2021年8月1日日曜日

「笑いをとる」とは、「おもしろい」とは

ウチの子どもらと、テレビのバラエティの話。

最近、我が家の子ども達も、芸人さんのネタを引き合いに出しながら会話するようになってきた。「おもしろいこと言って」とか「それは面白くない」など、傍で聞いていたら何が面白いのかよくわからないことを、何やらこねくり回している様子を時々見かける。子どもたちは、そんな父親の様子をおそらく感じ取っており、私にはその手の話をしてこないのだけれども。

長女、長男、次女、三人が三人とも、本気で何かに取り組んでいる時には、その事の大小はともかく感心させられるし、本気でやった時の失敗やへまは、非難すべきことではなく、助言のきっかけだったり、思わず笑ってしまう出来事であったりするわけです。私にとっては、本当の意味で「面白い」ことであるわけですが、どうもこの「面白い」と子ども達が会話の中で使う「おもしろい」との間には、大きな隔たりがあるような気がする。

元々Iyokiyehaはテレビをあまり見ないのですが、子どもが観ている番組が見えると、何が面白いのかわからないような、人をコケにした話題で子どもたちにも爆笑が起こるのを観ると、なんだか複雑な気持ちにさせられる。何だか、最近の「おもしろい」や「笑いをとる」というのは主語が「自分」に留まっているように感じられる。だから、そこに大きな笑いがあっても、それは「自分の集合」でしかなく、本気の芸人さんが狙うような「笑いの場」とはやっぱりちょっと違うような気がするんだよね。そういう中で形作られた「おもしろい」って、他人がどうあれ自分がおもしろければ(それで)いい、といった雰囲気が感じられるので、私はひいてしまいます。むしろ不快感となってしまのだな。

この辺は複雑です。子どもが観たいテレビ番組くらいは気持ちよく観てもらいたいけれども、私が(多分)嫌いなものを楽しんでいる姿が見えてしまうのは、複雑です。でも、こんなことを考えているのは、敏感な子どもたちにはバレているのだろうな。だから、私はそーっと自分の場所で本読んで過ごすとします。うーん、悩ましい。