2020年3月29日日曜日

森岡正博『生命学に何ができるか 脳死・フェミニズム・優性思想』勁草書房、2001年。

・修士論文で主要文献として読み抜いた一冊。生き方を問う学問(知のあり方)を提唱する著者の論に傾倒し、大学院生の頃はずっと読んでいた一冊。精読は3回目になり、17年ぶりだったようだ。
・白黒はっきりさせることが望ましくないと考えられることに対して、政治的な判断や決め打ちを避けて判断保留を選ぶことや、他の選択肢を探る姿勢、結果がどんな背景から生じるのかを見据える態度など、私が今大切にしている「あり方」みたいなことの根がこの書籍にあるといっても過言ではないと思う。そういう意味では、私の分岐点になる一冊といえる。(ふりかえってみて、であるが)
・脳死、女性活動、障害者地域生活活動、優性思想などの論点について、その歴史記述と活動の争点を丁寧に追う展開に、並々ならぬ迫力を感じつつ、その丁寧な仕事から著者が提唱する「生命学」の輪郭が確かに見えてくる論文である。
・学生時代に読んだ時は、ただただこの迫力に圧倒されていて、どこに論理の破れがあるのか、どこが「アウトライン」止まりなのか、と思ったものである。今、私が自分の経験を重ねながら読み返したところでは、確かに「生き方を問う上で必要な視点である」ことは変わらないのだが、「それを受け取れない、発せない人が、確かに存在し生活している事実」に対してどうするのか、そして「そういう人が社会の大きなうねりを作り出してしまっていることに対し、どうするか」ということについては、確かにこの時点ではわからない論点といえる。高度に知的な営みができる人たちのための知のあり方、になってしまっては、やはり人間を分類することになりかねない。
・といったことについては、今後の著者の論稿にヒントがあることを期待しつつ、私にしても経験を言葉にすることで寄与していきたいと考えている。

■以下引用
14(人間の真実とは)どちらかのリアリティが正しいわけではなく、そのようなお互いに矛盾するいくつかのリアリティを同時にまとめて生きなければならないのが人間の生命なのだ。頭で分かっても身体・感情が分からないという事態そのものを、人間の真実としてとらえてゆくような視点が必要なのだ。
54(脳死問題の本質)脳死問題の本質は、脳死になった人と、それを取り巻く人との「出会い」の問題であると私は考えた。脳死とは「人と人との関わり方」であり、問うべきは「場としての脳死」である。(中略)脳死は「関係性」の面から議論されなければならない。
81~(他者の到来 現前・不在)ないはずのものが現れているとか、あるはずのものが現れていないという出来事がわれわれを襲うからこそ、われわれは、世界に働きかけ、他人に働きかけ、自分を変容させながら、それらの意味を探ろうとするし、それらの謎を追求しようとするのだ。(中略)この世界を意味あるもの、豊かなものにしているのは、われわれの前に絶えず到来する「現前」や「不在」たちである。生命ある私が、他の人々や、生き物や、自然物たちとかかわりをもちながら、時間の流れのなかで歴史性を蓄積し、生きて死んでゆくときに、世界が私の前に見せる相、それが「現前」と「不在」である。(=他者)
111(パーソン論とは)パーソン論とは、<ひと>でない人間の生命に対して差別的な取り扱いをしている多くの<ひと>たちの日々の行為を、そのまま追認し、正当化してくれるイデオロギーなのである。その行為を変えなくてもよいと保証してくれる点において、それは保守主義の思想である。
136(ウーマンリブとは)女性たちが、国家や男性からの束縛を解き放ち、自分自身の人生のために、女であることを自己肯定して生きはじめる、その生き方のことである。
170(ウーマンリブの思想的地平)リブは常にふたつの本音から出発すると田中は言う。中絶に関して言えば、女の身体は女のものという本音と、私は胎児の殺人者だという本音の、その間でとり乱す地点から出発することこそ、リブが切り開いた思想的地平である。
196(田中美津論「とり乱しー出会い」論)田中のリブとは、女としていまこの時代に生きる自分の中にある「矛盾」や「みっともなさ」を「直視」して、そういう自分自身のあり方に「とりみだしつつ、とりみだしつつ」、「こんな私にした敵に迫っていく」という生き方なのである。ー217われわれは自分の内面を直視し、みずからとり乱すときにはじめて、そのとり乱しを通路として真に他人と出会ってゆけるからである。そういう「出会い」をつなげてゆくことで、この生きにくい社会の中で、女と男、抑圧者と非抑圧者がお互いを分かり合い、社会を変えてゆく道筋をつけることができる。(中略)218矛盾する二つの自己の間で揺れ動き、おろおろし、とり乱す、その事態のただ中にその人間の真の姿が立ち現れるのである。ー240出会うとは、みずからを真の意味で振り返り、とり乱しを回避せずにみずからを変容させてゆくことなのだ。
242(生命思想への問いかけ)「即時的な問い」への「一般的な解」を導こうとする知の営みを行いながらも、それによって隠蔽されがちな、「その問いに向かっている『この私』はいったい何者なのか」という問題に絶えず自覚的であり続けること。私はどのような歴史性と必然性と権力性を背景にして、その問いに向かおうとしているのかに、絶えず自覚的であり続けること。そして、その問いに決着をつけることが自分の人生にとって必然的であるのならば、「一般的な解」の模索よりも、自分の実人生における問いの明確化とそれへの決着のほうを優先させること。たとえ「一般的な解」には到達しなくても、自分の人生において何かの決着を付けることができれば、その決着によって新たに変容した自分の存在は、いままでとは違った種類のさざ波を人間関係の網の目に送り届けはじめるに違いない。そして、どこかで他人が同じような問題に直面したときに、そのさざ波が知らぬ間に伝わって、その人間を間接的にサポートする可能性が生まれてくる。このような出来事もまた、生命倫理の問題に対するひとつの「解」のあり方であると私は思う。245「悪からの遡及法」
281(人工中絶から見る男たちの生命倫理)「男の不感症」という地点から「無責任なセックス」を経て、「女性への中絶の強要」へと結びついていくような、一本の細い線が存在する。そして、その線を伝って「暴力」が連鎖してゆき、その先端で、もっとも力の弱い胎児が犠牲になるという構図がある。(中略)「男たちの生命倫理」は、生命学へと直結している。
377(二分できない命題に対し、「可能性」という方向性を示す)選択的中絶を行わない可能性を含ませたうえでの、障害児出産を事実上の理由とした禁欲、避妊、不妊手術は、いま生きている障害者への視線と無意識の態度という点に最大の自覚的注意を払うかぎりにおいて、倫理的に許容され得る態度である可能性がある。
383(第四の優性学に対して)第四期の優生学は、親が自分の好みに応じて、生まれてくる子どもの肉体的あるいは精神的な性質を人工的に変えたり、能力を増進させたりすることをめざす。親が操作するのは、自分自身ではなく生まれてくる子どもという他人の身体である。(中絶と異なり、子どもを殺すわけではない点が第三期との差)384(親のエゴ)そこにあるのは、子どもの幸せを願う親の気持ちではなく、子どもの将来を自分のプランどおりにコントロールしようとする親の「欲望」「エゴイズム」だからである。
396(不道徳な生命学)生命学は、かならずしも道徳的な思想と生き方のみを導かない。生命倫理への生命学的アプローチは、生命倫理学の一般的な主張からは遠くかけ離れたところまで逸脱する可能性を秘めている。(中略)不道徳な生命学とは、みずからの差別意識や悪に漫然と開き直っているだけの人間の姿と対比させたときに、その対極に位置する生き方である
400(まとめ 生命学とは)生命学とは、生命世界を現代文明との関わりにおいて探り、みずからの生き方を模索する知の運動のこと(中略)(1)現代文明に組み込まれた生命世界の仕組みを、自分なりの見方で把握し、表現してゆく知の運動であるとと同時に、(2)私が、限りあるかけがえのないこの人生を、悔いなく生き切るための知の運動である。
421(まとめ 生命学の方法論)私の「生き方」としての生命学ー423生命学の課題は、「主観的な思い込み」や「独断」をいかに排するかということである。ー425自然科学の特徴である「客観性」と「実証」は、生命学においては「豊かさへの寄与」と「人生における検証」によって果たされているとも言えるー426生命学の具体的作業は、(1)自己の問いなおし、(2)自分の人生における実験と検証、(3)他者との出会い、(4)生命世界の自分なりの解明と表現、(5)得られた知見についてのコミュニケーション、(6)社会変革への参画、(7)先行者の表現物の学習、などによって構成される。

83(生命学の知の方法)他者と出会うとは、他者を理解しようとすることではなく、他者の他者性と出会ってゆらぐことである。そして、そのゆらぎをきっかけにしてみずからを問いなおし、みずからを変容させ、今までとは異なった生へとみずから生きなおしてゆくことであり、新たな生を通してそのゆらぎを人々に伝えていくことである。他者と出会うとは、謎を理解しようとする試みによって見えなくなっていくものが存在するということにつねに敏感になることでもある。このような「謎のなかに到来する他者」を大切に思い、そのような出来事を尊重していこうとする気持ちの中で汲み上げられ、人々のあいだに網の目のように伝わっていくゆらぎのさざ波、それこそが「いのち」なのではないのだろうか。われわれに知があるかぎり、われわれは謎を理解しようと試みるだろう。謎を理解しようとするプロセスの中で消え失せていくもの、押し潰されていくものに対して敏感になり、謎を理解しつつもそれとは別次元で揺さぶられ続ける主体を私の中に維持すること。そして、私のなかの揺さぶられる主体が、私のなかにある秩序化する主体に、その揺さぶりを絶えず伝染させていくこと。これが、他者と出会いながら、謎に立ち向かう生命学の知の方法なのである。ー128(他者論的リアリティを通じて)揺らいでいる私の実態をありのままに見つめ、私が揺らぐとはどういうことか、なぜ私は揺らいでいるのか、私は自分の揺らぎとどうやって対決してゆけばいいのか、揺らいでいる私が世界を見たときに世界はどういう相貌をもって立ち現れるかを、自分の頭とことばで解明する作業を、われわれは開始しなければならない。それが生命学の知の方法である。ー248(田中美津 実践)「悪ではないもの」の内容を記述して「そのように行動せよ!」と指令する倫理学ではなく、「悪」を背負った者同士が、みずからの存在を自己肯定しつつ、どのようにして「悪ではないもの」をめざして歩んでいけるのかを、とり乱しと出会いのプロセスのなかで学び合い、伝達し合ってゆく営み。「闇」を隔てたそのような伝達ひとつひとつが、「生命学」の実践ー391
(内なる優性思想に対する生命学とは)生命学とは、法や規範によってみずからの行為を制限され、コントロールされた人間が、その一見不自由な境遇の中から、以前は想像すらできなかったような新たな生と死の可能性をみずからの内側から開いてゆくための知の方法(中略)われわれがみずからの「悪」に開き直らないようにするにはどうすればよいのかを、全力で考えようとする。そのときに、正論の倫理学に対抗して個々人の内側から具体的に立ち現れてくる思想や生き方が「生命学」なのだ。生命学は、個々人の人生においてのみ実現され得る。(中略)生命学とは、私に呼びかける声であり、その声に応じて私が模索をはじめるときに私の内部から立ち上がってくる何物かである。