2024年4月29日月曜日

ゴールデンウィークにふと思う

 世間では大型連休が始まったと報じられる。我が家にとっては、今のところただの3連休。私の仕事はカレンダー通りなので、なか3日に年休をとることもなく、長女が土曜日通学なので、なんとなくのんびりの休日を過ごしている。合気道も今週は土曜日だったので、日曜、本日と、家事→買い物→庭掃除、で過ごす。

 お隣さんが引っ越してきて大体1年。3人きょうだいの一番下の子は、はじめ抱っこされていた(まだ、生まれたばかり)のに、もう歩いていて、先日4人目が生まれたとのこと。子ども、特に他人の子の成長というのは、ことのほか早く感じられるもので、一番上の行動に、二番目がイヤイヤを発し、三番目がマイペースに遊んでいる、という様子を庭同士で眺めている。ご近所付き合いってこれくらいの距離でいいな、と思う。

 先週、先々週は洗車していたのだけれども、今週は完全に草むしり。芝が伸びてきた時に、すっきり芝刈り機をかけたいので、芝以外の草(=雑草)をむしりまくり。いろいろ試してみたのだけれども、やっぱり手がぬいていくのが、終わった後すっきりする。去年くらいから、「ある日」に一日かけてやるんじゃなくて、一日数時間でも何回かに分けてやる方法をとっている。春から夏の、暑さ順応を兼ねた儀式みたいなものになっている。真夏になると、とてもできたものではない。

 そういや、急に暑くなってきたから、エアコンも掃除してやらんといかんな。なんだかんだで週末に家のことをやっていると、いろんなことは考えるけれども、ほとんどのことが「どうでもよく」なってくる。とりあえず明日はやってくる。ラジオ聞きながら、日常に目を向けるのも、自分の精神衛生上はいい効果があるんだろうな。休日なんか、基本、これでいい。

中澤朋子『不倫女子のHappy Holidays!』Audiobook.jp。

  感想は、最後の段落部分のみ。それまでは、本書を読んで浮かんできたことをメモ

 「不倫」という言葉は、社会的な背景があって生まれた言葉といえる。自分にやましいことがないから言えることだけど、他人と他人が好き合っているという関係が起点となって、そのお互いの置かれた状況によって、それが不倫であるかどうかが決まる。よって、率直には自分には関係のないこと。もう一歩踏み込むならば、それは当事者同士の関係であって、それ以外の人には、原則関係のないことといえる。

 だから、それが(なぜか)自分の身に降りかかる時というのは、何かが私の境界を突き破って入り込んでくることに他ならない。このことですら「他人に迷惑をかけないようにしてからきてね」になってしまう。そんな状況に置かれた人が、休日をどう過ごすかということについても「そんなの、自分で考えなさいよ、大人なんだから」。一人になって何かを思い出して苦しんだり、いわゆるイベントに孤独を感じて苦しむ、なんてのは仕方のないことだけれども、それは当事者同士で作ってしまっている感情なのだから、そこまででしょう。

 じゃあ、こういうことが当事者間の人間関係と、社会的に作り上げられている常識みたいなもののギャップによって作られているから、「社会が変わるといいよね」という論調はやっぱりちょっと違和感があるわけで(本書はそこまで言っていない)。社会に求められているのは変化ではなく寛容。余計なことを言わない、感じさせない態度が、成熟した社会といえるのだと思う。人のあらさがしをして、ネットで曝して笑いものにする、というのは寛容さの微塵もない自分本位の、自分が一番大事な人達の行動だから、そういうものは、少なくとも自分の中から排除した方がいい。

 そもそも「不倫」なんて言葉を使うから、自分の本心と社会的な後ろめたさとの間で悩み苦しむ人々が絶えないわけで。冒頭にもドライに表現したけれども、本質は、人を好きになる気持ちであり、それ以上でも以下でもない。私の周りには、いわゆるこういう関係を経て幸せをつかんでいる(ように見える)人がいる。相談を受けた数人には「全力で奪い取るのがマナーなんじゃないの」と言った覚えはあるが、これも「奪う」なんて言葉を使うからとがって見えるのであって、要は「一番好き合ったところで覚悟をきめた方がいいんじゃね」って言っているだけで。当事者それぞれの感情を考えたら、どこかに被害者は出るけれども、この態度を決めきった人達が、人間関係を次のステージに進めることができるのだと思う。

 さらりと聴いた本だけど、いわゆる「不倫」(←この言葉は好きじゃない。人間関係の本質を突いていない)も、人間関係の一形態として考えると、いろいろ思うところはあるな。この本の記述から学んだ一番大きなことは、笑いのツボは千差万別ということ。重なることは滅多になく、場合によっては人を不快にさせることがある、というくだり。著者は多分その人との相性、みたいな文脈でこの表現をしているのだが、これは本質を突いている事実のように思える。

寺地はるな『ガラスの海を渡る舟』PHP研究所、Audiobook版。

  発達障害の疑いのある道と認められたい羽衣子。凸凹きょうだいの二人が、祖父の死を受けてガラス工房を始めるお話。モチーフに東日本大震災や、コロナ禍が語られる。

 ガラス工房で「骨壺」を中心に、ありとあらゆることで衝突する二人と、それがいくつかのエピソードを経て氷解していく。少なからず人間関係が変化していく、その感情の動きを静かに、しかし確かな変化を伴い表現される。それぞれの時期に、それぞれの立場・見え方から語られる物語は、頭の中にすっと入り込む描写とはいえ、じわじわと深いところまで入り込んでいく。終章まで進めると、きっと気持ちが軽くなる内容です。

 表現で印象に残っているのは、

・新しいことは、いつも静かに始まる。イベントのように用意されたものではない。

・解決しないことは、対処すればいい。

木宮粂太郎『水族館ガール』実業之日本社、Audiobook版。

  正直なところ、中学生向けのティーンズ小説かライトノベル的な読み物かと思っていたし、そんな軽い読み物を欲していた時期の聴き放題コンテンツだったので、軽い気持ちで聴き始めたが、これがなかなか読ませる内容でした。

 内容については解説に詳しい記述がありましたが、いわゆる「職場」小説から、「専門職」小説へ、そこに個性的な人間関係が加わって、軽い語り口でありながら、水族館職員のマニアックなやりとりから、イルカの生態まで、いろんな角度から「水族館で働くこと」が浮き彫りになるような内容となっている。水生動物を扱う博物館としての位置づけもきちんと据えられており、「水族館とは何なのか」「その役割の変遷から不変の価値」「わかりやすさ、を考える」など、専門職が抱く矛盾とそれに向き合う若い出向自治体職員の奮闘が、エンタメとしても読ませる内容で描かれている。

 軽い気持ちで手を出した本ですが、なんともなんとも、自分の興味関心をバシバシと突いてくる内容でした。面白い読み物です。

瀧本哲史『武器としての交渉思考』星海社、Audiobook版。

  交渉はゲームでも、勝負でもなく、コミュニケーションである。そして交渉のゴールは、自分も相手も合意できること。そのためには、相手の立場を理解する、自分が話すよりも相手の言い分を聞く。

 交渉とはお互いの意向に重なりがある場合にのみ成立する。

BATINA(複数の選択肢)をもつ、ZOPA(合意できる範囲)を把握する。

雨穴『変な家』飛鳥新社、Audiobook版。

  これは、怖かった。文句なしに怖い。『ちょんまげぷりん』にほっこりした次に聴いたので、余計に落差があったかもしれない。

 書店で平積みになっていた頃に、パラパラと立ち読みして、次に進まなかった本でした。だって、図面を観て何か突っ込むかのような印象を受けてしまったので。聴き始めてびっくり。ちょっとした間取りの違和感から展開する壮大なミステリー。いい意味で期待を裏切りながら、ついていけるかどうかのギリギリの展開で、次が気になってしまう物語です。なんか、人間の内面や闇、脆さ、そして狂気、さらに良心、さまざまな感情に触れていく内容なので、聴き入ってしまいながらも、少ししんどい。要は、ミステリとして良作だったことです。

 いやぁ、小説にはこういう突き抜け方をするものがあるのでやめられない。

荒木源『ちょんまげぷりん2』小学館、Audiobook版。

  前作『ちょんまげぷりん』の続編。聴かせる。

 前作から数年後、青年となったユウヤが今度は江戸時代にタイムスリップする。突飛なストーリーでありながらも、ちょっと想像力を膨らませると、現代人を江戸時代の人がみたら、見た目からやっぱり「変な人」なのだろう。石を投げるのだろう、逮捕(お縄)するのだろう。そこで出会う木島安兵衛がお許しを得るための「プリン」開発劇。その中で成長するユウヤとタイムスリップの謎。めまぐるしく展開する物語に、ほっこりしながらも、ついつい引き込まれてしまう魅力がありました。知略謀略や陰謀などは物語のスパイスになっていながらも、その辺はさらっと流して、ほっこりできるいい小説です。読了感がいい良作でした

北村薫『空飛ぶ馬』東京創元社、Audiobook版。

  そうか、推理小説だと思って聴いたら、少し聴き方が変わったかも知れない。謎が深まっていく様子が、らせんを描いて何かに向かっている感じは受けたのだけれども、歩きながら全体の筋を理解するには、夜な夜なぶったるんだ頭には、ちょっと負荷が大きかったようです。評価は高い読み物なので、もう少し余裕があるときに、もう一度聴いてみよう。

荒木源『ちょんまげぷりん』小学館、Audiobook版。

  江戸時代から現代にタイムスリップしてきた侍が、シンブルマザー家庭で暮らしを共にする様子を描いた軽い小説。ありえない描写が、なかなか読ませる内容で、江戸時代の人々の暮らしと、現代の人々の暮らしを比べる観点が、とても面白い。

 外出を控えて家事をしていた木島安兵衛が、その料理の腕を買われてコンテストに参加し・・・というあらすじなのだけれども、ひょんなことから、江戸時代と現代との接点が見いだされ、というたいへんほっこりする小説でした。最後まで聴いたら、題名の意味するところがわかりました。

チェット・リチャーズ著、原田勉訳『OODA LOOP』東洋経済新報社、Audiobook版。

  OODAループとは、

 Observe 観察

 Orient 状況判断、方向付け

 Decide 意志決定

 Act 実行

 のサイクルを指す。元々軍隊の戦術レベルでの意志決定プロセスを分析して抽出したフレームワークのようだ。

デヴィッド・グレーバー著、酒井隆史、芳賀達彦、森田和樹訳『ブルシット・ジョブ -クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店、Audiobook版。

  どうでもいい仕事、やらなくてもいい仕事というものがあるのは、私も感じていることであるし、組織的な営みとしては「やむを得ない」ものであるとも思うところがある。では、それを完全に切り捨ててしまうと、、これが意外と困らないものが多い。そういった仕事を表現し、対策を論じている書籍だと思っていた。

 ビジネス書の注目書籍の中で、注目されていた時期もあり、気にはなっていた。ただ、聴いてみると、どうにもしっくりこない論考でもあった。なぜか。本書の論考は、文化人類学者が「よくある要らん仕事の本質を言語化する」のが本著のねらいであった。このことに気づくと、確かに本著は事例が抱負で、Bullshit Jobが浮き彫りになっている。

 誰でも知っているが、誰にも言われていないが故に、誰も言わない、ことを明晰に表現するのは困難だが、これを表現することに関する意味。Bullshit Job。bull-shitとは、下品な言葉だが、くだけた親しみ・率直さを表す。BSと略す。いやなもの、不必要なもの、嘘、ホラ、でたらめ、嘘つき、嘘をつくのが上手い人、でたらめな、ばかばかしい、怒った、酔っ払った、だます、嘘をつく、でたらめを言う、いい加減なことを言う、など。嘘、だけでなく欺瞞のニュアンスがある。「クソどうでもいい」も限定的。無意味、とりつくろいと見せかけがある。「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で不必要で有害でもある雇用の形態」「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で不必要で有害でもある雇用の形態であるが、本人がそうではないと取り繕わないといけないと感じている」。

 実用的な暫定的な定義は「被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で不必要で有害でもある有償な雇用の形態である。とはいえその雇用条件の一貫として本人がそうではないと取り繕わないといけないと感じている」仕事。取り繕う=pretendがポイント。空気でもって言わないことになっている、とする世界のこと。

 Shit Jobとは異なる。shitは、劣悪な労働条件で、実入りの少ない、さげすまれる仕事を強調する。この仕事は、「キツい仕事」くらいと訳され、役に立つ仕事である可能性が高い。例えば、トイレ清掃など。本来は他者からもっと評価されるべき仕事だが、そうなっていない。その仕事に就いている人も、そういうことに気づくことができて、取り繕う必要は無い。Bullshitとの違いは、pretendのくだりで、取り繕う必要とその空気感の有無が大きな違いになる。

 こういう概念構築の仕事って、有益でない言葉遊びのように語られがちだけど、実際には世界の一隅をきちんと照らして、その価値を浮き彫りにする仕事として、本当に有益なのだと思う。哲学とか社会学の成果っていうのは、こういうところにあるのだろう。そういった価値に気づいて、自分なりに言葉にできたということが、この書籍から学んだことだったりする。

深井龍之介『歴史思考』ダイヤモンド社、Audiobook版。

  コテンラジオでおなじみ、深井龍之介氏による著書。世界に名だたる著名人のライフストーリーを追いながら「歴史思考」を提唱する。成功や失敗は、若いときの出来事だけではない。人生100年時代に30歳までで成功を測るのは早すぎる。現代とは異なる常識・背景を知るための思考の柔軟性、物事をそのまま受け止めるためのメタ思考。歴史を学ぶことの意味に、知識・教養だけでなく、具体的な事象に対して思考を広げ・深めるための土台を養うことを加え、よりよく生きるための学びという視点を与えている。学生時代に、こういう番組・先生に教わることができたら、と思ったこともあったが、今出会えたこともきっと意味があることだろう。

凪良ゆう『流浪の月』東京創元社、Audiobook版。

  身体も心も居場所のないサラサ。小学生の時に、両親と暮らせなくなり、引き取られた親類の家にも居場所はなく、ようやく見つけたフミとの生活も「誘拐事件」として扱われ、自分の思いとは裏腹に、社会的にもねじ曲げられ記録される。

 自分の思いと、周囲の認識がずれることは珍しくない。ただ、本作では周囲の認識が自分の虚構を真として作り上げてしまう社会を、前面に押し出して表現する。「事実と真実の間には隔たりがある」という表現がじわじわと自分に浸透してくるような物語である。

 実際にこんなことあったら嫌だな、と思ってしまうような内容も、結局人間というのは理屈に合わない行動や感情の揺らぎの中で、似たような言動をとっているのかもしれないし、観察できる他者の言動も、結局理屈には合わないことなのかもしれない、いや、多分そういうことが占める割合って、自分が思っているのよりも大きいのだろう。となれば、人にとやかく言うのではなく、自分がどうあるべきか考えて一つでも行動に移す方が、自分にとっては有益だろうと思う。そうできないことがあっても、それも自分だと認めることができれば、自分ではない他者のそれも寛容さで受け容れられるかもしれないし、受け容れられないにしても、自分に負の影響がないように制御できるようになるだろう。

 案外、強い人、というのは、凝り固まった鉄壁の論理を身につけている人ではなくて、状況に応じて自分を変えることで、自分の強いところで常に対峙し続けられる人のことなのだろうと思うに至る。

荻野弘之、かおり&ゆかり『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業 -この生きづらい世の中で「よく生きる」ために』ダイヤモンド社、2019年。

  自分ができることと、できないことを区別する。事実と評価は異なる、事実に善悪はない。どんなことであっても「善用」はできる。「自由に至る唯一の道は『我々次第でないもの』を軽く見ることである」欲望、判断、忌避、意欲は自らの欲望としてもいい(我々次第のもの)が、例えば、評判、身体、地位、財産などは、我々次第でないもの(裁量の外にある)であるから、として、軽視する。これを「禁欲」と呼ぶのが古代ストア派の考え方として紹介されている。この根本的な思考から、個別具体的な考え方が論じられる。

■以下、項目引用

84 人々を不安にするものは、事柄それ自体ではなく、その事柄に関する考え方である

132 「傷つけられた」と君が考える時、まさにその時点で、君は実際に傷つけられたことになるのだ

152 他人と同じことをしないでいながら、同じものを要求することはできない

164 他人をも自分をも避難しないのが、教養のできた者のすることである

アラン・W・エッカート『大草原の奇跡』めるくまーる、2000年。

  大学生も後半に差し掛かった学部3年生の頃から、修士課程を修了する直前まで、とにかく本を読もう、とアルバイト代を原資に毎月10,000円分の図書券(当時)を金券ショップで買って、10,500円分の本を買うということをやっていました。おかげで、当時JR静岡駅、静岡鉄道センター付近の金券屋で顔を覚えられてしまう始末。

 この本は、そんな頃に静岡市の谷島屋さんで、多分平積みになっていたものにピンときて、小説枠で買ったものと、時期的に思われます。それから、浜松帰宅後の数回の書籍整理を生き残り、前回帰省時に所沢へ移送してきたもの。状態が良かったので、そのまま読み始め一気に読み切ってしまった。

 私が生まれる前に、オーストラリアで出版されたものが、世界十数カ国で翻訳されたロングセラーらしいです。著者のことも、この物語のことも知らなかったのだけれども、日本でも古くに出版されたものが絶版となって、2000年に再版されたようです。

 自閉症っぽい男の子が、草原で遭遇したアナグマと二ヶ月間生活を共にした物語。一言でまとめるとこうなるが、その出来事を通じて起こる成長・家族の変化が、胸を打ちます。特に引き込まれるポイントとしては、アナグマの行動と、主人公ベンとアナグマとの生活の描写が、活き活きと表現されていること。訳がいいのかもしれないが、原著はもっとすごいのかもしれない。おそらく両方が素晴らしいのだと思う。結末も、フェードアウトしていくようなイメージの物語で、私は好きです。思わず頬が緩む。

 現時点では絶版となっているらしいのですが、文庫化とかされているのかな?いずれにせよ、図書館になければ、入手は難しいと思いますので、興味のある方はお知らせください、お貸しします。

■引用

230 ねえ、ウイリアム、あの子とアナグマはなぜだか切っても切れない間柄なのよ。私たち、理解するよう努めなくちゃね。理解できないとしても、あの子を助けてやりましょう。