2008年2月26日火曜日

木刀の振り方一つ

合気道の師匠と、木刀の扱いについて深める。

Iyokiyehaは、毎朝の日課として15分程度のジョギングと木刀の素振りをやっている。
素振りは、面打ち30回、胴打ちを左右5回、突き10本。
木刀は重さ違いで2本持っているため、時間に余裕があれば重い素振り用の木刀でも同じくらいやっている。
いつも、同じことをやっていると、身体の変化に気づきやすく、一点集中法と併用することで、集中力を高めることができる。
次元は全く違うだろうけれども、イチローのトレーニングや、羽生善治の対局中の食事と同じイメージである。

Iyokiyehaは中学校の体育の授業で剣道をかじったのみで、他に習ったことはない。
木刀は、N-Pocket時代に初給料で買ったもの。
素振りとはそれからの付き合いなので、4年目になる。
岡山時代はアパート暮らしのため、恥ずかしさもあり、室内で振っていた。

そんな素振りを師匠に見てもらい、合気道との関連や、振り方そのものについて深めていく。
Iyokiyehaは素人なことも手伝って、武器を持ってもあまり有利な気がしない。
これも、「間合い」の感覚なのだろう。
不思議なのは、木刀を握っていることによって、相手に手を取られたときに「木刀を手放せない」ことである。
木刀を構えていて、相手に懐に入られると、テコの原理を応用した形で簡単に崩されてしまう。
木刀を握る手を、上から押さえられてしまうと、握りが返って固くなり、思うように手首をひねられてしまう。

面白い。

この「思わず握ってしまう」動作や、「手放せない」感覚は、本能的なものもあるのかと思ってしまった。
達人の「道具」は、自分の身体感覚を共有する「身体の一部」となるといった話を聞いたことがある。
前述のイチローも、バットが身体の一部になるような感覚があるようだ。
それとはちょっと違う次元で、何と言うか、「武器を持っていることによる安心感」みたいなものが根底に潜んでいるような気がする。
師匠の言葉を借りれば「道具に依存している」とでもなるのか。
何か拠り所となるものがあることによって、それをコントロールしておくことが「安心」になるかのような感覚。
だから、とっさの時に「木刀を手放した方が互角になる」と思っていても、身体反応は「木刀を持っていると安心」と思って、思わずぎゅっと握ってしまう。

今日はここまでしか言葉にできないが、この「わからなさ」が身体の不思議との関連で、すごく面白く感じている。

2008年2月25日月曜日

山田真哉『「食い逃げされてもバイトは雇うな」なんて大間違い ――禁じられた数字(下)――』光文社、2008年。

「さおだけ完結編」。

「会計」の概念を、会社における「科学的」な部分としてとらえ、ビジネスの全てを記述するものではないと言い切る。
ビジネスとは「非科学的」なものによって成り立っているとし、その上で「会計的な視点」の必要性を説く。
ビジネスでも生活でも、大切なことは「複数の視点を常に持つ」ことであるとし、「食い逃げされてもバイトは雇うな」というタイトルを上下巻に使ったことを説明する。

「費用か効果か」という二分法では、物事の本質はつかみきれない。
「こっちが立つと、そっちが立たない」という状況は、往々にして起こりうる。
しかし、ここで安易に物事を単純化することにより、「こっち」を選択し生まれる損失(金銭的なものだけではない)を回避することができなくなってしまう。
文中で使われる表現で、月並みだが響く言葉は「ギリギリまで考えろ」というもの。
また、「二分法を捨てる」「視点を大きく変える」ことが、考えることを支える。
その上で、利害が対立しているときに、どちらも解決に向かうような「妙手」を打つ。

数値で表せるものと、数値で表しきれないもの。
現実とは、そのどちらかだけではなく、両方が表裏一体となって私の前に立ち上がる。
物事を一面しか見ないということは、世界の一部分しかみていないということ。
「会計」を通じて、今を生き抜くシンプルな知恵を実感できたように思う。


おすすめ度:★★★★☆

魔法の言葉

職場で師匠に講座をやってもらったときに、「自分のいいところ探し」というワークに取り組んだことがある。
自分の苦手とすること、できていないとすることや、嫌いなところを列挙した上で、それを眺めながら、それらを「いいところ」として言い換えるというもの。
うまく言い換えることを「魔法を使う」などの表現で柔らかく表現する。
師匠曰く「屁理屈でもいいんです!」とのこと。
コ・リーダーとして参加していたIyokiyehaも、つい「僕も魔法使いですね」と言ってしまう。

これって、天性の性格もあるのだろうけれども、訓練によって鍛えることのできる力だなぁと、つくづく感じる。
こないだの書き込みのようなことを考えているIyokiyeha。
ちょっと苦手なことについても、背伸びして何とかしようと思ったときに使うのはこの魔法。
自分で言い聞かせること。
こんなちょっとしたことでも、前向きになれることがあるから不思議です。

このことを言語化できたのは、師匠のワークのお陰なのですが、うっすらと感じ始めたのは今年度になってから。
今まで、「屁理屈は屁理屈」と思っていたけれども、Iyokiyehaが相談を担当するような人には、意外と効果があったりする。

どの屁理屈が響くか?

相手の話の腰を折らぬよう、そしてあくまで「本人」にフィードバックのある内容を放って、放って、放って、放って、そして一つでも響けば儲けもの、くらいです。
難しいのは「私は○○と思う」は、使いどころだということ。
本音で○○と思っていなければ通じません。
乱用すると「そんなのあなたの思い込み」と、逆に突き返される。
事実を淡々と伝え、できるだけ本人が「気づく」ように水路付けする。
自分が「ここだ!」と思ったところで、何も響かず、何気ない屁理屈が「ずきゅーん」と響いたりするから不思議です。

今や、大概の人との相談は五分五分には持っていけるくらいの「屁理屈」が繰り出せるようになったように思います。
その時間がとれないのが難点ですが。
もっと「狙って」、いい屁理屈が繰り出せるようになりたいものです。

2008年2月24日日曜日

童心にかえる

今の自宅。
会社の持ち家なので、会社の意向で壁の塗り替えと屋根の張替えを行うことになりました。
こんな足場が組まれ、グリーンのネットが張られています。


(自宅外観)

足場が組まれるということは、家の外部から高所に上がることができるようになるわけです。
もちろん、家の庭にはこんな場所が・・・・・・


(庭より)

テンション上がりますね~。
こんな機会は滅多にありません。
工事が休みとなる休日の朝、人気が少ない時間に登ってみることにしました。
工事のおじさんたちには、もちろん無許可です。


(足場より、グリーンのネットの内部)

二階建ての家に、三階層の足場。
普段はありえない視点からの我が家です。
ベランダよりも低いところに設置された足場と、ベランダよりも高いところに設置された足場があり、両方とも自宅の外回りをぐるりとまわっています。

ちなみに、足場に登ってみることについては、嫁さんにも事後報告です。
話を聞いて、あきれていました。


(一番高い足場から、屋根と近所を望む)

普段はなんてことのない自宅からの景色ですが、視点が変わると景色も変わるものですね。
実に面白い。
こういう刺激って、童心に返った時にふと得られるご褒美みたいなもののように思います。

滅多にない機会。
子どもの頃には、近所に家を建てていると、その工事の途中、敷地内で遊んだり柱に登ったりしたものですが、さすがに大人になるとそうもいかないので、今回はちょっとした冒険気分でした。

あ~、楽しかった。

本質を覆い隠すためのアイディアとスキル

先日、仕事の絡みで人と話をしていてIyokiyeha自身の本性を振り返る機会に恵まれた。
ありがたいことです。

結論。
Iyokiyeha自身の本音の本音はネガティブ思考で自信がなく、その上に自信っぽいものやポジティブ思考っぽいもの、情報などを厚く塗り固めている。
そして、弱点を補うためのスキルを身につけて、ちょっとでも人より優位に立とうと、普段は思い切り虚勢を張っている。
自信なさげに見られるのが嫌なので、「できない」は言いたくない。
やらなければいけないことは、何とかしてやろうとする。
能力で勝負せざるを得ない場面以外は、別の方法を考えようとする。
こんなところでしょう。

仕事でも、プライベートでも、いろいろ考えることはあるし、これまでの受験や就職活動などを振り返っても、私自身の能力には限界があることも知っている。
「よーい、どん」で勉強を始めたら、私よりもできる人なんてたくさんいるわけです。
嫁さんもしかり。
受験や「脳トレ」、就職の採用試験などは顕著です。
単純に何かを記憶したり、得た知識を応用して正答を導くことに関して、私がどうやってもかなわない人がいます。
大学の単位をとるためのテストや、資格試験なども含めると、Iyokiyehaは「要領の悪い」方に分類される人です。
大学受験は、直前の模試まで「E」判定だったし、今の会社の就職試験は「補欠」合格でしたから。
まぁ、運は強い方なのでしょうが(苦笑)。

根っこには「できない自分」が横たわっているし、「『できる』人に目覚められたら困る」と思っています。
だから、人より優位に立って、より安定した「自分」を得ようとするし、そのための自分への投資は惜しまない。
人よりもやって、人よりもできるようになりたい。
このBlogも、一番の目的はIyokiyeha自身の思考を深めていくツールである一面が強いです。

もう一つの側面で、Iyokiyehaには自分の能力の低さを補う発想があります。
「個人でかなわないなら、人の力を借りればいいじゃん」と考えるわけです。
人を使えば、力なんて無限大ですから。
いかに、「人」の力を引き出すか。
いかに、自分の仕事に有益となるようなアイディアを提案するか。
人と人とをつなぐのは、他ならない「アイディア」だと思います。
自分で努力してできることは、自分でやればいい。
人にやってもらえることは、人にやってもらえばいい。
自分にも人にもできないことは、組み合わせてできるように考えればいい。
こんなことばっかり考えて仕事しています。

だから、根っこがネガティブ(人より「できない」と思っている)であっても、何かと自信をもっていられるのでしょう。
厚塗りが、簡単に「剥げない」ようなしくみを作っているように思います。

いかがでしょうか。
Iyokiyehaはこんなやつです。

安部司『食品の裏側』東洋経済新報社、2005年。

食品、添加物商社に勤務していた著者が、食品添加物の「光」と「陰」について、普段スーパーなどで見かけるものを例に、わかりやすく説明する。
食品添加物が、人間(特に子ども)から、「食べる」ことについて考える機会を奪い、ひいては「感謝の気持ち」まで奪い取ってくことを、「陰」の側面として語ることは、添加物を商品として売り込むことをやってきた安部氏にしかできないことかもしれない。
食品に加えられた添加物を完全に排除することは、現代では難しい。
もちろん、品質や味の安定したものを、手軽に手に入れることができ、炊事の手間も軽減される、食品加工の過程で膨大な手間と時間を削減することができる、などの「光」の側面についても触れられている。

身近なものに、どれくらいの「食品添加物」が加えられているのか、ある程度はラベルによって判断できるのだが、複雑な物質名からというわけではなく「常識的な判断」をするために必要な基礎知識が学べる書籍だと思う。

個人的には「やっぱり」という内容であった。
食生活には結構気をつけているつもりであるし、一人暮らしの頃は「健康マニア」と言われてもおかしくないような買い物をしていたのだけれども、心のどこかで「これでも足りないのだろうなぁ」と思っていた。
予感は大体的中していたが、Iyokiyehaがやってきたことも、それほど間違ってはいなかったこともわかった。
岡山で一人暮らしをしていた頃に購入していたのだけれども、機会がなく、ようやく読み切った書籍。
もっと早く読んでおけばよかったとも思う。

今では、食生活は嫁さんに委ねているので、Iyokiyehaが細かいことまであれこれと口を出さないようにしている。
これも、嫁さんを信頼しているからできること。
幸いなことに、私がこの本を読んでいるときに、嫁さんがこの本を読んでくれたようで、多少ラベルも夫婦揃って気をつけてみるようになった。
「あれが危ない、これが危ない」といったことだけでなく、「なぜ、危ないのか」ということについて、非常にわかりやすく説明されている。
著者は講演会などで、一般の人向けの説明に慣れているのだろう、特別な知識がなくともわかりやすくまとめられている。

ブログ用の文章なので、あえておせっかいを書いておく。
薬局などで市販されているドリンク剤。
Iyokiyehaも、特に大学院時代にはよくお世話になったものであるが、食生活に気をつかうようになって(岡山時代)から、飲用後の「身体の違和感」に気づいて使用しなくなった。
一瞬の高揚の後にくる倦怠感。
糖分の過剰摂取によって、一旦は冴えた「気になる」が、その後やってくる「自分の身体が、自分の身体の体内バランスをとろうとしている」感覚と、それによって身体が疲弊する感覚に気づいてからは、「これは危ない」と思うようになった。
手元にないから確認できないけれども、添加物なんじゃないかなぁ。
身体への蓄積も心配。
会社だけでなく、友人や先輩、知人の皆さまへの「おせっかい」でした。

おすすめ度:★★★★★

安倍晋三『美しい国へ』文春新書、2006年。

高い支持率で総理大臣に就任し、体調不良により突然辞任してしまった安倍元総理が、総理大臣就任直前に上梓した新書。
当時の安倍氏が、日本の今後の課題として、自衛隊の存在や海外派遣、中国・韓国と日本の関係、福祉や年金問題、教育改革などを中心に、説明と論を展開している。
当時から安倍氏が主張している「再チャレンジ可能な社会」とは、安倍氏が進めている「頑張った人、汗を流した人、一生懸命知恵を出した人が報われる社会を作る」改革のことを指す。
そのためには、「公平公正、フェアな競争がおこなわれるように担保しなければならない」とし、勝ち組・負け組として固定化・階級化しない社会を作ろうとしていることを、本著書全体から読み取ることができる。

漢字が多い新書ではあるが、説明が丁寧で、当時の日本のおかれた状況や、今後検討しなければならない論点が随所に盛り込まれているように思う。
テレビや新聞など、メディアからの情報では、安倍氏に対し具体的に何があって辞任するに至ってしまったのかがよくわからず、安易に「無責任」などと言いたくなかったのだが、この著書により、一政治家としての安倍氏の信念を垣間見ることができた。
安倍氏には、洒落ではなく、「再チャレンジ」して強い信念をもって改革を進める政治家として、活躍してほしいものである。

おすすめ度:★★★★☆

弘兼憲史『専務 島耕作4』講談社、2008年。

大企業のM&Aが焦点となってきた本巻。
スリリングな展開で面白い。
「三角合併」の基礎について、非常にわかりやすい説明が載っている。
企業買収が「国力」に与える影響についても、漫画ならではの手法で理解しやすい。
ますます情報漫画としての一面が強調されてきたように思う。

おすすめ度:★★★★☆

2008年2月17日日曜日

職業センターにおける、IPSプログラムとの協力:中間報告1

To:同期・同僚および関係者のみなさま

先日、東京両国でH氏と飲んだ時に、ここ数ヶ月で私が山梨の職場で取り組んできたことの話で盛り上がったので、その内容とそれを裏付ける考え方を記録してお知らせします。

結論として、今のところ山梨の職業センターは、IPSプログラムとうまく共存できそうなところにきており、今後お互いの機関がそれぞれの役割に特化しようとしているところです。
ポイントとしては、

職業センターの自立支援カリキュラムに代表される「ステップアップ方式」の就労支援プログラムと、IPSに代表される「働くこと=治療の一部」に基づき迅速な就職活動を支えるプログラムとの間で、それらを実施する機関が衝突しておらず、お互いがお互いのもつ「良さ」を認め合っている

ことがあげられます。
この点について考えながら、ここ数ヶ月の出来事を説明します。


事の発端は、Iyokiyehaが甲府市内の某病院に併設されている作業所から、就労支援に関する講習会の講師を依頼されたことです。
以前に一度、別の作業所において、主任同席の下で講習会の講師役を務めた経緯があり、その時は単独で講師をすることになりました。

9月27日に開催。
内容は、当事者向けの就労に向けたステップアップについて。
「職業センターが何をやっているか」ということよりも、「就職を考えた時に、考えなければいけないこと」として、
1.自分を知る
2.力をつける
3.仕事を探す、面接する
4.仕事をする
という段階と、それぞれの段階で就職を目指す当人が「考え、整理する」ことについて説明したつもりです。
あくまで「障害の有無に関わらず」これらの段階を経て就職する人が多い、という立ち位置で話をしたつもりです。
(説明に使ったスライドは、関係者であれば連絡いただければ差し上げます)
強調した点は、「確率ではなくて、事実」「やるか、やらないか」というところでした。
当時はまだ確信が持てなかったので、「離職は失敗じゃない」ということはあまり強調しなかったように思います。

講演会の後、その病院の院長と個別に話をすることができ、そこでIPSの概要について説明を受けることができました。
院長の前任地での実績や、IPSプログラムを説明するときに使うスライドや、それに記載されたデータなどを説明していただく機会に恵まれます。
その基礎となる文献として、
デボラ・R・ベッカー、ロバート・E・ドレイク著、大島巌、松為信雄他監修『精神障害をもつ人たちの ワーキングライフ ――IPS:チームアプローチに基づく援助付き雇用ガイド――』金剛出版、2004年。
を紹介され、その本が確か私の書棚に並んでいたことを思い出し、当時は全く読んでいなかったにも関わらず「本は知っている」と、院長の話題に必死で食いつき、その魅力を語っていただきました。(申し訳ありませんでした)

その日のことは、先方からもブログで紹介していただきました。
http://blog.cabrain.net/CN010030/?d=2007-9-27

これがきっかけで、Iyokiyehaは『ワーキングライフ』を読み始めました。
精読しているため、まとまった時間がとれる時に読む本として位置づけ、今に至っているわけです(当ブログを参照のこと)。

内容の詳細は、読書メモを参照ください。
これまで勉強してきたことを、ざっくりまとめると、
1.従来のアセスメント方法(標準化された検査による)ではなく、就労現場におけるアセスメントを重視する
2.職業選択は、本人の興味・希望を最優先する
3.働くこと=治療の一部として位置づける
4.あくまで、一般就労(最低賃金を得て、健常者と同じ職場で仕事する)を目指す
といったことが特徴であるといえます。

2007年末からこれまでに、当病院において障害者雇用を進めてきた経過がありますが、それは中間報告2で紹介します。

先日、山梨の職業センターが主催する、地域職業リハビリテーション推進フォーラムにおいて、当病院の院長に、IPS等を中心とした精神障害者の就労支援に関する動向を説明していただきました。
その内容に続いて、Iyokiyehaが自立支援カリキュラムで担当し就労に結び付いた事例を報告しました。(このときの資料も、関係者には必要であれば個人情報を抜いた形で提供できます。連絡ください)

形だけ見れば、IPSの紹介とステップアップで就労した事例ということで「噛み合わない」ようにも見えるかもしれませんが、フォーラム後に院長と話をした中で、Iyokiyehaは以下のことを考えています。
1.当事者にしてみれば「どっちでもいい」。本人にとって、より不安が小さくなる方を選べたら一番いい。(これは、院長とも一致しました)
2.IPSプログラムでは就職率は高いが、短時間就労者も多い。(これも、一致)
3.IPSプログラム、ステップアップともに、離職者は出る。(同上)
4.ステップアップでは、プログラムが確立していれば確実に力をつけられる当事者がいる。(同上)特に、認知リハビリと自身の体調把握、注意サインの発見などを段階的に身につけることができれば、フルタイム勤務に近い一般就労を狙えるようになる。(この部分は一致まではいっていない)
5.IPS、ステップアップ共に、お互いが洗練されれば、お互いの実績もあがる。(ここで一致できました)つまり、IPSを実施する機関が実力をつけることにより、ステップアップでは支援しきれない方がIPSにより就職することができ、逆ではIPSで物足りない人が、ステップアップが効果的な人となって、職業センターを利用するようになる。結果、お互いに「支援しやすい」人が集まるようになることで、お互いの実績があがる。

1.2.3.がベースとなって、4.5.と言える、といった構造です。

現在は、ここまで至っています。
まだまだ、お互いにそれぞれの「良さ」を磨かなければならない状況ではありますが、良好な関係となっていることは、お分かりいただけるかと思います。
Iyokiyehaが知っている限りでは、岡山においてACTプログラムを展開している機関と、職業センターとがどうしても折り合いつかずに、お互いがお互いを避ける状況ができていたことがあります。
そういったことが、全国各地で起こっているかもしれません。
今後、山梨での事例を「いい形」で紹介できるよう、取り組みたいと思うところです。
リハ研とか、学会、JC-NETなど、その分野で盛り上がっている集まりで、紹介できるようになりたいものです。

今回は、ここまでの紹介で。

ドラマ「ガリレオ」

何を今更、と思われるかもしれないが、山梨県甲府市の我が家では先週まで毎日夕方に放送していました。
昨年末に話題となった月9ドラマ。
私は、基本的にドラマは見ないのですが、嫁さんが第1回をビデオに撮っていて、夕食を食べながらそれを観て、すごく面白かったのがきっかけで、全話観ることに。

http://www.fujitv.co.jp/galileo/index.html
ガリレオ オフィシャルWebページ

スピード感のある構成と、「あっ」と思わせる内容、各回で完結する、毎回謎解きの作り(初めに犯行現場がある・なし、次第に犯人がわかる、など)が違う等、とかく飽きさせない。
久々に面白いドラマだった。

主人公を演ずる福山雅治。
この人は、演技させても知的に見せるし、ドラマの音楽は聞かせるし、ラジオとか聞いていても、バカやっても面白いし、トークも面白い。
正直、羨ましいです、はい。
世の中にはこんな人もいるんだなぁとも思った番組でした。

http://www.tfm.co.jp/talkingfm/
福山雅治のSUZUKI Talking F.M.(TOKYO FM)

2008年2月11日月曜日

「もし」を考える

「もし、○○だったら、どうする?」
あることを、○○であると仮定して、その時にどうするのかを問う質問である。
仕事であればよく使うこの質問も、プライベートとなると途端に考える意欲が失われる時がある。
この理由がどこにあるのかということを考えた時に、ふと浮かんだのが時間軸だった。

結論から言えば、
「将来、想定されうる状況を仮定して、その際の行動を準備する」目的であれば、考える意欲は失われない
ということだ。

ポイントは3点。
1)今よりも未来のこと
2)想定できる状況を仮定する
3)自分がどうすべきか、具体的に考える
この条件が揃った場合に、Iyokiyehaの思考回路が動くという仮説である。

1)は、「過去に想定することができたこと」であれば、多少思考するだろうが、それほどモチベーションは維持されないだろう。
例えば、仕事において「僕が就職してなかったら、どうしました?」などと聞かれた時には、「さぁ?」としか答えられない。
過去のことを「もし…」と振り返るのであれば、それは、将来再度似たような困難が想定されうる場合に、私の行動を準備しておくときに限られるのではないだろうか。

2)は、「想定できない」ことを考えることには、限界があるということ。
例えば、「今年、転勤になったらどうする?」という問い。
Iyokiyehaの職場は、毎年転勤の可能性があるため、転勤そのものは想定できても、どこに行くことになって、何を担当することになるのか、どこに住むのか、といったことは、全て具体的な話になってから「どうすべきか」と考えることになる。
だから「その時になったら、考えるよ」という回答になる。

3)は、「自分がどうするか」を考えなくていいのであれば、具体的に物事を考えないだろうということ。
上記の質問を借りれば「今年、Iyokiyehaが転勤になったら、どうすればいいの?」という質問であれば、「自分で考えてください」という回答しかないだろう。
危機的状況であれば、当事者に「□□したら?」と助言することはできたとしても、リアルにその状況を想定するには、何か他の要因が必要となってくるように思う。

なるほど。
こう考えてみると、いざ「何か」によって「もし…」と問い詰められるような状況であっても、自分にとって関係があることなのか、ないことなのかということを判断する基準にもなりうるように思う。
当然、人間であるIyokiyehaが引く基準だから、例外は認められるだろうが、生活する上で、一つ安心できる基準なのかもしれない。

誰かが見ている

前述した本を読んだわけだが、先日、仕事をしているときに、言葉としては似たようなことに遭遇した。
自分では気づかないことが、見えているのだなと。
たとえ、物理的に「見えていない」はずの人であっても、なぜか指摘は的確だったりするから不思議である。
もちろん、物理的に「見えている」人であっても、自分では気づけなかった側面を指摘されることもしばしば。

そういうフィードバックが受けられるのは、非常にありがたいこと。

前述した、「大部屋俳優の知恵」。
其の二と其の五あたりは、Iyokiyehaも普段から気にしていることだが、どうしても目一杯になると「欲」も出るし、自分を売り込もうとしてしまう節がある。
もっと、地味でも、本当の意味で「いい仕事」ができるよう努力したい。
そして、人から名前を尋ねられるようになりたいものである。

福本清三、小田豊二『どこかで誰かが見ていてくれる ――日本一の斬られ役 福本清三――』集英社文庫、2003年。

最近は少なくなったが、以前は時代劇を見ていた時、主人公と数回斬り合いをしてからやられていく役者さんがいるのに気づく。
「やられ役の中でも、上の方の人だろう」と勝手に思っていた。
以前、探偵ナイトスクープで取り上げられた福本氏。
その頃に出版された本の文庫版。
「人生哲学」などという大それたものではないが、一人の苦労人が、どのように人生を歩んできたか。
撮影所の大部屋役者として、役者の世界をどう生き抜いてきたか、インタビュー形式で表裏なく語り尽くす。
話し言葉でちょっと読みにくいところはあるけれども、全体としての内容は非常に興味深い。

文中に出てくる、大部屋俳優の知恵シリーズが興味深いので、引用しておく。
其の一:どっちにしても、しょうもない役だから、欲はかくな
(目立ちたくて、鎧を着ける役になってしまうと、重い鎧を着て走らされる羽目になる)
其の二:極端に目立ってはいけないが、少しだけ目立て
(与えられた役を、いかに上手くこなすかを考える)
其の三:どんな仕事でもいい、いい思い出を作れ
(駕籠(かご)かき一つにも、注文をつけるようなこだわりなど)
其の四:自分の名前を売り込もうとしない。相手から聞かれるようになれ
(一生懸命に取り組み「あいつは面白いやつだ」と思われるくらいになる)
其の五:知ったかぶりをしないこと。そうすると、必ず親切な人が現れる

先輩から「斬り方」は教わることができても、「斬られ方」は手本がない。
先輩の演技や、映画俳優の演技、または洋画でも「撃たれ方」を見て、参考にしてきたとのこと。
考えて考えて、ちょっと難しいことにも挑戦して、ちょっとだけ目立って、「あいつ面白いな」と思われる。
そんな、「きっと、どこかで見ていてくれる」ことを頭の隅に置きながら、できることを目一杯する。
もちろん、スターと呼ばれる有名な役者も、驕ることなく努力に努力を重ね、その名を広めてきたと言える。

福本氏は「飛ぼうとしなければ、落ちない」という言葉で、自らの位置を表現しているが、私がこの本を読んで感じたのは、時代劇は登場する(エンドロールの名前だけであっても)全ての人によって作られる芸術作品であるということだ。
もちろん、時代劇だけではない。
いわゆる「芝居」や、テレビでいえば「番組」というものは、関わった人全て揃って作られるものであるということ。
スターが目立つからといって、スター一人で劇ができるかというと、そうではない。
そして、脇役と呼ばれるような人たちだけで、いい作品ができるかというと、やはりそうではない。
全てが揃って、持ち場で最高の演技をして、働きをすることで初めて人に「面白さ」を与えることができるのだと思う。

おすすめ度:★★★★☆

2008年2月9日土曜日

「一人称」思考で、「しあわせ」を考える

人の「しあわせ」について考える機会がなぜか多くなった。
そういうことを言う人が回りに増えてきたからかもしれない。
(注:特定個人ではなく、なぜか最近私の周辺に複数存在する)

個人的な意見に過ぎないが、物事を一人称で考えることができるのは「哲学」とその周辺分野だけだと思っている。
私が、修士論文で引用した、森岡正博“生命学”は、物事を一人称で考えることに特化した考え方だが、生命倫理的、環境的、性的課題に限定されず、日常自分の身に起こることについて「一人称」視点で考え抜くことは、私が納得してよりよく生き抜くためには必要な視点であると考える。

http://www.lifestudies.org/jp/
LifeStudies.Org/JP
http://www.kinokopress.com/civil/0802.htm
「生命学とは何か」論文


「しあわせ」とは何だろう、と改めて考える。
昨日、会社の同僚(で一括りにしてスミマセン)と飲みながら、そんな話をした。
私なりにしゃべりながら整理できたことは、以下の通り。

まず、「しあわせ」は、私が生きていて「振り返った」時に感じられるものであって、将来に約束されたものではないということ。
2月3日の書き込みで、「本当の幸せとかをあれこれ考えすぎるのはアホらしい」というような内容があり、そのことを指摘されたが、その真意はここにあるように整理できた。
一生懸命、主体的に何かに取り組んで、私の力を存分に発揮して、思ったような結果にならなかったとしても、何かがそこに「生まれる」。
その「生まれた」もの(形の有無は問わない)について、唯一無二のものとして「愛おしく」感じる。
この感覚こそが「しあわせ」ではないのかと考えられるようになった。

それは、自分で「そう」思い込むものでなく、人から「そう言われる、そう思われる」ものではなく、自分の中で起こる「何か」によって実感できる。
Iyokiyehaは「ピンとくる」みたいな表現をする。

そして、「一生懸命、主体的に取り組む」ための原動力となるものが、私の中に確かに存在する「好奇心」や「興味」である。
だから、私は割りと何にでも「面白がって」手を出すし、たとえそれが「できない」ことであったとしても、面白い!と思えば、その「しあわせ」になれそうなものを「生み出す」ために目一杯取り組んで見る。
これに関しても「手当たり次第か?」ということを聞かれたが、上述した「好奇心」とか「興味」といったところで、ある程度の制限がかけられるのだろう。
何でもかんでも、というわけではない。

まとめると、「面白がって」何かに取り組んだ結果、得られた「何か」を「愛おしい」とか「すごい!」と感じた時に、自分の中に起こるもの、が「しあわせ」の正体と考える。

私の場合は、嫁さんとの関係、身体動作スキルであったり、思考の高度化・可視化、ネットワークなどといったものについて「しあわせ」を感じることが多いのだが、この点はあくまで私の「一人称」視点でのこと。
これを「二人称」として知り合いに般化させるつもりは毛頭ないし、まして「三人称」として自然科学的に証明する気などさらさらない。

そんなことを思い出し、考えることのできた一週間でした。

(参考)
http://iyokiyeha.blogspot.com/2008/02/blog-post_7874.html
「次世代を生き抜く遺伝子」2008年2月3日更新
http://iyokiyeha.blogspot.com/2007/10/blog-post.html
「『しあわせ』の定義」2007年10月4日更新

2008年2月4日月曜日

NHK プロフェッショナル仕事の流儀 高橋直夫(1月29日放送分)

プラント建設現場所長
高橋直夫「リーダーは太陽であれ」


サウジアラビアの砂漠のど真ん中に、「街」とも呼べるような大きな人工物。
東京ドーム400個分の広さの中に、日本と現地の企業との合弁会社が所有する石油プラントが建設中である。
高橋氏はそのプラントの建設現場所長。
7000人以上の労働者を率いるリーダーとして、その職にある。


非常に、元気が出る番組だった。
限られた予算、労働力を率いて、納期までに工事を終わらせる。
リーダーとしての高橋の極意は、「太陽であれ」。
部下から「悩んでいる顔を見たことがない」と言われ、いつも笑顔を絶やさない。

過去、納期を半年以上遅らせてしまい、数十億円の損失を出してしまったことがあった。
その経験をバネに、勉強に勉強を重ね、判断に足る知識を身につけた。
指示が現場の末端にまで通らないことが何より問題であるとして、経営学を学び方法を探った。

結果として、
・「決めないリスク」よりも「決めるリスク」をとる
・失敗を許す組織であれ
・相手の得は、自分の得
といった格言を生むに至る。

どんなに小さなことであっても、それが大切なことであるならば、しつこく伝え、誰よりも強く「できる」と信じること。
それが、リーダーとしての姿であり、それをあきらめたら終わりという。


どんなに厳しい状況におかれていても、それを笑い飛ばすくらいの勢いと深い知識が、前向きに仕事をする上では必要なのだということを、改めて知った。
楽観的だけではだめ。
頭でっかちだけではだめ。
その両方を、高いレベルで維持することの大切さと、それを支える「信じる」心。
これらのバランスがいいことが、リーダーとしての資質であるようにも思う。