2007年7月22日日曜日

思考停止

 仕事やプライベートで、いわゆる「悩み」を抱える人と接する機会が多くなった。当事者が辛いことは間違いのないことで、それに対してどうこう言えるわけではなく、加えてどうこう言いたいわけではない。

 ただ、最近考えるのは「反発は思考停止の証拠ではないか?」ということである。

 自分なりの「かくあるべし」を持つことは大切なことだし、それ自体は否定されるものではない。ただし、他者の「共感」を得られない「かくあるべし」を曲げないことは、それ自体が「思考停止」ではないか、ということである。

 私にも「かくあるべし」的なもの(時に「信念」という言葉を使うが)はある。例えば、仕事では「言うべきことは、言うべき人にはっきりと言う」ことを大切にしている。思っていることを言わずに支援を失敗させた時の後悔によるダメージが大きかった経験から、導き出した私なりの一つの応えである。
 うがった見方をすれば、私が傷つかないための防衛手段と言われるかもしれない。確かにその側面はあるし、状況によっては「言わない方がいいこと」もあるかもしれない。そこまで考えた上で、私は言うべきことを言っているつもりだ。

 私はこの「かくあるべし」を「一つの錨」ように思っている。とりあえず動かないけども、必要があれば他の地点に下ろすこともできるのだよと。どういうことかというと、発展可能性を残しているということだ。
 言いにくいことも言っているという「実績」や「強さ」と一緒に、防衛手段ではないかという「弱さ」も曝け出して、是非指摘をお願いしますという意思表示でもある。

 自身のことが長くなったが、思考停止の話。
 例えば、私が自分の「かくあるべし」に対して指摘を受けた際、その指摘を受け止めずに「いやいや、私が正しいですよ」と言ってしまったら、それは全く思考していないことと同じではないかということである。認知に歪みのある人や、そこまでいかなくともガンコで自分の考えを曲げず、挙句責任を他者にゆだねてしまう人にありがちな「反発」。それは、怒りという外向きの力だったり、気分の落ち込みといった内向きの力だったりするわけだが、それらは「思考停止」から来ていることではないかとも考えられるのではないか。
 もちろん、精神疾患によって思考すること自体が疲れてしまう人もいるとは思う。そういった人に「考えろ!」というわけではない。このことははっきりと言っておきたいのだが、それを超えたところで、「指摘」→「反発」という一連の行動を切り取ると、反発という行動の裏側には思考が停止しているという身体症状が起きているように思われる。