2008年5月11日日曜日

空気を読む

「KY(空気が読めない)」なる言葉が知られてきた。
職場でも「いわゆる『KY』ですね」と使うことがある。
本人に直接言いにくいことを、略語を使うことによって隠語のようなものとして扱う。
誰が使い始めたのかは知らないが、便利な言葉として広まっている。

この「空気を読む」という行為。
普段何気にやっている思考-行動かと思うが、この「KY」の普及によって、ハードルが高くなっているように感じるのは、私だけだろうか。
様々な質の「空気の読み方」があって、その集団に通用する空気の読み方ができる人が、その集団への参加が認められる。
程度ではなく、あくまで「質」が問われる。

受け売りではあるが、人は「秘密を共有すること」によって、特別な人間関係を構成するらしい。
なるほど、言語化できないその集団特有の「空気の読み方」を共有することによって、自分にとって心地いい人間関係を維持しているようにも思える。
自分にとって都合の悪い人は、何が原因というわけではなく、集団が要求する「空気の読み方の質」を微妙に変化させることによって「KY」と位置づけ、集団からつまはじきにする。


これがいじめの温床であるとか、人間関係の希薄化とか、職場のストレスにつながるとか言うわけではないけれども、人の顔色を見ながら人付き合いをするのも疲れるのではないだろうか。
何か、こう、根源的な人と人との「絆」みたいなものではなくて、その集団に通用する「空気の読み方」によって、自分(たち)にとって都合のいい人間関係を構築し、維持していく。
維持のためには、同じ集団内の仲間の顔色も窺いながら、その「空気」に合わせていく。
「KYではない」というのは、こういうことかとも思えてしまう。

こんなことを思ったのも、最近、民放TVを観るようになったからかもしれない。
最近は、芸人さんがたくさんバラエティ番組に出演するようになってきたわけだけれども、何だかプライベートを曝け出してまで「笑いをとる」のに、どうも違和感があるようで。
それこそ、いわゆる「おもしろいこと、笑いをとれること」の一つでも言わなければ「空気が読めない」と言われるんじゃないかというような雰囲気。
テレビ番組だけなら別にいいけれども、他人をコケにしてそれを「ネタ」だと言い張る人が何人かいたなぁと、思い出したところでした。

まぁ、Iyokiyehaはあまり「空気を読んでいる」意識はありません。
仕事モードだと、就職面接の現場なんかでは身体中が「空気を読むセンサー」になっていますが、それ以外は、あんまり気にしていません。
「社会人として」と一般に言われることは、あまり一般的ではないのかもしれないし。
自分に違和感がないのが一番かと。
この投稿でようやく整理できたかなと思っています。
一言で言えば「空気を読まないと維持できないプライベートな人間関係は要らない」というところになるのでしょうか。