2020年3月8日日曜日

森岡正博編著『現代文明は生命をどう変えるか』法藏館、1999年。

・1999年時点に、社会問題として取り上げられていた諸問題について、様々な立場の人との対談により著者の論を裏付けていく。1997年にNHKで放送された(とされる)「NHK未来潮流『生老病死の現在』の「核心的な部分」を編集した対談集である。
・テーマは、優生思想、障害と自己変容、不登校、終末期医療、老い、アポトーシス、脳死と、当時(現在にも通ずる)社会問題となっていた「いのち」の問題を取り上げている。現在(2020年)においては、多少の「語られた感」はあるものの、これらの対談によって浮き彫りにされた森岡氏の主張、すなわち「いま起きている様々な問題を、大きな文明のうねりが巻き起こすひとつながりの出来事としてとらえてみる」ことにより「現代文明が、われわれの生命をどこへ連れていこうとしているのかを、一気に見通す」立場に古臭さは一つも感じない。むしろ、現在においても、テーマの広がりこそあれど、対談から読みとれる「『苦しみ』や『つらさ』をあらかじめ巧妙に回避し、かすかな不安に満ちた安定と守りの人生をただ反復しようとする世界」「どことなくどんよりとした暗雲垂れ込める世界」は、今、その真っ只中にいることをも感じさせなくする、自分もすでに麻痺しているかもしれないという不安ばかりである。
・しかしながら、本書で取り上げるのは暗い未来予想図だけではない。その中にあって、一抹の希望をもち、暗闇の中でももがきながら、埋もれながらも光を見出だそうとしている人の闘いもまた垣間見える対談である。そうした人たちの生き様に触れるのも、著者のテーマだった「生命学」の営みなのだろうと、改めて感じさせられる。現代文明分析と勇気の一冊といえるだろう。

■以下引用
〇柴谷篤弘(生物学、環境論、サベツ論など)
「洗脳としての科学文明」
ⅱ(概要)優生思想をどう考えるかという問題からはじまって、現代科学が袋小路に陥っていること、そして洗脳社会のなかでどうすれば
「戦い」を貫けるのか
6(目隠し)社会全体から見て危ないものというよりも、社会を管理することに関わっている人から見て危ないと思われるものは、あたかもないかのごとく、除けておいて見せない。不要な情報をたくさん流すことによって、本当に意味あるものを隠してしまうということもあり得る。
13(科学的解決の落とし穴)技術的な解決は、われわれが本来自分自身の問題として考えなければいけない重大問題から、目をそらせる役割を果たす場合があるということです。
22(学び合いの可能性)今のような社会と、もう一つ、さっき言った学び会うような社会の両方を比べたら、それをすることによって、われわれは何を失っているのか、ということが見えてくるはずなんだけれども、そういう選択がなかったら何を失っているかも見えないわけ。繰り返しになるけど、学びあうというのが一つの可能性なんです。
28(ニーズと欲望)患者のニーズをつくらせておいて、うまく誘い込んで、じつは本当のニーズは医者のほうにあるのかもしれない、そういう疑いが強くあります。
30(言い訳と隠蔽)その調査結果を見てふと思うのは、本人が不幸になるというのは一つの言い訳なんじゃないか、と。本当は自分たちが不幸になるからなんだと、それを言えないんです。
48(本音)本音が出てきたときに固い岩盤にぶち当たったと思わないようにしていくのは、新しい可能性かもしれないですよ。本音を疑い続けながら、自らを変えようとしていくところにかすかな希望の光を見たい。

〇玉井英理子(生命倫理学、臨床心理学)
「生命選択の技術と倫理」
ⅱ(概要)人生において、自分のプランが狂ったときに、それでも人はそこから自己変容して立ち上がっていくということ、そしてそこに生命のよろこびがあるということ
51(テーマ)「生命の質」を選択していくテクノロジーがどんどん展開しています。(中略)そういう技術が進んでいるというのを聞いたときに、多くの人たちはどこか変だと思いはじめている。私も、どこかおかしいぞ、と思うんですが、じゃあどこがおかしいんだ、どこが引っかかるんだと改めて問われてみると、うまく答えられない。
52(現代の記載)むしろ社会全体を見たときは、何が問題なのか気づくきっかけをうばわれていますから、どちらかというとあっけらかんと、それはいいことなんじゃないの、どうしてそれがいけないのっていう感覚のほうが一般的で、障害を持った子どもの存在を可能なかぎり回避するための技術を使うことに対して、ブレーキをかける要因が少ないような感じがして、そちらのほうが怖いと思います。
53(何かポッと:上記を受けて)何か無自覚にポッと乗っている。
54(規格外)規格外になると捨てられていくような社会システムのなかで、われわれは日常的に過ごしているわけです。
56(よく知る、とは)積極的にアクションを起こして、何かを知ったり、明らかにしたりすることが、自分に対する知恵として跳ね返ってくるようなシステムのなかで慣らされてきてしまった感覚ですよね。
だから、今問われていることは、より多く知ることが、本当により良く生きることにつながるのかどうか、ということだと思うんです。
(中略)知りたい欲求にブレーキをかけて知らないままでいるという状態に、みんな耐えられなくなって全体的にすごく耐性が低くなっていると思います。
64(価値観が変わる)否応なく価値観が変わっていくプロセスのようなものを、多くの障害児の親たちはやっぱり経験していると思うんですよ。
68(全体として肯定)およそ子どもというのは、親の期待を一つひとつ丁寧に裏切りながら大きくなっていくようなところがあるじゃないですか。(中略)何か似たような大変さを経験することがあると思うけれども、そのなかでじたばたしたりうろたえたり、でもそのことをきっかけにしていろんなことを考えたりしながら、全体としては肯定していく。すべてを否定する気になれないという感じかもしれない。
71(存在否定)私にとって羊水検査を受けることがどういう意味を持っていたかというと、それは「あなたのような子どもは私の子どもとしてもうこれ以上、生まれてきてほしくない。だから検査を受けるのよ」と、目の前にいるダウン症の息子に対して言っているのに等しい意味を持っていたんです。
76(技術の進歩と社会)つまりわれわれにものを決断させないというか、「悩まなくていいよ」とか「重いものを抱えなくていいよ」というふうに進むのが、文明の進歩であり科学の進歩であると思われているんですよ。
78(選択-管理社会へ)私たちは個人としていったい何を得て、その一方で何を捨てることになるんでしょうか。(中略)今の社会のなかでより多く知るということがもたらす利益の一つは、自分を管理し、子供を管理し、社会全体がみんなを管理していくような管理社会をつくっていくことだと思います。

〇大越俊夫(アメリカ文学、「リバースアカデミー師友塾」塾長、ほか)
「不登校と命の活性化をめぐって」
ⅲ(概要)子どもたちを元気にさせることである。彼はそれを、「いのちに火をつける」と表現する。(中略)不登校の生徒がこれからどんどん増えて、半分がそうなればいい、そうしたら日本も変わる
88(拒絶の意味)「子供が登校拒否して、学校を中退したら、赤飯を炊いて祝いましょう」(中略)拒絶する能力、拒絶した勇気を祝うんです。(中略)拒絶できるのも一つの才能です。(中略)「中退も立派な人生行路の一つである」
89(命が薄い)以下要約:もうくたくた。家から出られない。電車に乗れない。親子喧嘩さえできない。表情がない。目の輝きがない。口から言葉を発しない。専門的には「失感情症」。命から出る電波「命波」がとぎれとぎれになり弱り切っている。
92(人間性)以下要約:人間の持っている残虐性は低い。動植物にはすこぶる優しい。他人に対しても親切。利他の精神に生まれながらに富んでいるといえる。競争を嫌がる。共生とか支え合いの精神が発達している。(以上、不登校の子どもの特徴)
96(つくられた自分になっていく)自我が育たないから、命や心の芯というものが薄くなっていくんです。
105(あたらしい命をそのまま育てる。新しい芽、可能性)大越さんの発想は学校というシステムから落ちこぼれたり、逸脱してきた子供たちを元に戻すということではない。(改行)そのまま育てる。逸脱してきたことを手掛かりにして、新しい命をつくっていく(中略)解体しつつあるということは単にバラバラに無意味化していくことなのではなくて、今までの価値観から見るとダメだとか規格外だとか逸脱だとか言われていたものが、逆に新たなものをつくっていく。その一翼を担っているのが不登校の生徒さんという見方ですね。
108(今をそのまま)「僕の前では、昨日までの君は関係ないから」
111(命が活性化する場)どんなにいいお母さんでも、どんなにいいお父さんでも、その間の関係が冷たかったらダメです。(中略)間さえ平和であれば
112(玄関と祭)お祭りを入れると、非日常的な空間ができる。遊び心を持ちながら、それを活用していく。(中略)最初に玄関を入ったときに、ホッとするような空気が大事なんです。
114(空気)
121(中退生は革命児の卵)(「中退したら赤飯を炊け」「中退も立派な人生だ」)「中退生は革命児の卵である」(中略)かれらが成長して社会を変えていくということでもありますが、かれらを通じてお父さんやお母さんが人生観を変えていく。

〇柏木哲夫(精神医学、心身医学、緩和医療)
「ホスピスがささえるいのちの意味」
ⅳ(概要)「生命」と「いのち」の違い(中略)宗教をもたない人間が、死を目前にしたときに、どうすればいいのか。
128(死の意味)それが誰の死なのかとか、その人と自分とのかかわり方によって、死の意味というのはまったく違ってくるんですよ。
133(生命といのち)つまり人間のメンタルな心理的反応のなかに、じつは生や死が埋め込まれているのではないか。(中略)134 いのちというのは閉じ込められているのではなく、非常に広がりを持っていて、有限な生命に対して無限性を持っている。
136(ホスピスの定義)その定義とは、その人がその人らしい生を全うするのを支えることがホスピスの仕事である。
139(言葉の深さ)きっとそういう場所で出た言葉とか、最後に限られた時間と限られた選択肢のなかで、その人がしたいと言ったことの内容の深さというのは、たぶん他人には絶対にわからないことだと思います。140(いのち論)いのちを支える、サポートするというのは、単にその人の生だけを支えるというのではなく、死を超えて伝わっていくものを支えるというふうに考えていけるとすれば、もっと希望があるのかもしれない
141(「からだは痩せても、いのちは太る)」)
142(死の受容)この種の仕事のむずかしさは、検証ができないということなんです。
147(共感を求める)個人教で死ぬのは、まさに一つの生きざま、一つの死にざまであると思います。(中略)ただし、私の経験では、すべての人に例外なく共通していることは、自分の気持ちや、自分の考えていることをわかってほしいということなんです。
151(いのちをささえる、私の全人格でかかわる)死に直面すると、四つの痛みがあるといいます。すなわち身体的、精神的、それから社会的、そしてスピリチュアルな痛みという四つの痛み(中略)非常に重い、いのちの質問(中略)そのときそのときで、私の全人格でかかわるということ以外に道はありませんね。

〇多田富雄(免疫学)
「老いと死を見直す視点」
ⅳ(概要)脳死の意味や、老いのメカニズムなどをめぐって進んでいった(中略)「老い」のなかに重層的に記憶される時間というもの。能舞台でそれを舞うことが老いの花となるという話は、まったく新たな世界を垣間見る思いがした。
156(死生観)中世の人たちは、少なくとも死者というのを存在しないもの、つまり無とは考えていなかった。「非存在ではない」と考えていたんじゃないでしょうか。
157(全体を見る)お能の中で「死者の声を聞く」ということに私がたいへん興味を持っているのは、それが全体を見た上で語りかける声だからです。全体を見通す目というのは、おそらくすべてが終わったあとの死者の目しかないんじゃないか、と思うからなんです。お能が現代人にも大きな感動を与えているのは、私たちはふだん生者の目で仮りの現象を見ているに過ぎないのだけれども、お能を見ることによって、生の全体を見渡すことができる死者の持っている視野を共有できるからだ、と思います。
160(「無明の井」の背景)何が欠けていると思ったかと言いますと、当事者であるはずの脳死者の声が聞こえてこないんです。
174(死とは)全体を見る支店がどこかで消えてしまったために、「死」の概念そのものが小間切れになってしまった。そのことに対して、一般の人が拒絶反応を起こしているんじゃないかと思います。/そうですね。本来、死は一人の人間に起きるというよりも、その人が存在している場における何か、全体における何かなんです。
176(老いとは)人間が老いていくこと自体が、じつは遺伝子のなかにプログラミングされているのではないか、ということが明らかになってきました。(中略)細胞は積極的に老いているということ
184(老化現象のとらえ方「システム」)複雑な系の場合ですと、一定の細胞に老化の反応が起こると、それによって二次的なアンバランスが引き起こされて、自己崩壊していく場合があるということです。自己崩壊する部分は、単なる細胞の老化の総和としてだけでは捉えきれないシステム自身の問題になります。186 部分の老いの現象論をいくら加算して積み重ねても、本当の意味での個体の老いを理解することはできないと思います。
187(老いの本質)かつての日本の文かでは、「老い」は単に健康な状態から転げ落ちたマイナスの状態にとどまらない、何かそれ以上の意味を持っていたと考えることができますね。
196(存在の花)若いときの美しさというのは、「時分の花」、つまり一時期の花と規定しています。老人になってからの美しさは「老い木の花」という言葉で表現し、それが「まことの花」、つまり完全な美だと書いています。
197(時間が重層的に凝縮して存在の花になる)老いのなかに若さがあり(中略)時間というものを、単純に過ぎ去る物理的な現象と見ないで、その間に蓄積されてくる時間の記憶のようなものに、価値を発見したか
199(新たな時間感覚)時間は不可逆で、人間の能力は落ちていくという世界観から離れることによって、われわれの生命や社会の見方を変えていけるかもしれないし、さらにサイエンスの可能性も広げていけるんじゃないでしょうか。

〇田沼靖一(薬学)
「二重にプログラムされた死」
ⅴ(概要)死というのは生の失敗なのではなくて、きっちりとわれわれの遺伝子に組み込まれたプログラムだという
203(アポトーシス)細胞がどのようにして死んでいくのかというのをよく観察してみると、(中略)ちゃんとしたプログラムにしたがって、きちんとした過程を通って死んでいくことがわかってきました。
211(アポトーシスの機能)生物がかたちをつくるときに、細胞の死がないと、細胞はただ単に塊の状態になってしまいます。/214 ウイルスとかいろんな病原菌が入ってきて、異常をきたした細胞とか、がん化していく有害な細胞が出てきたときに、そういったものをきちんと排除したりするときにも、アポトーシスの機能が働きます。(形作る/維持する)
214(アポビオーシス)「非再生系の細胞」脳神経の細胞のように置き替わらない細胞があって、そういう細胞もやはり別の仕方でプログラミングされて死んでいる。そのことは、アポトーシスとは区別して、アポビオーシスと呼んでいるということ/216 非再生系の細胞に備わっている死であって、それは個体の消去にかかわっている。ですから、個体を自然の循環のなかに戻していく死と捉えています。
219(細胞死から生命を見る)サイエンスの面で、きちんと死が遺伝子にプログラムされているのは新たな生命を更新していくためにあるんだ、ということをやはり認識することが、おそらく人間社会で生きていくとか、自分とは何かということを考えたりするうえで、重要ではないかと思っているんです。/222(アイデンティティ)人間が生きていくためには、自分とは何かということを問えることが大切なことだと思います。
230(性と死、優性生殖)有性生殖のなかで重要なことは、遺伝子として二度と同じ個体をつくらないということ/遺伝子はつねに変化しながら進化できるシステムだといえます。