらいがいいと思う。
テレビで見たことのある、あるオフィスの会議室が印象的だったので、その影響を受けていると思うが、それでも上記と同じことが言えると思う。
だから、私は会議前にテーブルを拭く。

たった、それだけのこと。
でも、環境を調整して「ゼロ」にしておくことは、大切なことだと思う。

2008年3月23日日曜日

現代の「三低」と結婚

先日、新聞のコラムを読んでいたら、女性ウケのいい男性の条件として「三高(高身長、高学歴、高収入)」ならぬ「三低」なる言葉が紹介されていた。

「三低」とは、「低姿勢」「低依存」「低リスク」だそうだ。

あまり、両手離しで喜べる話題じゃないが、すごく参考になるわけではなく、「ふーん」というくらいだったが、何となく気になったので取り上げてみる。

私が「三低」に当てはまるのかどうかは、ウチのカミさんに判断してもらうこととして、三低。
高圧的ではなく、自由を与えられていて、就職先は安泰。
世が好景気なら「三高」を望み、人よりも豊かな暮らしを手に入れようとする。
世が不景気なら「三低」を確保し、身の安全を確保する。
こんな感じなのだろうか。
世相を反映した、面白い言葉のようにも思える。
「結婚は夢ではない現実」とはよく言ったものです。

結婚といえば、別の雑誌では、仏のサルコジ大統領の結婚に関する記事の中で、フランスの格言を引用していた。
「人間は判断力の欠如によって結婚し、忍耐力の欠如によって離婚し、記憶力の欠如によって再婚する」(アルマン・サラクルー)
ほーう。
これによれば、私は判断力が欠如しているときたものです。


「男なら」「女なら」と言うつもりは毛頭ないのだが、こんな風にも見られたり、結婚を揶揄されるような社会環境だと思うと、ちょっと背筋に寒気が走る思いがするのは、私だけだろうか。

矢野龍彦、金田信夫、長谷川智、古谷一郎『ナンバの身体論 ――身体が喜ぶ動きを探求する――』光文社、2004年。

できるだけ「捻らない」「うねらない」「踏ん張らない」身体動作を「ナンバ(難場)」と呼び、副題にあるように「身体が喜ぶ動き」探求過程の記録。

例えば、歩くときに右手・左足、左手・右足を交互に前に出すと、直立すれば平行となる肩と腰のラインに、ねじれを生む。
身体がねじれている一瞬は、次の動作に移ることのできない「居付き」が生じる。
また、歩行や走行についても、前に出した足がブレーキとなってしまうため、運動によって生じるロスが大きくなる。
これが、「捻り」「うねり」「踏ん張り」である。
これらをいかに少なくするか。
究極のところでは、どう排除するか、という問いが立つ。
身体による捻りやうねり、ブレーキがなくなれば、無駄なくもっと素早く動作することができる。

この「ナンバ」の動作を、桐朋高校のバスケットボール部で取り入れて指導した記録を中心に、具体的にどんなイメージで動作するのか、豊富な練習方法が写真になって掲載されている。
足の上に、骨盤、胸郭とあるが、それぞれを「ボックス」と捉え、それをつぶすことによって「身体が喜ぶ動き」を可能にする。
関節の稼動域が広がり、全身が動作するため、結果として素早い動きとなったり、より強い力を生み出すことができる。

著者は、マニュアルではなく「自分の身体との対話」を重要視しており、身体動作だけでなく「発想の広がり」といった知的な営みにも「ナンバ」を応用可能としている。
身体動作の無理や無駄を考え、改善していく発想は、そのまま自分に起こっている「無理や無駄」に気づきを与え、それを改善する発想へとつながっていくという。
私も、普段この本に掲載されている写真を教科書として身体を動かしているが、毎日身体と対話することにより、自分の身体の変化・変調に敏感になったように思う。

身体動作は、「ナンバ」が古武術の動作を参考としているため、合気道の動作とつながるところもあり、非常に参考となる。

http://www.ningenkougaku.jp/index.html
(人間考学研究所 Web)


おすすめ度:★★★★☆

手塚治虫『どろろ』(全3巻)秋田書店、1994年。

映画化されたのは、昨年(2007年)だっただろうか?
妖怪の呪いにより、身体の48箇所が欠けて生まれた百鬼丸が、妖怪を退治し自分の身体を取り戻していく。
自分の身体を取り戻していくことが旅の目的であると同時に、父親への復讐も盛り込まれ、さらには「身体を全て取り戻した後」についても物語の中で言及される。
村を襲う妖怪を退治するにも関わらず、自らもまた「不完全な人間」であるがゆえに、差別や迫害を受ける百鬼丸。
泥棒どろろは、そんな百鬼丸を慕い旅に随行する。
どろろの父親が残した財産も、物語のいいスパイスになっている。
手塚漫画は、よくこういった描写がされるが、人生の真実を裏表なく描ききっていて、随所で自分の生き方について考えさせられる。

おすすめ度:★★★★★

2008年3月16日日曜日

Positive Thinking + Action = Progress

「マドルスルー muddle through」を整理して、改めて「参考にはなるが、まだ味わっていないだろう」感覚であると自覚できた。
Iyokiyehaを、よく言えば「順調にやってきた」人であるだろうし、悪く言えば「挫折を知らない」人である。
どちらも否定するつもりはない。
家庭環境にも、学習環境にも、社会環境にも、職場環境にも、それなりに恵まれてやってきた。
敢えて言えば、就職活動でつまづいた感はあるが、それにしても長い目で見たら確かな経験となる団体に拾ってもらえて、その後、当時第一希望ではない今の会社に就職したことが間違いとも思わない。
目一杯やっているうちに、仕事に対する「面白さ」まで味わせてもらっている。
「オマエは挫折を知らない、ヒヨっ子だ!」
学生時代、場末の飲み屋で同じカウンターに座った中年男性に言われたことがある。
今、同じことを言われても、私は否定する気にならない。
私がヒヨコかどうかは、私が決めるのではなく、私が仕事の中で接する同僚や上司、クライアントが判断することだ。

とはいえ、Iyokiyehaは自分が「ヒヨコでいい」と開き直るつもりは全くなく、思い通りにならず思い悩むことがあっても、困難からなるべく逃げずにやってきたつもりである。
「前向きでいいよね~」なんて言われることもあるが、私はおそらく人から見られるよりも根はネガティブ思考である。
http://iyokiyeha.blogspot.com/2008/02/blog-post_8958.html
(2008年2月24日投稿分)
このことは、ある人と話をしながらようやく自分自身のことが言語化できたわけで、弱い自分を知識やら経験で恥ずかしくないように「塗り固めて」、弱い自分が「見えない」ように振舞っているだけなのだということに気づくことができた。

仕事でも、プライベートでも、今のところそれなりに上手くできているとは思っている。
「挫折がない」ということが、心の隅で負い目にはなっていそうだが、それをひどい「挫折」と感じていないことも、私の人生スキルなのかもしれない。

私がこれまでに学んだことで、おそらく自然と実践していること。
私の好きな、NHKプロフェッショナルに登場する多くの人がやってきたこと。
毎日、出勤前に聴いているkokuaの「Progress」の詞で歌われていること。
それは、「前向きな思考」(思い込みを含む)と「行動」が結び付いた時、なんらかの「進化」が生まれるということ。
そして、マドルスルーと絡めると、目標(光)がたとえ見えなくても、その状況をむしろ「楽しむ」くらいの気持ちで、目の前にあるものに目一杯取り組むことによって、少なくとも自分には何らかの「進化」が起こる。
自分の「進化」によって、環境に好転の兆し(光)があれば、そこに向かって主体的に取り組むことができる。
この「進化」がブレイクスルーであるだろうし、各人毎のマドルスルーは誰もがどこかで体験しているのかもしれない、と思い至った。

参考:kokua「Progress」
http://www.nhk.or.jp/professional/music/index.html

マドルスルー muddle through

以前、梅田望夫『シリコンバレー精神』を取り上げたときに、「マドルスルー muddle through」という言葉を紹介した。
他でも使っているかと思い、ブログ内を検索したが、意外と使っていないことが分かった。
ここのところ、友人や同僚、上司、クライアントとのやりとりの中で使う機会があった言葉なので、きちんと内容を整理しておこうと思う。
http://iyokiyeha.blogspot.com/2007/06/2006.html
(2007年6月24日投稿分)

Iyokiyehaが「マドルスルー」という言葉に出会ったのは、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」の放送である。
http://www.nhk.or.jp/professional/
(NHK プロフェッショナル 仕事の流儀 公式Web)
「File:042 シリコンバレー疾風怒濤 技術者 渡辺誠一郎」の回で初めて耳にした言葉である。(以下、「」内は、茂木健一郎&NHK「プロフェッショナル」製作班編『プロフェッショナル仕事の流儀14』から引用)
この意味するところは、「本当ににっちもさっちもいかず、どこに出口があるのかわからない状況から抜け出す」という意味であるとのこと。
ブレイクスルー(break through)という、日本でもよく使われる言葉が、「多少停滞気味のときに、バーンといきなり次のレベルに量子的飛躍みたいなものを起こしてしまうようなこと」であるとしている。
どっちが上か下かもわからない、どこを目指せばいいのかわからない、とりあえず何をすればいいのかもよくわからない、光がどこにも見えないような状況を「泥 muddle」に例える。
「『ここで出口が見えなかったら、もう全員が討ち死にする』という超閉塞状況のプレッシャー」(「泥」)の中で、ブレイクスルーを求められるのが、マドルスルーであり、ブレイクスルーが出なければ終わりという状況である。

この言葉、元々はシリコンバレーで使われる言葉らしい。
人と同じことをしていても認められず、他の人とは違うことを考え、形にし、世に認められることを常に求められる風土のあるシリコンバレーにおいて、どうにもならないような状況から、知恵と行動をフル稼働させて一歩抜きん出る。
そのプロセスを表す言葉が「マドルスルー」であると整理できる。

先に挙げた、渡辺氏は、技術者として挑戦するためにシリコンバレーへ移住し、アイデアに投資してくれる人や会社を探したもののうまくいかず、独自の技術開発を始めるも資金のメドがつかず頓挫するなどの状況を経験する。
「ただ、悩んでいるだけの時間を、次の手立てを考える時間に使おう」と思い、回り道になろうが、行き止まりにぶつかろうが、必死にもがき続け、会社設立から3年経ちようやく高性能のチップを開発。
半導体で権威ある学会において、好評価を得て、ようやくシリコンバレーで認められた。

梅田氏もまた、エンジェルとして投資し育ててきたベンチャーが、9ヶ月の時を経てようやく資金調達に成功したそのプロセスに参加し、その経験を一言で「マドルスルー」であったとまとめている(『シリコンバレー精神』266ページ。)。

余談だが、半年以上も前の記憶がこんな形で思い出されて、思考を整理できるのは、このブログを初めて、いくばくかの思考の蓄積が記録されたからだと思う。
今後も、このブログを通して、見えるカタチ「可視化」にこだわっていきたい。

鬱々とする

嫁が夢の中で私から「俺がうつになったのは、お前のせいだ」と言われたらしい。
まぁ、何が原因かは置いておいて。

ただ、このところの身体の変調に気づいていくと、ちょっと怖い。
肩こりがとにかくひどい。
仕事の手際がとにかく悪い。
昼間、眠い。

これらのサインも気にはなるが、やはりいろんなことの「先」が見えにくい時期だから、いろんな人の不安が私にも伝染っているのだろう。
職場は、この時期とにかく嫌な時期。
転勤やら、次年度の体制やら計画やら、今年度の総括やら予算の締めとか。
「来月はどうなるかわからない」という、いわば「空白の時間」。
これが続けば続くほど、負荷は大きい。

よく、合気道と照らして「わけのわからない力がどっとのしかかる」ことを、身体の気づきとしてブログでも紹介するが、精神的なことでこの「わけのわからなさ」を感じると、どうにも対処しきれずまともにストレスを受けてしまう。
普段、物事を整理し、優先順位をつけて仕事をしているだけに、その「準備」ができない状況というのは、危ない。
実際に、仕事に抜けが出たり、ダブルブッキングしかけたりと「ひやり・はっと」する場面がちらほら。

この、すっきりしなさは、多少残っている「考える余裕」によるものかもしれないと思いつつ、確実に見えない不安が目の前に横たわっているのだろうと考える。

2008年3月15日土曜日

多面的、強制的になることによるストレス

時と場所、状況により、人は自分の役割を使い分けている。
「自然体な方が楽」という主張も、時折聞かれるが、社会人として仕事をしている以上、役割の使い分けは考えるまでもなく当たり前にやっていることであるといえる。
心理学で言うところの「ペルソナ」がそれに当てはまるのかどうか、少し疑問はある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%8A_(%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6)
(ペルソナ Wikipedia)

例えば、職場での私と、家庭での私は、別人のようであると思われるし、合気道をやっている私と、手話を勉強している私はもちろん違う役割をもっている。
職場でも、事業所へ行く私と、福祉機関を開拓する私、関係のある機関の担当者と話をする私、クライアントと相談する私、職場の職員と打ち合わせをする私、おそらく全て違う私であるように思われる。
自覚しつつも、意識していないだけだろう。
ただし、その変化は労力を使う。
自然に変化できれば、それほどのストレスでもないが、強制的に変化せざるを得ない場合には、ストレスが大きい。

それが二者関係、三者関係の中でも自然に行われるわけだが、振り返って面白い(私が困った)のは、「相手の役割の変化がわからない場合」である。
時が変わった、場所が変わった、というのは客観的で認識しやすいが、「状況」は主観的に拠るところが大きく、「相手の状況変化」に気づけないと、相手の役割が変化していることに気づけず、対応が後手後手に回る。
結果として、私は悩むし、私と相手の二者関係にも影響が出る。

二者関係に変化がないことは、安定している、というよりも進歩がない関係とは思うが、その変化がお互いに対応しきれないものであると、それは非常にストレスフルである。
同じ人と接していて、半ば強制的に役割変化を迫られ、私の役割を変化させる。
「私」を使い分けることにも労力を使うわけであるから、それが強制的であればよりストレスが大きいといえる。
また、その強制力も「自分が予期していたこと」と「自分が予期できないこと」だったり、「自分で制御可能なこと」と「自分で制御不可能なこと」など、いわば「想定範囲内」であるか否かにより、ストレスの度合いが変化する。

臨機応変にいろんなことに対応できるようになるのが一番いいのだが、人間関係というのはそんなに単純化できるものではない。
どんなに考えて、どんなに準備しても「想定範囲外」の出来事は起こりうる。
ただ、それをも乗り越えられる視野の広さ、行動力、思考力は身につけておきたいと思う。

人間関係の一過性

時々、「人間関係の修復」という言葉を耳にする。
こじれた人間関係を治す。
Iyokiyehaは、ここに疑問を持つ。

関係の修復はありえるのか?

しゅう-ふく【修復】建造物などをつくろい直すこと。(広辞苑)
これだけならば、何となく「物質」を想定した言葉のようにも思える。

ここ半年くらいで数件、「人間関係の修復」に関する話を聞く。
結論から言えば、Iyokiyehaは「人間関係の修復はない」と考える。
おそらく、多くの人が「人間関係の修復」というものは、当事者がいわば「再契約」を結んだ状態であると考える。
つまり、元に戻ったわけではなく、新たな関係としてそこに立ち上がっていると考えるわけだ。

以前、A、Bという人がいたとすると、人間関係が安定するのは以下の2通りであると書いた。
http://iyokiyeha.blogspot.com/2007/05/blog-post_3931.html
(2007年5月27日 片思いはこじれる)

1)A,Bともに、相手に好意をもっている
2)A,Bともに、相手を嫌だと思っている。または無関心。
後者は意外かもしれないが、お互いにお互いのことを嫌っていると、場の雰囲気への影響はあっても、A-B間の関係には特に影響しない。
このことは結局、お互いがお互いから刺激を受けることを避け、関係を深めようとしない状況であるといえる。
前者の場合は、ジョハリの窓で言うところの「開放領域」(自分も相手もわかっている自分の側面)を増やしていくことによって、お互いの関係を深めている状況である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%81%AE%E7%AA%93
(ジョハリの窓:Wikipedia)

一方で、人間関係がこじれるのは、こんな状況である。
3)AはBに好意を持っているが、BはAを嫌だと思っている(またはその逆)
この場合、AはBの「開放領域」を広げようと思っているにも関わらず、Bはそれを拒むから、「踏み込んでくれるな」という思いとAの好意とが食い違う。
KYなんて言葉があるが、この場合「AはKY」であると言われ、Bの嫌悪感は高まっていく。
「嫌悪感」までいかなくとも、このような「食い違い」による人間関係のこじれはよく聞かれることだ。
私の身の回りでも起こりうる。

ここで、最初の問いに戻る。
「人間関係の修復」は可能か?
哲学的に「今の自分」が存在しないように、「私」を含んだ人間関係を「元に戻す」ことは不可能であるといえる。
では、現実にはどうか。
嫌悪感や、拒否感がそこに立ち上がった人間関係は、その「歴史」を消し去ることは不可能である。
この「歴史」が許容範囲であれば、それを内包した人間関係が維持されるわけだし、「歴史」が許容範囲を超えた場合、一旦は人間関係が崩壊する。
後者の場合、お互いがお互いのことについて、新たな情報を得る、本意に気づくなどの過程を経て、人間関係を再度作り直すことになる。
これは、以前の人間関係の復活というよりは、「崩壊した」という歴史を内包した新しい人間関係の構築といえる。

様々な人間関係について「戻れるのかな」なんて口にするのを聞く。
Iyokiyehaは「戻りません」と答える。
そして、何か「気づき」を得て初めて、次の段階に進めるのではないかと、そんな風に考える。

記憶装置としての頭

Iyokiyehaがパソコンを使うようになって、数えてみたら14年にもなる。
以前からパソコンを「便利だ」と感じることは、やはり、データの「保存」と「検索」である。
最近では、Webによって、世界中のありとあらゆる情報が、目の前の端末を介して利用できるようになったことも、同様に便利だと思っているが、パソコンを使い始めた頃から便利だと思わせるのは、ごく単純な「保存」と「検索」である。
文書であれ、写真であれ、ファイルに名前をつけて保存しておけば、必要なときに短時間でディスプレイにそのものを映し出すことができる。
手書きのメモだって、デジカメで写真を撮って同じように保存しておけばいい。

ただ、一方で考えることは「頭で記憶すること」である。
先日、「3年B組金八先生」を観ていて、3Bの担任を外された金八先生が、美術室に張り出してある3Bの生徒の自画像を見て、「○○(生徒の名前)、パシャ」と覚えていくシーンがあった。
ドラマであるから、感動のシーンだったが、実際にやっていたらちょっとひくかもしれないこのシーン。
「俺はパソコン苦手だから」と武田鉄也が演ずる金八が言うのだが、何となく人間の本質を表しているように思った。

以前読んだ、川島氏の「脳」の本。
http://iyokiyeha.blogspot.com/2007/10/1002004.html
(2007年10月17日投稿)
これによれば、脳は一度見たもの、聞いたことは記憶しているのだという。
思い出せないのは、それを記憶している場所がわからないのが理由らしい。
印象がないと、忘れてしまうことが多いのは、私も例外ではない。
Iyokiyehaは、普段記憶は苦手である。
よーいどん、で同じものを同じ時間で覚えさせたら、おそらく中の下くらいの成績だろう。
脳トレをやっても、記憶があると脳年齢が30歳くらいに下がる程苦手である。

とはいえ、たわいもないことが経験と結び付くと、意外と忘れないものだなと思う。
何らかの「特別」があると、関連情報として結び付き、より覚えやすいこともあるが、自分にとって何か「特別」ということは、案外覚えているものである。
それは、意識して「特別」になるわけではない。
もちろん「特別」なものにするために、あれこれと考えることはできても、それが忘れない記憶として、何かをきっかけに思い出すことは、やる気になればできるというものではないように思う。

自分が生きるために、またはより豊かに生きるために「必要」だと思うことは、脳が勝手に整理してくれる。
逆に言えば、必要でなければ脳は覚えないということだ。
このあたり、最近パソコンで記録を保存しているのだが、本当に大切なことはデータを残さなくても、自分の頭がきちんと覚えていてくれる。
仕事で使う資料とか、メモとか、メールの内容とか、読んだ本の内容とか、人とのやりとりとか。
データを取っておいても、意外と見返さない。
一度読んだだけなのに、何かの折に思い出す。
こういう情報が、本当に大切なものなのかもしれない。

背景をも「愛する」

結婚して、1年とちょっと。
先週末、仕事の反省会をした折、結婚生活についてもふりかえることがあったのでメモだけしておく。

結婚生活って、嫁さんを好きでいるだけでは成立しないのだなと感じる。
彼氏と彼女の関係であれば、目の前にいる「その人」のことが好きでいればいいのだろうけれども、結婚となると少し勝手が違う。
四六時中一緒にいれば、一つや二つの気になることはあるだろうし、それが積もれば嫌なことにもなることがあるだろう。
その一つ一つ、全てを許すことができるかというと、正直にそうでない場面もある。
嫁さんが、私に対して怒りをぶつけてくることも、同じようなしくみがあるのだろうと察する。

許せないことについて、どうするかというと、その方法はたくさんある。
指摘して直してもらうこともあれば、ちょっと不機嫌になりつつも次第に慣れてしまうこともある、相手が気づくようにすることもあるだろうし、はっきりと「嫌だ」ということもある。
その方法や、やり過ごす考え方は、さまざまな「知恵」によって生み出されるのだろうけれども、ではその「知恵」が何を原動力にして生まれるかというと、それは「結婚生活を少しでも充実させて、楽しく過ごしたい」と思う気持ちであり、もっと根源的には、相手に対する「愛情」といえるだろう。

この「愛情」は、Iyokiyehaの場合、嫁さんだけに注がれているのかといえば、最近そうでもないような気がする。
嫁さんは当たり前で、もっと広い対象として、嫁さんの家族とか親類にも及ぶのではないかと感じるようになった。
かっこよく言えば、嫁さんを通して、嫁さんの家族をも愛しているように思う。
愛情の形はそれぞれだが、その人たちを「大切にしたい」と思う気持ちは、私にも確かに存在していることは実感できる。
愛情の広がりを通して、嫁さんの人生をも愛おしく思えるようになり、それが目の前の嫁さんをより深く愛するための材料になるのではないだろうか。

愛情の広がりについて、考えてみた。
「その人」だけ愛する、ということが、その人を作ってきた他者を排除するような考え方にも通じてしまうように思えて、修正を加えてみた。

2008年3月10日月曜日

JC-NET会議2008(プログラム外)

9日の朝食の席上、某地区の支援者と、この集まりでは主導的立場の方とが談笑している席の側に座り、二人の会話を聞いていた時のこと。
要約すれば、「職業センターは、微妙」との評価。
支援者は、私も顔を知っているくらいの方。
曰く「知的障害者の重度判定を取りにいくくらいしか、使っていない」とのこと。
職業評価は時間ばかりかかって、実入りのある情報が得られない。
ジョブコーチ支援の質もいまいち。
そもそも、電話連絡してから動くまでに時間がかかりすぎる、とのこと。
何だか、苦笑いされていました。
「職員は、あれだけ給料もらってるんだから」と憤慨気味な方を、否定はせずにたしなめているような内容だった。
・・・否定も肯定もできませんね。
でも、こういう見られ方してしまうんですね。
悔しいけど、燃えますね。
こういう「こんにゃろー」も、仕事のモチベーションになるのだと感じた瞬間でした。

自分の身分を明かすと変に恐縮されることも多く、一方で「職業センターって何?」といった方もいるなど、本当に多様な方が集まるこのJC-NET会議。
持ち場にいて、やってくる支援機関の人と話をしているだけでは、この感覚はない仕事のように思う。
だって、職業センター主導の就労支援現場では、支援者の主役格としての位置づけを求められて、それに応じているわけですから。
でも、一歩外に出れば、それは本当に井の中の蛙であることを嫌でも感じさせられます。

……こういう中で、初対面の人とやりとりすると、本当にいい刺激が得られる。
この感覚は嫌いではない。

帰りの電車でも、おとなしく窓の外に目をやり、「東京の住宅地はすごいなぁ」と感心していると、背中越しに声が聞こえてくる。
「○○センターのジョブコーチ、いまいちなんですよ…」結構、名指しでやられています。
その中で、ガツンを響いた言葉。
「だって、第1号って(職業)センターに『実績をプレゼント』してるわけでしょ?」
これには、思わず息を呑んでしまいました。

普段やりとりしている関係機関の方や、今回会議で出会った人たち、支援している対象者や、障害者雇用を考えている事業所の方、私が仕事で出会ってやりとりをする人たちへ、感謝の気持ちを忘れてはいけないと改めて感じさせられました。
そんな意味で、自分の職場の世界から一歩飛び出して、いろんな人の「本音」を聞けたことは本当にいい機会だったように思います。
私も、まだまだまだ、精進しなきゃいけません。

JC-NET会議2008(3月9日)

会議二日目。
○実践発表分科会1『現場からの実践報告Ⅰ』
-仲町台センター
自閉症者の支援について、具体的な事例報告。
「ジョブコーチのしごと」を、『その人に“合った”仕事を、選ぶ・探す・教える手伝いをする』と端的に示したあたり、非常に印象的だった。
いかに「事業所ニーズ」に応じた支援をするか。
就職とは、「○○ができる」ことが課題になるわけではなく、あくまで事業所のニーズに求職者が合わせられるかどうかにかかっている。
手順書の作成も、ルール作りも、あくまで本人が会社でうまくやっていくために、作成される。

-ティーダ&チムチム
(ていだ=「太陽」、ちむ=「心」の意)
精神障害者の就職事例報告。
忙しくなると、仕事が遅い自分を「邪魔?」と不安になるなどの特性あり。
ジョブコーチ支援は、不安解消のための「声かけ」と「アイコンタクト」によるフォローが主な内容となっていた。
多いときには、4回/日くらいの電話連絡があったとのこと。
インタビューの映像も流され、そこで「電話で話せたことが、気持ちの切り替えになった」等の発言が見られた。
支援の内容や、電話対応で気をつけたことなどを質問したかったが、機会がなかったのが残念。
調子を崩して三週間休んだ時、休んだ期間とその前(働けていた時)とを比較し、「やはり、働いていた方がいい」と納得させるなどの手法は、おそらく私が意図しているあたりと同じものを援用しているものと考えられる。
同じ職場に、同じ病気を持ちながら10年、20年と働いている障害者がいることを紹介しながら、「そういう人と同じように働けるようになりたい」という意思表示が見られたことを取り上げ、ナチュラルサポートの概念拡大(ナチュラルサポート=健常の従業員、と思ってしまいがちだが、障害を持った従業員をも含まれて当然)について紹介された。

-油山病院(精神科デイケア)
病院デイケアにおける、就労支援の取り組みの事例報告。
10年以上かけて、スポーツ活動、SST、心理教育、健康教室など、職業リハビリテーションに段階的に取り組み、現在は「心理教育・健康教室・SST」の三本柱となっているとのこと。
肥満傾向のある人は、体重変化と気分の変化とが連動することもあるため「健康教室」が柱となっているとのこと。
発表者の印象も含め紹介されたのは、以下の通り。
・就職活動をする人の70%くらいは、障害の開示・非開示を問わず、何らかの形で就職している。
・障害を開示しても難しい人はいる。
・障害を非開示にすると、服薬を自己判断(周囲が気になる、など)により中断し、体調を崩すことが多い。
・JC的な支援は、他機関の支援に加え、デイケアのPSWが実施。

-花王ピオニー
花王株式会社の特例子会社として立ち上がった「花王ピオニー株式会社」の事例紹介。
花王製品のサンプルや試供品の箱詰めや梱包作業が主な職務となる。
知的障害者の雇用が中心で、現在18人が雇用されている。
雇い入れ時に、どんな支援制度を活用したのか、ということについて質問できなかったのが、残念である。
ピオニーの社長による事例発表だったが、雇用前に懸念していたこと(作業スピードがあまり速くない、ロッカー室を他の従業員と同じでもいいか、食堂の利用など)は、意外にも簡単に払拭されたなど、事業所環境の良さが実績に現れているように思えた。
「仕事は、個人能力の最大化を目指す」というポイントが印象的だった。
確か、メンタルヘルスマネジメントの勉強をしたときにも出てきたし、障害者雇用の場面において本人支援の究極目的はこの点に置かれるべきだと思う。

-ビック・ハートの就業支援
千葉の障害者就業・生活支援センターの事例報告。
多機能型の作業所(就労移行支援20人、就労継続B型10人)と支援センターとで就労支援を実施している。
後日、先方と連絡をとって、資料提供を申し入れるつもりであるが、利用者アセスメントに独自のツールを開発して実施している。
利用者の職業能力について、ワークサンプル法のような手法を用いて、見事な所見が示されていた。
また、先駆的な動きと連動して「障害者就業・生活支援センターのあり方」について議論を重ねてきており、その成果物が近いうちに発行される予定であるとのこと。
昼休みのポスターセッションに、アセスメントのツールを展示・紹介していたが、本当によく出来ていた。
いよいよ、地域センターの業務の根っこに触れてきている感覚を味わい、いい意味での刺激をもらったように思う。

○シンポジウム『働く障害のある人を地域でどう支える』
沖縄:ティーダ&チムチム、埼玉(東松山):東松山障害者就労支援センター、東京:WEL’S TOKYO、それぞれの事業展開とネットワーク構築に関するシンポジウム。
障害者就業・生活支援センターの事業報告を通して、地域に応じた支援センター事業の展開と今後の展望について考察する。

-沖縄:社会資源も限定され、事業所も少ないところで、どうネットワークを構築するか
精神障害者の支援が割合としては多いが、就労支援・生活支援いずれも、医療機関をいかに巻き込んでいくかがポイント。
「どうにかしてあげようとしない勇気」や「どうにもならないことを経験させ、フィードバックする。他機関の力をかりる」ことも必要。
ネットワークは本人が教えてくれる(本人の行動範囲を見ていれば、作りやすい)。
フットワーク(足でかせぐ)、ネットワーク(顔が見える関係)、チームワーク(同じ方向を見る関係)、「ソーシャルウォーカー」なる造語も飛び出す。
「ありがとう、ごめんなさい、お願いします」は常に必要。
社会適応訓練事業の実施にあたり、事業目的も大切だが、それ以上に「地域とつながっている感覚を得ること」が大きい。

-埼玉:生活支援はある程度充実している地域で、就労支援にどう特化していくか
・ニーズがあるから「形」を作る(「その人ありき」という考え方)
・作る形は「箱」ではなく「システム」(費用対効果も常に念頭において)
・自主事業の展開が、新たな公的事業を提案する
・就労支援への「こだわり」
話を聞けば聞くほど、古巣に類似した活動を展開してきたように思う。
短時間でものすごい情報量が含まれた報告のように感じたが、おそらく事業構造そのものがやや単純化しにくいものではないかと察する。
ビジョンとして示されたことも興味ぶかい。
・多様な就労支援ニーズに対応するセンターを目指す
 (障害者、企業、地域を支える)
・社会に貢献できるセンターを目指す
 (センターという「ブランド」の構築)
・就労支援ネットワークの拠点となり、地域資源の育成に努める
 (キーワードは「就労支援」)

-東京:就労支援機関も、その機能も充実している地域でのとりくみ
企業への提案型雇用支援も展開している。
ハローワークとの接点も強く、ハローワークからも連携依頼が届くような関係となっている。
「WEL’S-NET」という、求人・企業実習の情報提供手段により、様々な機関(現在27団体)と情報共有を実施している。
各機関の持つネットワークを、有機的につなげていく試みといえる。
「ネットワークは、みんながハッピーになる」。
全国どこにでもある機関が中心となり、ネットワークで就労支援を展開する。
その土地の事情をプラスする、という感覚で「TOKYO STYLE」を紹介された。

-まとめ
以上の事例報告を通して、障害者就業・生活支援センターの特徴を4点から説明する。
1)地域のクッションとしての役割がある
2)雇用している人(メモが途切れている…)
3)地域の事情により、事業展開や手法は様々である
4)地域の就労支援の業界では、誰にも負けない人脈を持っている
以前より、JC-NETでは「スピリット」と「方法論」「技術」が必要であると説いているが、「社会貢献」「みんながハッピーに」といったスピリットが土台となり、「事業展開」や「支援手法」といった方法論・技術がそれに加わり、初めてその土地で実のある事業展開が可能となる。

JC-NET会議2008(3月8日)

毎年参加している、JC-NET会議。
http://www.jc-net.jp/
(ジョブコーチ・ネットワークWeb)
会場が、上智大学から大妻女子大学多摩キャンパスへ移り、移動は不便になったが、分科会の会場は広く、多少快適になった。
今年で第4回を迎えるこの会議。
毎年、最高級の刺激を持ち帰るのだが、今年もその例に漏れず、いい刺激を受けて新しいアイディアが頭の中で渦巻いている。

○キーノートスピーチ(小川浩)
小川氏による、この一年の障害者就労支援の動向と、会議の設計図について説明。
この方の講演は抜群に上手い。
話し方、スライドの構成のしかた、数字の説明の仕方。
どれをとっても勉強になる。

障害者雇用率の推移では、大規模企業が雇用率全体を引き上げてきている傾向がある。
1000人規模以上の企業では1.70%となっている。
5年前くらい前(平成13~14年)を境に、59~99人規模の事業所と1000人以上規模の事業所とで、雇用率の相対的な高低が入れ替わっている。
精神障害者が雇用率に算定されるようになったとはいえ、劇的に雇用が進んでいるわけではない数値が示される。
特例子会社の数は、右肩上がりで増加の一途をたどる。

労働政策審議会の意見書に基づき、障害者雇用促進法の改正が検討される。
ポイントはいくつかあるが、障害者雇用に直結する主な内容は以下の通り。
・短時間労働者(20時間以上30時間未満/週)の雇用率算定
・納付金の徴収と調整金の支給対象を、101人以上規模の事業所にも拡大する(まずは、201人以上規模から段階的に)
・除外率の10%引き下げ(早ければ、今年7月から)
一方で、障害者雇用を進めやすい施策として
・中小企業における事業協同組合
・チーム支援
・障害者就業・生活支援センターの拡充
加えて、障害者自立支援法によって打ち出された内容について、設定された数値目標は、勢いのあるもので、中でも職場適応援助者による支援数(5割)が、近年各県でジョブコーチ(かそれに類する)養成を始める根拠となっている。
また、小川氏の私見として、定着率の測定方法は2年、3年の帰趨状況とするべき、と提案される(現在は6ヶ月)。

こうした状況で、各々の立場でできることは何か、という問いを発し幕を閉じた。

スライドの作り方で、「うまい」と思ったのは、以下の点。
1)分科会会場への道のりを、写真スライドで挿入し、会場の雰囲気を和ませた箇所
2)テキストボックスを淡い色の背景色、枠なしで使い、例を書き込む


○ワークショップⅠ(地方自治体の就労支援)
大阪府のジョブライフサポーター(JLS)事業、埼玉県の障害者雇用サポーター事業・市町村就労支援センター設置促進事業、広島県の障害者ジョブサポーター事業の事例紹介。
-大阪府
2005年度に府の単独事業として実施される。
大阪府下(政令指定都市・中核市を除く)の施設や作業所の利用者を対象に、主に施設利用者に「広義のジョブコーチ支援」を行い、就労促進を目指す制度となっている。
NPO法人大阪障害者自立生活協会が事業を受託。
支援機関は6ヶ月と、再支援可。
府の健康福祉アクションプログラムにも「ジョブライフサポーター事業の実施」が明記されている。
障害者就業・生活支援センターは主に在宅障害者を中心に支援することとし、明確ではないが住み分けがなされている。
国のJC事業との違いは、「実習のみ」の場合も支援対象とすることとしている。
雇用型JLS(当該法人で雇用している)と登録型JLS(施設などの職員で養成講座を修了した方を対象に活動してもらう)を設置している(職業センターのジョブコーチ支援事業と対応する形式)。
現在は、雇用型JLS(7人)がコーディネート役となり、登録型(95人)が実働している形となっている。
予算規模は、4,700万円/年から現在は5,600万円/年となっている。
活動は一日あたり1万円の謝金。
実績から、知的障害者は集中支援を過ぎると支援頻度は減少するが、精神障害者の場合は支援機関が長期化する傾向があることが言える。
職場開拓については、電話および訪問により、約7%の確率となっている。
提案型のNPOが事業を受託していることにより、対支援機関でも場合によっては指導的立場となりうるし、対行政にも事業の効率化について厳しい意見を突きつけている。
また、準備訓練のプログラムについて、その必要を提案される。

-埼玉県
Web「働く障害者のチャレンジ・ストーリー」
http://www.pref.saitama.lg.jp/A07/BM00/syougai/syougai02.html#link0
埼玉県市町村障害者就労支援センター、埼玉県障害者雇用サポートセンター、産業労働センターとの連携。
定着支援、就労コーディネート、雇用の場の創出、普及啓発と役割分担ができている。
特に、市町村障害者就労支援センターでは、職業相談から、実習支援、定着支援(ジョブコーチ支援)と一貫した支援を実施している。
(9日のシンポジウムと連動)

-広島県
障害者ジョブサポーター制度。
雇用率が増加しない原因として、1)年間1000人ほどの離職者があること、2)国JCが県内に12人。これらにより、障害のある人の離職防止、および定着支援のための機能が限られている。
事業内容:ジョブサポーターの養成・派遣。
ジョブサポーターには、1)企業内サポーター、2)派遣型サポーターがある。
(1は120人/3年、2は90人/3年)
企業内サポーターには、障害者雇用をする企業の従業員を対象に、障害特性に関する基礎知識、職場でのサポート等について学ぶ養成講座を実施。
研修プログラムの質は高く、好評を得ている。
派遣型サポーターは、障害者就業・生活支援センターを受託している法人へ登録し、同センターが派遣の調整をしている。
受講要件の見直しや事業の継続性、また企業ニーズを察知し、適切な支援や提案を実施できるジョブコーチの養成が、課題としてあげられている。


○ワークショップ2 「地方に就労支援の芽を植える」?!
山陰合同銀行の取り組みと、地方の企業を指導役として訪問した立場からの事例報告。
-『ごうぎんチャレンジドまつえ』の開設と知的障害者雇用に関する取り組み
山陰合同銀行(以下「ごうぎん」)の知的障害者雇用に関する取り組み。
趣旨は、1)知的障害者が専門的に就労できる事業所の整備、継続的雇用を行うことで、障害者の自立を支援する。2)「森林保全活動」に告ぐ地域貢献活動の柱とする。3)障害者雇用の地域におけるモデルづくり(開設までの取り組みや、運営ノウハウの後悔により、地域全体で知的障害者の自立を支援する。地域におけるセーフティネットのモデルケースにする)。
取り組みのポイントとして、慈善事業ではないことと、当該事業所だけの取り組みにしないという前提がある。
作業内容は、1)粗品の作成(絵を描く、森林保護と絡めたエコバックや木工品(通帳入れなど)、ノベルティなのに「銀行」の文字はない!)、2)事務補助業務(名刺や伝票印刷、ゴム印押し、冊子・パンフレット封入など)。
新規事業の開発と、既存業務の切り出し・集約、外注業務の内製化により、職務を再設計する。
その際のポイントは「新たな経費負担を発生させない仕組みづくり」。
雇用には、就労移行支援事業の訓練・実習(当初5人)、トライアル雇用制度(追加4人)、雇用前JC支援(新卒5人)など、状況に応じた対応をしている。

ごうぎんが障害者の就労支援を行う理由は、1)経営理念として「地域の夢、お客様の夢をかなえる創造的なベストバンク」を目指していること。「障害者が地域で当たり前に働く」という夢をかなえること。2)地域金融機関の役割として「リレーションシップバンキング」という視点から、地域経済の活性化をめざし、企業として障害者雇用促進法への対応を検討した結果である。とのこと。
最後に、企業は企業のネットワークをもっており、支援者は支援者のネットワークを持っている状況の中で、それらのネットワーク同士をつなぐ「ハブ」としての役割を就業・生活支援センターが担うべき、との提案をされた。

発表された宮本氏のスライド。
ごうぎんチャレンジドまつえの従業員が書いたイラストが、あちこちに動作を伴って表示され、面白いつくりになっていた。

本間氏の報告では、これまでの取り組みを紹介され、その上で「継続就労」を支える、本人の力、支援者の姿勢を提案された。
事例・経験に基づく、具体的な提案はわかりやすい。
<働く人にとって大切なこと>
ハンデのある、なしに関わらず「この社会で一人で生きていく力」が身に付いていること。
これが働き続けることの、大きな力と前提となる。
・会社にきちんと来れること
 (生活リズム、通勤、病気・事故の連絡など)
・ 働く体力があること
 (食事をちゃんと摂る、健康など)
・生活習慣は身についているか
 (他の人と一緒に働く上で必要になること、風呂、着替えなど)
・「働く」ということを意識できているか
 (言われたことはきちんと守れる、分からないことは聞く・相談できる、安全に配慮できる、金銭管理と使用、お金を使う喜び、など)
・みんなとの強調
 (挨拶、会話をする楽しさ、など)
<ジョブコーチにとって大切なこと>
・障害者、事業主からの信頼を得ること
 (そのためには、「専門性の研鑽」。どれだけたくさんの引き出しを持っているか、障害者の働いている現場をどれだけ見ているか、そこで「あがいている人」とどれだけ話ができるか。一緒の現場に立てる人)
・彼、彼女をどれだけ見ているか
 (どうして、なんで?きっと理由がある)

事業所開拓の時には、企業情報をいかに入手するかがポイントになる。
「地方」という言葉には、人口が少ないとか、この分野でいえば事業所が少ないとか、そういった意味も含まれるが、どんな状況においても就労支援を成功へと導く力は、「熱い思いと、具体的に動く行動力、そして人と人とをつなげるネットワーク力」であるということが示された。

2008年3月2日日曜日

写真モデルさんのお仕事

先日、嫁さんが就職活動をしていて、個人情報保護についてのパンフレットをもらってきました。


(派遣社員 個人情報保護マニュアル)

どこかで見たような気がしたんですよ。
Iyokiyehaの会社関係のパンフレットか何かで。

そして見つけました。


(ウチの会社の某パンフレット)

同じ方ですよね。
テレビのCMとか見ていると、違うCMに同じ女優さんが出ていたりすることがある(ウチの嫁さん、そういうの見つけるのが得意です)らしいですが、こんなところでも同じことがあるのですね。

何か、データベースとかあって、そこからチョイスするのでしょうか?
こういうパンフレットの作られ方、みたいなものにも興味が出てきた一件でした。

神経系の動作

合気道の稽古で、受身の練習をするのだが、師匠からよく「ある日、急にできることだから、続けよう」と言われる。
師匠の例えは「ギターのFコードが押さえられる時のよう」とのこと。
IyokiyehaはギターのFコードについては一週間かからずに、何となく押さえられるようになってしまったため、ピンとくる感覚はなかったのだけれども、急にできるようになる感覚というのは分かる。
例えば、ダンスの練習を続けていたら、初めは全く動かなかった腰が、多少8の字に動くようになったこと。
最近の気づきである。

受身の練習も面白いもので、一日の中ではなかなかうまくなった気がしない。
背中を打ち付ける日は、何度か背中を打って痛い思いをして「今日はこれくらいにしよう」とか言って、次の週になると少しだけ楽になるなんてこともある。

身体動作というのは、本当に面白い。
それまでの自分の身体にとっては「ありえない」動きだったとしても、その部分を意識して動かすことによって、少しずつ稼動域が広がる。
気づけば、それまで「意識して動かせなかった」部分が「意識して動かせる」ようになる。
おそらく、頭の中で動作を司る回路に、新しい通り道ができたことによるものだろう。

合気道の動作に限らず、武道の動作はこの「神経系」の動作が大部分を占めるものと考えられる。
もちろん、その動作を支えるだけの最低限の筋力は必要となるわけだが、その筋力を「効率よく」動かすことと、筋肉の収縮速度を上げることによって「速く」動くのとは、質が違うように思う。
後者を「筋肉による動作」とするならば、前者は「神経系の動作」と言えるか。

そう考えると、受身の練習で何度も背中を打って痛い思いをすること、それ自体が頭の中に新しい回路をつくるきっかけになっているのではないかとも考えられる。
「いい刺激を与えると、いいことが考えられる」
Iyokiyehaはこんな風に考えているが、同じように、
「いい刺激を与えると、いい動きができるようになる」
とも言えるだろう。

甲野善紀『写真と図解 実践!今すぐできる 古武術で蘇るカラダ』宝島社文庫、2004年。

「松聲館」(しょうせいかん)主宰、甲野善紀氏の著書。
固定的な支点を作らない「ねじらない、ためない、うねらない」身体の使い方を提唱し、近年では他分野(スポーツ、音楽、舞踏、介護など)との交流も積極的に進めていることについて、豊富な事例と身体動作についての写真解説がされている。
甲野氏の動作は、ビデオやDVD、YouTubeなどで見ることができるが、見ていて心地いい動きをする。
そして、不思議、の一言に尽きる動きをする。
あんな風に木刀振れたら、おそらく身体が「気持ちよさ」を感じるようになるのだろう。
本書では、そうした動作について研究中のこと、動作の説明などが、言語化されている。

Iyokiyehaは、この本を3年前くらいに購入し、飛ばし読みを含めると3回通りくらい読んでいるのだが、理解には程遠い。
頭で考えてもわからないことが多いし、書かれているように身体を動かしてみても、同じように身体は動かない。

http://jp.youtube.com/watch?v=AwY4lN24Vfk&feature=related
YouTubeにアップされている動画

「身体全体」で同時に動作することにより、常識では考えられない速度で動いている、ということはわかるが、では、身体の各部分を同時に動かす、ということが普段されているかというと、意識してはできていないのだろう。
身体の研究をするための教科書として、まだまだ手元に置いておきたい本である。

http://www.shouseikan.com/index.html
松聲館Web

おすすめ度:★★★★★(?)

坂東眞理子『女性の品格 ――装いから生き方まで――』PHP新書、2006年。

総理府から、埼玉県副知事などを経て、女性初の総領事(オーストラリア・ブリスベン)、現在は昭和女子大学学長の著者が、題名の通り「女性の品格」について語ることを通じ、女性だけに留まらない「品格ある生き方」について語る。
日常生活における、「常識」とか「マナー」と呼ばれるような、具体的な振る舞い方について表している部分と、それを超えた「生き方」について表している部分とがある。
「2007年最大のベストセラー」とされ、今回購入した書籍には帯に「280万部突破」と大きく書かれていた。
わかりやすい書き方と、日常ありがちな身近なことを扱っている箇所が多く、非常に参考になる。

個人的にいくつか感銘を受けた箇所はある。
「仲間だけで群れない」とか「時間を守る」といった具体的なことや、「グラス半分のワイン」(神よ、変えるべきものを変える勇気と、変えられぬものを受け入れる寛容さと、変えられるものか変えられぬものかを見極める知恵を与えたまえ、のくだり)、「愛されるより、愛する」、「倫理観」(Something Greatの存在)など、日常生活や自分の生き方を振り返るような内容もあった。

その中でも、最も考えさせられたのは、「ありがとう」という言葉である。
Iyokiyehaも気になっていることだが、日常生活の中で「ありがとう」と気持ちよく言う機会ってどれくらいあるだろう。

こんなことを思い出した。
院生の頃、課外活動によく参加するようになったのと同時期に、行動が「外向き」になり、いろんなお店を利用するようになった頃、いわゆる「いい店」と「どうでもいい店」とを分けるのが何かということを考えた。
その結果、やはり店員さんとのやりとりの内容だろう、という結論となった。
どんなお店でも、感じのいい店員さんがいると「いい店」として認識するし、店員さんとのちょっとした接点の中で、特に何も感じなければ「どうでもいい店」となる。
その時考えたことは「どうやったら自分の力で『いい店』を増やすことができるか」ということ。

結構な命題である。

「相手がどう」ということに焦点が当たっているのに、それを「私がどうするか」という問いに変えてしまったわけである。
当時、いかに空気の読めないポジティブ思考だったのかが分かるエピソードといえる。
その時出した答えは「感じのいい客になる」というもの。
シンプルだが、結構高いハードルだった。
この答えのキーとなるのが「ありがとう」の言葉。
行った店先で、その時の気分をいかに的確に表すか。
満足しているのであれば、その満足感を表すべきだが、1分と時間をかけられるわけではない。

一言で。

視線や表情、動作、全てに感情をこめた「ありがとう」は、それを受け取るレディネスがある人には、意外と伝わるものなのだなと今でも感じることがある。

一方で、日常生活の中で、そんな魔法の言葉「ありがとう」が、別の言葉にすり替わってしまうことがある。
「すみません」とか「ごめん」とか。
他人が落としたものを知らせて、拾ってあげたときに、その相手から聞かれる言葉が「すみませんでした」だけだと何だか寂しい。
思い切って「ありがとうございました」と言いたいものである。

こんなことを考えさせられた一冊だった。

おすすめ度:★★★★☆