2020年3月29日日曜日

あるもので考える

 組織人としての春先は、人事の季節。Iyokiyehaにとっても例外ではなく、前の職場でも今の職場でも人事異動は4月1日付発令なので、この年度末はただでさえ忙しいところに、職場環境の変化が加わることになる。
 不思議なもので、組織人は殊の外「人事」というものに興味があるようで、内示日なんかは異動表なんかとにらめっこしながら各々の分析を口にする、ということが周辺で見聞きされる。
 私の場合は、自分が異動に巻き込まれる機会が多かったこと、内示表を見るのが面倒くさいこと、必要な人からは連絡があったり直接聞く機会があること、など理由をつければいくらでもあるが、率直に言えば面倒なので人事異動にはあまり執着していない。自分の周りに誰がくるのかな、仲のいい友人がどこへ行くのかな、くらいしか気にしない。とはいえ、以前同期が明らかな出世コースにのったな、と思った時には人並みに嫉妬(?)っぽい感情が2、3日続いたこともある。まことに不思議なものである。
 いろんなことを踏まえた現在の到達点は、人事を「決める人」と「決められる人」とでは、考えていることが違うということ。もう一つ、考える頭を使うべきは、決まった後どうするか、ということである。

 人事担当者が考えることは「組織の維持・発展」だろう。その背景を持ち、組織をつぶさない、よくするために配置を考える。一方で、人事異動の対象となる者が考えることは「自分のキャリア」くらいであり、個人的に「組織の発展」を考えている人は希少も希少であると思われる。Iyokiyehaは後者を視野に入れたいが、残念ながらまだまだ前者である。
 ある人が、例えば「〇〇と□□にはルートがある(よく異動者が出る)」とか「調書に△△って書いたら希望が通った」という分析っぽいことを口にするが、そこに根拠があるかといえばそんなことはなく「たまたま」と考えるのが妥当だろう。会社組織において、妥当な判断には必ず背景による裏打ちがあるべきで、その背景が異なるにも関わらず結論(と希望)が一致するということは、それは偶然と読み解くのが自然といえる。万が一、その結論に利害の一致があったとしても(例えば、その人に特殊な技能がある、担当者にとって恣意的なもの)同一結論を生み出す背景は異なるものである、と読み解くのがより事実に近いだろう。だって、立場が違えば背景が異なるのは当然だから。
 そう考えているから、今ではどんな人事だって「はい、わかりました」と従うしかない、と思える。もちろん、自分のキャリアから希望は伝えるべきだし、組織的状況から言うべきことは伝えるべきである。ただ、そこまでだろう。伝えられることを考慮して人事の作業を行うのは担当者とその責任者であり、決まったことに対して意義申立てを行うのは、言うまでは権利かもしれないが、それを覆すことを画策するのは越権行為である。
 もちろん、越権行為は組織人としては反則行為でとても信頼されるべき行為ではないわけです。自覚なく上からそれをする人が「老害」と呼ばれる一因となるし、下から突き上げる人は「出る杭」として認識されてしまうわけです。その通りだよね。もし自分の意の通りに身を置きたいのならば、起業して自分がすべて決める立場になるか、人事担当者になるかいずれかだろう。後者はその立場で自らのキャリアを操ろうとしたらそれはそれで越権行為だという落とし穴があるわけだが。

 ということでIyokiyehaは、人事とは一組織人としては「どうにもならないこと」という結論に達しています。なので、自分が影響しないことにはあまり興味がない。頭を使うのも、自分をどこに置かせるかとか、増員やいい人事を求める、というよりは、決まった体制でこの先どうするか、ということに注力したいわけです。
 今年度はそれを邪魔する様々な出来事があったので、ここらで自分の立場を整理しておきました。いろんな意見があると思うけど、自分のエゴをつぶして考えた時には、割と本質に近づいていると思うんだけどね。