2008年6月15日日曜日

ストライキの権利と実施

一昨日6/13は、組合の会議で東京まで行ってきました。
昨年までは、いつか脱退しようとばかり思っていた組合ですが、昨年度の定期大会に出席して、一時金交渉にも根拠があった(「6.26議事録」というやつです)ことや、昨年あたりからの労使交渉がどうもひどい結果に終わっている(そもそも、労使交渉の形にもなっておらず、当局が無茶やってくれてきた経緯)ことを知るにつけ、本来の意味での組合の存在意義みたいなものを知ることができ、とりあえず脱退は考えないことにしているところです。

とはいえ、Iyokiyehaが勤務している「独立行政法人」というしくみは、国というバックグラウンドがあるとはいえ、それがもとで労働条件の改善がされないという実態があり、かつ公的機関であっても身分保障がされていない(緑資源機構の「廃止」が昨年度話題になりましたが)わけです。
このあたりは、「お前ら何を言うか」とお叱りを受けそうなところではありますが、誤解を恐れずに書いておくと、「業績」如何に関わらず、「要らない」という判断により「廃止」されるという状況があるわけです。
この、業績如何というのが曲者で、民間企業とはやや違う角度で評価されるわけで、「国民の理解」や「国民のニーズ」と呼ばれる漠然としたものによって、我々の生活はかかっているわけです。

そんな折、当機構の当局では、賃金(一時金含む)の一律切り下げや、職員に対するクレーム対応の折、本部から施設に対し「指導」が入るとか、職員を補充するために他施設に欠員を出すとか、なかなか素敵なことをやってくれています。
こういった経緯から「ストライキ」に関する議論も起こっているわけですが、この意見集約を聞いていると、どうも論点がわからなくなります。

スト権を持つことの是非について、議論が進められているようですが、昨日も「何の要求に対し」「どんな方法で」というところで問いかけられました。
幸い、話題は振られなかったので発言はしなかったのですが、どうも賃金(一時金)に関する意見に終始してしまい、深まらない意見交換に終わりました。

「賃上げ交渉に関して、ストも辞さない姿勢で臨む」とするならば、Iyokiyehaは賛同しません。
賃金が「多い・少ない」というのは、個々の感じ方によるところが大きく、その感じ方は個人の置かれた状況によってことなります。
基盤が違うところで、一つの「価値観」を巡って交渉に臨むというのは、戦術としてもイマイチなように思います。
そしてこれは、やはり価値観と現実との戦いになるので、どうしても現実に押し切られてしまうことになりかねません。
Iyokiyehaがもし組合の立場であれば、「ルールを公然と破る上層部に対し、『ルールを破ろうとする時に』ストを辞さない姿勢で臨む」という地点で共闘をしかけると思います。
具体的な方法がないので、まだ個人内でも検討中ですが。

このあたり、ウチの組合もしっかり活動されているので、おそらく視野に入っているとは思うし、ロジックも伝わると思うのですが、なぜ会議の場で発言として出てこないのかは不思議です。

Iyokiyehaは、言いたいことだけ言って、様子見するとします。