2008年2月9日土曜日

「一人称」思考で、「しあわせ」を考える

人の「しあわせ」について考える機会がなぜか多くなった。
そういうことを言う人が回りに増えてきたからかもしれない。
(注:特定個人ではなく、なぜか最近私の周辺に複数存在する)

個人的な意見に過ぎないが、物事を一人称で考えることができるのは「哲学」とその周辺分野だけだと思っている。
私が、修士論文で引用した、森岡正博“生命学”は、物事を一人称で考えることに特化した考え方だが、生命倫理的、環境的、性的課題に限定されず、日常自分の身に起こることについて「一人称」視点で考え抜くことは、私が納得してよりよく生き抜くためには必要な視点であると考える。

http://www.lifestudies.org/jp/
LifeStudies.Org/JP
http://www.kinokopress.com/civil/0802.htm
「生命学とは何か」論文


「しあわせ」とは何だろう、と改めて考える。
昨日、会社の同僚(で一括りにしてスミマセン)と飲みながら、そんな話をした。
私なりにしゃべりながら整理できたことは、以下の通り。

まず、「しあわせ」は、私が生きていて「振り返った」時に感じられるものであって、将来に約束されたものではないということ。
2月3日の書き込みで、「本当の幸せとかをあれこれ考えすぎるのはアホらしい」というような内容があり、そのことを指摘されたが、その真意はここにあるように整理できた。
一生懸命、主体的に何かに取り組んで、私の力を存分に発揮して、思ったような結果にならなかったとしても、何かがそこに「生まれる」。
その「生まれた」もの(形の有無は問わない)について、唯一無二のものとして「愛おしく」感じる。
この感覚こそが「しあわせ」ではないのかと考えられるようになった。

それは、自分で「そう」思い込むものでなく、人から「そう言われる、そう思われる」ものではなく、自分の中で起こる「何か」によって実感できる。
Iyokiyehaは「ピンとくる」みたいな表現をする。

そして、「一生懸命、主体的に取り組む」ための原動力となるものが、私の中に確かに存在する「好奇心」や「興味」である。
だから、私は割りと何にでも「面白がって」手を出すし、たとえそれが「できない」ことであったとしても、面白い!と思えば、その「しあわせ」になれそうなものを「生み出す」ために目一杯取り組んで見る。
これに関しても「手当たり次第か?」ということを聞かれたが、上述した「好奇心」とか「興味」といったところで、ある程度の制限がかけられるのだろう。
何でもかんでも、というわけではない。

まとめると、「面白がって」何かに取り組んだ結果、得られた「何か」を「愛おしい」とか「すごい!」と感じた時に、自分の中に起こるもの、が「しあわせ」の正体と考える。

私の場合は、嫁さんとの関係、身体動作スキルであったり、思考の高度化・可視化、ネットワークなどといったものについて「しあわせ」を感じることが多いのだが、この点はあくまで私の「一人称」視点でのこと。
これを「二人称」として知り合いに般化させるつもりは毛頭ないし、まして「三人称」として自然科学的に証明する気などさらさらない。

そんなことを思い出し、考えることのできた一週間でした。

(参考)
http://iyokiyeha.blogspot.com/2008/02/blog-post_7874.html
「次世代を生き抜く遺伝子」2008年2月3日更新
http://iyokiyeha.blogspot.com/2007/10/blog-post.html
「『しあわせ』の定義」2007年10月4日更新