2008年3月15日土曜日

人間関係の一過性

時々、「人間関係の修復」という言葉を耳にする。
こじれた人間関係を治す。
Iyokiyehaは、ここに疑問を持つ。

関係の修復はありえるのか?

しゅう-ふく【修復】建造物などをつくろい直すこと。(広辞苑)
これだけならば、何となく「物質」を想定した言葉のようにも思える。

ここ半年くらいで数件、「人間関係の修復」に関する話を聞く。
結論から言えば、Iyokiyehaは「人間関係の修復はない」と考える。
おそらく、多くの人が「人間関係の修復」というものは、当事者がいわば「再契約」を結んだ状態であると考える。
つまり、元に戻ったわけではなく、新たな関係としてそこに立ち上がっていると考えるわけだ。

以前、A、Bという人がいたとすると、人間関係が安定するのは以下の2通りであると書いた。
http://iyokiyeha.blogspot.com/2007/05/blog-post_3931.html
(2007年5月27日 片思いはこじれる)

1)A,Bともに、相手に好意をもっている
2)A,Bともに、相手を嫌だと思っている。または無関心。
後者は意外かもしれないが、お互いにお互いのことを嫌っていると、場の雰囲気への影響はあっても、A-B間の関係には特に影響しない。
このことは結局、お互いがお互いから刺激を受けることを避け、関係を深めようとしない状況であるといえる。
前者の場合は、ジョハリの窓で言うところの「開放領域」(自分も相手もわかっている自分の側面)を増やしていくことによって、お互いの関係を深めている状況である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%81%AE%E7%AA%93
(ジョハリの窓:Wikipedia)

一方で、人間関係がこじれるのは、こんな状況である。
3)AはBに好意を持っているが、BはAを嫌だと思っている(またはその逆)
この場合、AはBの「開放領域」を広げようと思っているにも関わらず、Bはそれを拒むから、「踏み込んでくれるな」という思いとAの好意とが食い違う。
KYなんて言葉があるが、この場合「AはKY」であると言われ、Bの嫌悪感は高まっていく。
「嫌悪感」までいかなくとも、このような「食い違い」による人間関係のこじれはよく聞かれることだ。
私の身の回りでも起こりうる。

ここで、最初の問いに戻る。
「人間関係の修復」は可能か?
哲学的に「今の自分」が存在しないように、「私」を含んだ人間関係を「元に戻す」ことは不可能であるといえる。
では、現実にはどうか。
嫌悪感や、拒否感がそこに立ち上がった人間関係は、その「歴史」を消し去ることは不可能である。
この「歴史」が許容範囲であれば、それを内包した人間関係が維持されるわけだし、「歴史」が許容範囲を超えた場合、一旦は人間関係が崩壊する。
後者の場合、お互いがお互いのことについて、新たな情報を得る、本意に気づくなどの過程を経て、人間関係を再度作り直すことになる。
これは、以前の人間関係の復活というよりは、「崩壊した」という歴史を内包した新しい人間関係の構築といえる。

様々な人間関係について「戻れるのかな」なんて口にするのを聞く。
Iyokiyehaは「戻りません」と答える。
そして、何か「気づき」を得て初めて、次の段階に進めるのではないかと、そんな風に考える。