2008年6月18日水曜日

ココロジカルな話題提供

先日、所内で県内で活躍するジョブコーチさんのミーティングでこんな話をしました。



(表題)

今の職場は、私が一番年次も低く、若手(!)なのにも関わらず、先輩やベテラン、所長まで同席の下で、人的支援に関する話題提供をするという、なんとも「つるし上げ」のような構図で、お話しました。
チープな「自分らしさ」ではなく、普段の業務の中で、Iyokiyeha自身が心がけていること、そして考えていることを「職業リハビリテーション」の枠だけにとらわれず、率直にまとめてみました。


(お話の流れ)
「ココロジカル」なんて、ちょっとふざけた造語を使ったわけですが(厳密には「ココロジカル」とはJPモルガン・アセット・マネジメントの投信商品の名前だったりする・・・)、精神障害の障害特性だけでなく、他の障害者、果ては日常生活における人とのやりとりにも通ずる、「相手の心的状況に、論理的に迫っていく」ことについて、「支援の原則」と絡めて構成してみました。




(職業評価に基づく、効果的な支援イメージ)

当日、話をしていて、結局まだうまくまとまっていない(=伝えきれない)ことは、この職業評価とその内容に基づく計画の立案・策定なんだろうなと思うに至りました。
職業生活に課題のある現状を、板に釘が刺さっている状態とし、その釘や板の状況をよく見ることを「評価」、でっぱった釘はその人の「課題」、釘を打ち付けるために叩き方を考えるのが「支援計画」だし、釘を叩いてみることが「支援」となるわけです。
このメタファーを思いついたとき、「これだ!」と思ったのですが、当日このスライドで実際にしゃべってみると、Iyokiyehaが考えていることをよりよく伝える方法はまだあるな、という課題を持つに至りました。
職業リハビリテーションの関係者にはわかる説明だったという実感を持つには至りましたが、そもそも「職業リハビリテーション」の概念のない人には伝わらないだろうなと。






(5W1Hを説明する)

これって、小学校1年生のときに「日記の書き方」みたいな単元でやることなんだよね。
みんなやっているはずなのに、なぜか忘れてしまう。
Iyokiyehaは学生の時に、先生にくっついていっていろんな現場を見て回り、その報告をしていたから、何となくできていたようにも思うけれども、改めてこういう形にしてみると、自分でも勉強になる。
でも、これって「話の聞き方」だけじゃなくて、日記じゃないけど「報告書」の書き方とか、様々な文書作成のときに、そのまま使えることだと思う。
公文書だって、難しい漢字使ってるけれども、書いてあることはこういった内容ですから。
でも、それに気づいたのは、自分で公文書を作るようになってからです。




(対象の中にあって、対象が直接表現できないことを「共に描く」)

以前紹介した「コーチング」の考え方で、「オートクライン」というものがあった。
http://iyokiyeha.blogspot.com/2008/06/2002.html
要は、そこで本人の意識に浮かび上がってきた、「本人自身の大切なもの」を逃さずに描いていくということ。
昨年度の途中で、認知行動療法の勉強を始めた頃から、これと同じことにこだわってきたが、「コーチング」の考え方でそれがきれいにまとまっていたことを知り、ちょっとご満悦だったりする。
だって、言葉は消えるんです。
「オートクライン」を起こすことが目的で、それに基づいて本人がそこで生まれたことに気づいて自律していける人なら、物理的に描くことをする必要はないけれども、そういう視点が弱い人には、難しい作業になるから、それをサポートする。
「いい気づきしてるよ!」って気づかせてあげる。
「そうか!」と思えば、後は「水路付け」してやれば後押しなんかしなくても本人が勝手に変わる。
「なんとかしなきゃ」の恩着せがましい対応は、必要ないようにも思います。




(まとめという名の「迷い」)

今回作ったスライドで、話題提供の時にしゃべっていて一番しっくり「こなかった」のがこのスライド。
「イマイチ」。
大切なことなんですが。
5W1Hで把握して、「大切なもの」を共に描くことが、「自己決定を促す」こととの接点をロジカルに説明できなかったように思う。
ここのところ、いわゆる「支援者」と話をする機会が多く、その中で感じているのは、「なんとかしなきゃ」の主観をいかに排除するかということ。
もちろん、「ドライ」と言われてしまうこともあるのですが、本人が本当は「何を望んでいるのか」ということ次第なんだろうなと。
法律屋が「依頼で動く」ように、我々の障害者支援業務も、結局は本人の「依頼」に基づいて動くわけで。

極端な話。
本人の「真のニーズ」を把握すれば、本人が納得いく計画は立てられるし、同意を得られないわけがないし、効果が上がらないわけがない。
その時々の課題が、一体何なのか。
それは、どういう形で現れ、どういうアプローチが必要なのか。

そういう見方も必要なんじゃないの?と切に思うわけです。