2019年3月24日日曜日

自分であること

 元々自分の身体感覚には興味のあるIyokiyehaです。学生時代に運動は苦手だったのですが、サッカー、軟式テニス、ハンドボールと部活に所属し、大学生の時にはワンダーフォーゲル部で山登り。この経歴に一貫性はないのですが、その根っこでは、身体の感覚とかしくみとか、そういったことへの興味がありました。
 甲野善紀氏の井桁理論に触れたことをきっかけに、木剣を振るようになり、縁あって合気道(昭道館)に接し、雇用支援の中で精神障害者のプログラムを運営することになったことで、精神保健福祉士の勉強をしました。精神衛生に関する勉強において、脳の働きや循環器・呼吸器などにも触れ、運動だけでなく、リラクゼーションや呼吸法なんかを学んで、実践してきました。メンタルヘルスの知見を下敷きに、筋弛緩法やシステマブリージング、アンガーマネジメントに触れ、近年たどり着いた一つの到達点がマインドフルネスと合気道(錬身会)です。
 瞑想や型稽古に取り組みつつ、ここ最近は坐禅もやってみて仏教思想への展開が予想されます。昨年末から生命学の森岡論を一からなぞっていることも影響しているでしょうし、20年間で仕事の内外でこれだけのことに浮気し続けている自分が、今後も何か一つのことに傾倒することはないんだろうなと思いつつ過ごしています。こういうことを振り返ったのは初めてです。

 なんでこんな振り返りをしたかというと、マインドフルネスや禅の考え方・思想の中核に近い「ありのままでいること」「いま、ここ」「実物の自己」「自己ぎりの自己」といったモノ・コト(という表現しかできないな・・・)は、少なくともキリスト教にも通じるものなんじゃないかと、マザーテレサの言葉を読んで感じたからです。今後予想される仏教思想への展開は、そのまま歴史学習を通じたキリスト教やその後多分イスラム教、他の勉強につながっていくように思います。偶然にも高校倫理を学びなおしているところでもあるわけで。宗教が戦争の材料ではなく、本来人々にやすらぎや生活規範を与える基盤となるモノ・コトである、あるいはそうした側面があるならば、新興宗教等を含めたどのモノ・コトにも核に近いところにそうした考え方があるんじゃないか、と思い至っているわけです。
 人の能力解放みたいなことをライフワークに位置づけているIyokiyehaとしては、宗教的な考え方は避けて通れないと思っていますし、その中に何らかの共通点が見いだせるのではないかと考えてきたところの思いつきです。悩みがなくなるわけではなく、その苦しみから解放される、みたいな考え方って、多分に宗教的でありながら、それだけじゃないような気がするんですよね。それをプログラム化したものがマインドフルネスの瞑想だとすれば、これをつくる背景となるモノ・コトには、頭の休息以上の何かがあるはず。仏教では「悟り」という言葉があるけれども、そんな雲の上の存在みたいなものではなくて、もっと身近でありながら、もっと深いところで、それでいて現代社会を生き抜く知恵みたいなものを探っていきたいと思います。

 あれやこれやと浮気しているように見えて、実はすべてがつながっている、なんてよく言われるけれども、それって後で自分の都合のいい解釈をするだけだよね?と思うところだったりします。それでいいじゃないですか。