2008年5月18日日曜日

「通訳」の頭の使い方

手話を学び始めて2年。
「手話奉仕員」となり、手話学習3年目となる今年度は「手話通訳者」の養成講座を受講中である。

せっかく勉強するなら、多少高いハードルを課した方が効率はいいだろうと思って挑戦しているところだが、これがまた面白い。
「面白い」からメキメキ上達しているかというとそういうわけではなく、とてつもない壁にぶちあたった気分である。

「手話で話す」ことと、「手話を通訳する」ことの違いを、ここ2週間の講座で実感した。
「手話で話す」は、もちろん頭はフル回転している。
手話で話してくる相手の手話を「見て」「把握」し、それによって得られた情報に基づき、自分の表出したい内容を(日本語で)考え、それを手話で「表現」する。
頭のいろんなところを使うのだけれども、「手話で話す」場合は、まだこの一連の流れの繰り返しである。

これが、通訳となると、他の頭の働きが関わってくる。
手話で話してくる相手の手話を「見て」「把握」するところまでは同じといえる。
しかし、その後は、「把握」した情報を過不足なく日本語に「翻訳」し、それを日本語で「表現」する。
表現した相手が、その情報に基づき(日本語で)考えたことが表現されたのを受け、その内容をやはり過不足なく「把握」し、その情報をまた過不足なく「手話に翻訳」し「手話表現」する。
うまい文章表現ではないが、こうやって見えるカタチにしてみると、「手話で話す」ことと「手話通訳する」ことが、全く違う頭の働きの連続によって成立していることがわかる。

これを体験したのが、ここ2週間の講座である。
例えて言うなら、手話で話すことが「真っ直ぐに全力疾走している」と表現できるのに対して、手話通訳は「全力ダッシュで、合図によって往復する」ような感覚といえる。
体験であったとは言え、3分弱の通訳体験は、ものすごい疲労感があったのを記憶している。

今後、どんな風にスキルアップできるのかわからないけれども、これも面白い「挑戦」である。
コミュニケーションという、よく使われる漠然とした言葉の意味について、身体動作を含めて、より深めていけるような気もしている。