2007年7月13日金曜日

「できない」レッテル

 いわゆる「底辺校」というところは、除算(割り算)がわからなくても、高等学校卒業となるらしい。私は教育学を専攻していた人間だが、公立学校のこのあたりの感覚がどうにもわからない。今の仕事に就いてからは、別の角度でそうした現実と関わり、やり場のない怒りを感じつつも、目の前の現実を直視し直視させる仕事をしている。

 「全くわからない」話が飛び交う場にいることは苦痛であるというのは私の持論。実際に、以前大学院に在籍していた時、東京大学を会場にした勉強会に参加したことがあるが、そのときの議論は私にとって「苦痛」なものだった。当時の先生に聞けば、緊張感のある議論、だったようだが、私にとっては不毛なやりとりにしか聞こえなかった。結局中座して帰ってきたように記憶している。

 そんな時間が3年、6年と続くとどうなるのか?

 嫁さん曰く「『できない』とレッテルを貼られると、そういうことが気にならなくなるんじゃないの?」とのこと。なるほど、一理あるかとも思う。周囲から、適切な評価を受けずに、または受けようとせずに、歳だけとって大人になってしまった人は、いざ適切な評価を受けたときに初めて「揺らぐ」体験をする。この「揺らぎ」を表現する術を知らず、かつこれまでに体験したことのない感情をどう処理していいかわからずにいらだつ、ストレスをためる。閾値を超えれば精神疾患に、超えずとも平素から「揺らぎ」、辛くなってくるとその「揺らぎ」すら感じないような身体になっていく。だから、客観的な評価に対し、悲しくなり、怒りがこみ上げるという、全く正反対と思われる二つの感情が交差する。

 こう考えると、私は、必要なときに必要な評価を受け、それによって成長してきたのだなと思う。