2021年6月5日土曜日

PTAについて考えてみた(総括)

  2018年度~2020年度の3年間、子どもが通う小学校のPTA本部に在籍していました。この度、ようやく退任となったことからこれまでの総括をしておきます。

 総じてどうだったかというと、前向きに「学校を身近に感じられるようになったこと」「保護者として学校に関わることに関する距離感がわかったこと」などがあげられるでしょうか。PTAの役員として学校に関わったことで、これまでは役割-役割での接点だったものが、個人-役割(学校)とでやりとりすることについて、変に気負う必要がないことがわかりました。学校予算については、これまで全く意識してこなかったのだけれども、地域や社会の要請にこたえるだけの①人的資源、②裏付けとなる予算、がないということがわかりました。

 ①は質的(優秀かどうか、世の動向を把握しているかどうかなど資質に関すること)なことは話題にしません。○○をやった方がいい、やるべきだ、と意思決定して、職員間での共通認識もある、と言った時に「じゃあ、誰がやるか」となるわけです。すでに予定も労力もいっぱいいっぱいのところで何か事を起こせばそれは兼務になり、現状に足す発想にしかなりません。片手間でやるべきでないことも、片手間でやらざるをえないことになりかねない。これは全てにおいて先生方の負担になり、その被害をこうむるのはまわり回って子どもたちでしょう。

 それに加えて、②予算です。余剰予算は全くない状態で何をさせようとしているのか。地域も国も再考の必要があると思います。

 いずれにせよ、PTA活動をする個人ではどうしようもない、と思うのですが、どうでしょう。教員の資質や事務分掌に関することは、学校の判断によるものだし、予算については学校でもどうしようもなくて教育委員会、果ては文部科学省にまで達するものです。もちろん、課題を整理して明るみに出すことは必要だけれども、それ以上の圧力を、権限のないところ(学校)にかけるのは、マナー違反といっても過言ではないでしょう。その行為が学校の活動を邪魔をすることになると思います。

 しかしながら、残念なことに周りを見回すと、この「マナー違反」が横行しているのが今の学校を取り巻く環境ともいえます。市内でも、「○○を廃止した」「役員のなり手がいないからPTAそのものを廃止した」などの情報があります。そして、それを自慢げに語る当事者を名乗る方もおられます。それを実績に、PTA不要論を展開する方々がおられるのも、それに便乗して地域にも必死に「要らない、要らない」と言って回っておられる方がおられます。

 もちろん、今のPTA活動が「本当にやるべきことだけで構成されているのか」と いう検証は必要です。Iyokiyehaが3年間地味に考えてきたことは、活動の見直しを通して、「必要最低限の活動にすること」「役員は有志で行うこと」「いろんな人に、PTAを通じて気軽に学校に関わってもらうしかけをつくること」でした。一部できたけど、まだまだこれからだ、という時の退任です。ちょっと残念。でも、私としては一旦ここまでかな、という思いもあります。

 現行の活動の中で、学校の教育活動に「きちんと資する」ものは何だろう。それを有志で行うことのできる範囲としくみってどんなイメージだろう、コロナ禍だから一旦ゼロベースで考えてみたらいいんじゃないの?本部での私の発言は、全てこんな背景からだったはずです。ただ、(面白いことに)そのことを発すれば発するほど、意外や意外「これまでは○○だった」「○○を楽しみにしている人もいる」「そんなに悪いものじゃない」「コロナの中でどうやったらできるか」という内側からの現状維持の妙な圧力があったり、思わぬ外野から、直接・間接に「あーだこーだ(聞くに堪えない意見が多すぎました)」言われるなどして、もはやストレスなんて上品なものではなく、呆れ果ててしまった、というのが正直な感想です。

 内側の刺客に対しては、「やりたくないならやらなくて結構。変化が怖いのはそれでも結構。ただ、あなたの心無い一言が、他の人達のやる気 をどれだけ削っているか考えた方がいいんじゃね?」「あなたが、議員や地元の名士?を使ってまで主張したいことは何ですか?」「家庭教育学級の本質は、親の学習権ですよ。やってもいない、参加してもいない家庭教育学級不要論は聞きたくない。『俺は 学ばないから学校なんか要らねぇぜ。よくわからないけど俺には必要ないからみんなも必要ないよな、やめようぜって言っているのと同じです。ちょっと付き合いたくないですね」。

 養老孟司さんが昔言っていた「バカの壁」って身近なところにたくさんあるんだな、ということも存分に学ばせていただきました。その中で私の主張は伝わりきらず、一部の先進的な取り組みの方向と、なんだかよくわからない便所の落書きで盛り上がっている方向のそれぞれ双方から刺され過ぎて、ちょっと痛くなってきました。地域活動の面倒なところってこういうところなのだろうな。それぞれへの懸念は、前者(先進的な取り組み)は本部役員から「無言の排他的雰囲気」がでないといいなと思っています。活動方向や意思決定にWebの仕組みを活用する、というのは、私が本部役員になった当初から主張してしくみを用意して昨年度ようやく花開いたものですが、そのコンテンツや利用方法がすごすぎて、「PTAすごい」が突き抜けてしまうと、別の意味で「負担」を感じる人が出てしまう懸念です。こちらの点はほどほどに取り組む、シンプルなしくみ、を意識することが必要かな。後者(便所の落書き、不要論など)は、過剰反応せず、便所の落書きには逐一対応せず、筋を通ってきたことについて、きちんと対応する、という超基本的な対応が必要かと思います。あまりにアホな内容は報告で曝す、くらいの戦略はあった方がいい。「説得すればみな納得する」という性善説は危険です。

 声の大きな考えない人達や、地元の名士?が何と言おうとも、私の結論は変わりません。PTAは学校を支えるために必要な、緩衝材のような存在。親が学ぶ機会を提供する家庭教育学級はカルチャー講座ではなく学習権の保障(だから、もっとしゃきっとせい!)、個人の文句は個人で言っていなさい、本当の主張と悪口増幅装置を通っている情報を分けなさい、ということです。

 私は、PTA活動は必要で存在も賛成の立場です。活動している人達は応援します。手伝います。学校も見守ります。誰かに負担をかけて派手な活動をするんじゃなくてさ、いろんな人がちょっとずつ学校を気にかけて、子ども(たち)を気にかけて、一緒に盛り上がって楽しめる。役員じゃない親御さんも、卒業生の親御さんも、親御さん自身が卒業生でも、他所からきてたまたま学区に住んでいる人だって、公民館を使うだけじゃなくて(これはこれで思うところがあるけれど)学校に関わっていいんじゃないかな。その窓口としてPTAがある、と思ってもらえるような活動になって欲しいなと思います。

 先日、別の活動で校長先生と会った時に「一旦引退ですが、再登板もありますよね」「いやぁ、Iyokiyehaさんは話を聞いてくれたからやりやすかったですよ」「お互いに結構言いたいこと言ってましたもんね」などと言ってもらえました。再登板するかしないかは全く未定としておいても、学校からそんな風に思ってもらえたならば、内側からどう思われていたとしても、まぁ成果はあったんじゃないかなと思うところです。コロナのせいで、家庭教育学級に全く手がつけられなかったことは純粋に残念でしたが、これは社会教育の枠で考え続けたいと思います。

 あとは、地域活動に参加して感じたこと。私のマネジメントの癖は「異質な声の大きな人を取りまとめるのには、そんなに向いていない」「仕事ほど粘れない」「作業に集中させてもらえた方がいい」「言葉が稚拙」といったことがあることに(改めて)気づきました。学校より広い概念「学区」と関わる時には、ハードなマネジメントは馴染むところと全く馴染まないところがあるので、あえてぼんやりさせておくことを確認する必要もある。地域における「認識の違い」は、仕事などの関係で起こるような「言葉の認識の違い」だけでなく「同じ組織の中でも、関わり方・立場の違いがある」ことに留意する必要がある。こんなことを感じました。