2008年3月15日土曜日

多面的、強制的になることによるストレス

時と場所、状況により、人は自分の役割を使い分けている。
「自然体な方が楽」という主張も、時折聞かれるが、社会人として仕事をしている以上、役割の使い分けは考えるまでもなく当たり前にやっていることであるといえる。
心理学で言うところの「ペルソナ」がそれに当てはまるのかどうか、少し疑問はある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%8A_(%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6)
(ペルソナ Wikipedia)

例えば、職場での私と、家庭での私は、別人のようであると思われるし、合気道をやっている私と、手話を勉強している私はもちろん違う役割をもっている。
職場でも、事業所へ行く私と、福祉機関を開拓する私、関係のある機関の担当者と話をする私、クライアントと相談する私、職場の職員と打ち合わせをする私、おそらく全て違う私であるように思われる。
自覚しつつも、意識していないだけだろう。
ただし、その変化は労力を使う。
自然に変化できれば、それほどのストレスでもないが、強制的に変化せざるを得ない場合には、ストレスが大きい。

それが二者関係、三者関係の中でも自然に行われるわけだが、振り返って面白い(私が困った)のは、「相手の役割の変化がわからない場合」である。
時が変わった、場所が変わった、というのは客観的で認識しやすいが、「状況」は主観的に拠るところが大きく、「相手の状況変化」に気づけないと、相手の役割が変化していることに気づけず、対応が後手後手に回る。
結果として、私は悩むし、私と相手の二者関係にも影響が出る。

二者関係に変化がないことは、安定している、というよりも進歩がない関係とは思うが、その変化がお互いに対応しきれないものであると、それは非常にストレスフルである。
同じ人と接していて、半ば強制的に役割変化を迫られ、私の役割を変化させる。
「私」を使い分けることにも労力を使うわけであるから、それが強制的であればよりストレスが大きいといえる。
また、その強制力も「自分が予期していたこと」と「自分が予期できないこと」だったり、「自分で制御可能なこと」と「自分で制御不可能なこと」など、いわば「想定範囲内」であるか否かにより、ストレスの度合いが変化する。

臨機応変にいろんなことに対応できるようになるのが一番いいのだが、人間関係というのはそんなに単純化できるものではない。
どんなに考えて、どんなに準備しても「想定範囲外」の出来事は起こりうる。
ただ、それをも乗り越えられる視野の広さ、行動力、思考力は身につけておきたいと思う。