2007年8月4日土曜日

二人称で考える

昨日の本屋さんで、もう一冊『新・ブラックジャックによろしく』の2巻も読んだ。

主人公の斉藤英二郎が、先輩看護婦の赤城の腎臓移植のドナーになろうとして、彼女の皆川に迫られる。医師としての使命なのか、斉藤個人としての善意なのか好意なのかぼやけたまま、皆川とすれ違っていく微妙な心理と人間関係の描写は、相変わらずうなってしまうほどの面白さだった。

漫画に思いっきり感情移入してみて、斉藤の行動に共感できるかと言うと、実はできてしまう私がいる。ただ、私は現時点では臓器移植のドナーにはならないと決めている(院生の時に文献を漁り、授業で議論を重ねた末に出した答え)。
いや、これだけだと論点はずれたままだから、もう一歩踏み込んでみる。その「決定」なしに、漫画の状況の斉藤の立場に立たされたらどうかと考えてみる。知り合いで尊敬する女性が不治の病に冒されており、私の身体の一部を移植したら回復の見込みがあるとしたら・・・・・・やはり「助けてあげたい」という気持ちはあったとしても、独断で行動には移せないと思う。状況がそうさせてしまうのだろう。

嫁さんに以前にも言われ、最近また言われたのだが、どうやら私が「誰にでも親身になってしまう」ことがあまり気に食わないらしい。私は私自身が「誰にでも親身になっている」つもりはないのだが、傍から見る嫁さんにはそう見えるらしい。思い切り、見方はずれているのだが、おそらくどちらも本人にとっては真であるのだろうと思う。客観的な判断ができない感情がここにある。
二人して「二人称の感覚」で考えているから、おそらく論理的な判断が下せないのだと思う。「二人称」は学者の言葉を引用しているので、私なりの整理ができているわけではないが、おそらく、二人して自分自身の見方をしているから、こういう状況が生まれるのだと思う。

こういうことって、考えると面白いし、おそらく私のライフワークにもなってくるのだと思うけれども、その状況を生き切るには本当に労力が要ると思う。考えなくていいなら考えない方が楽ではあるのだが、それを考えることが、私の人生を豊かにするのだと信じてしまうようになってしまった。