2008年2月11日月曜日

「もし」を考える

「もし、○○だったら、どうする?」
あることを、○○であると仮定して、その時にどうするのかを問う質問である。
仕事であればよく使うこの質問も、プライベートとなると途端に考える意欲が失われる時がある。
この理由がどこにあるのかということを考えた時に、ふと浮かんだのが時間軸だった。

結論から言えば、
「将来、想定されうる状況を仮定して、その際の行動を準備する」目的であれば、考える意欲は失われない
ということだ。

ポイントは3点。
1)今よりも未来のこと
2)想定できる状況を仮定する
3)自分がどうすべきか、具体的に考える
この条件が揃った場合に、Iyokiyehaの思考回路が動くという仮説である。

1)は、「過去に想定することができたこと」であれば、多少思考するだろうが、それほどモチベーションは維持されないだろう。
例えば、仕事において「僕が就職してなかったら、どうしました?」などと聞かれた時には、「さぁ?」としか答えられない。
過去のことを「もし…」と振り返るのであれば、それは、将来再度似たような困難が想定されうる場合に、私の行動を準備しておくときに限られるのではないだろうか。

2)は、「想定できない」ことを考えることには、限界があるということ。
例えば、「今年、転勤になったらどうする?」という問い。
Iyokiyehaの職場は、毎年転勤の可能性があるため、転勤そのものは想定できても、どこに行くことになって、何を担当することになるのか、どこに住むのか、といったことは、全て具体的な話になってから「どうすべきか」と考えることになる。
だから「その時になったら、考えるよ」という回答になる。

3)は、「自分がどうするか」を考えなくていいのであれば、具体的に物事を考えないだろうということ。
上記の質問を借りれば「今年、Iyokiyehaが転勤になったら、どうすればいいの?」という質問であれば、「自分で考えてください」という回答しかないだろう。
危機的状況であれば、当事者に「□□したら?」と助言することはできたとしても、リアルにその状況を想定するには、何か他の要因が必要となってくるように思う。

なるほど。
こう考えてみると、いざ「何か」によって「もし…」と問い詰められるような状況であっても、自分にとって関係があることなのか、ないことなのかということを判断する基準にもなりうるように思う。
当然、人間であるIyokiyehaが引く基準だから、例外は認められるだろうが、生活する上で、一つ安心できる基準なのかもしれない。