2019年9月15日日曜日

養老孟子、森岡正博『対論 脳と生命』筑摩書房、2002年(初版:同『生命・科学・未来』ジャストシステム、1995年)。

・前回読了が2004/2/27とあった。修士論文を執筆しながら読んでいたものと記憶している。15年経って読み返してみたが、内容は古さを感じない。(1)現代社会を生きる私のよろこびとは何か、そして(2)その現代社会と私との関係はどうなっているのか、という点において、氏のテーマは変わっていないのだろう。それだけ普遍的なテーマであるといえる。ただし、現代においてはテクノロジーは確実に変化している。
・40歳を迎えた私にとって、森岡氏の一貫した思考方法において、現代社会におけるテクノロジーをつかんでいくことが組み込まれていることをはっきりと読みとけたことは、大きな進展といえる。「個人のあり方」に偏っていた学生時代の読み解き方とは大きく異なることを実感している。
・人は変わっていく。望むと望まないと関係なく変わっていく。その変化を納得して受け止められるかどうか、受け入れられるかどうか。意図して仕掛けて変わっていくこととは少し異なり、環境(広義:自分以外の全て)の影響を受けて、予期しようがしまいが、私におとずれてくる変化を、とらえて、受け入れて、それに納得できるということが「悔いなく生ききる」ことの意味ではないかと思っている。
・対談集を続けて読んでいるが、本当の意味での議論ってこんなに知的好奇心を刺激させられるのかと実感させられる。テーマが深まり、広がり、触発されて次のステージに移り変わる様子が読みとれる。

(以下引用)
10(「意味」の意味)意味というのは結局いろんなものの関係ですよね。(中略)意味はその人が死というものをどういうシステム・考え方の中に位置づけているかということだと思うんです。死自体が存在するとかしないとか、そういう話じゃなくて、そういうものをめぐる全体的なシステムがどうかという質問になっちゃう。
20(解剖道)死体と向き合っているあいだは、相手は他者なんです。ある段階からそれが他者でなくなって、自分の手が動いていく道筋みたいなものが生まれてきた。自分の手が動いていくといっても、自分で動かしているんですけどね。だけど、それは自然に動いていくので、いってみれば境界がなくなっちゃう。(改行)強いて他者だと考えているうちに、自分が何をしているのかというと、相手に聞いているわけです。自分の動作が相手に質問することになり、相手からの返事は耳でなく体で聞いているという、そういう状態になってくる。
28(人の死と科学の限界)何が人の死であるかを「科学的に決める」ことは原理的にできないということが、まったくわかっていないんですよ。人の死が何であるかを決めるのは、宗教であり、習俗・慣習であり、法であり、政治なんです。
86 システムのなかのひとつの歯車にされてしまった生命は、その「かけがえのなさ」を抑圧される。
89 追試不能な「かけがえのない」ものと、法則とか統計の次元で意味をもってくるものとを、社会のなかでどうやってうまく結合させていけばいいか、ということですね。
92(変化すること)私の成長に応じて、世界の見方も変わるし、真実そのものも変化していく。それだけではなくて、世界を見ようとする私自身が変化していく。(中略)つまり、私が対象を認識したり、何かを考えたりすることの、その全体が変化していく。世界を見たり考えたりするその基準点そのものが変化していく、という感じなんです。生命世界というのは、そういう動き方をする世界じゃないかと。
121(自己家畜化)(第一段階)現代文明は、痛みとか不快なことを自分でコントロールできる範囲内にどんどん繰り入れるという形で進んでいて、われわれの多くがそれを承認しているという事実があると思うんです。(中略)(第二段階)極端な痛みや苦しみは全部排除するけれども、耐えられる痛みや苦しみは自然に任せておくという形での巧妙なコントロールを始めると思うんです。
124 自分は基本的に変わらなくて、ただ環境のある範囲内の変動に応じて、ゆらゆらと揺れているだけ。そういう生のあり方を選択することになるのでしょう。
131 要するに個性とか個人とかいうから死んでしまうわけであって、右の人とか左の人が同じであれば誰も死ななくなる。それが一種の理想社会です。
154(ヒューマニズム)結局ヒューマニズムというのは、人間のあいだにまず差別を設け、強者による弱者の搾取や支配を正当化するイデオロギー装置であるといえる。普通ヒューマニズムは、搾取とか差別とかに対抗するイデオロギーだというけれども、よく考えるとヒューマニズム自身が差別の構造をもっている。
164(二つの「知」)まず単に「知る」こと(中略)学問というのは一つは、現実を広げていく作業(中略)何のためにそういうことをするのかという目的が入ってくる。それが入ってきた「知」というのは、何らかの目的のためのものですから、もはや純粋な「知」ではない。
196(変化すること)われわれがものを覚えていくには二通りあって、人から伝えられて覚えることも確かにあるんですが、もう一つ重要なのは、そういう死んだ人体という自然と自分が密着していくことによって、自分のほうが変わってくるという体験によっても覚える。しかも、これは絶対に口では伝えられない。なぜかというと、いまの自分はかつての自分ではないわけです。
198 ポイントはやはり、自分が変わるということですね。私がいいたいのは、とくに近代の自然科学という「知」が、自分があることを体験したり、ある世界を見たり、この世に生きて何かすることで変わっていくというあり方のなかで育まれる「知」というものを、系統的に排除し、抑圧してきたということです。それが近代から現代の自然科学的な知のあり方であり、それを支えているのが近代的社会の構造だと思うんです。
199 そのためには、生命というもののあり方から突っ込んでいくのがいちばん早いというか、真っすぐな道だと思うんです。なぜかというと、生命というのは結局変わるからです。我々自身が生命そのものであり、生命はほかの生命と関係しながら、成長して変わっていくでしょう。固定したら死んじゃうわけです。だから、まさにいま我々が話題にしている「知」のあり方とか、他人を変えることは自分が変わることであるという問題の本質がそこにある。
215(共犯関係)この社会のシステムは、個々人の意図や動機をうわべでは尊重するように見せかけながら、実はもっと大きなシステムの効率のために、裏側からこっそり利用するようなことをします。そしてその仕組み全体を、我々が無意識に肯定している。抽象的な言い方ですけど、そういう構造の欺瞞というか、システムと個人との共犯関係みたいなものを、きっちりと見ていくことが必要です。それが、いまの「知」の課題でしょうね。