2007年10月4日木曜日

「しあわせ」の定義

ここのところ、人を「祝う」ことが多くなり、こんなことを考えた。
ただ、この記事を書くきっかけになったのは、某友人の結婚式に参加した時、酔っ払った友人が発した一言、「しあわせってなんだろうね?」(おそらく、この言葉を発した本人は気づいてない)。その一言で私はこれから書くようなことを考えた。おそらく一生かけて考えて、死ぬ直前に気づくことなのだろう。でも敢えて今の私が考える「しあわせ」イメージをメモしておこうと思う。

結論としては、「後ろめたくなく、笑えること」だと考える。

後ろの「笑えること」は、しあわせを考える時に大切な条件のように思う。ただ、それだけでは足りない。他の人は知らないけれども、少なくとも私は、場面ごとに立場を変えて生きている。その時に、やはりどうしても「後ろめたい」ことはある。
例えば、やらなければいけないことをやらずに、遊び呆けているとき。こんなときに、好きなことをしていても、その時は「しあわせ」と思わないだろう。
何らかの形で「後ろめたいもの」が排除され、のびのびと「笑え」たら、それでしあわせのように思う。その内容は、人それぞれ違うし、私なんかはのんびり一人でお酒を飲んでいるときや、読み応えのある本を読みきった時に、ちょっとしたしあわせを感じるわけだが、同じことをしてもなんとも思わない人がいるのはあたりまえのこと。

この「後ろめたいもの」が、外的要因を含む変数となるから、「しあわせ」が難しくなる。
例えば、一人でプールで泳ぐことが一つの「しあわせ」だったとして、それを二人でやったらどうだろう。人によっては全然気にせず「しあわせ」を感じるかもしれないが、人によってはそれを感じなくなるかもしれない。
身近な私の例で言えば、1月に結婚して家族ができた。これによって、これまで私自身は「しあわせ」と思ってやっていたことが、嫁さんという変数が入ることによって変化する。嫁さんが家事やっている傍で読書していたらやはり嫁さんが気になるし、金曜の晩に飲みにいけばやはり嫁さんが気になるし、休日に一人で本屋に行くときもやはり嫁さんが気になる。
でも一方で、本を読む場所と思っていた喫茶店が嫁さんと行くことで楽しい場所になったり、家でなかなか上達しないギターを弾いていると嫁さんが歌ってくれるようになったり、休日の昼食のためのおいしいお店を開拓するのが楽しくなったりしている。
いいこと、悪いことという単純な比較ではなく、「後ろめたさ」が変化することによって「しあわせ」を感じる場面も変化しているように思う。

どうも、「結婚=しあわせ」の図式を半ば強制的に貼り付けて、結婚式で「しあわせそう」なんて言うわけですが、結局、結婚するカップルは結婚式の最中「後ろめたさがない笑顔」をしているのではないだろうか。人それぞれ、カップル毎それぞれ、仲間毎それぞれのしあわせはあるように思う。